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12.期待と無関心

 待つことに飽きはじめたナオミがふと天井を見上げた瞬間、驚きのあまり、彼女の心臓は縄で絞められるよりも先に止まりそうになった。


 天井から誰かがナオミをのぞいていたのだ。


 慌てて転びそうになり縄をつかむと、天井からのぞく人物も瞬時に同じ動作をした。ナオミはそれが自分自身であることに気づいた。天井の縄のつけ根の周囲が、姿を反射するパネルでできていたのである。


 ナオミは天井をひたと見つめた。


 そこには老婆がいた。


 パネルに映る老婆は、髪が薄く頭皮が露出し、顔には深い皺が刻まれ、青白く、まるで生気がなかった。

 ナオミはそれを見つめながらしばし呆然とした。部屋に鏡はなかったものの、視界に入る体つきや皮膚の状態、髪の色から、自分が若くないことは知っていた。しかし、考えていたよりもずっと年老いた姿がそこにはあった。


 ナオミはぼんやりと思った。


 ――はじめてここに来たときの私は、今よりもっと若く美しかったのだろうか。


 そのとき、ナオミの中に亡骸(なきがら)として横たわっていたはずの女の(さが)がふいに息を吹き返し、わずかに残った力を振り絞って肉体に指令を出した。しかしボタンにのせた指先は、本人も気づかないほど小さくぴくりと動いただけだった。


 自分の中でたった今消滅したものを気にも留めず、彼女は自分が犯した罪について考えていた。


 ――私はいったいなにをしでかしたのだろう。国家の存亡に関わるような重大な秘密を漏らしたのか、逆に口を割らなかったのか、革命に失敗したのか、成功したあとで裏切られたのか、やってもいない罪を着せられたのか、あるいは……誰かから大切ななにかを奪ったのか。


 いずれにせよなにひとつ思い出せそうになく、この先も思い出すことはないだろうとナオミは直感した。それがあの青い錠剤の副作用のせいなのか、ただ年を取って耄碌(もうろく)したからなのかはわからない。そもそも、今ここにいる自分がどうしたいのかさえ彼女にはわかっていないのである。ナオミにできるのはただ想像することだけだった。


 ――ここでの一部始終は監視されているに違いない。きっとその映像は世界中に中継され、ディスプレイの前の人々は、私が決断するのを今か今かと固唾をのんで見守っているはず。そうであるならば、その人たちの期待に応えてみるのも悪くないかもしれない。


 ただナオミが気がかりだったのは、首に縄をかけた状態のままじっとしている自分を見て、彼らがどう思っているかについてだった。死を前にして怯えきってボタンを押すのを躊躇していると思われるのは嫌だったし、自らが犯した罪の大きさに恐れおののき、頭の中で贖罪と救済の祈りの言葉を繰り返しているに違いないと(あわ)れみの目で見られるのはもっと嫌だった。


 今の生活に満足し、それと同時にそのすべてにうんざりしていたナオミは、このままそれを終わらせて肖像画の列に加わってもかまわないと思っていた。しかし、罪を悔い改めようにもその罪も悔いも見つからず、教誨(きょうかい)師に唾を吐きかけようにもどこにも見当たらず、終焉(しゅうえん)のカウントダウンの音も聞こえず、彼女は周囲を埋めつくす沈黙にただ途方に暮れていた。


 画面の中にまたたく生から灯火(ともしび)が消えるその瞬間を見逃すまいと高揚する視聴者とは反対に、職務として今ここを管理している人間がいるとしたら、台詞を忘れた舞台役者のように立ちつくす自分の様子を見てきっとあくびをしているだろう、とナオミは思った。


 そのとき彼女の脳裏に、あるひとつの疑惑が浮かんだ。


 ――あくびをする観察者がいるだけましなのかもしれない。もしかすると、誰ひとりとして見ていないのではないだろうか。


 この場所を作ったのは、自分たちが下した決断(それが正しいかどうかは別として)に落とし前をつけることすらできず、罪人をその罪と罰もろとも閉じられた空間に押し込んで、社会から覆い隠そうとしている潔癖症の連中である。中継どころかこのホールを管理する者さえおらず、今ここで起こっていることを気にしている人間なんて誰ひとりとして存在しないのではないかというナオミの想像は、決してあり得ないことではないように思えた。


 青い錠剤の効果が切れたのか、(もや)が晴れ明瞭になったナオミの頭はその回転を早め、想像をさらに前に進める。


 ボタンを押すと床が外れ、落下の衝撃によって頸椎が折れたあとアンクレットが死亡通告の信号を送り、それを受信した機械がロープを切断し、床下に用意してあるベルトコンベアで遺体を運び出し火葬場へと送る。この社会にはまだ供養という慣習が残っており、ここではじめて少しばかりの人の手を借り、公営墓地の端の日あたりが悪い場所にひっそりと埋葬される。その墓は手入れされることもなく、風雨にさらされ、いつしかそれが墓であったことすら判別できなくなる。

 かくしてそこに眠る人間が、かつてこの世界に存在していたという(あか)しは消え去る。そしてそれこそが、国家が部屋の住人たちに対して望むことなのだ。


 こっそりとドアを開けて部屋の外に誘い出したり、普段の部屋とはまるで異なる非日常的な空間を用意したり、天井に老いた姿が映るように細工したり、まわりくどく手の込んだやり方で死へいざなおうとここは設計されている。もし決断をしなかったとしても、それはそれでかまわない。余裕のある進歩的な国家は、いつまでも待っていられるのだ。いや、彼らの目につかないところに打ち捨てた人々に対して、待つという概念すら持ち合わせていないと考えるべきだろう。愛と寛容の国家を装って、その実、そこにあるのは人間という存在に対する大いなる無関心なのである。


「ばかばかしい」


 ナオミはそう言って首から縄を外した。

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