第四話:黒百合の審判と、道化の終焉
「あらあら……本当に、見れば見るほど『いい具合』に仕上がっているわね」
ゆったりとした足取りで、マダム・リリスがヴィンセントの背後に歩み寄った。 彼女は扇子を閉じ、怯えるヴィンセントの顎を指先でクイと持ち上げる。
「マダム、お止めください。その男を甘やかすと、また拾って帰りたくなると仰ったのは貴女ですわ」
「分かっているわよ、ルネ。でも見てごらんなさい、この絶望に染まった瞳。プライドをズタズタに引き裂かれ、這いつくばる無能な男……。私の『ダメンズ・センサー』が最高得点を叩き出しているわ。借金取りに追われて震える姿が、これほど似合う男も珍しいわね」
「ひっ、ひいぃ……っ!」
ヴィンセントはマダムの妖艶な微笑みに、色気よりも死の予感を感じて悲鳴を上げた。 ルネは冷ややかな視線を彼に落とし、手元の報告書を捲る。
「ヴィンセント様、貴方がここへ来たのは、奥方様――シャーリーに急かされたからでしょう? 『男爵家が潰れたら、私の社交界での立場がなくなるわ! 何とかしてきなさいよ!』とでも言われましたか?」
「な、何故それを……!」
「……皮肉なものですわね。彼女が守りたがっているその『立場』は、とっくに砂上の楼閣ですのに」
ルネが合図を送ると、セドリックが数枚の「夜会での報告書」をデスクに並べた。そこには、王都の社交界で嘲笑の的となっている、一人の女の無様な記録が記されていた。
「シャーリー様は、貴方が持ち帰った『紙クズ(偽証券)』を担保に、分不相応な宝石を買い漁ったそうですね。ですが、目の肥えた貴婦人たちはすぐに見抜きましたわ。彼女が身につけているのは、安物のガラス玉。借金を返すために本物を売り払い、虚栄心のために模造品を纏う……。今や彼女は、社交界で『ガラス玉の男爵夫人』とあだ名され、茶会の席すら与えられていませんわ」
「そ、そんな……! シャーリーは、俺が買い与えた宝石で皆に羨まれていると……!」
「彼女、貴方に嘘をついていたのですよ。貴方が彼女を愛していると信じ込み、甘やかしている間に……彼女は貴方の名誉を泥にまみれさせた。……お似合いだと思いませんか? 泥舟の中で、互いの足を引っ張り合う夫婦なんて」
ヴィンセントは、ついにその場に膝をついた。 十年前、ルネを捨ててまで手に入れた「楽園」は、最初から「底なしの沼」だったのだ。
「さて、ヴィンセント・ランバート様。審判の時間ですわ」
ルネの瞳から、一切の温度が消える。
「貴方の全負債を、当店――『リリウム・ノワール』が買い取りました。つまり、貴方の命も、爵位も、残された僅かな土地も、すべて私のものです」
「ま、待ってくれ! エレノア、いや、ルネ! 昔のよしみだ、頼む! 何でもする、何でも……!」
「ええ、もちろん。何でもしていただきますわ。……セディ、彼に『新しい職場』の契約書を」
「かしこまりました、お嬢様」
セドリックが差し出したのは、王都から遠く離れた、過酷な開拓地の労働契約書だった。 死ぬまで働き続けても、利息すら返せない。だが、命だけは繋ぎ止められる――永遠の労働地獄。
「ああ、それから。シャーリー様もご一緒ですよ。彼女には、かつて彼女が見下していた『掃除婦』として、一から学んでいただかなくては。……愛し合うお二人なら、どんな苦難も乗り越えられるでしょう?」
「そ、そんな……そんな殺生な……!」
「……セディ。その男の声を、二度と私に聞かせないで」
「御意」
セドリックが音もなくヴィンセントの背後に立ち、その襟首を掴み上げる。 抵抗する力すら失った元・男爵は、ズルズルと、かつて彼が汚したマホガニーの床を引きずられながら、サロンの裏口へと消えていった。
静寂が戻ったサロン。 ルネはふう、と深く息を吐き、窓の外を見つめる。 十年前の嵐の夜から始まった長い長い「片付け」が、ようやく終わった。
「お疲れ様。ルネ。……いい『ざまぁ』だったわ」
「……お母様、趣味がよろしくありませんわよ」
マダムの軽口に肩を竦めた時、背後にセドリックの気配が戻った。 彼はルネの肩に優しくケープをかけ、その耳元で、今度は仕事仲間としてではない、一人の男としての甘い声を忍ばせる。
「……これで、すべての掃除が終わりましたね、お嬢様。……今夜は、ようやく『私だけ』を見ていただけますか?」
ルネの頬が、サロンの洋燈の明かりよりも赤く染まる。 耳年増の知識が暴走し、彼女の心臓は、ヴィンセントを追い詰めた時よりも激しく鼓動を打ち始めた。
「……え、ええ。そうね。……お手柔らかに、お願いするわ。セディ」
宵闇色の髪の青年が、満足げに目を細めて彼女の指先に口づけを落とす。 ゴミはすべて消え去り、ここからは、自由になった少女と、彼女を十年間待ち続けた執念の男による、甘く濃厚な「本当の人生」が始まるのだ。




