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起 キツネ顔のタヌキ親爺

 エリカが『この世界』に連れて来られたのは、今から一年ほど前、大学一年生の冬だった。


 アルバイト先からの帰り道のこと。底冷えするような寒さの中、家路を急いでいると、不意に路上で足をつかまれた。

 ギョッとしながら見遣ると、地面から伸びた黒い手が、ブーツに包まれた足首をしっかりと握り込んでいた。悲鳴を上げようとしたその瞬間、まるでアスファルトが泥沼になったかのように引きずり込まれてしまった。


 目が覚めた時、石の床の上に横たわっており、まわりには六人ほどいたと記憶している。

 お揃いの茶色いローブをまとって、一人はおじいさんで、他は若者だった。


「おお、成功した!」


「メリアン、すごーい」


 エリカを見るや否や、みな歓声を上げて一人の青年にまとわりつく。青年は頭を掻いてはにかんでいた。


「お師匠様。召喚練習は上手くいきましたが、この後はどうするのですか?」


 エリカをちらちら窺いながら、青年が老人に尋ねる。


「馬鹿者! 動物を連れて来いと言ったのだ! なぜ人間の少女を引きずり込んだ!?」


 老人の怒声に、若者たちは震えた。


「だって、つかんだ時に毛皮の感触がしたから絶対に動物だって思って」


 弁解する青年の頬を、老人が張った。

 他の若者たちは一歩引いて、関係ありませーん、というような顔をしていた。


「毛の感触はあの履き物だ!」


 老人はエリカを指した。確かに、今日履いているブーツの素材はスエードだった。

 大きく嘆息し、老人は続ける。


「なにより、つかんだ瞬間に同調して姿形を探れと散々言ったのに。お前は実技こそ一人前だが、座学は三流だ」


 師の厳しい言葉に、青年は目を潤ませた。彼を賞賛していた仲間たちはさらに後退して、白々しい顔を見せている。

 老人は大きく息を吐いた。


「あとは私に任せてお前たちは下がりなさい」


 はーいと間延びした返事をしながら、若者たちはエリカに背を向け歩き出した。


「メリアンはあとでわしの部屋に来い!」


 恫喝に青年は身体を震わせた。

 肩を落とす青年以外の若者たちは、めいめいに囁き合っている。


「殺処分かな」「竜の餌でしょ」「若い女だったから、そりゃ――」


 などという不穏過ぎる単語にもエリカの頭は上手く働かず、恐慌ではなく茫然自失の態を晒していた。

 

 難しい顔をした老人が近寄ってくる。


「言葉は分かるね」


 優しげな老人の言葉に、エリカは顔を強張らせた。


「まだ若いのに、可哀相なことをしたと思っている。運が悪かったと思って、こらえてくれ」


 エリカは無言で頭を振った。老人の顔と言葉には、同情がありありと表れ、それがエリカに状況を知らしめる。


 あの若者たちは、『召喚練習』だと言った。それなりにライトノベルやマンガを嗜むエリカには、意味が分かってしまった。

 杖を持って、長いローブを着た若者たち。冷たい石床に、満天の星空のようにきらめく天上、白いひげを長く伸ばした老人。どれも、日本では見たことがない。


 エリカはたかだか練習で、『異世界』に連れてこられてしまったのだ。こうして言葉が通じるのも、セオリー通りだ。

 これが夢ではないことくらいは分かる。まごうことなき現実なのだと。


「帰してください」


 消え入りそうな声で呟くと、今度頭を振ったのは、老人だった。

 エリカの瞳に涙があふれる。


「帰してください」


 再度の懇願に、老人はこうべを垂れた。


「ひどい――」


 込み上げてきた嗚咽に、非難の言葉は途切れた。



 老人の態度は、始終同情的で優しかった。

 自室らしい部屋にエリカを導き、椅子に座らせると黄味掛かったお茶を出してくれた。

 もちろん喉を通るはずもないが、いい香りだなぁと素直に感じた。


 老人は、水晶なようなものに手をかざして、ぼそぼそと喋っている。

 茫然とする頭の片隅で、あれは通信機器の類なのだろうと薄っすら思った。老人は、あれで方々に連絡を取っているのだ。エリカの処遇を決めるため。


 ――殺されたり、痛い目にあわされたりしませんように。ひどいことをされないのならば、何でもします、一生懸命働きます、だから、いい人が身元を引き受けてくれますように。

