第二話:賢い娘はゴミを売る
1.賢い娘はゴミを売る
サロンの重厚な扉が閉まり、ヴィンセントの汚れた靴音と罵声が完全に遮断された。 『リリウム・ノワール』に、本来あるべき静寂が戻ってくる。
「……お疲れ様でした、お嬢様。お召し替えになられますか?」
セドリックがいつの間にか私の隣に立ち、手袋を嵌め直した手で、温め直した紅茶のカップを差し出してきた。 私はそれを一口啜り、窓の外――夜の雨に打たれながら、ふらふらと立ち去る男の背中を、階上から見下ろす。
「いいえ。……ねえ、セディ。あの方はまだ、あの日私が差し上げた『宝の地図』を大事に持っていらしたのね」
私の言葉に、セドリックがモノクルの奥で鬱金色の瞳を細めた。
「『東方船団・優先引受証券』のことですか。……十年間、一銭の価値もない紙切れを担保に、よくもまああそこまで借金を膨らませたものです。ある意味では才能ですね」
彼の呆れたような声に、私はクスクスと喉を鳴らして笑った。
――後悔? そんなもの、一滴だってありはしない。
十年前のあの日。 嵐の夜に、私が泥の中に膝をつき、涙を流しながら彼を見上げたのは――。 悲しかったからではない。
(……やっと、この実家を押し付けられる!)
そう、こぼれそうになる歓喜を隠すために、私は必死で顔を伏せていただけなのだから。
時計の針を、十年前へ巻き戻そう。 それは、私の「最悪な初恋」が終わった日であり、私の「最高の自由」が始まった日の物語。
そう、こぼれそうになる歓喜を隠すために、私は必死で顔を伏せていただけなのだから。
窓ガラスに、夜の闇を背景にして私の顔が映り込む。 そこにいるのは、先ほどまでサロンで見せていた「聖女のような微笑み」の女ではない。
口角が冷たく吊り上がり、瞳の奥に昏い愉悦の光を宿した――獲物を罠にかけた瞬間の、狩人の顔だった。
(ああ、本当に傑作だったわ。ヴィンセント)
私は心の中で、雨の中を去っていく哀れな道化に語りかける。
貴方はあの時、自分こそが賢く、私を出し抜いて「男爵家」と「莫大な富の権利」を奪い取った勝者だと信じて疑わなかったでしょうね。シャーリーという新しい玩具を手に入れ、邪魔な婚約者を追い出し、人生の絶頂にいるつもりだったでしょう。
けれど、違うのよ。
貴方がシャーリーに現を抜かしたのも。 私を罵り、婚約破棄を突きつけたのも。 そして、あの「証券」を宝物のように抱え込んで契約書にサインしたのも。
――全て、私が書いた完璧な脚本通り。
貴方は私の手のひらの上で、欲望という名の糸に操られ、自分から喜んで「破滅」という名の舞台へ飛び込んでいった、ただの滑稽な人形に過ぎなかったの。
「……ふふ。思い出したら、また笑いがこみ上げてきてしまったわ」
私の喉の奥から漏れた忍び笑いに、セドリックが呆れたように、けれどどこか誇らしげに肩を竦める気配がした。
さあ、時計の針を、十年前へ巻き戻そう。 あれは、私の「最悪な初恋」が終わった日であり、私の「最高の自由」が始まった日の物語。
2.10年前、毒を撒く少女
十年前。没落の足音が間近に迫る、薄暗いランバート男爵邸。 私は、重厚な書斎の扉の陰に立ち、廊下の向こうから聞こえてくる「足音」を待っていた。
ペタ、ペタ、という、しまりのない歩き方。 この家を食い潰す寄生虫の一人、ヴィンセントの足音だ。
正妻に子ができなかったという理由だけで、母から引き離され、この家に連れてこられた私。 彼らにとって私は家族ではない。ただの「都合の良い跡継ぎ」であり、「金のなる木」だ。
懐に手を当てて確認する。「……『東方船団』の証券はここにある。準備に抜かりはないわ」
次に鏡を見て、自分の顔を確認する。 眉を潜め、今にも泣き出しそうな、けれど必死に家を守ろうとする「健気で無知な令嬢」の仮面。よし、完璧。
私はわざとらしく扉を少し開け、中から漏れる明かりが廊下に落ちるようにした。
「……やはり、この証券を換金するのは待つべきかしら」
私は、扉の向こうにいる「聞き耳を立てる男」に届くよう、震える声で芝居を始めた。
「この『東方船団の優先引受証券』さえあれば、半年後には今の負債をすべて返して余りある富が手に入る……。お父様やヴィンセント様に知られたら、きっと今すぐ二束三文で売って遊びに使われてしまいます。これだけは、絶対に秘密にしておかなくては」
扉の隙間から、廊下でヴィンセントが息を呑む気配がした。 彼の浅ましい想像力が、今、フル回転しているのが手に取るように分かる。
(ほら、食いついたわね。……いいわ、もっと奥まで飲み込みなさい)
私はさらに追い打ちをかけるように、机の上に「偽の家計簿」を広げた。 そこには、お父様の事業失敗の負債や、私を「妾腹の娘」と蔑むお義母様が夜会や宝石に散財した莫大なツケ、そして男爵家が明日にも破綻する絶望的な数字と、それを一発で逆転させる「香料貿易の架空の利益」が、嘘くさいほど魅力的に書き込まれている。
「これを奪われたら、私は……私とお母様は、もうおしまいだわ……」
私は机に突っ伏して、肩を震わせた。 笑いを堪えるのに必死だったけれど、廊下の馬鹿には「絶望に打ちひしがれる可憐な少女」に見えたことだろう。
やがて、廊下の足音は慌ただしく遠ざかっていった。 彼が今から向かう先は、自分の部屋か、あるいは浮気相手のシャーリーの元か。どちらにせよ、「エレノアが隠している宝の地図を、どうやって奪い取るか」という悪巧みで頭がいっぱいに違いない。
私は顔を上げ、冷めた目で開いたままの扉を眺めた。
「……さあ、次は『シャーリー』への種まきね。あの子には『宝石』の夢を見せてあげましょう。強欲な女は、自分を飾るためなら男を地獄へ突き落とすことさえ厭わないもの」
十六歳の私は、窓の外に広がる嵐の予感を、愉悦に満ちた瞳で見つめていた。




