7
水滴が水面へ落ちた時のような音に目が覚めた。
うっすらと靄でもかかったかのような頭の働かなさに首を振る。
重い瞼に逆らって目を開けるが、光源が見当たらず、とても暗い。
「……っ…?」
出そうとした声は言葉にならず、喉が焼け付くように痛かった。
手足を動かそうとしても動かず、代わりに金属がこすれるような耳ざわりな音がする。
手首と足首を覆っている何かは金属製のようで、硬く冷たい。
それでも身体が冷えておらず、寒さを感じないのは僕が横たえられている場所が原因だろう。
動けないし暗くて見えないから、感触から想像をするしかないのだけれど、おそらくはベッドの上だろう。
僕の胸から下には毛布のようなものが一枚か二枚、かけてあるように思う。
突然の出来事なのかどうかもわからない、訳のわからない状態。
なのに、頭が働かない状態でいるからか、驚く事すらもできない僕は、何もしない。しようともしない。
どうするべきなのかと、一番得意な考える事そのものを忘れるほどに、混乱していた。
『……起きたか?』
「――っ!!」
聞こえた声に僕は目を見開き、思わず声を出して返事をしようとして、失敗する。
風邪を引いた記憶はないのに、どうしてこんなにも喉が痛いのだろう。
そもそも、ここはどこなのか。
どうして僕はベッドの上で拘束されているのだろうか。
自分以外の存在を感じた事で頭が動き始めたのか、次から次に疑問がわいてくる。
『大丈夫だ、ヤハル。落ち着くと良い』
どこまでも冷静で優しいガザンの声が頭に入る。
変わらず喉は痛かったが、口をふさがれている訳ではなかったから、ひとつ、ふたつと、深呼吸をした。
疑問は尽きないが、まずはガザンの言う通りに落ち着かなければ何にもならないだろう。
息を吸い込む度に喉が焼け、息を吐く度にミントのような香りが周囲に広がった。
(うん。落ち着いた)
『ならば良し。わかっている事を話す』
僕は毎日の日課である各教科の勉強を日中に行い、夕焼け時に両親と一緒に夕飯を食べた。
その後、いつも通りにおやすみの挨拶をしてから自室に戻り、いつも通りにベッドに入った。
言われて思い返せば、そこまでは僕も覚えている。
毎日のように規則正しい生活を僕はしていて、今日も僕は変わらずに一日を終えるはずだった。
けれど問題はその後。
僕が寝た後、夢の世界へと旅立っていた頃。
僕の部屋へと何者かが侵入し、
誰かわからなかったのかと聞けば、ガザンが僕と同じ場所に居る時以外は、僕の周囲の状況を知る為には基本的に僕の五感が頼りであり、僕が寝ている時はぼんやりとしかわからないのだそうだ。
だから普段は僕を守る為に僕が寝ている間だけ、僕の側に顕現しているのだとガザンが言う。
そんな事をしているとは知らなかった僕は、ありがとう、とガザンへ感謝を伝える。
照れたような感情が伝わってきて、それからすぐに落ち込んだような感情で上書きをされた。
『急を要する事ができてしまってな。それでも半刻み程で片付けられるからと、短い時間くらいはと。油断をしていた』
すまない、と。本当に申し訳なさそうなガザンの声音に僕は慌てる。
僕なんかを守ってくれていただけでも嬉しい事で、それに感謝こそするけれど、文句のひとつだって言うものか。
それを伝えれば、ガザンは少し怒ったようだった。
どうして怒ったのかがわからずに心の中で首を傾げれば、ガザンが言った。
『僕なんか、ではない。そんな事は思っても言うな、ヤハル。ヤハルが居なくては、私たちは哀しいのだから』
どうしてその言葉でそう思うのか、僕にはわからない。
わからないけれど、ガザンがその言葉に怒って哀しむのであれば、僕はその言葉を使う訳にはいかない。
僕はガザンが好きだから、哀しませたくはないし、怒られる事は苦手だからできれば避けたい。
悪いと思ったから、僕はごめんなさいとガザンに謝って、それから話を元に戻す。
とりあえずはこの動けない状態から抜け出したい。
そう伝えれば、ガザンが魔法を使えと言ってきた。
しかし今の僕では魔法が使えない。
なぜならば、魔法は基本、詠唱をせねば使えないものだからだ。
だから、魔法使いを無力化するには喉を必ず潰さねばならない。
声を発せる状態である限り、魔法使いは魔法を使える。
数週間前までは魔法を使えなかった僕は、それでも日々やってくる家庭教師に魔法を教わり、火と水だけではあるがしっかりと発動させる練習もし、魔法を使えるようになっていた。
そして詠唱ができないように喉を何かの薬によって焼かれた状態で捕まっている、現在の僕。
考えたくはなかったけれど、僕が魔法を使えると知っている誰かが、僕をこうした犯人か。
僕には考え付かない理由があるのだろうから裏切られたとは思わない。
けれど、その事がなぜかとても悲しかった。
『私と契約をしているだろう、ヤハル。お前は詠唱などせずとも、魔法を使える』
(えっ?)
魔法使いの原則を無視した発言に、僕の目が点になった。
そんな話は聞いた事がないし、でも精霊は嘘をつけないと僕は知っている。
『私たちと契約すると魔法使いではなく、魔導師という呼び方になる。
魔法使いは文字通り、魔法が使えるだけの存在。
しかし魔導師は違う。魔法を導き、精霊を導く。それが魔導師たる名の由来であり意味でもある』
僕の戸惑いが伝わっているはずだけれど、構わずにガザンは話を続けた。
『言わなかったのは、ヤハルが魔導師になった事を人間の権力者に知られる事を避けたいからだ。
ヤハルは人間の事がとても好きだから、目の前に困っている人がいれば、助けてしまうだろう?
