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九つの魔法への適性のあった僕の為に、魔法を勉強するための家庭教師を父が雇ってくれた。
今日もこれから授業があり、僕はランチマットより少しだけ大きな黒板とまだ使ったのは数えるほどの僕の指よりも長い白いチョークを持って、庭へと出る。
まだ家庭教師は来ていないようだったので、庭の隅に作られている東屋の長椅子に座る。
黒板とチョークを横へ置いてテーブルに肘をつく。
ぼんやりと遠くに見える空を眺めれば、小鳥たちの歌う声と、垣根や花壇等を含めた造園作業をする庭師たちのハサミの音が一定間隔で聞こえた。
流れる雲はゆるやかで、時折り流れる風が、僕の父譲りの銀髪を躍らせる。
『……何度でも言うが、学ぶのであればあの男以外の方が良い』
気持ちの良さに目を細めていると、頭の中にガザンの声が聞こえた。
契約というものをしたから、僕とガザンの魂が糸のようなもので繋がっている状態であるそうだ。
なので、僕の見える範囲にガザンがいなくても、ガザンの見える範囲に僕がいなくても、契約で繋がっている限り、僕とガザンはいつでも会話ができるのである。
それでも会話を口に出してしまえば、ひとり言をひたすらつぶやく変な人に見えて両親や兄たちに心配をさせてしまう事と、勘の良い人間ならその様子で僕が精霊と契約をしている事に気が付いてしまうかもしれない事とがある。
だから、僕は声には出さず、心の中で声を出す。
契約によって繋がっている僕とガザンだから、それだけできちんと言葉が伝わってくれる。
(そんなに先生のことがきらいなの?)
父が雇って、初めて屋敷に魔法の家庭教師がきた時から、ガザンは先生の事を危険だと。信用するなと。違う家庭教師を雇うべきだと。何度も何度も言っていた。
けれど、ガザンと契約をしている事は、父にも母にも兄たちにも秘密なのだから、精霊が言っていたからと父に家庭教師を変えてほしいと言う訳にもいかない。
父に進言する為にも、どう危険なのかとガザンに問えば、口を閉ざしてしまう。一応、言葉がなくてもガザンから悩んでいるような心が伝わってくるから、意地悪で教えてくれない訳ではないと思う。
そもそもガザンが僕に意地悪をするのであれば、家庭教師が危険である事自体を教えてくれないものであろうから。
『……私があの男を認める事はない。ヤハル、お前は何でもない事と受け入れてしまうかもしれないが、けれど一度でも受け入れてしまえば、お前が壊れる道しかない』
何でもない事なのに壊れるとはどういう意味なのだろう。
一見すると何でもない事のように思えるが、それをするととても危険で怪我をしてしまったりするのだろうか。
ガザンが言うのだから、魔法の家庭教師が僕にとって危険であるのは理解できる。
何しろその問題の魔法の家庭教師自身も言っていたのだ。
精霊は嘘をつかないものである、と。
まさかその精霊に危険人物と断言されているとは思ってもないだろうが、魔法学に関しては国でも一番二番を争えるくらいに優秀で偉い人物だと父が言っていたから、授業中の会話のひとつであるし、嘘ではないだろう。
なので、魔法の家庭教師のその男は、本人も知らないうちに自分が危険人物であると。間接的に言ってしまったのである。
(きけんなのはわかったけれど、むつかしいよ。ガザンの事を内緒にしたまま言っても、ただの悪口になってしまうし……)
『けれど、お前の親はお前の言葉を理由もなく嘘だと捨ててしまう者ではないだろう?』
ガザンの言う通り、僕の両親は、理由なく僕が家庭教師を変えたいと言ったとしても聞いてはくれるだろう。
けれどとても公平な父だから、理由を求める。
理由なく変えたいと言った所で、聞いてはくれても、実行はしてくれないだろう。
とにもかくにも理由が必要なのだ。ささやかな事でも、嘘ではない理由が。
(まだ嫌な事をされたわけではないから、先生の事、きらいではないんだよね)
『……だろうな』
ガザンがため息をついたのがわかる。
僕は必死に頭を動かした。
(僕が先生をいじめれば、先生が僕の家庭教師を止めてくれるかな)
『ないな』
(先生が借りている宿から、先生を追い出してもらうのは?)
