其ノ六
朱赤を煮詰めたような濃い色の葉が一枚、風にもぎ取られるように枝から離れ、散った。
霊峰・吉野。
庵とする洞窟から出て、天を仰いでいた臥千上人は、遠い南方の地で友垣が散ったことを悟った。齢経た曇りなきまなこを細める。
(…石宗。……逝ってしもうたのか…)
近しい人間は皆、臥千上人を置いて逝く。
吹く風の冷たさより、その寂寞が臥千上人の胸を寒くした。
見送っても見送っても、慣れるものではない。
(――――――お主はまだ死んではならぬぞ、桐峰)
清酒を喜んでいた愛嬌のある若者。
丹生を得た若い剣士の死地が、彼の地であってはならない。
島津の仕掛けた釣り野伏にまんまと嵌まり、大友軍は総崩れとなった。
軍律はとうに存在しないに等しい。
高城川から我先にと耳川まで逃亡した大友の雑兵は次々と川に飛び込んだが、生き長らえる者は無く、無数の命が藻屑と化し、耳川は累々とした屍で埋まった。
上首尾の退却は戦上手であってさえ難しい。
考え無しに攻め込むだけ攻め込み、島津軍の罠に掛かった田原親賢にその技量は求めるべくもなかった。
幕末には示現流の元となる剣術と厳しい軍規を骨の髄まで叩き込まれた島津兵は、逃げ惑う大友兵を臍までも斬り下げた。
受ければ終わり、初手は受けるな、と恐れられた剣が、今この戦場に間違いなく君臨していた。
「きええええええええっ」
薩兵の気合の咆哮。
押される大友方の悲鳴、どよめき。
五体無事な者の数とて少なく。
桐峰は石宗の愛馬の元に辿り着くまで、躯を、飛び出た臓腑を、頭蓋を自らの騎乗する尾花栗毛の馬の脚で踏んだ。敵味方の別は無かった。
無論、意図してではなく、避けようも無い程にそれらが足下に溢れ、満ちていたのだ。
草よりも尚、赤々と繁り。
馬の身体を伝い、骨を砕いた感触までが、桐峰の身に響き知らされた。
桐峰にとって戦場の混沌、死臭の全てが馴染んだものだった。
忌まわしく懐かしい。
二度と立つまいと考えていた戦場に、彼は立っていた。
(導きがあったにせよ、俺が選んだことだ)
だが石宗をむざと死なせた。
ぎり、と奥歯を噛み締め、桐峰を馬から落そうと襲いかかる島津兵に丹生を振り下ろした。
加減は寸毫も無い、寧ろ憎しみの勢いがあったかもしれない。
主の最期を解していない石宗の馬は、怒号の中、恐慌状態で小走りに駆け回っていたが、見知った桐峰の馬が近寄り、その姿を認めると幾らか鎮まったようだった。
鹿毛の駿馬がつぶらな目で桐峰を見た。
主はどうしたのか。
そう問われた気がして、思わず桐峰は顔を背けた。
背けた先の空は、尋常の空ではなかった。
晴天や秋の清風を忘れ去ったような、赤い汚濁に塗れていた。
蠢きに蠢いて邪悪を産み落とさんとするかのような――――――――。
異様だった。
何もかもが正常を忘れ狂っている。
何がここまで狂わせたのか。
『鬼室』であり、九品であり、赤震尼が元凶だったとしても、靡いたのは人心の闇と弱さだ。
(なぜだ、宗麟。なぜだ、田原、なぜだ)
尋ねて益になることではない。
しかし桐峰の身体中に憤りと疑問が渦巻いていた。
また、そうでなければ、悲しみに胸が支配されそうだった。
「浄陽」
石宗の馬に声を掛ける。
陰陽道を修めたゆえに言霊を重んじる石宗は、愛馬にも行く末を言祝いだ名をつけていた。
