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10年前、私も好きに生きました。〜元婚約者様が捨てて、今更戻ってこようと思います〜  作者: ましろゆきな
第一章:十年前の精算 

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第三話:毒は静かに、甘く浸透する

 ヴィンセントの足音が遠ざかるのを確認し、私は手元の書類を無造作に引き出しの奥へと押し込んだ。    


「……次は、裏庭ね」


 私はあえて少し疲れた顔を作り、髪をわざと一房だけ乱して書斎を出た。  向かったのは、使用人たちが頻繁に行き来する裏庭のテラス。そこには、私の侍女でありながら、すでにヴィンセントの愛人として振る舞い始めているシャーリーがいた。


 彼女は私が近づくのに気づくと、あからさまに勝ち誇ったような、けれど表面上は「しおらしい」笑みを浮かべて会釈した。


「お嬢様、顔色がよろしくありませんわ。またお父様の借金のことでお悩みですの?」


 気遣うふりをして、その実、私の不幸をなぞって楽しんでいる。  私は彼女の視線が、私の手元――わざとらしく抱え込んだ「宝石商のカタログ」に注がれるのを待った。


「ええ、少しね。……でも、大丈夫よ。半年後には、きっとすべて解決するわ」


 私はわざと小さく、希望に満ちた溜息をついてみせた。  そして、彼女に中身が見えるように、カタログの特定のページを指でなぞる。そこには、王家御用達の職人が手がける、目が眩むような大粒のダイヤモンドが載っていた。


「あら……。なんて美しい……」

「……あ、ごめんなさい。見ないでちょうだい」


 私は慌てたふりをしてカタログを閉じた。その「不自然な隠し方」こそが、彼女の猜疑心と欲望に火をつける。


「私には、分不相応なものだわ。……でも、将来この家を継ぐ方の奥様なら、これくらいは当然のように身につけるべきなのでしょうね。ヴィンセント様も、きっとそれを望まれるはずよ」


 私は彼女の目を見ず、遠くの空を見つめて呟く。  「将来の奥様」という言葉。それが今の自分ではなく、目の前の彼女を指しているかのように錯覚させる。


「私、ヴィンセント様に申し訳なくて。彼がこんなに苦労しているのに、私が『あの権利』を独り占めしているなんて……。でも、お母様が『これだけは手放してはいけない』と仰るから」


「独り占め」。  その言葉がシャーリーの耳に毒のように染み込んでいく。  彼女の頭の中では今、私が抱えている「何か」を奪い取りさえすれば、カタログに載った宝石も、男爵夫人の座も、すべて自分のものになるという計算が始まっているはずだ。


「……そうですわね。ヴィンセント様は、本当にお可哀想。お嬢様がもっと彼を信頼して差し上げればよろしいのに」


 シャーリーの声に、隠しきれない苛立ちと欲望が混じる。  私は彼女に背を向け、テラスを去りながら、わずかに口角を緩めた。


「信頼しろ」と言われれば、疑いたくなるのが人間だ。  「隠し通せ」と言われれば、暴きたくなるのが強欲な女だ。


 私が彼女に手渡したのは、偽りの希望という名の「毒リンゴ」。  彼女は今夜にでも、ヴィンセントの耳元で甘く囁くだろう。「エレノア様は何かを隠している。それを奪って、私を幸せにして」と。


 ――さあ、ヴィンセント。  愛しい女の強欲に突き動かされて、早く私の元へ奪いにいらっしゃい。


 3.静かなる盤面の整理


 その夜。邸の片隅、明かりを極限まで絞った図書室で、静かに思い返していた。


「……ヴィンセントが、シャーリーの部屋へ向かうのは確認したわ。きっと『あの女が大事な封筒を肌身離さず持っている』と、彼に報告したでしょうね」


 私は手元にある、本物の借用書の束をめくった。  父が浪費し、ヴィンセントがさらに膨らませた負債の総額は、もはやこの家を丸ごと売り払っても到底足りない。


「ヴィンセントは、シャーリーに急かされる形で、明日にでも私に『取引』を持ちかけるわね。証券を渡せば、不名誉な罪を問わずに家から出してやる……と」


 私は深く椅子に背を預けた。


「彼にとっては、それが一番『賢い選択』に見えるのでしょうね。実家を背負う重荷を、黄金の船団という夢で塗り固めてしまえば」


 ヴィンセントを愚かだと罵るつもりはない。ただ、彼は自分の見たい未来を選び、私はそれを用意した。それだけのことだ。


 私は一人、暗闇の中で瞳を閉じた。  明日。ヴィンセントが私を裏切り、私が彼に「希望」という名の負債をすべて譲り渡す日。


「この窮屈なお仕着せのドレス(身分)とも明日でお別れだわ――」  


 嵐の音が、遠くから聞こえ始めていた。  それは、私の新しい人生を祝う喝采のようでもあった。


 4.嵐の夜の契約、あるいはゴミの処分


 窓の外では、怒れる巨人が叫んでいるかのような雷鳴が轟いていた。  十年間過ごしたランバート男爵邸の執務室は、いまや私にとって、脱出を待つだけの檻に過ぎない。


「――聞こえたか、エレノア。お前がその『証券』を渡し、この家から身一つで出ていくというのなら、不貞の罪(※捏造)は問わないと言ってやっているんだ」


 デスクの向こう側で、ヴィンセントが傲慢に足を組んでいた。その隣には、彼にぴったりと寄り添い、勝ち誇った瞳で私を見つめるシャーリーの姿がある。  二人の瞳には、私が差し出した「東方船団の優先引受証券」への、隠しきれない飢餓感が浮かんでいた。


