第三章1 はくはくはお風呂に入りたい
―――ナーブ辺境村より北へ遠く海辺に面する漁村ヘルペナにて。
漁が盛んな村は活気に満ちた村である。
防腐のための薬剤の濁った色を濃い染料で無理やり上書きした建材塗料が塗られた建築物は、良い意味で色とりどり、実にカラフル。
村が海近くでなければきっと、心躍る素晴らしい景観だっただろう。
しかし、活気とは裏腹に、海風によって家屋の痛みは早く、居並ぶ家々は少々痛みを感じさせるから景観的には少々残念だ。
その、ところどころ上から板で補強した少々残念な家々や商店が立ち並ぶ通りから離れたほとんど村の端に、幼子が彷徨うように歩いていた。
桃色の髪は手入れされずにボサボサに伸び、顔は口元が特に汚れ、穴を開けただけの麻袋を身にまとっているが、その麻袋でさえも随分と痛んでいる。
親の愛情と保護が不可欠の幼子はしかし、どう見てもそれらを受けているようには見えない。
魚の入った木箱を運ぶ中年男が幼子を見て顔をしかめ、
「う、近寄るなよ。離れて歩け」
そう言い放つ。
幾人も幼子を見る視線は、嫌なものを見る目に染まるが、幼子にはこれが日常だった。
幼子は二階建ての建物の裏で立ち止まり、
「あーうー………」
勝手口の扉に向けて声を上げた。
声に反応して勝手口の扉から、恰幅の良い中年女性が顔を出す。
エプロンを付けた女性は幼子を確認すると、屋内に戻ってしばらくして、再び幼子の前に戻って来た。
「いいかい。繰り返すようだけど、何にも触れないでおくれ。いいね」
「あーいー」
幼子からの了解の返事を受けて、女性は、小さく切ったソーセージと、こちらもちぎってあるパンを乗せた木皿を、近くの木の椅子の上に置いた。
幼女はその食事に、手を使わず、顔を近づけて口でかぷりと直接咥える。
しかし、カットされてはいたがソーセージをまるまるは口に入れられず、唇が触れてしまった。
途端にソーセージが変色し、腐敗臭を放ち始める。
「ううう………」
「それはもう食べられないよ。お腹壊しちまう。別のにしときな」
強烈な腐敗臭に顔をしかめた女性の言葉を受けて、幼子は違うソーセージを今度こそ上手く口の中に入れることに成功した。
もぐもぐと咀嚼し、今度はパンを口でとらえる。
「もうその麻袋もそろそろ駄目になるね、明日には用意しておく。それから何度も言うけど、いいかい寝るのは石の地面の上だけだ。いいね?そうでないと、地面が腐っちまうんだから」
幼子はもぐもぐ咀嚼しながら、こくこくと頷いた。
本来表情豊かであるはずの幼年期にあって、幼子の目にあるのは昏さのみ。
両親は死んでもうおらず、記憶にもない。
人のぬくもりを知らず、触れあいを知らない。
頭をなでてもらったことも、抱っこされたこともない。
名前を呼んでもらったことすら、ない。
ほとんどの人が自分を嫌なものを見る目で見ている。
自分は邪魔者だと、それだけは分かっていた。
幼子………幼女の名はキュル。『腐敗の呪われ』のキュル。
彼女が触れるもの全てが瞬く間に腐敗し、草木、家、水、土、生き物すら壊してしまう呪われた子。
―――世界に歓迎されなかった子供である。
◆◆◆◆
ナーブ辺境村から北方、空に黄金が浮かんでいる。
空中の黄金………黄金翼竜が翼をはためかせて滞空状態のその胴の上、はくはくとコスモスは譲れぬ話合いの真っ最中である。
「黄金ちゃんに鞍は必要ありません、はくはく様!」
「いや、普通に必要だよ?騎乗の安定感が違うんだから」
「安定感なら、ほら―――」
そう言ってはくはくの前に騎乗しているコスモスが、はくはくの両手をとって、コスモスのお腹を抱えるように持って行き、
「私につかまったら、ほら!安定!」
それは男女の密着がけしからん事この上ないから、
「女の子に抱き着く訳にはいかないよ?」
そう言ってコスモスのお腹に回った手を引き戻し、
「私は女の子じゃないです!大神官様の守護者、です!」
コスモスが暴走のアクセルを踏み込むから、
「女の子だよ?むしろ一番男からの接触を嫌がらなきゃいけないよ?」
正論のはずなのだが、
「はくはく様はいじわるですぅ!」
コスモスはぷくっと頬を膨らませて拗ねてしまった。
コスモスが譲りたくなかったのは、自分の背に偉大なる大神官様を守る喜び。
密着していればいるほど、その感覚はより強くなるから。
己の背に偉大な大神官様をお守りする、なんと甘美な快感かと。
はくはくが譲りたくなかったのは、騎乗の安定感。
騎乗鞍を装着すれば、翼竜が回転しても騎乗者はその身から振り落とされずにいられる。
それに、翼竜の背の上からの攻撃も安定するから。
それに目立たぬ様、十六体の翼竜達は森の中に待機させているだけで、まだ預けてはいない。