浄陽の耳が前に後ろに動き、桐峰の鎧の懐あたりに鼻面を擦りつけようと首を伸ばしてきた。
「すまぬ、浄陽。石宗翁は、…」
その先は声にならなかった。
ぶるる、と首を振った浄陽が、そんな筈はないのに、その主に似た声で気にするな、と言ったように思えて辛い。
浄陽が首を振った弾みで、金覆輪の鞍にぶら下がる何かの輝きが、桐峰の目に入った。
馬から降り、浄陽の横手に回る。
六角の透明な水晶が根付のように、鞍に結わえられていた。
周囲への気配りを怠っていた桐峰は、斬りつけようとする兵の存在に気づいていない。
そろり、と忍び寄った雑兵は、しかし、桐峰以外の者の刃によって身体の腱をぱっくり斬られた。
「があああっ」
上がった悲鳴と血飛沫に桐峰が振り向くと、いる筈のない姿をそこに見た。
小柄で痩せた、どこにでもいるような風貌の。
「戦場で油断して何とするんじゃい、桐峰殿」
「…浜原の…、孫兵衛、殿?」
飄々として立っているのは、石見・浜原で出逢った仙人のような鵜飼の老人だった。
血刀を携えてにこやかに。
「なぜ、ここに?」
「なあに、お買い物ついでにちいと足を伸ばしたんじゃあ」
「お買い物ついでって――――――…」
ここは合戦場なのだが。そもそも石見からこの日向まで、どれだけの距離があると思っているのだ。
状況を忘れて目をしぱしぱさせてしまう。
只者ではないとは思っていたが、謎が多過ぎる老人だ。
桐峰が呆けている間にも、斬りかかる兵を身軽に受け流し、過たず急所に刃を閃かせている。
島津の体捨流を児戯のようにいなしていた。
「ふんむ、命令が行き渡っておらんと見えるのう」
「え?」
孫兵衛の呟きに、桐峰が訊き返した。
それに応じるように、すすす、と桐峰らと距離を縮めた島津兵は、それまでの雑兵らとは風格が違った。纏う空気と甲冑に、見るからに重みがある。
「小野桐峰殿。主・島津義弘の命により、おはんを案内しもす」
「――――何と?」
「義弘様、初震の巫女と手を組まれた由。九品めが元へお導きするよう、命令を受けもした」
九品。そうだ。あの怪僧をすっかり見失ってしまっていた。
「信じるがええわぁ」
孫兵衛が呑気な口調で言う。そしてその、呑気さのまま。
「裏切れば斬ればよかろ。あんたなら容易いことじゃて」
「…然り」
この遣り取りを聴いた島津兵たちに緊張が走るのが解った。
桐峰は浄陽の鞍から水晶を外した。石宗の形見を確保しておこうと考えたのだ。
躯は見当たらず、首級は持ち去られてしまった。戦場の常とは言え遣る瀬無い。
「孫兵衛殿。浄陽と、俺の馬を頼めるでしょうか。出来ればここで死なせたくない」
「うむ、ええぞー。請け負った」
どこまでも戦場に似つかわしくない孫兵衛の声に、桐峰は頷いた。
「お願いします」
それから五名の島津兵に向き直る。
「貴殿らにとって死出の旅路となるやもしれぬ。それを覚悟の上でなら、俺を案内してくれ」
命令でも懇願でも脅しでもない、率直で真摯な声音の桐峰の依頼に、兵たちは無言で顎を引いた。
鎧兜が微かに鳴った。
それにしてもむせ返るような血の臭いだ。
(…初震姫殿。参られたのか。身体はもう良いのだろうか)
彼女がどんな状態であれ、望む限りは五鶯太が戦場へと連れて行くだろう。
彼らはそれを自然な在り様と考えているように見える。
