④エディー・ジャパンの軌跡
2015年のラグビーW杯で強豪スプリングボクス(南アフリカ共和国ラグビー代表チームの愛称)を一敗地に塗れさせたエディー・ジャパン(日本代表)だが、イングランド大会に至るまでのラグビー日本代表チーム(=ジャパン)のワールドカップの戦績は1勝21敗2引分け。まさに屈辱の歴史だった。
とにかく、唯一の勝利は1991年大会のジンバブエ戦にまで遡らなければならないのだ。
24年間勝ち星から遠ざかっているジャパンの現地の下馬評は2015年イングランド大会開始直前まで、プールB(南ア、スコットランド、日本、サモア、アメリカ)5チームの中で、最下位をアメリカと争っている状況だ。
しかし、その評価は初戦で大いに覆ることになる。
いったい、これまでのジャパンと何が変わったのか。
ジャパンに外国人がいたからじゃないか? との声も聞かれるが、ラグビーW杯は国別ラグビー協会所属メンバーで争うことになっていて、国籍別ではない。
そもそも、助っ人外国人で勝てるなら、24年間、宿澤ジャパン、平尾ジャパン、ジョン・カーワン(JK)ジャパンは外国人選手を活用してこなかったのか。答えは否である。
しかも、外国人を含めても、ジャパンのフィジカルがとりわけ優れていたわけでもない。
理解りやすい例を上げれば、フォワードで長身選手が務めるロックのポジションには、ジャパンでは大野均とトンプソンルークが入っている。
大野均、トンプソンルークの身長はそれぞれ192センチ、195センチだ。
しかし対する南アの先発陣フォワード平均身長は193.6センチで大野の身長を上回っている。
中でも球際を争うロックのポジションのルードベイク・デヤーヘルは204センチ。また、38歳のベテラン、ビクター・マットフィールドは201センチである。
フィジカルで劣る部分を、テクニックとフィットネスでカバーする。その言葉を余すとこなく再現したのが、2012年に始動したエディージャパンなのだ。
そしてその特徴は、エディーの多彩な戦術と、世界一の練習量により高められたフィットネスにある。
戦術面のエディージャパンの特徴は「シェイプ(陣形戦術)」、「リンケージ(連携)」、「モーション(ゲインライン突破)」で、エディーが掲げたラグビー理論に裏打ちされている。
エディージャパンのシェイプの特徴は、順目方向(攻撃正面に対してフィールドの広いサイド)に複数のシェイプ(陣形)を整えて、相互にシェイプが連携して相手のディフェンスを惑わせながら、モーションを行う。
南アフリカ戦では、基本的に攻撃の起点はスクラムハーフ9番の田中史朗で、フェーズ毎に、田中の周囲にリサイクルされたフォワード中心の9シェイプ、スタンドオフ10番の小野晃征の周囲に10シェイプ、センターバック12番の立川理道の12シェイプの3シェイプをセットしていた。
各シェイプは、それぞれ順目の敵のディフェンスラインに的を絞らせないように走りこみ、ゲインライン突破を目指してラン、パス、キックを丁寧に使い分ける。
キックを混ぜるのは一見するとフィジカルで劣るジャパンに不利に見えるが、グラバーキックやローパントなど低いキックは相手の裏のスペースを衝く姿勢を見せるために欠かせないのだ。
また、バックス陣のロングキックの応酬も応じなければ味方に不利な位置からの攻撃を強いられるのでジャパンは返さなければならない。
平均身長の低いジャパンの弱点はキック、特に短めのハイパントからのラインブレイクを狙われる時に顕著となる。まず、敵にハイパントを上げられると、かなりの確率でフィジカルに勝る南アにボールを支配される。
それでも、キックからのラインブレイク、トライを避けるため、フォワードはキッカーにプレッシャーを与え、バックス陣もスペースを与えないようボール落下点にいち早く走り込む必要がある。
敵のパントの動きに対応するには、無尽蔵とも言えるスタミナと集中力が必要になる。そこで、エディーは最初にハードワーク、次に高度な戦略、そして、試合においては規律と集中力を求めた。
ちなみに、南ア戦、試合全体を通してみると、日本代表は自陣から敵陣に攻めこむまではキックを有効に使いながら陣地を稼いで、敵陣に入ってからはポゼッション優先でラン、パスに絞ったオーソドックスな攻めをしていた印象がある。
しかし、日本代表にはスプリングボクスの野獣と呼ばれる重戦車テンダイムタワリラや、天才ラインブレイカーのスカルク・バーガー、強力フォワード陣の象徴デュプレッシー兄弟、突破力がありキック精度も極めて高いハンドレ・ポラードのようなスター選手はいない。
ラグビーのメジャーリーグと言われる南半球のスーパーラグビーで活躍できている日本選手はフッカーの堀江翔太、フランカーのリーチマイケル、スクラムハーフの田中史朗と数えるほどしかいないのだ。
要するに一対一の状況では、どうしても見劣りする部分があり、ジャパンはその部分をチームワークで補う必要があった。
そのため、2015年4月から8月にかけ、宮崎市で計10回75日間にも及ぶ強化合宿を実施し、あたかも一つのクラブチームとして連携できる集団となっていた。
ワールドカップ1991年のジンバブエ戦から24年を経てのジャパンの2つ目の勝ち星は、偶然か、必然か。
どちらにせよ、24年の間の宿澤ジャパン、平尾ジャパン、JKジャパンの試行錯誤と積み重ねの賜物であり、これが2019年のワールドカップ日本大会に受け継がれていくことを願って止まない。
最後に、平尾誠二さん、安らかにお眠り下さい。
(了)