猫のストーカー
大学の昼休み。
二限目の講義を終えた俺は、食堂へ向かう人の波を避けながら歩いていた。
キャンパスの中央広場は今日もざわめいている。
購買の袋を片手に何かをかじりながら歩く学生、芝生で身を寄せ合うカップル、
道を塞ぐようにビラを押しつけるサークルの先輩たち。
笑い声や呼び込みの声が耳に入っても、どこか膜を隔てた向こう側の出来事のように感じる。
俺はその喧騒を横目に、中庭を抜け、学食の自動ドアをくぐった。
奥まった窓際の席に腰を下ろす。
ここは人目が少なく、外の中庭が一望できる。
トレーの上にはカレー、そして氷が溶けかけた麦茶。
周囲ではスプーンや箸が器に当たる音、抑えきれない笑い声が交じり合い、絶え間ないざわめきが続いている。
俺はスマホを片手に、静かに食事を始めた。
昼は一人で過ごすのが一番落ち着く――そう思っていた。
……その時だった。
背中を撫でられたような感覚がした。いや、撫でられたのではない。何かがじっと、そこに触れている。
何とはなしに、窓の外へ視線を向ける。
一匹の三毛猫がいた。
黒、茶、白が入り混じった毛は、昼の光を受けても鈍く沈んでいて、まるで濡れた石を撫でたあとのような質感に見える。
額には逆三角形の茶色い模様。それは眉間のしわのようで、猫らしい愛嬌を削り取っていた。
ただ黙って立っているのに、その場の空気だけが少し冷えているような気がする。
だが、何よりも目だ。
瞳孔は細く締まり、半分ほど細められたまま、じっと俺を見ている。
猫が持つはずの好奇心のきらめきはなく、底の見えない水面のような静けさがそこにあった。
そこに映っているのは、俺の姿ではないような気がした。
耳はわずかに動き、片方は外の物音を拾いながら、もう片方は微妙な角度で俺の方を向いたまま固まっている。
尻尾は左右にゆったりと揺れ、そのリズムは呼吸とは無関係で、まるで時計の振り子のように狂いなく続いていた。
体は微動だにせず、存在だけがこちらに迫ってくる。
「……なんだ、お前」
小さく呟く。自分の声が、ざわめきに溶けず、すぐ足元に落ちた。
猫は瞬きもせず、わずかに首を傾ける。
やっとまぶたが降りたかと思えば、その動きは異様に遅く、薄く開いた隙間から、光がひときわ冷たくきらめいた。
カレーを口に運びながら、何度も窓を見た。
まだいる。
人が横切っても、スマホを向けられても、まるで無関心。
ただ俺だけを見ている――そう確信する。
ふと、スプーンを落としそうになって視線を逸らし、慌てて拾い上げた。
また窓に目をやる。
……いない。
たった数秒前まで確かにそこにあったはずの視線が、きれいに消えていた。
外の中庭は、風に揺れる木の影だけが揺れている。
「……気のせいだったのか」
自分に言い聞かせるように呟き、残りをかき込み、食器を返却した。
中庭を横切ると、噴水の水音が耳に届く。
……花壇の縁に、三毛猫が座っていた。
「……お前」
猫は大きなあくびをひとつ。
暗く湿った口の奥がやけに深く見えて、息が奥まで吸い込まれるような錯覚に陥る。
そしてゆっくり口を閉じると、片目だけを細めて俺を見続けた。
歩き出す。猫も歩き出す。
数メートルの距離を一定に保ち、決して詰めず、決して離れず。
ときおり首だけを回し、俺の行き先を確かめるような仕草を見せる。
その歩調は妙に揃っていて、まるで音のない行進のようだった。
夕方。大学近くのファストフード店は、ちょうど帰宅途中の学生や会社員で賑わっていた。
揚げ油の匂いとポテトの甘い香りが混ざり、厨房からはジュワッという油の音が途切れなく聞こえる。
カウンター前には数人の客が列をなし、ホールでは高校生らしきグループが笑い声を響かせている。
俺は厨房からホールに出て、ガラス越しに外を何気なく見た――そこに、やっぱりいた。
街路樹の根元に座り、尻尾を地面にゆっくり打ちつけながら、こちらを見ている三毛猫。
昼間と変わらぬ表情。まぶたの奥で光が小さく揺れている。
「なあ翔太」
隣でポテトの紙袋を積み上げていた同僚に声をかけた。
「あの外……猫、見えるか?」
翔太はガラスの外をちらりと見て、「あー、三毛猫だな。かわいいじゃん」とあっけらかんと言った。
「かわいいか? あれ」
「なんだよ、かわいいだろ。毛並みも悪くねぇし」
「……さっきから、こっちを見てこないか?」
「そりゃあ、猫だし。目が合っただけじゃね?」
「いや……ずっとだ。昼間から、ずっと」
翔太は笑いながら袋詰めを続ける。
「はは、ストーカー猫か。お前の背中に魚の匂いでもついてんじゃないの」
「……そうならいいけど」
「それともあれだ、お前が猫に似てんだよ。ちょっと目つき悪いとことか」
「似てねぇよ」
そう返しながらも、また外に視線をやる。
猫は動かない。
通りすがりの女子高生二人が「わー、猫だ!」と笑って近づくが、猫は瞬きひとつしない。
撫でられそうになっても逃げず、口元だけをほんのわずかに歪める。
笑っているようにも、唸っているようにも見える。
「な? やっぱり変だろ」
「……まぁ、ちょっとはな」
翔太がそう言いかけた時だった。
「……ふたりとも」
背後から涼やかな声。
振り返ると、黒髪のロングを下ろしたままの店長が立っていた。
白いシャツにエプロン姿、表情は柔らかいが、目だけは笑っていない。
「無駄口たたいてないで、手を動かしなさい」
その声は低く、はっきりと響く。
「すみません!」と翔太が声を張る横で、俺はもう一度外を振り返った。
……猫はいなかった。
だが、妙だった。
客の声や厨房の音が、一瞬だけ遠くに引いたように感じた。
まるで音だけじゃなく、空気そのものが後ろに下がったみたいに。
ガラスの向こうには、街路樹の根元にできた小さな影だけが残っている。
風で揺れているはずの葉も、まるで止まっているように見えた。
俺は視線を外し、仕事に戻ろうとした。
だが、背中のあたりに、まだあの瞳の感触が残っている。
振り返ってもそこには何もない――はずなのに。
氷を入れる機械の音が妙に大きく響く中、俺は一人、息を浅くしたままポテトの袋詰めを続けた。