夷空がエキドナを繰るように。
(死ぬなよ)
己も屍を掻き分けるようにして島津兵に続きながら、桐峰は同胞たちに胸中で念じた。
見渡す限り死に満ちた、阿鼻叫喚の絵図。
轟きやまぬ音は宗麟自慢の大筒(大砲)・国崩しのものか。だがここまで決した大勢の流れは変えられまい。
早速にも鴉が、死肉を漁ろうと赤い空を旋回している。
躯と血の臭いと、甲冑の擦れる音と、汗ばんだ皮膚と。
桐峰の五感を支配し疲弊させようとする諸々の中、丹生と水晶の存在だけが清かに澄んで桐峰を慰撫した。
赤雲の蠢きの、特に濃い片方の空の下に行き着くまで、桐峰を先導した島津兵の内、二名が死んだ。
義弘から余程の厳命を受けているのか、彼らは桐峰を導くばかりでなく、護衛せんとして動いたのだ。孫兵衛が言った通り、命令が行き渡っていないのだろう、桐峰の綺羅とした戦装束を大将首と狙う島津兵は多かった。島津兵対、島津兵。言わば同士討ちである。
だがそれは、正直なところ、桐峰の動きを妨げることに他ならなかった。
丹生を振りかざした前に出て、先に刀を振るわれてはやりにくくて敵わない。
退け、と何度か言ったが、導きの兵士たちは主君の命令を遵守しようとした。
無駄に死ぬなと桐峰が叫んでも聴かない。
これが軍規に縛られた者の頑迷さか、と桐峰は呆れ、哀れにも思った。
死んだ朋輩の亡骸を、血の涙を流さんばかりに見ながら、彼らは使命を全うしようと猛進していた。
(『鬼室』と九品を斬らねば、俺は方々に詫びようが無いな)
桐峰は自嘲的に思った。
長身、清げな僧衣は、混乱の戦地より逸れた、見晴らしの良い丘陵地に立っていた。
両手に『鬼室』を持ち、天高く掲げている。
彼の上空より、赤雲の汚濁が『鬼室』の一点を目がけて降り注いでいる。
異様で醜悪な光景。
ただ『鬼室』を見守る九品の表情だけが、愛おしげに和み、それが尚更に奇異であった。
「化け者があああああああっっ」
「待て!!」
桐峰の制止を聴かず、島津兵が九品に殺到した。
今なら容易に討てる、と思ったのだろう。
眩い太刀を腰に佩いているとは言え、九品の僧形と『鬼室』に見入る表情は、油断を誘うに十分だった。
『鬼室』が、九品の手から離れ宙を舞う。
同時に、九品が兵庫鎖太刀を鞘走らせ、軽やかに体捨流の初太刀を流し、兵の頭から両断した。頭蓋まで、真っ二つである。
脳漿と血がびちゃりと飛び、美僧の顔を妖しく彩る。
ころ、ろ、と下草に転がった『鬼室』からは赤い泡のような物がぼこぼこと溢れた。
「―――――邪魔立て致すか、桐峰」
「それは、お主とて承知であった筈」
九品から目を逸らさないまま、兜の緒を解き、島津兵に渡す。ここからの九品との斬り合いで、兜は邪魔でしかない。
桐峰が軽々と扱うので、その積りで兜を受け取った兵士は、予想以上の重さに驚いた。縦に長いぶん、通常、兵士たちが被る兜より重量があるのだ。
彼らを皆、手振りで下がらせ、桐峰は丹生を抜きながら九品との間合いを詰めて行く。
「違いない」
毒の花が咲き、桐峰の言葉に頷いた。兜を脱いだ桐峰の賢明さを褒めるようでもある。
その目がちら、と『鬼室』を見た。
「今から母上の積年の宿願を叶えて差し上げるのだ。私の弟か妹が、あの天より、『鬼室』を介して産まれ落つる…」
「あの不吉極まりない雲は、赤震尼が仕業か?」
