第二章 お姫さまの家出の事情 4
現在のキコラ領の領主カールソン公爵の妻でフロルの実母である女性は、八年前、フロルが八歳の時に亡くなった。公爵もフロルも当時は妻や母がいなくなったことに激しく哀哭していたが、それでも時は心の傷を癒してくれる。フロルも泣いてばかりいては亡母に合わせる顔がないし、これから父を支えていくのは自分だという意志もあって、母がいた頃より公爵家の娘としての自覚を持って過ごすようになり、その娘にも励まされて公爵も徐々に立ち直ってきた。
そんな日々の中、カールソン父娘に転機が訪れる。
カールソン公爵は凡君よりはマシという程度の領主ではあったが決して暗愚ではない。しかしそれだけに、平時はともかく突発的な事態が起こった時、対応にやや難がある。キコラ領は五年前と四年前、二年連続で冷害に見舞われ、餓死者が出るほどの苦境に陥った。一年目はなんとか持ちこたえたのだが、二年目は国や他領から食料を援助してもらわなければならないほどだった。それ自体は他の領主たちも「明日は我が身」という恐怖が常にあるだけに問題はなかった。だがそれだけでは足りず、キコラ領みずからが他国などから買い入れ、さらに死者が出た土地に対しての慰霊金や、復興のための援助など、金のかかることはとどまらなかった。かといって冷害直後で収入源は細く、ましてや増税などありえない。
そんな中、頭を抱えたカールソン公爵を助けたのが領内の富豪であるダンゲ・グンバルであった。復興に必要な資金だけでなく、独自のルートから復興に必要な人材や資材を集め、それを領内に配ることもした。このようなときに領民に惜しみない援助を送ることは、これからの彼の商売にも有用であった。単に購入する時にひいきされるというだけでなく、事業を拡大する際にも実際的な協力のみならず、心情的な協力を得られ、ことごとにやりやすくなるのだ。これを商人としての打算のみからおこなったと考えるのは浅はかである。打算と慈善の融合であり、また誰も困っていない、どころか全員に利益があるという点を考慮すべきであろう。
だがこのグンバルは商人として以上の野心を持っているということでは、たしかに不穏な男ではあった。政への参入を期してもいたのだ。そのためにこの冷害と領主の苦境を奇貨として、一気にその中枢へ食い込んだのである。
次の年は冷害やそれ以外の自然災害に見舞われることもなく、どうにか持ち直したキコラ領であったが、その功績がグンバルの援助に拠るところが大というのは誰の目にも明らかであり、それはカールソン公爵にもよくわかっていた。なにがしかの恩賞を賜るのが当然であったが、グンバルはそれらすべてを断った。
「同じ領内に住む者として、このような時に資財を投げ出して領主さまのお役に立ち、領民たちを救い出すのは当然のこと。恩賞をいただくなど返って心苦しゅうございます。どうかわたくしめへの恩賞は、そのまま領民に分け与えていただきたく存じます」
そう殊勝に断った姿に無欲の人という印象を持った者も多かった。特にそれは恩賞を自分たちに分け与えてほしいと言われた領民たちには顕著であった。この場合本当に恩賞が配られればもちろん、そうでなくとも領民たちへのグンバルの受けはよくなる。自分へのイメージも考えられるようでなければ一流の商人とはいえない。
「だがおぬしへの恩賞がなにもないとなれば、それはそれで領民は納得すまい。なにか欲しいものはないか」
グンバルという男がただの悪人でも善人でもないことはわかっているカールソン公爵ではある。だが功に対して賞がなければ、それもまた人心によくない影響があることもわかっている。それだけにそう尋ねたのだ。
「では一つだけ。わたくしには娘が一人おります。行き遅れの娘で親にとってはかわいくとも心配の種。どうぞその者を領主さまのお側にお仕えさせていただければ、わたくしども親子にとってこれ以上ない喜びにございます」
「……なるほど、おぬしは無欲なことだな。わかった、おぬしの娘、わしが面倒を見よう」
「ありがたき幸せに存じます、領主さま」
