ホミキディウム・フィロソフィア
判事が、被告人を呼んだ。
「名前を言ってください」
「葛西メグミ」
被告人、メグミは、半開きの口と両眉をわずかに動かしただけで、誰何に応答した。
続けて彼女は、性別、年齢、住所、……聞かれるままに応える。
その手続きが済むと、検事の起訴状読み上げが始まった。
「公訴事実。被告人は、平成XX年X月XX日、午後二十時三十分頃、帰宅途中の雑貨店でナイロン製のロープを購入し――」
検事が淡々と述べ、メグミはそれを興味なさそうに眺めている。
検事が読み上げる事実は、メグミが供述した事実とほとんど変わらないもので、だから、その内容には全く興味が湧かなかった。
ふと思うのは、検事のネクタイと弁護人のネクタイの色が同じだな、くらいのことだ。
「――二十二時頃、同居する被告人の父親である葛西和夫が寝室に向かうのを待ち――」
――メグミと父は、長く二人きりの生活だった。
彼女が中学に進学してすぐの頃に、母が事故で他界した。
遺体に縋り付いて泣き続け、涙が枯れて心を失い、再び感情と涙がこみあげてきて泣いて。そんな日々を、どれほど繰り返しただろう。
ある日、ふと、父がいることに気が付いた。
父は悲嘆に暮れることなく、彼女が生きていくために必要なことをしていた。
この人には心が無いんじゃないだろうか。母を愛していなかったのではないだろうか。
そんなことさえ思った。
一年か二年かたったころ、そんな想いをすべて吐露して大喧嘩をした。
喧嘩の勝ち負けがうやむやになった最後に、父が顔を上げて、顔を真っ赤にしたメグミを見つめた。
『お前がしっかり立ち直って笑顔になれるまで、父さんは泣かないと決めていたんだ』
メグミの父は、涙をぽろぽろとこぼしながら、そう言ったのだった。
それが、彼女と父の二人きりの生活の始まりだった――。
「――周到に準備したロープを被害者の頸部に背後から巻き付け、それを肩に担いで――」
我に返った時に耳に聞こえてきた検事の言葉が、別の記憶を呼び覚ます。
それは、メグミが、父をその手にかけた瞬間のことだった。
ロープを両手に握りしめ、ただ衝動の赴くままに、その輪を父の首に括り付けた。
背に乗せるようにして引き倒し、ロープの輪の中に初老の命を絡めとった。抵抗は一瞬で終わった。
振り返らずとも、足元で、何かがゆっくりと消えていくのを感じた。
「――罪名、および罰条。殺人。刑法百九十九条。以上」
検事の言葉が終わるのとほぼ同時に判事は視線をメグミに振り向けた。
「被告人。起訴状の内容に何か間違いはありますか?」
無い。あろうはずがない。
「ありません」
メグミは、短く答えた。
* * *
メグミは、ごくありふれた若い女性だった。
先に述べたように、思春期に母を亡くすという悲運に見舞われたことを除けば、明るく友人にも恵まれた普通の人だった。
彼女の身の上になにか特別な事情があるとすれば、彼女が、まだどちらかと言えば少数派の「継承者」と呼ばれる存在だったことだ。
この意味を正しく説明するには、ある生命科学上の著しい飛躍を説明せねばならないだろう。
哲学が哲学だった時代から繰り返され、その議論の場を倫理、脳科学、宇宙論の世界にまで広げていったひとつの問いがある。
すなわち――――意識とは何か。
それはあるとき唐突に解明された。
人間――どころか命あるもの全てが、主体として環境・宇宙を観察できる理由が判明したのだ。その詳細な論はここには記載しない。それがなぜそうあるのかが数式上判明した、それだけである。
そして人類は、それを操作する方法をも同時に見つけることとなった。その数式上の解のひとつが、主体としての意識をある個体から別の個体に移し変える方法を含んでいた。つまり、意識移植だ。
この操作は即座に倫理上のタブーとされた。
だが、さほど長い時間をかけず、このタブーは破られた。
