プロローグ
「兎角に人の世は生きにくい。」
そう記したのはかの文豪夏目漱石だ。難しい漢字ばかりが並んだ意味の分からない本の中で、唯一納得できた冒頭文。理性だけで付き合おうとしても、感情だけで付き合おうとしても、上手くいかない。自分の道を突き通すのも難しい。だけど、そんなのはみんな一緒だし、これまでの長い人生で十分学んでいる。十六年。大人たちにとっては短くても私にとっては人生のすべてだ。十六年も生きると、面白いことが減っていく。そう、私は目下「兎角に人の世はつまらない。」状態なのだ。私でこれなのだから、四十年も、五十年も、想像できないくらいの年月を生きている両親はもっとつまらないだろう。毎日「疲れた。」とばかり言って不機嫌なのだから。
部活の帰り、そんなことを考えながら空を見上げると、北西の空は、少しくすんだオレンジ色に染まっていた。
その時。
「……いちゃん。」
誰かに、名前を呼ばれた気がした。でも、近くに知り合いは住んでいないはずだ。なんせ、最寄駅から二駅離れた駅から歩いて帰っているのだから、わざわざ私と同じようなことをしようとする人なんていないだろう。空耳かと思って再び歩き出すと、今度ははっきりと聞こえた。
「せいちゃん。晴ちゃん!」
声の主を探すと、高架化された線路の下のベンチに座って、ぶんぶんと手を振っている男の子が見えた。見覚えのない姿に人違いかと思ってあたりを見渡したが、オレンジ色の道の上には私しかいなかった。ついその子のほうに足が向きかけたが、知らない人が私の名前を知っているのはおかしい。近づいたら危険だと思いなおして、とりあえず逃げよう、と踵を返し、走り出した。
「え、待って!」
そんなことを言いながら男の子が追いかけてきたから、必死に走った。バスケ部の意地をかけて走った。だけど、その子のほうが速かった。あっけなく先回りをされ、肩に手を置かれる。
「ちょ、やめて。」
一応抗議の声をあげてみたが、彼は必死に息を整えていて、聞いている様子はない。もがいてみたが、予想外に力が強く、置かれた手からは逃れられなかった。久しぶりに感じた恐怖に身をすくませていると、息が整ったのか、やっと彼が顔を上げた。そして一言、
「晴ちゃん。俺と付き合ってください。」
そういって微笑んだ。
果たして続くのか?あらすじでばらした分くらいは絶対書きます。