殊勝といえば殊勝といえる望みであり、むしろ公爵にとってこそ得のある話といえるかもしれない。この場合、仕えるといっても使用人として使うというわけでは、もちろんない。愛妾として受け容れろということである。カールソン公爵は個人的な理由から妾を持ってはいなかったが、彼の身分であればそのような女性を幾人か持っていてもおかしくはない。そしてグンバルの娘は二十七歳。適齢期は過ぎているかもしれないが、四十九歳の公爵にとっては充分に若く、魅力的ではあった。
だが事はそう単純でもなかった。グンバルの娘を愛妾として迎え入れるとしても、恩のある男の娘である。また公爵に正妻はおらず、他に愛妾もいないため、実質的には本妻と同じ立場になるであろうし、そのように扱わざるを得ない。そうなればグンバルも実質的に領主の「舅」であり、公爵家に対して「外戚」としての影響力を持つこともできる。
さらにこれから先も資金その他で公爵家に援助を施し、恩を売り続けていれば影響力は増すであろうし、加えて娘が、現存する子供は亡妻との間に女子が一人しかない公爵の子供、それも跡取りとなる男子を産めば決定的と言っていい。影響力どころか「実質的な領主の座」そのものを得ることすら可能かもしれないのだ。そしてその野望実現の可能性は決して小さくはなかった。
カールソン公爵もその危険を察したためグンバルの申し出に一瞬間が空いたのだが、それでも応じざるを得なかったのである。
「……父にとっても苦渋の決断であったろうと思います。ですが恩は恩、受け容れざるをえませんし、我が家の経済状況から言えば、グンバルどのの申し出はたしかにありがたい話なのです。のちに悪影響があるとしても」
冷め始めたお茶の入った茶碗を見つめながらフロルは続ける。他の三人もめいめいにフロルの邪魔にならないよう、音をあまりさせないようにせんべいをかじったり、お茶を少しずつすすったりしながら聞き入っていた。内容自体も興味深いが、それが普段なら絶対に触れることのない現実の公爵家の生々しい「お家騒動未満」の話であれば、不謹慎と無責任、そしてフロルへの申し訳なさを自覚しながらも「おもしろい」と感じてもしまうのだ。
「………」
「…あ、ごめん、フロルさんも食べて食べて。食べながら話してもいいから」
と、フロルがせんべいの入った器をじっと見ているのに気づいたティアが、あわてて彼女にも勧める。フロルは最初に一枚食べただけで、その後は口にしてなかったのだ。
「……ありがとうございます、いただきます」
勧められてわずかに赤面し、それでもめずらしくも美味しいお菓子への誘惑には勝てず、フロルももう一枚、しょうゆ味のせんべいに手を伸ばし、齧る。あまり音を立てず、食べかすもこぼさないように気をつけてはいるが、両方ともどうしても出てしまうのがせんべいという菓子の特徴である。
「気にしないで、フロルさん。おせんべいってそういう食べ物だから。ほら、こっちの二人なんてバリバリボロボロみっともない食べ方してるでしょ?」
「自分だけ例外みたいな顔すんなよな、姉ちゃん」
「そうよ、ティア姉だってボロボロこぼしてんじゃない」
「あたしはいいのよ。フロルさんと同じでどうやっても上品になっちゃうから」
「……ずうずうしいにもほどがある自己評価だよな、ホント」
「姉に対してなんという暴言。品という言葉の意味を、あとでたっぷり教育しなおさないといけないわね」
「ごめんなさい、お姉さま。許して」
悪い見本として挙げられた太陽とエリは唇をとがらせて抗議するが、どこ吹く風のティアは、上品さとは無縁の横暴さで弟を黙らせる。だがそれはフロルには姉弟漫才にしか見えず、せんべいを頬張りながら笑みをこぼさずにはいられない光景だった。
そして食べ終わり、満足そうにお茶をすすったフロルは、表情をあらためるとまた語り始めた。
「……ですが、すべて思惑通りにいっていたように見えたグンバルどのにとって、一つだけ誤算がありました。父の愛妾となった娘のローゼさまが、とても聡明で野心のない方だったのです」