死の恐怖の一つは、自己の消失の恐怖だ。
しかし、もし自分の意識を誰かに受け継がせることができるのなら――。
意識移植が避けえぬ死を逃れるひとつの解とみなされるのに時間はかからなかった。
たとえ記憶や財産が受け継がれなくても世界を観る主体としての自我が継続されるなら、と、金持ちたちはこぞって意識移植の技術開発に資金を出した。それはあっさりと、同時多発的に実現してしまった。
そうなると、それが庶民にまで広がるのに時間はかからない。遺言を書くのと同時に、遺族の一人に意識を移植することが横行し始めた。
メグミも、意識を移植された一人だった。
彼女が受け取った意識は、彼女の父のものだ。
処置は簡単なものだった。体がすっぽりと納まるフタ付きのベッド二台それぞれに父とメグミが横たわり、数十分の処置の間、ぼうっと待っているだけである。
何が起こるのかしっかり観察しようと思っていたメグミは、あまりに何も起こらないことに拍子抜けしてしまった。処置が終わったとき、メグミはメグミのままカプセルの外に立った。隣のカプセルから出てきた父も、従前の父のままだった。
意識科学的に言えば、メグミの中には、もともとメグミのものだった意識と父のものだった意識が、共存している。意識と意識の境目はなく、体内の意識の数を数えることもできない。最初からそういう状態だったかのように二つの意識は一つであり、事実、意識方程式は境界条件を定めぬ限り最初からその状態だったのだと主張する。意識は不可逆であり不可分なのだ。
これでもう父さんはお前の中にいる、何も心配いらないよ、と父が笑い、二人は普段の生活に戻った。
メグミにとっては、彼女の意識は処置を受ける前も受けた後も彼女自身のものだったとしか思えないし、父の行動が何か変わったとも思えなかった。
意識は世界を観る主体に過ぎず、記憶、行動、喜怒哀楽に至るまで、人間の行動と情緒のすべては脳をはじめとする中枢神経(これも意識が観る「世界」の一端だ)が作り出しているものなのだから、何も変わらないのは当然のことだ。
そこから、ほとんど永遠の当たり前の生活が続く――はずだった。
だが、メグミがある日犯した罪が、彼女の人生を一変させた。
* * *
メグミが彼女の父を殺害したことを示す星の数ほどの証拠が並べられ、流れるように採用されていった。事実を争う意思のないメグミの弁護人は、小さく同意の返答を繰り返す。
証人尋問が始まる。検事、弁護人ともに幾人かの証人を準備していた。
検事に呼ばれた証人の一人は、父の友人の一人だった。
「突然こんなことになって驚いています。最近、特に変わったことがあったとも思いません。昔から、奥様を亡くされてからずっと、娘さんをほんとうに可愛がっていましたから。娘さんに一度恋人ができたというときにはとても落ち込んでいたのを覚えていますが、そのあとすぐに、娘の人生だから、と一緒に喜んであげていたのが印象に残っています」
被害者について質問された彼はそのように答え、それから、今のメグミへの気持ちを問いただされると、
「……メグミさんに。どうしてお父様にあんなむごいことをしたのか、きちんと話して、天国のお父様に心から謝ってほしい。それから、しっかりと罪を償ってください」
このように答えて、目頭を濡らしていた。
弁護人は、メグミの勤め先の上役を証人として呼んだ。
「ずっと勤務態度はよかったです。ただ、最近、事件の一、二週間ほど前からですか、少し口数が減ったというか、すごく仕事に集中しているように見えました。特に暗いという感じではなく、没頭している。仕事が早くなるなら良いかと思い、特に理由は問いただしませんでしたが、今思い返せば、なんというか、自分の殻に閉じこもっている。そんな風に見えました」
「心が少し不調なのではないかと?」