 合間合間に涙をこぼしながら、エリカは祈った。


 やって来たのは三人。

 一人は大柄な中年女だった。

 一人は銀髪に尖った耳、息を呑むほど美しい顔立ちの男。ああ、これって『エルフ』ってやつじゃないかと、異世界に来た実感が一層湧く。


 最後の一人を見た時、心臓が止まるかと思った。

 そいつは、メガネを鼻先に乗せ二足歩行するキツネだった。

 ふかふかした身体にきちんと衣服をまとっている。


 まず、中年女が淡々と言った。うちの宿屋で働かせると。

 あまりに真っ当な働き口に、思わず頷きかけた。だが、『宿屋』とは普通の宿泊施設なのだろうか。それを尋ねる度胸はなかった。


 次に、エルフが言った。我が家で引き取ってもいい。ただ、身体を改めたいと。

 傲岸な物言いに、気圧される。引き取って何をさせるのか、身体の何を確認する気か、やはり尋ねるのは恐ろしい。


 最後にキツネは、目を細めて言った。ちょうど異種族の女が欲しいと思っていた。私のところに来れば、人並みの生活をさせてあげられるよ、と。

 そいつのところに行ったとして、一体何をさせる気なのか、尋ねる気に――なった。


 なぜなら、このキツネが一番人のよさそうな『顔』をしていたからだ。しかも、エリカに向かって話し掛けて来たのは、彼だけだった。


「あなたのところに行ったら、どんな仕事をしたらいいのでしょうか?」


「うむ、話し方もきちんとしているし、異世界のことはよく知らないが、身なりからしても貧しい家の出ではなさそうだね」


 細い目を見開いてキツネは言った。エリカの顔をまじまじと見つめてくる。


「仕事なんてしなくていいよ。ただ、私がお前のところを訪ねたら、笑顔で扉を開けて、笑顔で股を開いてくれたらいいんだよ」


 その物言いに、女が嫌悪をあらわにした。エルフは相変わらず冷たい目をしている。

 エリカは数秒程して、ようやくキツネの言わんとすることを理解した。元の世界で初対面の男に言われていたら、力いっぱい張り倒していただろう。


「アビゲール、この娘の意思を問う必要はない。くじを引いて決めるぞ」


 エルフが言った。女も頷いている。


「んふふ、ムス=テトよ、人の欲しがるものに価値を見出すのはよくないね。乗り気でなかったくせに、私が興味を持った途端にそのザマかね」


 キツネの皮肉めいた言葉に、エルフが押し黙る。キツネは続けた。


「それに浮花亭の女将よ、あんたのところで働いていた金髪の娘はいつの間にか姿を消したが、一体どこにやったのかね? 従業員を大切に出来ない経営者は、いつか滅びるよ」


 女は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


「その点、私は優しい獣人だよ。ほらお嬢さん、悪いことは言わないから、私のところにおいでなさい。私はもう年だから、しつこくはしないよ」


 なぜかエリカは、差し出されたその獣人の手――毛むくじゃらだがちゃんと指は五本ある――をつかんでいた。

 今思えば、茫然自失としていた分、本能が働いていたのだ。このキツネが一番マシだと。


「お前、名前は何と言うんだい?」


「……エリカ。さく――」


「エリカね、いい名前だ」


 佐久間エリカです、とフルネームを名乗ろうとしたが、遮られる。家名などどうでもいいのだろう。


「私はアビゲールだよ。よし、これで契約成立だねぇ」


 軽い調子でキツネは言った。



 かくして、このキツネ――アビゲールの愛人として、異世界で生き延びることになった。

 

 少し腰の曲がったアビゲールの後ろ姿を見ながら、石の床の上をとぼとぼと歩く。

 ぼうっとした頭の中で、家族のことを考えた。

 母は冷たい人だったが、祖父母は優しい人たちだった。人外の男に買い上げられた今のエリカの状況を見たら、さぞ嘆き悲しむだろう。いや、もう二度と会うことはないのだ、行方不明者としてニュースになって、マスコミが来て――。