「そうだ、桐峰。此度の戦で生まれた血塊を糧にして、我らが同胞を招じておるのよ」
赤震尼が星の落し子であると言うのは、真実なのか。
初震姫より聴いていたとは言え、桐峰は人智を超えた怪異に戦慄を禁じ得ない。
思考に潜るより前に、桐峰は地を蹴った。
刺突を繰り出す。
丹生の刃は九品の左腕を削いだ。九品の避ける速さがやや勝った。
奇しくも桐峰が矢傷を受けたのも左側の肩だ。
消耗の度合いは、桐峰のほうが明らかに激しい。
だが戦意だけは劣らぬ自負があった。
刃をしのがれ、体勢を立て直す間に、桐峰は帯から取り出した物を、九品に目がけてそよがせた。
風に乗り、それは九品の皮膚にまで到達するかに見えたが――――――――。
九品は更に上体を後ろに寝かせ、風を遣り過ごした。息つく間も無く、桐峰に下から刀身を斬り上げる。桐峰は丹生で真っ向から受けた。
がきいぃん、と刃同士が喚き、火花が散る。
双方、退かず、刃が折れる気配も無い。
腕の長さより近い位置に、互いの顔がある。
毒花のような九品と、清風のような桐峰と。
相容れないまなこが、かち合った。
「存外、姑息な手を使うな。小野桐峰。毒とは…」
「美しさだけで生きられる戦場など、世の何処にも在りはしない。在ればそれは、戦場ではない」
桐峰が九品に向け、風に乗せて放ったのは、鳥兜の毒をたっぷりと染み込ませた毛髪だった。
先を削いだ毛髪は人の皮膚に刺さる。回国する内に、自己防衛の為に桐峰が採用した暗器だ。
『橋姫』にも同じ物を使った。
「ふふ、面白い。興が乗るぞ、桐峰」
無邪気とも取れる九品の発言に、桐峰はかっとなった。
「何が面白い!?お前たちの企みのせいで、石宗翁は死んだっ、……翁は、出雲に来る筈だったのだ…………っ」
丹生の刃をぎりぎりと押すと、剣の中程が九品の額に触れ、浅い傷をつけた。
「したがな、桐峰。我らはただ、種を蒔いただけぞ?同胞を増やす為に。疑心と不和を育て、母上に籠絡されたは凡俗共だ」
がきん、と刃が音を立てて離れ、桐峰と九品は再び睨み合う。
「勝手を申すな。人倫を知れ!」
「我ら人に非ず。ゆえに人倫を知る必要とて無し。種からして違うのよ、桐峰。弁えよ」
言葉が違う。世界が違う。身を置く位置が、余りにかけ離れている。
それでも。
「それでもお前は、赤震尼を母と慕うているではないか。それは人の持つ情と同じであろうが」
ふ、と九品の面が揺らいだ。
桐峰は再び駆け、今度は丹生を横に凪いだ。
びゅう、と風鳴りが起きる。
これも九品は巧みに受け、丹生の刃をすり上げ、丹生と同じ朱色の切っ先が桐峰の喉を直撃しようとした。
桐峰は咄嗟に九品を蹴りつけようとするが間に合わない。
喉の一点に九品の刃が潜る様をありありと想像する。
冷や汗が噴き出る暇も無い。
死ぬのだと思った。
(明那殿、石宗翁―――――――)
このままあの世で、石宗や尼子勝久、六輔らと再会することになるのだろうか。
それでは申し訳が立たない。
一瞬が、ひどく間延びして感じられる。
玻璃が割れるような音がして、桐峰と九品の間に誰かの身体が割り込んだのはその時だった。
杣人の恰好をした娘が、九品の刃を腕にくるむようにしている。朧で半透明だが、どこか明那に似ている彼女を振り解こうと九品はもがくが、刀は取り戻せない。
(石宗翁の式神か…?)
