第十話:嫉妬の残り香と、女王の陥落
セドリックがベルローズ公爵夫人の元へ向かって、四日が過ぎた。 サロン『リリウム・ノワール』の帳簿机で、ルネは羽ペンを握ったまま、虚空を見つめて静止していた。
「……あらあら、ルネ。そのページ、もう十分間もめくられていないわよ? それに、インクもついていないペンで何をそんなに熱心に書き込んでいるのかしら」
マダム・リリスの愉快そうな声に、ルネは弾かれたように我に返った。見れば、白紙のページに羽ペンの先が虚しく擦れた跡だけが残っている。
「……失礼いたしました。少し、計算が複雑でしたので」
「そう? 『セディが今頃何をしているか』っていう計算なら、確かに複雑でしょうねえ。あの夫人は、お気に入りを離さないことで有名だもの。今頃、甘いお酒でも飲まされて、極上の絹のシーツの上で……」
「お母様!!」
ルネの叫びと同時に、サロンの扉が静かに開いた。 カラン、という鈴の音と共に現れたのは、四日間待ち焦がれた「影」――。
「……ただいま戻りました。お嬢様、マダム」
そこに立っていたセドリックは、完璧に整えられてはいたが、どこか「使い込まれた」ような気だるい色気を纏っていた。 そして、彼が近づくにつれ、ルネの鼻腔を突いたのは、彼女が最も忌み嫌っていた濃厚な薔薇の香り。ベルローズ侯爵夫人の特注香水だ。
「……ご苦労様。セディ、随分と『可愛がられた』みたいじゃない」
マダムがニヤニヤと彼の襟元を覗き込む。ルネは立ち上がり、激しい鼓動を抑えながら彼を凝視した。セドリックはルネの視線を真っ向から受け止めると、その唇をわずかに、ほの暗い歓喜で吊り上げた。
「ええ。夫人は大変に情熱的な方でした。……お陰様で、これだけの成果を」
彼は淡々と、夫人の金庫から持ち出した極秘情報の数々と、彼女が裏ギルドへの干渉を完全に停止するという念書をデスクに置いた。
「彼女は今、私が残してきた『偽りの愛の言葉』を信じて、空っぽの寝台で夢を見ているはずです。……ルネ、これで満足していただけましたか?」
成功の報告。完璧な仕事。 だが、彼の言葉の端々に、あえて「夫人との親密さ」を匂わせる毒が混じっている。ルネの嫉妬心を煽り、自分に縋らせようとする、冷徹な捕食者の笑みだ。
「……満足だわ。素晴らしい仕事よ、セドリック。……でも、その匂いは、不愉快だわ」
「おや、不快でしたか? 私はてっきり、お嬢様が命じた仕事の『勲章』だと思っていただけるかと」
セドリックの挑発に、ルネの中の「何か」が音を立てて切れた。 彼女はセドリックの腕を掴み、マダムの視線も構わず、彼を奥のプライベートルームへと引きずっていった。
「あらあら……。今夜の検品は、随分と『厳しく』なりそうねえ」
マダムの楽しげな独り言を背に、ルネは部屋の扉を閉め、鍵をかけた。
◇
「……脱いで」
寝室の闇の中、ルネの声は震えていた。 セドリックは無言で、けれど抗うこともなく、彼女の前に跪いた。
「他の女の匂いなんて、一滴も残したくない……。私が、全部、上書きしてやるんだから……っ」
ルネは不器用な手つきで、彼のシャツを引き裂くように脱がせると、彼の胸元に跨った。 下から見上げるセドリックの瞳は、理性を失ったルネの姿を、これ以上ないほど甘美なものとして映し出していた。
「……ああ、ルネ……私のすべてを、どうやって貴女の色で塗りつぶしてくれますか?」
主導権を握ったはずのルネを、薄い笑みと言葉で追い詰めるセドリック。 策士たちの夜は、嫉妬という名のスパイスを加え、昨日までとは比較にならないほど激しく、深く、乱れていく。
ルネはたどたどしく、彼の鎖骨に、そして胸元に、自分の唇を押し当てた。赤い髪が自分の胸元をくすぐるのをセドリックはうっとりと眺める。
知識で知っている『独占の印』をつけていく。不慣れなルネの舌先が彼の肌をなぞるたび、セドリックの体が大きく跳ね、喉の奥から聞いたこともないような喘ぎが漏れる。
「……っ、……あ、……ル、ネ……。……やめて、……いや、……やめないで……」
いつも余裕のセドリックが、ルネの下で浅い息を繰り返しながら顔を赤く染め、必死に枕を掴んでいる。 その「余裕のない姿」が、ルネの独占欲を甘く満たして、彼女自身も興奮して息が浅くなる。
「気持ちいいの……? セディ」
「……当たり前、でしょう……っ。……お願いだ、そんな……っ、そんなに優しく、……焦らさないで……っ!」
じわじわと攻める「初心者ゆえの拙さ」が、逆に彼を拷問のように追い詰めていく。 セドリックの呼吸はどんどん荒くなり、額には脂汗が浮かんでいた。セドリックの瞳は潤み、懇願するようにルネを見上げている。
「ルネ、……お願いだ。……もう、我慢……でき、ない……」
「……ふふ。じゃあ、もっと……っ、あ……っ!?」
勝利を確信した瞬間、世界が回転した。 気づけば、ルネはシーツに押し付けられ、シーツの上に赤い髪が広がる。セドリックがルネの両手首を頭上で片手で押さえ込んでいた。 その髪は乱れ、モノクルを外した瞳は、もはや理性の欠片もない「獣」のそれだ。
「……ルネお嬢様。……先に仕掛けたのは、貴女ですからね?」
先ほどまで懇願していた掠れた声は、いまや獲物を捕らえた肉食獣の咆哮に近い。 セドリックはルネの首筋に深く顔を埋め、吸い付くように自分の印を刻み直していく。
「ひ……あ、っ、セディ、……待っ……」
「待ちません。……たっぷり可愛がって差し上げます。……私の『飼い主』様」
攻守交代。 嫉妬を燃料にして燃え上がった二人の夜は、昼間の騒動など霞むほどの熱量で、夜明けまで続いていくのだった。