弁護人が半ば誘導的に確認すると、
「バランスを崩していたように思います。後から聞いて、メグミさんはお父様から意識移植を受けたと。そのことで気負っていたのだろう、それで何か正常でなくなったのだろうと、事件のことを聞いてから思いました」
上役はそれを認め、小さくため息をついた。
「会社でも誰にでも優しく面倒な仕事もいつも引き受けてもらって……今思えば、ちょっと負担をかけすぎていたのだろうと。メグミさんにとって最愛のお父様を手にかけて、きっとそんなつもりはなくて、自傷行為に及ぼうと思ってたまたま目に入った最愛のお父様を傷つけてしまったのだと。メグミさんから最愛のお父様を奪ったのは僕ら周りの人間の無配慮だったのではないかと毎日自問自答しております」
彼は、メグミをこの犯行に追い込んだのは、彼女の優しさに甘えていた彼らや周囲の人間だったのだろう、と最後に付け加えて、尋問への回答を終えた。
それから数人分の似たような証言がここに付け加えられた。
続く被告人質問では、検事はあえて次のようなやり取りを行った。
「なぜ被害者を殺害したのですか?」
この問いに、
「お答えできません」
メグミは短く答える。
「答えると都合が悪いから?」
「お答えできません」
「殺害したいと思ったのは真実か?」
「お答えできません」
「確実に殺そうという意思がありそのことにより何らかの後ろ暗い欲求を満たそうという目的があったから答えられないということですね?」
「お答えできません」
この繰り返しは、おそらく検事が狙ったそのものだったのだろう。検事は、満足げにうなずくと、被告人質問の終わりを告げた。
その一方で、ここでメグミの口から何らかの形で犯行の動機が語られるのではないかと期待していた傍聴席からは、いくつかのため息が聞かれたのだった。
ややあって、判事は、検事に論告求刑を促した。
「この事件は、実の娘が実の父親を殺害するという極めて悲惨な事件であり……」
と、立ち上がった検事は論告書類の冒頭部分からまくし立てるように読み始め、
「……の述べたように妻を亡くした後、残された娘をこの上なくかわいがり、当然、虐待やネグレクトの傾向も全く見えなかったにもかかわらず、背後からロープで首を絞めるという一方的かつ卑劣な方法で殺害に及んでおり、加えて、ここまで手塩にかけていつくしみ育て上げた実の娘に突然に命を奪われる被害者の無念と恐怖はいかばかりだったかは想像さえもできぬものであり、殺人事件の類型の中でもひときわ残忍、残虐と断じるほかはなく……」
その言葉の間も、メグミはぼうっと判事の手元を見つめている。父の無念に言及した瞬間にわずかに目を細めただけだった。
「……幾度も機会があったにもかかわらず謝罪や反省、後悔の言葉がないばかりか、その動機さえ黙して語ることがなかった。被害者たる被告人の父がそれなりの財産を持っていた事実、被告人は以前父の意識の移植を受けた事実は前述したとおりだが、父の意識の継承者としての地位ばかりか、手っ取り早くその資産をも受け継ごうという短絡、短慮、身勝手な動機にもとづく殺意であったものと推察するほかない。仮に有罪判決を受けようとも刑期を終えれば合法的に父の遺産をその手にすることができることまでをも計算に入れた極めて狡猾な計画性さえもあったものと推察するものであり……」
断罪の言葉はなおも続き、その最後に、検事は次のように付け加えて、論告求刑を終えた。
「求刑。被告人を無期懲役に処することが相当である」
ぱさり、という音とともに、検事の手から離れた書類が一枚落ちる。静まり返った法廷で、弁護人は、発言に備えて小さく咳払いをした。
「弁論を始めます」
言ったかと思うと、弁護人も、検事に負けず劣らずの勢いで要約書の読み上げを始めた。
