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「相変わらずのおてんばさんだね、エルメスリーニ」
僕が廊下から見えていた明るい場所――玄関ホールらしき場所に入った時。ホールの中心に置かれた椅子に座っている人物が聞き覚えのある声でそう言った。
聞き覚えのある声にまさかと思ったけれど、先程ガザンが誰であっても油断はするなと言っていた事を思い出したので、すぐに冷静になれた。
彼が僕と接点を持つようになってから何度も忠告されていた事もあるから、ガザンはこうなる事を見越していたのかもしれない。
「……先生が僕を誘拐したのですか?」
手元の本をぱらぱらとめくっていた人物――僕の魔法の家庭教師であるヴォルナード・レイ・クロレッテル子爵が、顔をあげて僕を見た。
眼鏡の奥に見えるいつも優しい瞳だったのに、今日は固まりかけた血のようにどす黒い色にしか見えなくて、とてもおそろしく感じた。
「先生だなんて他人行儀で寂しい事を言わないでおくれ、エリー。私と君の仲だろう」
笑顔なのに無感動に聞こえる声音で先生はそう言うけれど、僕はエルメスリーニではない。
エリーというのはエルメスリーニの愛称だろうから、先生とエルメスリーニは親しかったのだろう。
愛称を呼ぶほど親しい相手と一教え子である僕を間違えるのはエルメスリーニに失礼な事だと思う。
『……ヤハル。あの男に浄化を使え』
(え?)
『言っただろう。誰であっても油断はするな。浄化だけに専念しろと』
ガザンの言葉に僕は目を見開いた。
僕を誘拐したのは先生で間違いないのだけれど、その先生は僕を僕として見ておらず、エルメスリーニという人物だと思っているようだった。
親しいのに間違えてしまうだなんて、親しい人間を誘拐して喉を焼いて監禁するだなんて、先生は変だ。
でも先生が変なのは先生のせいではなくて、邪に汚染されているから……?
「どうしたの、エリー?」
胸元でこぶしを作り、先生を見据えた。
僕が僕を浄化した時のように、先生に向けて浄化を使う。
『――っ、屈め!』
浄化を放った瞬間、焦ったようなガザンの声に僕は反射的に従った。
屈んだ僕の頭の上をものすごい速さで何かが通り過ぎ、その直後に何かが崩れるような大きな音が聞こえた。一緒に屋敷が揺れた。
音と揺れの大きさに僕は茫然と自分の後ろの方を見て、でも相変わらず廊下は真っ暗闇で光がない。
見えるものはなかったが、今のは攻撃魔法でありその直撃を受けた壁か何かが崩れたのだろうとガザンが言う。
壁が崩れるほどに威力の大きな攻撃魔法。それが僕にぶつかっていたらと思うと、寒気がした。
「そうか。そうだったんだね、エリー!」
突然大きな笑い声と一緒の先生の言葉に、僕は視線を戻し、絶句した。
「何もかも、精霊のせいか! いつもいつもいつもいつも! 奴らは俺のエリーを誑かす!」
どうしてか身体の半分が焼けただれ、それでも最初の笑みの形を崩さずに話し続ける先生がそこに居た。
椅子から立ち上がり、手に持っていたはずの本を地面に落とした状態で。
「俺のエリー。俺だけのエルメスリーニ。大丈夫だよ、俺のエリー。今すぐ精霊らを殲滅して、救い出してあげるからね」
領地の町に来ていた劇団の演技のように、両手を大きく広げて先生は言う。
僕は今まで狂った人を見た事がなかったけれど、今の先生はどこかが狂っているのだと本能的に理解していた。
仕草も声音も言葉も表情も。どこがと聞かれると答えにくいけれど、先生の何かが狂ってしまったのだ。
『ヤハル、一気に浄化をする』
(うん)
『あの男に聞こえないよう、小さな声で私の言葉通りに詠唱をしろ』
(わかった)
先生がためらいなく放った攻撃魔法に、ガザンも危険を感じたようだった。
どこか焦る気持ちと、大切だという気持ちが伝わってきたから、僕は拒否をしなかった。
何の魔法であるのかを知らないから発動するのか不安ではあるけれど、ガザンが言うのであれば大丈夫に違いない。
『いくぞ』
未だ狂気の中で何かを叫び続ける先生から目を離した。顔を下を向け、僕は胸元で手を組んだ。
ガザンの言葉を間違えずに、ゆっくりと、小さな声で、繰り返した。
「けんげんせよ、わが敵を滅するために。
けんげんせよ、邪に堕ち、惑う、道を滅するために。
けんげんせよ、わが身を助け、邪を滅し、道を正すそのために。
けんげんせよ、わが道のため、其が道のため、行使せよ」
先生に気付かれずに、詠唱は完成した。
同時に僕とガザンの繋がりが強くなり、僕とガザンの魔力が合わさって、僕から僕の外へと流れ出した。
その魔力の流れから、先生も僕が魔法を使った事に気が付いたらしい。
笑うのを止め、先生は僕に向けて先程と同じ攻撃魔法を繰り出した。
咄嗟の事に僕は反応しきれずよけられない。
頭を手で覆い、目をつぶってしまう。
「ふむ。こんなものか」
先生の放った攻撃魔法は僕にぶつかる事はなく、代わりに前からガザンの声が僕の耳に届いた。
おそるおそる顔をあげれば、僕を先生からかばえる位置に僕と同じくらいの年齢であろう少年が立っていた。
淡い金色の短い髪の少年は首を左右に傾げてみたり、片手を握ったり開いたりしながら調子を確かめるようにつぶやいた。
「ガザン…?」
「直に顕現するよりはこの方が誤魔化せる」
もしかしてと僕が名前を呼べば、ニヤリと新緑色の目を細めて少年――ガザンは笑った。
虹色の長い髪でも同じ色の瞳でもないから少し戸惑ってしまったけれど、ガザンそのものの態度に、何より契約によるつながりによって少年はガザンであるとわかって、僕の不安が和らいだ。
「せい、れい…?」
突然現れたガザンに驚いたのか、それとも放ったはずの攻撃魔法が消えた事に驚いたのか。ひょっとしたら両方が理由であるのだろう。
先生は茫然と、どこか人間らしい態度で僕とガザンを見比べていた。
「貴様に言いたいことは色々あるが、言った所で通じないだろう。ただ苦しみなく送ってやる」
そう言い放ったガザンに、先生は一瞬、無表情になり、考える表情になり、怒りの表情になった。
先生の変化を見つめているガザンからは、やるせない気持ちが伝わってくる。
「俺のエリーを返せ! お前らがいるから、エリーがエリーになれないんだ!」
ガザンの言葉に先生の魔力が膨れ、狂ったように怒りを口にしながら先生は複数の魔法を使った。
けれど、ガザンにも僕にも、先生の魔法は届かない。
そして、先生に、僕とガザンの言葉が届く事はない。
ガザンは先生の魔法の全てを防いだが、先生はガザンの魔法をひとつも防げなかったのだから。