0. 西の都の訪問者
これは遥か遥か昔のことか、遠い遠い未来のことか、わからないくらいの時間を隔てたこの世界の物語。
雲一つない空の下、果てしなく広がる荒野を行く一人の少女がいた。
「見えてきた。あれが西の都ね」
旅人の名はビアンカ。この世の何よりも刀剣を愛し、これまでに幾つもの聖剣や魔剣を手に入れてきた刀剣蒐集家だ。
彼女が目指すのは、西の都ティグリス。そこには炎の精霊の力が宿る霊剣サラマンダイトがあるとされている。
「待っててね、私の新しい恋人」
吹き抜ける乾いた風が少女の頬を撫で、伽羅色の長い髪を浮き上がらせる。
彼女は背に一振の大剣、両腰に一振ずつの刀を携えたまま、足取り軽やかに灰一色の不毛な大地を進んだ。
人々が行き交い、活気溢れる街並みーー西の地に栄える商業都市ティグリスは、この日もいつものように賑わっていた。
初めてこの地を訪れたビアンカは、経験したこともないような熱気を肌に感じながら歩みを進めた。
「はい、いらっしゃい! そこのお姉さん随分と立派な剣を3つもお持ちのようだねぇ。高く買うよ?」
ここは商売人たちの都。大通りを歩けば左右から声をかけられ、財布の紐を少しでも緩めた者は巧みな話術に乗せられ瞬く間に散財させられてしまう。金目の物を持ち歩いていれば、忽ちそれを手に入れようとする者たちが甘い言葉で囁きかけてくる。
「残念ながら、どれも私のお気に入りなの。手放すことなんてできないわ」
どんなに高額な値をつけられようとも、ビアンカの意思は揺るがない。
彼女が所有する聖剣や魔剣の総数は70以上に上るが、常に持ち歩いている刀剣はその中でも選りすぐりの宝物なのだ。
「情報が集う場所と言ったらやっぱりここよね」
露店が立ち並ぶ道を抜けると、ビアンカは裏通りにある古びた木の扉を敲いた。
大人たちが盃を酌み交わし夢や愚痴を語らう都の社交場は、まだ太陽が昇りきっていないうちから繁盛していた。
なみなみとグラスに注がれた葡萄酒、旅の土産話を自慢げに披露する強者風の大男、店主にひたすら己の不幸話を垂れ流す酔い潰れた紳士ーーそれは酒場を訪れればいつでも見られるありふれた日常の光景に過ぎなかった。
「すみません」
進んでいるのか止まっているのかさえわからないような、変わらない時間の流れ。そこへ、非日常は突然訪れた。
「いらっしゃい……って、お嬢さん。まだ16か17だろ? 水くらいしか出せないよ」
「お気遣いありがとう。でも喉は乾いてないの」
突然現れた酒場とは無縁そうな少女の姿に、それまで酔うことに夢中になっていた大人たちの視線は釘付けになった。
「私が頂戴しにきたのは飲み食いできるものじゃないわ。ねえ、霊剣サラマンダイトって知ってる?」
ビアンカの問いかけに、その場にいた一同は沈黙してしまった。
その身に携えた三振の得物は、彼女が全て語らずともその目的を十分に伝えていた。
「……知ってるも何も、それはオーキナー卿の家宝だ」
「オーキナー卿? その人が持っているのね」
「彼はこの都の全ての商売を取り締まる大商人……言わば最高権力者だ。一族の跡継ぎにでもならない限りは手に入れるなんて不可能。彼に息子はいないから、女性の君にはどれだけ頑張っても無理だね」
店主は諦めを促すような口調でビアンカに答えた。
「息子はいないってことは、娘ならいるんだ」
諦めるどころか、何か策を思い付いたように満面の笑みを浮かべるビアンカ。店主はその表情に戦慄を覚えた。
「君、まさか……」
「よせ! オーキナー卿の御令嬢は人間なんかじゃねえ。悪魔だ!」
店主の前で酔い潰れていた男は、急にビアンカへ忠告し始めた。
「こうなりたくなかったら、とっとと諦めな」
男がズボンの裾を引っ張り上げると、右足には義足が装着されていた。
「何があったの? 詳しく聞かせて」
しかし、彼の思惑とは裏腹にビアンカは臆するどころか興味津々に尋ねたのだった。
「負け犬の話を聞きたいっていうのか? いいだろう」
隻脚の酔いどれは目の前に置かれたグラスになみなみと注がれた果実酒を一気に飲み干すと、酒気混じりの吐息に言葉を乗せて酒場の住人と化すまでの経緯を話し始めた。
「オーキナー卿の一人娘ルナは17歳。この都の世間一般で見ればもう結婚していてもおかしくない年齢だ。だから、跡継ぎが欲しいオーキナー卿は早く婿を取らせようと必死になっているんだ」