「……本気ですの? この証券さえあれば、この家は救われるのに。私を追い出して、貴方がすべてを背負うと仰るのね」


 私は、震える手でデスクの上に一枚の書類を広げた。  それは私が、実母の知恵を借りて法的に完璧に作り上げた『爵位および全資産・全負債の包括譲渡契約書』。


「ああ、そうだ。お前のような可愛げのない女は、この家の女主人の座には相応しくない。シャーリーの方がよほど俺を支えてくれる」

「ヴィンセント様、素敵……。エレノア様、もう諦めてサインなさったら? 貴女がいなくなれば、この家は黄金の輝きを取り戻すのですから」


 シャーリーの言葉に、私は伏せた顔の裏で深く息を吐いた。  ああ、本当に。これほどまでに話が早い人たちで助かった。


「……分かりました。では、ここにサインを。貴方がこの家の『すべて』を引き受けると、お約束くださいませ」


 ヴィンセントは、ろくに書類の細部――特に「負債」に関する細かな条項――に目を通すこともなく、羽ペンを走らせた。


 カリ、カリ、カリ……。


 ペン先が紙を削る音と、激しい雷鳴が重なる。    最後の一文字が書き終えられた瞬間、私はその紙を大切に、けれど素早く引き寄せた。


「これで……満足ですわね。はい、これが貴方たちの望んだ『夢』ですわ」


 私は、リボンで綴じられた証券(ただの紙クズ)をデスクに置いた。  二人がそれに飛びつくのと同時に、私は椅子から立ち上がり、一度だけ深く礼をした。


「……さようなら、ランバート男爵。これからは貴方が、この家の主です。どうか、精一杯『好きに』なさってくださいな」


 部屋を後にして、重い玄関扉を開けた瞬間、冷たい雨風が吹き込んできた。けれど、頬を打つその雨は、この邸の澱んだ空気よりもずっと清らかに感じられた。  私は一度も振り返ることなく、鞄を持って外に出た。


 背後で、扉が重い音を立てて閉まる。  あの部屋に残されたのは、偽りの夢を抱いた二人の男女と、天文学的な数字の負債だけ。


 嵐が去った後の静寂の中で、彼らがどんな顔で現実を知るのか。  それを想像しながら、初めて「自分のために」深く、深く、息を吸い込んだ。


「……せいせいしたわ。でも、これからどうしよう」


 冷たい雨の中、重いカバンを引きずりながら、私は立ち尽くした。  自由にはなった。けれど、行く当ても、頼る人もいない。一瞬、底知れぬ不安が足元から這い上がってくる。


 その時だった。  暗闇を切り裂くように、豪奢な馬車が私の横で止まったのは。


「あら、ずいぶんと濡れた仔猫ちゃんねえ」


 窓が開き、聞き覚えのある華やかな声が降り注ぐ。


「行き場がないのなら、拾ってあげましょうか?」


「……お、お母様っ?!」


 鮮やかな緋色の髪も艶やかに、豪華な毛皮のコートに身を包んだ彼女の実母、マダム・リリスが、オホホホと声高らかに笑っていた。  そこには、かつて私を捨てたのではなく、私を迎えに来た「本当の母」の姿があった。


 5.回想の終わりと、10年後の地獄


 私は、手にしていた契約書をそっと懐に収めた。  そして、醜い欲望を剥き出しにして紙クズに群がる二人に対し、最後の一仕事セレモニーを行う。


 背筋を真っ直ぐに伸ばし、指先を揃えてスカートの裾をわずかにつまみ上げる。  一ミリの乱れもない、男爵家の嫡子として叩き込まれた最高級のカーテシー。


「――お健やかに。ランバート男爵様」


 それは、この家と、エレノアという名への最後のお別れ。  ヴィンセントは私を一瞥することさえせず、不快な笑い声を上げて証券ゴミを掲げていた。


 ……あの日、私が捨ててきたのは、古い家名だけではない。  彼らには決して返せないほどの「借り」と、底なしの「負債」をすべて押し付けてきたのだ。


 ◇


「……っ、おい! ルネと言ったか、エレノアと言ったか知らんが!」


 十年の時を経て、現在のヴィンセントの怒声が私を現実に引き戻す。  サロンの輝かしいシャンデリアの下、彼は震える指で懐からシワだらけの書状を取り出した。


「このサロンは、困っている貴族に無利子で、あるいは有利な条件で融資を行うと聞いたぞ! この俺が、ランバート男爵であるこの俺がわざわざ足を運んでやったんだ。早く奥のマダムを呼べ!」


 彼の差し出した書状――それは、私とマダムが裏で操っている「別の金融業者」からの、最終督促状だった。


 十年前、彼が手に入れた「東方船団の証券」。  彼はそれを担保に、来もしない船を待ち続け、あらゆる銀行から断られるたびに「街の怪しい貸金業者」へ手を広げていった。    利息が利息を生み、今や男爵領の税収の数十年分。  彼が今、唯一の希望として縋ろうとしている『リリウム・ノワール』こそが、実は彼の首を絞めている縄の主であることにも気づかずに。


「ヴィンセント様。あいにくですが、当店はボランティア施設ではございません」


 私は、セドリックが差し出した「最新の顧客名簿ブラックリスト」に目を通しながら、静かに微笑んだ。


「貴方の負債状況、すべて把握しておりますわ。……この十年間、ずいぶんと『好き勝手に』浪費なさいましたね」


 ヴィンセントの顔から、一気に血の気が引いていく。  彼が見下していた「追い出した女」が、いまや自分の生殺与奪のカネを握っている。その絶望的な事実に、ようやく彼の鈍い頭が追いつき始めた。


「さあ、お話ししましょうか。……男爵様が、今日からどうやってこの『ツケ』を支払っていくのかを」

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