もともと分が悪い勝負である。尊属殺しのうえ動機も語らず反省の言葉もない。彼としては、何度もそうすることを勧めたのだろう。だが、メグミは最後までそれらに関して口を開くことはなかったのだ。弁護人は、何が彼女をそこまで頑なにしているのか、計りかねていた。だから彼は一つの仮定を置き、そのための証人と弁論を準備した。
「……などの証拠から認められるところは、被告人は、この犯行に関してひどく罪悪感が希薄であり、あるいは、自身が犯行に及んだことさえまだ夢の中の出来事だと考えてさえいるように思えるほど淡々と状況説明をしている、ということであります」
弁護人は、自らのその仮説を、半ば信じ込んでいた。
「用意周到に凶器を準備したことの計画性を指摘しておられますが、心神が耗弱であるときによくある衝動、自分の身体や大切なものを傷つけたくなってしまうという衝動、そういったものに取りつかれ、自らの意思で回復を得なかった結果と言えます。同僚の証言にある、最近仕事への没頭が深いように感じた、といった証言も、そうした念慮にとらわれ解き放たれることが難しくなっていたこととは矛盾せず、ふいに自傷念慮にとらわれてしまってから凶器を準備し犯行に及ぶまでに我に返ることがなかったことは、心神の耗弱に起因する執着症状として説明可能であります。すなわち、当時被告人は精神的な失調の最中にあり犯行の結果を予測できず衝動的に自傷的に殺害を実行したと考えても、いずれの証言とも矛盾いたしません。被害者が被告人を最愛の娘と考えていたのと同様に被告人が被害者を最愛の父ととらえていたからこそ、自傷の矛先が被害者に向いてしまったのです。次に――」
彼は、メグミの行動は自傷行為の一つだったのだと断じた。
最愛の娘と最愛の父親という関係、犯行後感情を失ったかのように何にも応じなくなったメグミ、この二つの事実から推論を進めた結果、彼はここに答えを得た、と確信していた。
「――優しい、きわめて優しいと評される彼女は、日常の生活の中でその優しさのために知らずのうちに自分に無理をさせ我慢をし続けていたでしょうし、父の意識の継承者となったという重圧がその最後の一押しとなったことも否定できません――」
このように推測を積み重ねる弁護人は、その時にちらりとメグミの顔を覗き込んだ。
だが、メグミの顔色や視線には何の色も見えなかった。
彼の心中に、ほんのわずかにさざ波が立った。――私の考えは間違いだろうか、と。
いったいこの事件の真実はどこにあるのだろうか、と。
非の打ち所がない理想的な父娘の間に、どうしてこんな悲劇が起こったのか。
聡明な――あるいは聡明に過ぎるほどのメグミが、このような後先考えぬ犯行に及ぶほどの動機は、いったい何なのだろう――。
「――父上が彼女に本当にたくしたかったものは何か、彼女がそれを見つけ、自らに負けぬ強い人間となって生きてほしいと思うのであります。以上のとおりの情状を十分に考慮し、被告人を出来る限り短期の懲役に処するのが相当と思料し、裁判所におかれては寛大な処分をされるよう弁護人は希望いたします」
読み上げ終えると、弁護人は神経質そうに紙の端面をきれいにそろえて机の上にそっと置いた。
メグミはその仕草を見つめ、わずかに口元をゆがめた。
* * *
傍聴席から咳払いの音がいくつか響いてきた。
判事は目の前に広げていた論告趣意書と弁論趣意書のファイルを重々しく閉じ、メグミを被告台に呼んだ。
「被告人は、最後に何か言うことはありますか」
彼の言葉に、メグミは逡巡を覚えた。
ずっと言うまいと思っていたことが脳裏をかけて行く。
言ってもせん無いことだろうと、メグミは思う。
誰にも理解されえぬ、ただ自分だけの感覚だから。
ふと、メグミの鼻腔に、亡き母がいつか使っていた化粧水のような香りが、よみがえってきたように感じた。
傍聴席の誰かが、同じブランドの香水を使っているのだろうか?