「だったら今は絶好のチャンスね!」
「待て待て! 話は最後まで聞けよ?」
ビアンカからの圧に戸惑いながらも男は話を続ける。
「ルナはこの都で一番の美少女だ。その上大金持ちとくれば、結婚したい男は山ほどいる。オーキナーが最初に花婿を募った時、まるで城みたいな大豪邸の広間が埋め尽くされる程の人数が押し寄せたんだ。だが……」
男は何かを思い出したかのように歯を食いしばり、カウンターを拳で叩いた。
「彼女は求婚者たちを篩に掛けるべく様々な条件を提示してきた。最初は自分よりも高身長であること、顔貌が醜くないこと、定職に就いていることなどを基準に足切りが行われ、花婿候補は15人程に絞られた。ここまではまあ許せる範囲だ」
話しながら、男は空になったグラスを店主に差し出し果実酒を求める。
「残った15人の男はこの都でも選りすぐりのいい男。そんな俺たちに、宝物を持って来て愛を示せと言い出したんだ」
「プレゼントってこと? 男を厳選する手段として間違ってないと思うわ」
「確かにそうかもしれない。最初は彼女の好みに合いそうなアクセサリーだとか、お気に入りのお菓子だとかをフィーリングで買って来るというものだった」
「センスが合うかどうかはこれから人生を添い遂げる上で大事だもんね」
「的外れなものを持って来た者たちは脱落していき、俺は何とか6人にまで残ることができたんだ。だが、ここまでくると他の奴らも強敵揃いで、どれだけ貢いでもなかなか決着がつかなかった」
店主に注いでもらった果実酒を飲み、男は声を張り上げる。
「そして遂に、あの女はとんでもない無理難題を提示してきたんだ! 今までは結婚さえ叶えば元が取れると思って多額の散財も厭わなかったが、身に危険を伴う要求となれば話は別だっ」
新しく注がれた筈の果実酒は、もう一滴も残っていなかった。
「遥か北の地に棲む竜が持つという宝珠が見てみたい……ルナがそう言った時、誰もが耳を疑った。いくら何でも難易度が急に上がりすぎだ。俺は戦いの素人だが用心棒を雇える金なんてもはや残っていなかった。だが、ここまで残ったからには退くわけにはいかねぇ! そう思い無謀にも挑戦して、この有様というわけだ」
この世界には人間や動植物以外にも魔族と呼ばれる人類に仇なす種族が無数に存在し、竜はその中でも最も危険な部類に入る恐ろしい敵である。
竜たちの王は竜玉と呼ばれる宝珠を持っているとされており、それを手に入れるということは竜王を討ち倒すことを意味している。
「結局、その勝負は別の男が制した。俺は片足を失って戻ったが、彼女が言ったのは"ご苦労様"の一言だけだった……俺はあんな悪魔のような女の花婿なんてもう御免だと思ったよ」
全てを話し終え、男は乾いた笑いを高らかに響かせる。
「ねえ、花婿争いはまだ続いているの?」
ビアンカは男の隣に座り、食い入るように見つめながら尋ねた。
しかし、酔いが完全に回った彼は笑い続けるだけで彼女の声が耳に入っていない。
「5人、まだ残ってるよ。そんなことを聞いてどうする気だ?」
「決まってるじゃない。ルナと結婚するのよ」
代わりに答えた店主に対し、ビアンカは堂々と宣言した。
「おい! 女じゃ花婿になんかなれねぇぞ?」
その会話を聞いていた大男が離れた席から笑い混じりに野次を飛ばす。
「不可能かどうかはあなたじゃない。私が決めるの」
「よ、よせ! やめろぉっ!」
彼女は立ち上がると右腰の鞘に納めた霊刀を抜いた。
「大丈夫、あなたを斬ったりはしないよ」
突然の抜刀に腰を抜かしていた大男はほっと胸を撫で下ろす。
「斬るのは私……」
ビアンカは首の後ろへ刀を回すと、腰まで伸びた髪を躊躇なく斬り落としてしまった。
「せっかくの綺麗な髪をっ」
「あんた本気であの我儘性悪女の花婿になるつもりか?」
「悪いことは言わねえ、やめておけ! 男になったところであの5人には敵わないぜ」
見ていた者たちは口々に彼女を思い止まらせようとするが、ビアンカの辞書に"諦め"という文字など載っていなかった。
「ルナの花婿? 違うわ。私がなるのは霊剣サラマンダイトの花嫁よ」
彼女はそう言い残し、軽くなった頭を触って確かめながら真昼の酒場を出た。