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母の人形

掲載日:2025/10/09

本作はエブリスタの第254回超妄想コンテスト 「人形:ぬいぐるみ」参加作品です。

母が入院した。

父からその連絡を受け、僕は仕事終わりに新大阪から新幹線に飛び乗った。

入院したのは既に5日前のことで、年老いた父は子供たちに負担をかけまいと、入院の手続きなどがあらかた済んだあとに、僕と兄に連絡を入れた。

既に5日前に入院した母について、気を揉んだところで仕方がないのだが、僕は新幹線の座席に座って貧乏ゆすりをしていた。

兄からは仕事が立て込んでいて身動きが取れないから、明後日の週末から実家に戻るとLINEで連絡があった。

母は穏やかで物静かな人で、僕たち兄弟を叱るときも声を荒らげることはなく、なぜそれが駄目なのか根気よく言って聞かせていた。

上から言われたことに逆らうような事はせず、言うなれば、置かれた場所で咲こうとする人だ。

当たり前だが、母は僕が生まれたときから母だったので、母が個人として、何を思い、何を考えて生きてきたのか、そういう意味では、僕は、母について、ほとんど何も知らなかった。


新幹線がホームに着く前から、僕は荷物を持って乗降口に待機し、ドアが開くと同時に車両から飛び出し、在来線の乗り場から、実家には立ち寄らずに、そのまま病院に向かった。

在来線に乗り、乗客たちから聞こえてくる懐かしい訛りとは裏腹に、見たこともないような巨大なビルや、かつてはなかった公園などを高架の上から見下ろすと、もはや、家族で出かけた自分が記憶するあの街は、もうないのだと痛感させられた。

病院に着くと誘導灯が灯った夜間受付から母の病室まで案内してもらう。病室には父はおらず、母だけが静かに眠っていた。

「どうされますか?起こして差し上げますか?」

遠方から来た息子への配慮なのだろう。看護師の気遣いに対し、僕は

「大丈夫です。ただしばらくこうしてここにいてもいいですか、夜間面会が終わるまでには引き上げますから。」

「もちろんです。」

そう言うと、看護師はナースステーションに戻って行った。


薄暗がりの中、ベッド脇の椅子に腰をかけ、久しぶりに見る母は、記憶の中の母よりもずいぶんとやつれていた。もともと線が細い方ではあったが、この痩せ方は、単にやつれたというより、何というか、生命の脈動が枯渇している、そう感じさせるような痩せ方だった。

どれくらいの時間を過ごしていただろうか、気がつくと、母はうっすらと目を開けていた。

「わざわざ来てくれてありがとう、誠。」

薄暗がりで見えていないのか、僕を兄と勘違いしたらしい。

「大輔だよ、母さん。」

僕が静かに言うと、母はまた目を閉じ、

「そう。」と静かに言った。

もう嫉妬するような歳はとうに過ぎていたが、母の言葉には非常に微細な落胆があることは分かった。

「病状はどうなの、母さん?何か欲しいものや、してほしいことはない?」

「体調は安定しているよ。でも歳だからね、あちこち体にガタが来てるのは、しょうがないね。」

僕が黙っていると、母は続けて

「必要なものは何もないよ。大丈夫。お父さんが全部用意してくれてる。」

そう言った後、母はこちらに顔を向けて

「ひとつだけ。次に来るときに、人形を連れてきて欲しい。」

「人形?家に人形なんかあったっけ?」

「私の部屋の水屋の奥に、女の子の人形があるから、次に来るときに連れてきて欲しい。」

僕は、僕ら兄弟が本当に小さかった頃、兄が小学校に上がる前に、母が作っていた女の子の人形を思い出した。

当時、僕が母に

「僕ら男の子なのに、どうして、お人形をつくるの?」

と聞くと、母は

「これは、お母さんのなのよ。」

そう言っていた。

僕は、母に人形を持ってくることを約束して、病院を後にした。


実家に戻り、母の部屋の水屋の奥に、言われたとおり、女の子の人形があった。

布製の、ぬいぐるみのような、お世辞にもうまい作りとは言えない人形だった。

人形を取り出そうとしたとき、その横に、分厚い古い日記があることに気がついた。

悪いと思いながらも、母を知る手がかりになるのではないか、と思い僕は日記を開いた。

しかし、そこには予想に反して、家業や家族のことに関する記述ばかりが並んでいた。

「S50.2.3 配達一斗缶×5 山田さん」

実家は祖父の代まで着物の染料を商っていたから、結婚当初、その配達を手伝っていた頃の記録だろう。

しかし、この時期は既に兄を身ごもっていた時期なのに、一斗缶なら約18リットルで18kgある。まさか、一度にとは思わないが、それでも大変な重労働だ。

「S58.4.11 誠 水疱瘡に罹患」

「S61.6.17 大輔 ブランコより転落」

それ以降も、日記に記されていたのは、家業か家族にまつわることばかりだった。

恐らく母は、結婚した後、相手の家に入り、ヒエラルキーの最下層から配偶者の両親に仕えることを強いられた最後の世代だったのだろう。

義両親と父を支え、子を育んだ母にとって、この人形は、あったかもしれないと母が夢想した自由な生き方の象徴であり、母を支える礎であり、また母自身であった。

僕は日記を閉じ、翌日母の病室を訪ね、連れてきた人形を渡すと、年老いた母は、少女のように人形を抱きしめた。


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