第二章 お姫さまの家出の事情 5
三年前、フロルが十三歳の時にローゼは公爵家の邸にやってきた。フロルとしては複雑な想いもあるが、亡妻の面影を心に残し、他の女性に見向きもしないフロルの父のような男こそが貴族社会ではめずらしいのだ。それにフロルとて、父が進んで彼女を家に入れたわけではないとわかってもいた。それだけに心からとはいかずとも、できるだけ彼女を歓迎しようと考えてはいた。あとの懸念はローゼの人となりである。あまりに意地の悪い人であったりしたら、さすがにフロルとしても気が重い。
が、やってきたローゼは、フロルが拍子抜けするほど気さくでやさしげな女性だった。
「はじめまして、フローレンス姫さま。ローゼ・グンバルと申します。姫さまにとってはなにかとお気に召さない女かと存じますが、姫さまに気に入ってただけますよう心がけます。どうぞお見捨てなきよう、よろしくお願いいたします」
父との対面が終わった後、互いに紹介された時、ローゼは気取りなく、そして飾りもない所作で自然に頭を下げた。
フロルは面食らった。彼女は立場上、年上の者たちにかしずかれたり頭を下げられたりすることに慣れていたが、同時にその所作や言葉に嘘があるかどうかを感じ取る能力も鍛えられていたのだ。聞きようによっては皮肉にも取れるローゼの言葉は、そのフロルの感覚にこれ以上ないほどの真実として響いたのである。
「あ……いえ、こちらこそ。父がお世話になります」
金銭を扱う商人は貴人から蔑まれることが多い。グンバルも例外ではなく、その娘であるローゼにも偏見が向けられることは多かった。フロルにその癖はほとんどなかったが、それでも自覚できない程度には、わずかにあったのかもしれない。そのローゼに見事に一礼を施され、フロルの方が動揺して口ごもってしまう。だがそのことにフロルは不快さは覚えなかった。それどころか初対面でローゼに好感を持った自分を発見し、安堵したものであった。
ローゼは本邸から少し離れた別邸に住むことになった。愛妾とは本来そういうものである。別邸には当然ながらカールソン公爵も週に何度かは通うが、実はフロルの通う回数の方がずっと多かった。継母の人となりを気に入ったということもあるが、ローゼ自身世間的には「お嬢さま」と呼ばれる立場にありながら、商人の娘でもある彼女は、フロルの知らない話をたくさん聞かせてくれるのだ。お姫さま育ちのフロルにとって、とても楽しい内容である。
「西海のめずらしい魚を、腐らせないようにして王都まで運ぶのですか? ですが魚ってそんなに長くもたないのでは?」
「ええ。ですがそれでもやらないわけにはいきません。さもなければ家が潰れてしまうんですから。人間、死ぬ気になれば体の無理だけでなく頭の回転も速く深くなるようです。彼はこのような方法を思いついたそうです……」
と、活きた知識やいささか信じがたいような話、あるいはまるっきりのほら話や笑い話も聞かせてくれ、フロルとしては朝から晩までローゼの邸にいても飽きることがなかった。時に公爵が訪ねて来たところへ鉢合わせし、父がなにをしにきたのかさすがに理解できる年齢のフロルは、赤面しながら急いで退室したこともあった。
いつしか彼女たちは互いを名で呼び合うようにもなり、フロルにとってローゼは、継母であり姉である、得がたい存在になっていた。
ローゼはフロルとの仲が良好なだけでなく、カールソン公爵とも睦まじく過ごしていた。亡妻のこともあり、公爵も最初は押し付けられた愛妾にどう対していいか迷いがあったが、万事控えめで賢いローゼ個人に徐々に愛情を覚えていった。
「あの……失礼ですがローゼさま。ご懐妊はまだ…?」
一日、ローゼの邸を訪れて共にお茶を楽しんでいたフロルは、少し訊きにくそうにローゼに尋ねた。この手のことは散々に言われているであろうローゼに同じことを訊くのは心苦しいが、それでも気になってしまうのだ。それは懐妊していてほしくないということではなく、その逆の気持ちからである。子供ができるとできないとでは、公爵家や貴族社会でのローゼの立場は大きく違ったものになるのだ。グンバルの介入のことを考えれば、カールソンの人間としてはローゼに子供ができないというのはありがたいことだが、フロルはすでにローゼの立場の不安定さの方が気になってしまうほど、彼女に好意を持ってしまっていたのである。
だがその問いに対するローゼの答えは、フロルにとって意外なものだった。
「お館さまには、子ができないようにお願いしています」
少し哀しげな笑みでローゼが言うことにフロルは目を大きく見開いて驚く。ローゼは父に避妊を頼んでいるというのだ。
「なぜですかローゼさま。御子が出来た方がローゼさまのお立場もよくなりましょうし、ローゼさまのお父上もお喜びになるでしょうに」
カールソン公爵とローゼとの間に子供、特に男子ができることを誰よりも待ち望んでいるのは彼女の父グンバルだろう。そのためにローゼを公爵の愛妾に推したのだから当然である。だが当のローゼにその気がないとはどういうことであろう。
その答えをローゼは、同じ少し哀しげな笑みのままフロルに告げる。
「王族をはじめ貴人の家に外戚が口を出して、よい結果になったためしはほとんどありませんから」
ローゼは書物などもよく読む女性で、過去の歴史についても学んでいた。その中にはユリシアをはじめ、様々な国の王家の歴史も描かれており、外戚の介入による混乱や破滅は例に事欠かない。
「私は父を尊敬しておりますし愛してもおります。商才も人並みはずれて持ち合わせておりましょう。ですが政の才があるかは、はっきりとはわかりません。そのような父に領民の生活を預けるような真似をしていいとは、私にはどうしても思えないのです。それにもし父が悪政を敷くようなことがあれば、領民が苦しむだけでなく、父の名も汚名として残ってしまいます。娘として父にそのようなつらい思いをさせたくはないのです」
そしてローゼはフロルにやさしい目を向ける。
「それに私は、畏れ多いとは存じますが、すでにカールソン公爵家の一員のつもりでございます。お館さまやフロルさまの不利益になるようなことはできません。カールソン公爵家は、将来フロルさまが婿を得て、その方か、あるいはフロルさまのお産みになった御子が継がれるべき家です。私の子ではありません」
「ローゼさま……」
驚きが去ると、フロルは感動に近いほどの感謝を覚えた。まさかローゼが自分の家のことをここまで考えてくれているとは思いもよらなかったのだ。しかも子をなさないということは、公爵家やその他での彼女の立場が危うくなるというだけではない。母になるという女の幸福の大なる一つを放棄する覚悟があるということなのだ。それも実の父の意に背き、嫁ぎ先の家のためにである。我が我が、我も我もという者が多い貴人を見ることが多かったフロルにとって、ローゼはほとんど天女のようにすら思えた。
フロルは目に涙を浮かべてローゼの手を取り、握る。
「ローゼさま。そこまで我がカールソン家のことをお考え下さっていたとは思いもよりませんでした。感謝します。本当に感謝いたします。いつか必ず、このフローレンスがローゼさまのその想いに報いさせていただきます」
具体的にはまだなにも思いつかない。しかしフロルは心からの想いとして、ローゼに誓約した。