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第1話 『春を食べ歩くはずだった日』

とある、無邪気で優しい女の子。そんな彼女の物語。

花を見て綺麗と驚き。動物を見て可愛いと微笑む。

そんな彼女のちょっぴり運が悪かった。


 三月の終わり、朝の空気が少しだけやわらかくなってきたころである。あま子は、いつもよりほんのすこしだけ足取りを軽くして自分が働いているバイトへと出勤していた。

 大学は春休みに入ったが、あま子は毎日のバイトに多忙な日々を送る。頼みを断れない彼女は気が付いたら、毎日シフトを入れてしまっていたのだ。そんな出勤途中。彼女はふと足を止めた。



 通り沿いの桜の木が、ついに花をつけはじめていた。



 まだ枝の先に点々と咲いている程度ではあったけれど、白と薄紅の花びらが、明るい空にふわっと浮かんでいるようで――。それはまるで、「春が来ますよ」と誰かが告げてくれているようだった。



「もう、咲き始めてるんですねー」



 駅までの道すがら、立ち止まって見上げた桜の枝先に、あま子は小さく微笑んだ。そのときふと、「今年こそちゃんとお花見をしよう」と思った。お弁当でもいいし、途中で美味しそうなものをテイクアウトしてもいい。歩きながら、のんびり食べながら、桜を見て回る。そんな一日を作れたら、きっと素敵な春の思い出になるに違いない。あま子はそう思った。


 その日の夜、あま子はメモ帳に「桜ルート」と題して、近所の桜スポットをいくつか書き出した。


 川沿いの遊歩道、住宅街の裏にあるちいさな公園、パン屋さんの角にある古い桜の木――。


 どれも、徒歩で回れる距離。天気のいい休日にのんびり歩くのにちょうどよさそうだった。ついでに、おいしいと噂の和菓子屋や、たこ焼き屋、いちご大福のカフェなどもメモしておく。あま子なりの「花見食べ歩きルート」が、頭の中で少しずつ形になっていった。


「楽しみです……晴れるといいなぁ」


 しかし、次の日から――思いもよらぬ忙しさがあま子を襲った。


 突然の人手不足。急なシフトの変更。毎日のように終電に近い時間までの残業。食べ歩きどころか、桜を見る余裕すらない。朝から晩までバイトバイトバイト。とても学生とは思えないほど。


 家に帰るころには、夜風が冷たくて、空は真っ暗で、手に持ったコンビニのおにぎりの味すらよくわからなかった。


「……もう少し……落ち着いたら……」


 そんなふうに、自分に言い聞かせながら三日が過ぎ、やがては一週間が過ぎ。その間、あま子は桜のことを「見ないふり」していた。通勤中にふと視界に入る満開の桜の並木も、駅前で花びらを舞わせる風景も、どこか現実感がなかった。



 自分にはまだ「ちゃんと見る時間を取っていないから」そう思い込もうとしていたのかもしれない。



-------------------------------------


 二度目の週末、やっと訪れた「お休みの日」。


 目覚ましをかけずに寝たのに、自然と朝早くに目が覚めた。今日は絶対に、あのルートを歩こう。


 和菓子を買って、川沿いで桜を見て、お気に入りの音楽を聴いて。そのために、スニーカーを履いて、久しぶりに春物のコートを羽織った。


 部屋を出る前に、窓を開けて空を見た。カーテンの向こうには雲ひとつない、春らしい快晴だった。日差しが自然彼女を元気にさせる。それは疲れも吹き飛ぶほどまぶしかった。


「えへへ、いい日です。今日は」


 胸が少しだけ弾んだ。ようやく、自分の春が始まる気がしていた。


 しかし、数分後。


 最初の目的地である小さな川沿いに立ったあま子は――。


 あることに気づいて、言葉を失う。




 風に舞っていたのは、花びらではなかった。


 舞っていたのは、葉っぱだった。


 枝には、もうほとんど花が残っていなかった。


 ピンクに染まるはずの桜並木は、どこか緑がかっていて、あちこちの木の根元には、踏まれた花びらが湿って張りついていた。


 そして、ようやくあま子は理解した。


「……もう……散ってる……」


 桜の木の下に立ったまま、あま子はそっと呼吸を整えた。


 胸の奥に、じわりと広がるような空しさ。その理由はわかっていた。


 「遅かった」のだ。


 気づいたときには、もう桜はその美しさのピークを終えていた。ひらひらと舞う花びらはもうなく、空はただ明るく澄んでいるだけだった。


 それでも、彼女は引き返さなかった。


「……一応、ルート……回ってみます……」


 その足取りはゆっくりとしたものだったけれど、地図に描いた順路を辿るように、あま子は歩き出した。




-------------------------------------




 次に向かったのは、裏通りにある古い小さな公園。そこには、ぽつんと一本だけ桜の木が立っていたはずだった。



 けれど、そこにももう花はなかった。代わりに、足元にびっしりと淡いピンクのじゅうたんが敷かれていた。その中に、一枚だけ、かろうじて枝に残っている花があった。



 あま子は立ち止まって、それをしばらく見つめた。



「……最後まで……残ってて、くれたんですね……」



 声に出すと、なぜかほんの少しだけ心が軽くなった気がした。



 近くの和菓子屋では、あま子が狙っていた「桜餅といちご大福のセット」は、すでに売り切れていた。代わりに、店先には「よもぎ餅・春の新緑セット」の札。



「……桜の……終わり、ですね……」



 少し残念だったけれど、あま子はよもぎ餅をひとつ買って、川沿いに戻った。手すりのところに腰かけて、袋を開ける。


 もちもちとした感触。やさしい甘さ。


 きっと、花が咲いていても、いなくても――この味は変わらなかった。




-------------------------------------



 帰り道、少しだけ風が吹いた。どこかから舞ってきた、最後の花びらが、あま子の肩にそっと落ちた。


 ふと見上げると、建物の影に隠れるようにして、小さな桜の木がひとつ。そこには、まだ五分咲きほどの、少し遅れて咲いた桜がいた。


 ほんの一瞬、目が合ったような気がして、あま子は小さく笑った。


「あなたは、のんびりさんですね。わたしと、似てるかも」


 その木の前にしゃがみこんで、バッグからスマートフォンを取り出す。


 写真を一枚。記録としてではなく、ちゃんと、今年の春に出会えた証として。



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 帰宅後、あま子は玄関で靴を脱ぎながら、ゆっくりと息をついた。


 満開の桜は見られなかった。


 食べたかったものも、タイミングを逃した。でも、それでも――今日は、春と歩けた気がした。


 部屋の窓を開けて、春の終わりの風を通す。


 どこか遠くで犬の鳴き声と、風鈴のような音が混ざる。その音に包まれながら、あま子はソファに座って、スマホの画面を見つめた。


 そこには、今日撮った小さな桜が、優しい色で咲いていた。



「……来年こそは……お弁当も作って……ちゃんと、見に行きたいです……」


 そうつぶやいたその声が、静かに部屋に溶けていった。そして、画面の向こうの桜が、まるで「またね」と頷いたような気がした。



おわり

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