鼻腔をくすぐった香りが中枢神経を揺さぶって通り抜け、メグミの迷いは途端に吹き飛んだ。
そしてふと、彼女は口を開く。
「――私は父を、殺していません」
判事も検事も目を見開くが、何より驚いた表情を見せたのは、弁護人だった。
ばかりか、その言葉の内包する意味は、傍聴席を含めた、居合わせた全ての人の心臓を凍り付かせた。
「父を殺したのは、父自身です。彼が、そうすると決めたのです。検事さんのおっしゃった事実に間違いはありません。私はロープを使って父を窒息させ絶命させましたが、もうそのとき、父は生きてはいなかったのです」
こずえが風にそよぐようなか細い声で、彼女はそこまでを言い切った。
あのほのかな亡き母の香りとともに、メグミは記憶から消そうとしていたことを思い出していた。
苦しんでいた父のことを。
『父さんはやっぱり馬鹿なことをしたんだ。分かるかい? 哲学的ゾンビという言葉。昔の人は考えた。人はどうやら意識を持っている、でも、意識を持っていると知っている当人以外の人が本当に意識を持っているかなんて分からない。もしかすると周りの人々は、ただ化学反応の連鎖でそれらしく動いているだけのロボット同然のモノかもしれない。それを、哲学的ゾンビと呼んだ」
父は、目の下に隈をたたえ、青白い頬を震わせていた。
『意識の正体が解明されて――誰もが意識を持っていることが分かった。それを取り出して移し変える術も。そして父さんはお前に意識を託した。だから父さんはもう意識を持っていないんだ。分かるかい? 父さんは、名実ともに哲学的ゾンビになってしまったんだ。だけど、父さんは、自分がちゃんと思考していると感じるし、今まで生きてきた記憶もきちんと繋がっている。父さんはゾンビなんかじゃない。なのになのに――メグミ、どうすればいい? 父さんは、お前の父さんでありたいのに、もうそうじゃないんだ。ああ……」
彼のその言葉を聞き終えたとき、メグミは決心したのだった。
父を解放する、と。
「父は、科学的に実証された哲学的ゾンビでした。父は、世界を認識する主体としての役割をもう持っていなかったのです」
メグミは気がつけば、あのときの父と同じように頬を震わせていた。
「意識の科学の観点からは、父はもう死んでいたのです。さっき検事さんはおっしゃいました。実の娘の手による予期せぬ死に直面した彼の恐れと無念はいかばかりか、と。いいえ、そんなものはありませんでした。父はあの時、恐れや無念を主体的に感じる意識をもう失っていたのです。脳科学的にはそれに似た脳内反応が起こったと言うこともできるかもしれませんが、無念のうちに死を迎えた意識の主体は存在しなかったのです。残忍な犯罪の被害者はいないのです」
こんなことを言うつもりじゃなかった、と思うような言葉までがメグミの口からあふれ始めている。
「殺人は、人の生きる権利に対する罪です。では、生きることが、なぜ人の基本的な権利なんでしょうか。逆に、苦しい思いをしてまで生きたくない、と自ら終わりにする人もいます。生き続けても幸福も快楽も無いと確信したからではないでしょうか。生きる権利とは、生き続けることで何か幸福か快楽か満足感か、そうしたものを味わう権利なのではないでしょうか。そうしたものを味わう主体である意識をなくした人にとって、生きることは基本的な権利になるでしょうか。哲学的ゾンビを殺害することは、本当に罪でしょうか」
自らが人と殺人の定義にまで踏み込むとは思っていなかった。
けれどもメグミは、だからこそ、動機に関しては、黙秘を貫いてきたのだ。父を殺したいと思ったのではないから。父の形をした何らかのものが、彼女の父であれないことを嘆いている風景を消したかった――それは、殺人ではないと、彼女は心から信じていたから。そう信じた結果、その事実さえも記憶から追いやることを得たから。
彼女の問いに、静謐だけが答えた。
傍聴席で生唾を飲む音がメグミの耳にまで届いた。
判事が、小さく咳払いをする。検事は不快そうに足を組みなおす。弁護人はペンを投げ出して額を抱え鼻からため息する。
「すみません、おかしなことを申し上げました。起訴事実を否定するわけではありません。ただ、このまま言わずにいたら、父の不名誉かもしれないと思ったので……」
書記が鉛筆を走らせるさらさらという音だけが少しの間響き、それから、止まった。
判事は我に返ってメグミを見つめる。
「……以上ですか」
「……はい、以上です」
メグミははっきりと応えて判事を見つめ返した。
「……以上でこの裁判は結審となります」
判事であるあなたがゆっくりと言ったとき、メグミは再び、世界に興味のなさそうな光を双眸にたたえていた。




