第一話:審判の席と宵闇の豹
王都の喧騒が、重厚な黒檀の扉が開くと同時に遠のいた。 恭しく頭を下げるドアマンに導かれ、私は幾重にも重なり合う深紅のベルベット・カーテンをくぐり抜ける。一歩踏み出すごとに、外世界の塵が払われていくような感覚。
その先に広がるのは、磨き上げられたマホガニーの艶が美しい、静謐な広間だった。
広間の中央。 司令塔とも言える特等席の奥には、一人の女性が座っている。 豊かな深紅の髪を気品高く結い上げ、物静かな微笑みを湛えた彼女は、まだ二十代半ばという若さながら、訪れる者を圧倒する不思議な静寂を纏っていた。
彼女こそが、この場所の「門番」であり「審判」。 その瞳に見初められぬ者は、どれほどの富を積もうと、この奥へ進むことは許されない。
……かつて、この女を「無能」と呼び、泥の中に捨てた男が、間もなくこの扉を叩くとも知らずに。
「お客様、高級サロン『リリウム・ノワール』にようこそ」
鈴を転がすような、けれどどこか冷徹な響きを含んだ声。
私が――このサロンの主であるマダムの片腕、ルネがそう告げた瞬間。 マホガニーの静謐を切り裂くような、耳障りな音が広間に響いた。
ズリッ、ズリッ。
磨き抜かれた床を、泥と埃に塗れた革靴が容赦なく汚していく。 入ってきたのは、一見すれば貴族のような身なりの男だった。しかし、その正体はあまりに無様だ。
仕立てこそ良いが、何日も着古したかのようにシワの目立つ上着。 首元には、アイロンの掛かっていないヨレヨレのシャツ。 そして何より、手入れを怠り、白茶けた汚れがこびりついたその革靴。
男は自らの「異質さ」に気づく様子もなく、むしろ偉そうに胸を張り、私の正面へと歩み寄る。
(……相変わらず、自分の価値も分からない愚か者ですこと)
私は、扇子の後ろで動いた口角を懸命に抑えた。 目の前に立つ男、ヴィンセント。 十年前、私を「役立たずの婚外子」と罵り、この世のどん底へ突き落としたはずの元婚約者が、今、品位を欠いた足音を立てて、私の「審判」を仰ぎに来たのだ。
「おい、受付。……ここは出資の相談に乗ってくれると聞いたぞ」
酒と煙草の入り混じった不快な呼気が、カウンター越しに漂ってくる。 私は一ミリも表情を崩さず、十年前と同じ――けれど中身は全く異なる「完璧な微笑」を深めた。
「……おい、受付! 聞いているのか! ランバート男爵であるこの俺を、いつまでここで待たせるつもりだ!」
ヴィンセントの怒声が、静かな広間に無様に響き渡る。 ルネが薄く微笑んだまま、その傲慢を冷ややかに見据えていた、その時だった。
「おや、これはこれは。ヴィンセント・ランバート男爵様ではありませんか」
マホガニーのカウンターが落とす深い「影」の中から、溶け出すように一つの人影が現れた。
ヴィンセントが息を呑む。 そこに立っていたのは、夜の闇をそのまま形にしたような、圧倒的な美貌を持つ青年だった。
肌にしなやかに馴染む上質なシルクのシャツに、黒革の細身のパンツ。右肩には毛皮に縁取られた黒ベルベットのショートケープを優雅に纏い、その立ち姿はまさに「宵闇の豹」を思わせる。
「誇り高き貴族様にしては、少々礼儀に欠けるようですね。……貴方の汚れた靴が、当店自慢の床を泥で汚してしまうとは。何と嘆かわしいことか」
艶やかな宵闇色の髪の間から、洋燈の明かりを受けてモノクルが冷たく閃く。 その奥に潜む鬱金色の瞳が、剣呑な光を放ちながらヴィンセントを射抜いた。
青年――セドリックの唇に浮かんでいるのは、慈悲など一滴も含まれていないアルカイックスマイル。
「ひ、卑しい店員風情が、俺を教え諭そうというのか……っ!」
怯えを隠すように声を荒らげるヴィンセントに対し、セドリックは一歩、音もなく踏み出した。 その瞬間、広間の空気が氷結したかのように重く、鋭く変質する。
「店員、ですか。ええ、確かに。……ですが男爵様。当店は、床の掃除代も『安くはない』ことだけは、覚えておいていただきたい」
「ええい、店員の若造ごときが生意気な! それより、お前が何故ここにいるんだ、エレノア……っ!」