 そんな想像をすると死にたくなる。エリカは努めて頭を空っぽにした。

 

 だが、召喚された『施設』を出て街を見た時、エリカは度肝を抜かれた。あまりの光景に頭が冴え、目を見開いて足を止めた。

 てっきり『中世ヨーロッパ風』な街並みが広がっているのかと思っていた。だがその予想は外れ、日本とも違う、どこか近未来的な風景に圧倒されてしまう。


 施設の周囲には二、三階建ての四角い建物が規則的に並び、ちょっとした団地のようになっている。整備された道路には露店が並び、大勢の人たちが行き交っていた。さらに向こうにはたくさんの摩天楼が太陽の光を反射していた。


「こ、ここは大都市なのですか」


 思わずエリカは傍らのアビゲールに尋ねていた。汗だくになっているのは、緊張からくるものではなく気温が高いせいだとようやく気付く。真冬用のコートではあまりに暑い。


「大都市と言えばそうだが、まぁ三流だよ。なにせ、王が身まかってもう百年経つから、主だった部族は他所へ行ってしまった。今は商人が実権を握る、猥雑な都市だよ」


 口吻を開いて、アビゲールは呵々と笑う。話の意味を半分も理解できぬまま、なんとなくエリカは頷いた。


「さぁ、こっちだ」


 裏手に促されてアビゲールの後に続くと、『馬車』が止まっていた。ただ、車の前に鎮座するのは馬ではなく、ダチョウをさらに巨大化させたような鳥類だった。


「父上、女は買えたのですか?」


 馬車ならぬ鳥車から、キツネが顔を出した。アビゲールと比べると毛艶がよく目が澄んで、若者だということが分かった。


「これ、口を慎みなさい。買ったわけではないのだよ。慈善行為と実益を兼ねて、哀れな娘を引き取ったのだ」


「おや、これは失敬。母上へバレぬよう、口裏合わせはしますから、小遣いを弾んでくださいね」


「ちゃっかりしている」


「大商人アネス・アビゲールの息子ですゆえ」


 若いキツネが笑う。父親の愛人を目の前にしても、嫌悪する様子も、いやらしい目を向ける素振りもない。それどころか、気遣うように声を掛けてきた。


「おや、怯えておりますな? 可哀相に」


 同情を向けられ、エリカは少し涙腺が緩んだ。


「ほら、そのような厚い上着は脱いでしまいなさい。ここに掛けるところがあるから」


 鳥車の運転席から降りてきた若いキツネが、エリカに手を差し出してくる。

 それを見てアビゲールは鼻面に皺を寄せた。


「下心が透けて見える。お前には可愛い許嫁がいるのだから、絶対にやらんよ」


「おや、種族問わず女性には優しくしろと教えて下さったのは、父上ではないですか。私は、その教えを忠実に守っているだけなのですよ」


「調子のいいことを」


 父子の気安いやり取りに、エリカの緊張が少しほぐれた。


 鳥車に揺られている間、アビゲールは積極的に話し掛けて来た。


「お前は学徒だったのか。なるほど、教養があるのはよいことだ。私は、浅学な女は好みではない。それに髪や肌の艶を見るに、栄養状態もよいようだ。上流階級の出身かね?」


「いえ、あたしの国では、たしか大学の進学率は五割を超えていたはずです。それに、ご飯だって、むしろ廃棄が問題になるくらいたくさんあって……」


「ほほう、それは大層豊かな場所から来たのだね。安心しなさい、同等の生活をさせてあげるからね、いい子にしているんだよ」


 目を細めながらも、アビゲールはまだエリカに触れてこない。

 助平親爺の様相など微塵もなかった。


 それは、このキツネの策略だったのだと気付いたのはしばらく後だった。エリカの心を開かせる老練な男のやり口。初夜にエリカが泣き喚かないようにする、やり手の女衒の手段。

 しかも息子までグルだった。


 その策略は大成功し、エリカは自分でも驚くほど、アビゲールに心を許していた。おそらく、ヒナの刷り込みに似た心境なのだ。異世界で初めて優しくしてくれた人物に親近感を抱いている。


 その証拠に、これからこの異種族に抱かれるというのに、嫌悪感がほとんどなかった。むしろ、鳥車が停車するころにはすっかり覚悟が決まっていた。

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