その時の為に、人間の魔法使いの魔法を学び、その方法で魔法を使ってもらいたかった』
そうすれば隠さずとも好きな時に魔法を使えるし、僕が精霊と契約をした魔導師である事も隠し通せるだろう、と。
同時に、それでも僕の命には代えられないから、魔導師としての魔法の使い方を伝える事にしたのだと彼は言う。
『それでも念の為……こんな時に出し惜しみをするものではないとわかっているが、それでも。それでも、この屋敷に張られた結界の中にいる限り、私は顕現をしない。
顕現さえしてしまえば、私はヤハルを連れて一瞬でヤハルの屋敷へ戻る事ができる。けれど、それをすれば結界を張った魔法使いにヤハルが魔導師である事に気付いてしまう可能性が高い。それを避けたい。
結界を張った魔法使いが私の予想通りであれば、お前はお前の意思に反してアレを殺さなくてはならない。意思を曲げれば、お前はいつか壊れてしまう。それを避けたい。
大丈夫。私たちはヤハルを見捨てない。最後のその時まで、私たちはヤハルを守る。それは変わらない。いざという時は魔導師である事をどんな面倒な相手に気付かれたとしても顕現する。だから大丈夫。大丈夫だ』
ガザンはそこまで一気に告げて、静かになる。
僕は彼の言葉を頭の中で繰り返し、ゆっくりとかみ砕いて飲みこみ、理解をする。
たくさんの秘密は僕の為。きっとまだ、僕に告げていない事がたくさんあるのだろう。
でもそれは、僕に必要がない事か、僕が知っては僕を守れないと彼が判断をしているから。
僕の理解が追いつくと、心にあった不安が全部どこかへ消え去ってしまった。
ずっと心のどこかで感じていた、ガザンへの信頼が一層強くなる。
言わずとも気持ちが伝わるのは、契約でできた繋がりがあるから。
僕がガザンに疑いの心を抱かないのは、僕に対する嫌な気持ちがひとつもないから。
契約が何のための契約であるのかは、僕には未だにわからないけれど、それでもガザンと契約をしていてよかったなと思った。
(ありがとう、ガザン。僕、がんばるよ)
信頼をこめて伝えれば、ガザンの喜ぶ気持ちが返ってくる。
同時に、魔導士としての、無詠唱での魔法の使い方も頭の中へと伝わり聞こえた。
練習する余裕はなく、発動できなければ少し面倒な事になるだけ。
これ以上、僕が傷つくような事はないのだから、落ち着いて。
ぶっつけ本番。
けれど身体をこわばらせるような緊張がないおかげで、ちゃんと魔法を発動する事ができた。
まずは聖属性の回復魔法。痛みの続く喉へとかける。
発動してすぐに喉の違和感が消え、呼吸をすることがラクになった。
次は風属性による切断魔法。
手足についた枷を切り、僕はようやく自由になった。
その事に息を一つはいて、ベッドから降りる。
夜に寝ていた所をさらわれたので当たり前と言えば当たり前なのだが、靴を履いていない。
床には長い毛足の絨毯が敷かれているから、靴がなくても問題はないけれど。
「……ん?」
逃げ出すにしても暗すぎて何も見えなかったから、魔法で眩しくないけれど暗くもない明るさの光の玉を作り、部屋を照らした。
ベッドから降り立った僕の正面に、どこかで見た事があるような顔の銀髪のかわいらしい少女が立っていた。
僕と同じくらいの長い銀髪を下ろし、黒いレースに縁取られたピンク色の大きなリボンをカチューシャと呼ばれる髪飾りのように付けている。
何かに驚いたのか、母上と同じ空色の瞳を大きく見開いて、僕を見ていた。
少女本人がかわいいのであるが、それを際立たせるような黒色ベースのワンピース。ところどころに頭に付けたリボンを小さくしたものが白いレースの上についている。
ワンピースのスカート部分でひざ下まで隠れてはいるが、ちらりと見えるくるぶしは細く見える。そして靴も靴下も履いておらず、素足であるようだった。
年も僕と同じくらいか、年下くらいかな。こんなところで何を……。
そこまで考えて、僕は気が付いた。
女の子の格好をしているから女の子だと思ったけれど、僕が右手をあげれば目の前の少女は左手をあげるし、僕が左に首を傾ければ少女は右に首を傾ける。
少女から視線を外し、僕の身体を見下ろせば、少女と同じようなワンピースを僕が着ていて、頭に手をやれば上等な生地の感触――少女のつけているようなリボンが頭につけられているのだろう。
つまり、目の前にいるかわいらしい少女は、鏡に映った僕自身なのである。
「僕って、こんなにかわいかったの!?」
思わず叫びながら鏡の縁を掴む。
鏡に映るかわいらしい少女――つまり鏡に映った僕自身に近づいて、まじまじと僕を見る。
見れば見るほど、今まで見た女の子の中で一番かわいらしい。
いや、女の子の中でというのも変か。
僕の性別は生まれた時からずっと男であるわけだし、変える予定も今のところはないのだし。
攫われた事も、喉を焼かれて拘束されていたことも、自分が魔導師と判明した事も、早く逃げ出さねばならない事も忘れ。
ガザンにそんな事をしている場合ではないだろうと窘められるその時まで。
僕は、鏡に映っている可愛らしい僕に見惚れ続けていたのだった。