『その為の権限がお前にはないだろう』
(まほうの授業だけ、かくれんぼする!)
『お前が人間に魔法を教わったという事実が必要だ。魔法が使いたいのだろう?』
(そうだけど)
嫌な事をされてからでは遅いのは僕でもわかる。
ガザンが、家庭教師がこのままであれば僕が壊れるというのだから、その通りなのだろうし。
壊れるというのがどういうことかわからないけれど、玩具は壊れると使えなくなるから、僕が壊れたら僕は死んでしまうのかもしれないし。死ぬのはなんとなく、こわい。
そんな事には僕だってなりたくないのだし、だから必死に考えるけれど、良い案は浮かばない。
(そもそも、先生はどうやって僕をこわすの?)
発想を変えて、家庭教師を変えなくても僕が壊されない方法を探してみる事にする。
だから、ガザンにそう質問をしたのだけれど、答えは返ってこない。
(……ガザン?)
「――こんにちは、ヤハル君」
ガザンの返事の代わりに、僕の後ろから、魔法の家庭教師の声がした。
会話に夢中になっていた僕は驚いて、慌てて声のした方を振り返る。
「あっ、こんにちは、ヴォルナード先生」
まずは挨拶。
次に椅子から立ち上がり、黒板とチョークを掴んで立ち上がる。
「遅くなって悪かったね。少し、準備に戸惑ってしまってね」
肩までよりは長く、腰までよりは短い。赤茶の髪を後ろでひとつに結び、細い眼鏡をかけている。目の色は髪の毛の色より少し濃いめで、光の加減次第では黒くも見える。
ヴォルナード・レイ・クロレッテル子爵。
現クロレッテル侯爵の実の弟であり、僕と同じく三男という家にも爵位にも関係のない身分であったが、専門の魔法調薬学で新しい薬を開発したのだそうだ。その功績を認められ、子爵という身分を王から直々に与えられ、今では子爵を名乗っている。
魔法調薬学と権威であるにも関わらず、それ以上に魔法使いとしての腕も一流で、所持属性は火と水の二つ。
数少ないと言われている、複数属性への魔法の適性持ちの中の一人でもある。
「ごめんなさい、先生。気持ちがよくて少し呆けていたようです」
「それは仕方がないよ。釣りや昼寝をするのに最高の陽気だからね」
そもそも待たせてしまったのはこちらなのだから謝る事はないよと家庭教師の男が言う。
実際にその通りなのだが、僕は彼の教え子という立場であるから、そうですねと同意するのも気まずくなりそうだからできない。
僕は話を変える事にした。
「それよりも先生! 今日はまほうを使用してみるのですよね!」
この家庭教師が僕にとって危険であるのはわかっているが、それはそれとして、彼の授業はわかりやすく、面白い。
何が危険であるのかわからず、人からの好意に弱い幼い僕に危機感などはなく、目の前にぶらさげられた魔法学の授業にあっさりと釣られてしまうしかないのだ。
「うん。ヤハル君の適性は聖と火と水と木だったよね? すごいなぁ、四つの属性に適性があるだなんて」
適正検査の後、司祭と父と母を交えて相談をした結果、開示適性は火と水と木と聖にする事になった。
聖は少し特殊な属性ではあるが、あればモンスターと呼ばれる人間や動物を襲うおぞましい生物から身を守りやすい。火と水があればいざという時に煮炊きに困らないようにと選ばれた。
そして木は、僕が強く望んで選んだ属性だ。木は、緑色の葉っぱは、後ろ向きだった僕が前を向くきっかけとなった、とても大事なものだから。
「聖と木は私には使う事ができないから、とりあえずは火と水だね。でも火は少し危ないから、まずは水の魔法から使ってみようか」
「はい!」
人好きのする顔で穏やかに笑うこの家庭教師が、後々豹変する事があるだなんて。
ガザンに忠告をされていたにも関わらず、僕は全く予想すらしていなかったのだ。