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9.錠剤の効果

「なぜって……あんた覚えてないの?」


 ナオミは頷き、この部屋に来てからの日々の生活の記憶、というより感覚に近いものしか残っておらず、それもたいして(さかのぼ)らないうちににじんで形のはっきりしないものになっていることを女に伝えた。


「薬は毎日飲んでる?」


「薬?」


「あの青い錠剤」


「ええ、いや、たぶん」


「朝と晩の二回?」


「そうね、うん、おそらく」


 女に問われるたびに、ナオミは自分の中で確たるものが剥がれて床にぽろぽろと落ちていくように感じた。仮に今この瞬間生きているのかどうかを誰かに聞かれたとしても、ナオミはまごつきながら曖昧に答えることしかできなかっただろう。


 女はデータパッドを操作してなにかを調べはじめ、頬杖をついて少し悩んだあと、「おそらく薬の影響だろうね」と言った。


 あの錠剤は、人の心から根源的な恐れを取りのぞく効果を持っている、と女は説明した。現在の状況、過去の記憶、未来の予測、あらゆるところに潜んでいる恐怖から人を隔離するためのものだと。

 この薬の特長は、それをやわらげるのではなく取りのぞくというところにあり、そのため、人によっては健忘という副作用が出ることがごくまれにあるという。ナオミの場合は、副作用の健忘によって疑いという心理が生まれ、恐れとともに本来は取りのぞかれるはずの不安が残り、それが認識の混乱を引き起こしているらしい。


「一錠でいい気分、二錠ですっきり!」


 女は製薬会社の(うた)い文句だというフレーズを強調した。これもまた進歩的国家が誇るべきものなのだろうかとナオミは(いぶか)った。すると、なんだか釈然としないようなナオミの表情を勘違いした女が言った。


「なんでそんなものを飲ませるんだって思ってるんでしょ? そうでもしないと部屋の住人はすぐに逃げ出してしまうのよ、まともな世界からね。温情ではなく実利的な側面からの処置ってわけ」


 微妙にずれた話の内容に戸惑い、ナオミはぽかんと口を開けて女を見た。

 女はナオミが自分の話を理解できなかったのだと思い、「まあ簡単に言えば、嫌なことがあってもすぐに忘れられるってこと」と噛み砕いて説明し、そしてこう言った。


「あんたの人生、よっぽど嫌なことが多かったのね」


 嫌なことが多い人生、そうかもしれないとナオミは思い、また、そうではなかったかもしれないとも思った。


「それで、なぜ私はここに?」


 ナオミは再び世界の謎を解くための問いを口にした。


「悪いけどそれは私の口からは言えない。マニュアルにそう書いてあるしね。そもそも私はアドバイザーじゃないし情報提供者でもない。あくまで調査員。あんたには私を呼び出す権利がある。私はそれに応えて、なんで呼び出されたのかを調べるという自分の職務を果たすだけ。なにもかも自分で思い出して、なにをすべきかを決断するしかないのよ。すべてを知ったとき、あんたが(いきどお)るのか、あるいは感謝するのかはわからない。まあとにかく、私たちの国家には余裕がある。あんたみたいな人を養っていけるだけの経済的、精神的な余裕がね。私に言えるのはそれだけ」


 結局、女はナオミの問いに答えることなく去っていった。女は愛想がなく素っ気ない態度ではあったが、ナオミの問いを無下に切り捨てることはなく、彼女なりにできる限り答えようとしてくれたことはナオミにも伝わった。しかしだからといってなにかが解決したわけではなく、あいかわらずナオミにはわからないことだらけで、謎はますます彼女のまわりに積み上がっていた。


 もっともナオミがそれらの謎を解き明かすために、すべてを捧げるほどの努力をしていたのかといえば疑わしく、結局のところ、この部屋での生活が保証されていると漠然と感じているナオミには緊急性と切実さに欠ける部分があり、それがものごとをただ混乱のなかに投げ入れることにつながっていたのである。


 とはいえ女との会話によって、あの錠剤の精神状態に働きかける特定の効果については判明した。ナオミはあの錠剤を飲まなかったらどうなるのかを考えた。


 ――さまざまな恐れに支配されて、この部屋にいられなくなるのだろうか。そうしたらこの部屋から愛と寛容の社会に出ていけばいい。きっと受け入れてくれるはず。いや、本当にそうなのか。


 そんなことを考えているうちに、ナオミは次第にまどろみが体を侵食していくのを感じた。もちろんそれに(あらが)うつもりは露ほどもなく、このまま心も体も溶け落ちて床に散り散りになり、部屋の隅から吸い出されればいいと思った。

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