騎乗鞍を付けた状態でないと、預けた先で安全な運用は出来ないため、先に騎乗鞍を手に入れそれと共に預ける予定だった。
「他の翼竜の騎乗鞍は必要なのは分かりました。でも私とはくはく様が乗る黄金ちゃんだけ、騎乗鞍無しには………」
「出来ません!」
「はくはく様のいじわるぅ!」
戦う力を持たぬはくはくである、安全のためは手を抜く訳にはいかない、はくはくの行動理念といえるそれに突き動かされて、コスモスのしぶしぶの同意を得た。
ともあれ、はくはくとコスモスは、騎乗鞍を取り扱っている店で最も近い場所を目指す事になった。
眼下の森や林の上を飛び、夜になると野営する。
黄金翼竜に周囲の警戒をまかせ、それぞれテントで十分眠る事が出来るから、大きな不満はない。
この世界において、ゲーム時代には無かった疲労やスタミナが存在するのは現実寄り変化といえる。
一方、ゲーム寄りなまま変わらなかったのが、排泄が不要である事。だから、教会にも民家にも、どこにもトイレは存在しない。
排泄が不要である事は、旅を続けるはくはくには正直ありがたかった。
しかし、もう一方で現実寄りの変化がある。
排泄は不要だが、汗はかくのである。
現在身に着けている衣服が装備だからか、衣服自体は汗に汚れるという事はないのに、である。
その自分の肉体の汗汚れの不快感が、はくはくにじわりとストレスを与えていた。
だから、
「一度、宿屋で汗を流したい!」
そう口から漏れ出る欲求は致し方のない事であった。
はくはく目下最大の懸念点は、
(コスモスちゃんに臭いと思われていないだろうか………)
という事なのだから。
その意味も加えて、騎乗鞍を買うために立ち寄る村への移動を決めたのである。
―――なぜ女の子は汗臭くならないのだろう?はくはくには見当もつかない謎であった。
◆◆◆◆
―――ある日の夜、テントにて。
ナーブ村を出て随分経ったようにも、ほんの数日のようにも思える頃。
いくつものアイテムを回収している現在、はくはくとコスモスの旅は、まだまだ始まったばかりだ。
村へ逃げ込んでから一切村を出なかった村娘のコスモスは、今やすっかり旅に慣れ、ごく当然にはくはくの隣に陣取って眠る。
自分の姿もすっかり魔法使い然としたものになっているが、はくはくを守る者として魔法威力を上昇させる装備を脱ぐ危険をおかせるはずもなく、眠る時にも同じ姿で眠る。帽子こそ脱いで枕元に置いてはいるが。
隣を見ると、はくはくも僧侶然とした装備のまま、寝息を立てている。
「はくはく様、少し疲れが出たのかな………」
はくはくがコスモスより早く寝てしまう事は初めてだったから、コスモスは少々心配になる。
心配し始めると、嫌な想像ばかりしてしまうのはコスモスの性か、人間の性か。
コスモスの不安が最高潮に達した時、ふと思い出した。
「お母さんが、してくれたあれ………」
そう呟いてコスモスは半身を起こし、はくはくの顔を覗き込むように近づいて。
自分の額を、はくはくの額の上に乗せた。
遠い記憶の中の母親が、病気になった幼いコスモスにしてくれたそれで、はくはくに熱がないかを確認するためだった。
コスモスが額に感じ取ったのは、ほんの少し自分より高い体温のみだった。
「熱は、ないかな………」
しかし、はくはくに熱はなさそうだと分かってからもコスモスは、なぜかはくはくから離れがたく感じて、その不可思議な衝動の理由を探そうと、考え。
「あ、はくはく様の匂い―――」
そう呟いたコスモスの目と、見開かれたはくはくの目が合って。
「きゃあ」
そう声を上げたのははくはくの方だった。
なんだか女の子みたいな悲鳴を聞き、やましい事が無いコスモスは額を離すとはくはくに、
「はくはく様ったら、かわいい」
そう言って笑んだ。
顔を真っ赤にしたはくはくに額を密着させた理由を聞かれた後、コスモスの問いに、はくはくがコスモスより先に寝たのは、疲れではなく慣れたからだろう推測が返ってきて、コスモスは安心したものである。
但し、はくはくが目を覚ます時に聞いたコスモスの言葉の断片、
『あ、はくはく様の匂い―――』
これが、はくはくに一刻も早く宿屋で汗を流そうとする決意を引き起こしたのだが、コスモスには分かろうはずもない事だった。
なぜなら、コスモスははくはくを臭いだなどと言っていないし、思ってもいなかったから。
密着して感じた離れがたい衝動は、コスモスがはくはくの匂いを好んだから。
「はくはく様の匂い、なんだか落ち着くし、ずっと嗅いでいたくなるのはなぜだろう?」
その理由は、コスモスにも分からないままである。
―――はくはく、自分が汗臭いと言われたのでは?と勘違いの真っ最中である。
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