セドリックの威圧感に耐えかね、ヴィンセントは矛先を変えた。自分より力の劣る女――かつて、自分が泥の中に捨てたはずの「哀れな婚約者」へ。
逆上し、理性を失ったヴィンセントの手が、カウンターに座るルネの細い腕を掴もうと伸びる。
――その瞬間。
ミシリ、と。
静寂を裂いて、嫌な音が広間に響いた。
「…………がっ!? ひ、ぎぃ……っ!?」
ルネの髪さえ揺らすことなく。 影から伸びたセドリックの黒革の手袋が、ヴィンセントの手首を万力のように固定していた。 靭やかな動きは音もせず、けれどその力は、男の腕の骨を粉砕せんとばかりに容赦がない。
「おやっ……失礼いたしました。当店の『宝物』に、その汚れた手で気安く触れていただいては困りますね」
細身の体躯からは想像もつかない剛力。 セドリックは、獲物の喉首を掴んだ肉食獣のような、ぎらりと怒りに燃える瞳でヴィンセントを見下ろした。
「腕の骨の一本でもへし折って差し上げれば、少しは大人しくして頂けますかね?」
頭上から降り注ぐのは、底なしの冷気を孕んだ死神の宣告。 ヴィンセントは恐怖に顔を引きつらせ、腰を抜かしてその場に尻餅をついた。
「ここは『リリウム・ノワール』……我らの聖域」
セドリックは低く冷淡な声で告げると、ゆっくりと、陶酔するように右手の黒革の手袋を指先から外していく。 ギュ、ギュ……と革が鳴るたびに、ヴィンセントの心臓は跳ね上がった。
剥き出しになった白皙の肌。 その右手の甲には、鮮烈な漆黒の刺青が刻まれていた。
「この手に徴した、クロユリの誓いの元に。……貴殿の非礼を、その生命を持って償う覚悟はできていますかね?」
モノクルの奥で鬱金色の瞳が細められ、セドリックの唇が、美しくも残酷な三日月を描いた。
「セディ、ありがとう。でも、そこまででいいわ。――このままだとその方が粗相をして、床が汚れてしまうわよ」
ルネの鈴を転がすような、けれど冷ややかな声が、広間の張り詰めた空気を切り裂いた。 先ほどまで死神のようだったセドリックが、一瞬にして完璧な接客の微笑みを取り戻す。
「おやっと……これは失礼いたしました。もう少しで、お嬢様の掃除の手間を増やしてしまうところでしたね」
セドリックはまるでゴミを払うように、ヴィンセントの手首を放した。 ヴィンセントは脂汗を流し、ガチガチと歯を鳴らしながら、無様に這いつくばっている。
「ヴィンセント・ランバート男爵様、怖がらなくても大丈夫ですわよ」
ルネがカウンター越しに身を乗り出し、花が綻ぶような、けれど瞳の奥は一ミリも笑っていない微笑を向けた。
「まだ貴方がこの店のお客様たるかどうか、品定めは終わっておりませんわ。貴方はまだ『死ぬ』には早すぎますものね。もっと、存分に人生を『楽しんで』いただかなくては」
その時。 広間の奥、重厚な飾り扉が静かに開き、えも言われぬ芳醇な香水の香りが漂ってきた。
「あらあら、随分と賑やかじゃない。……セディ、あまりお客様を苛めてはダメよ? 私の大事な店が汚れてしまうわ」
ゆっくりと歩み寄ってきたのは、燃えるような赤髪を揺らし、無数の宝石を身に纏った貴婦人――マダム・リリスだった。
ヴィンセントはその姿を見て、絶望に目を見開く。 かつて自分が「無害な添え物」だと思って見下していた、ルネの母親。
「……ま、マダム……リリス……っ?」
マダムは這いつくばるヴィンセントの傍らで立ち止まると、扇子で口元を隠し、値踏みするように彼を見下ろした。その瞳には、かつての弱々しさは微塵もない。
「あら、この顔……。相変わらず、私の好みの系統だわ。……ねえルネ、この男、中身はゴミだけど造形だけはやっぱり合格点ね。拾ってあげたくなっちゃう」
「お母様、いけませんわ。それは病気です。セディ、お母様を止めてちょうだい」
ルネが呆れたように溜息をつくと、セドリックが静かにマダムの前に立ちはだかった。
「マダム。……これ以上『ゴミ』を拾うなら、私はストライキを起こしますよ?」
受付嬢のルネ、若主人のセドリック、そして会長のマダム。 ヴィンセントを見下ろす三人の影が、サロンの床に長く、濃く伸びる。
それは、十年前の復讐の始まりを告げる、美しくも残酷な三すくみの完成だった。