桐峰はこの好機を逃さず、丹生を構えなおした。
娘の姿が消える。
その時にはもう、刺突が九品の心の臓を貫いていた。九品が僧衣の上に纏う鎧ごと、過たず。
ぐぐ、と力を一層、籠める。丹生の朱赤の輝きが増す。
九品はただ、瞠目していた。
起きたことが信じられないのだろう。
丹生を抜き去ると、鮮血が迸り、九品自身と桐峰を赤く染め上げた。
「―――――――何と。この、私が。人如きに―――――――――?」
指が宙を彷徨い、遂に彼は地に伏した。
桐峰は九品の横に立ち、未だ毒花の気配残す顔を見た。
まだ息がある。
「聴かせろ、九品。お前にとっての生は、赤震尼の為だけのものでしかなかったのか?お前自身の意思は、どこにも無く、永の時を流浪して来たのか」
くふ、と九品が花びらのような血を吐いた。
「…我ら、所詮、この地にては異形でしかない。女は私の見目ばかりをもてはやし…、真に触れ合えた者とておらぬ。貴様には解るまい、桐峰。冷たき風から私を庇ってくれたのは、母上だけであったのだ。ゆえに、私は――――――――…………」
九品は目を開いたまま、もう息をしていなかった。
死に顔は安らかで、毒花の名残が見られない。
「九品よ。それを人は、情と呼ぶのだ…」
桐峰は九品の目を手で覆って閉ざした。
大国を、その領主を、重臣を惑い狂わせた美僧が、なぜか今は哀れに思えた。
死ぬ直前に、寄る辺ない九品の童時代を垣間見た気がした。
腰帯に下げていた根付の水晶が割れている。粉々になって、触れれば掌に細かい光の粒がつく。
やはり先程の杣人の式神は、石宗が仕込んでおいたものなのだ。
恐らく死を予見して、桐峰の窮地を救う為に。
「やりもしたな、桐峰どん」
一部始終を見守っていた島津兵たちが、喜色を顔に浮かべ寄って来る。
「ああ。あとは、初震姫殿の首尾が気になるが…。まずは『鬼室』を破却せねばならぬ。この近くに清流があれば俺を案内してはもらえまいか」
拾い上げた『鬼室』は、まだ泡を吹き上げ、今にも何かの形を取らんとするかのようだ。
掌に仄かな熱を知らせる。
この天目茶碗に根深くこびりついた穢れを流すには、水場のほうが適している。
二名が九品の亡骸を弔い、主君・島津義弘にこの旨を報告すべく残り、一名が桐峰の要請に従い、獣道を先へと進んで道を示した。
この後、九品の亡骸が赤い塵になり、耳川よりの風に乗って散ったことを、桐峰はあとから知らされることになる。
まるでその様は土器がひび割れ、音を立て砕け散るようであったと。
空の赤い濁りが先刻より薄くなっている。
やがて鬱蒼とした獣道の行く手に明るい光が見えてきた。
せせらぎの音と清水の匂い。
ひとっ跳びで跨げそうな幅の川は、耳川と同じ川とは思えない程に透明な流れだった。
相応しい場だ、と、神官としての桐峰が告げている。
川向こうに見える樹木は多くが紅葉して、中には椿の花も見える。
戦場のものとは異なる、風雅な赤紅。はら、と散る様さえ穏やかで。
思いがけないことに、先客がいた。
川を見ながら、筆を動かしている。
墨染めの衣に桐峰も島津兵も一瞬、反応しそうになったが、彼は九品と違う、壮年の画僧のようであった。臥千上人にも通じる、隠者の趣が恬淡とした風貌から窺える。
傍らに、墨染めの黒と対を成すような、純白の鷺がふわりと留まっていた。
地獄絵図の戦場から来た身には、ひどく浮世離れして見える光景だ。
少しの距離を置いて上がる怨嗟の声も雄叫びも悲鳴も、異なる世界の出来事のように。
このようであれたら、と嘗て桐峰が望んだ姿がそこに在った。
「御坊。これからここで、一仕事せねばならんのだが」
桐峰が声を掛けると、画僧はこちらを見もせずに答えた。
「好きになされ。ここの在り様を乱しさえせねば、儂は構わぬ」
そう話している内にも、ぼこ、と『鬼室』から泡が吹きこぼれる。
桐峰は彼には頓着せぬことに決めて、忌まわしい茶碗を川原にある大きなまな板状の石に置いた。
手を離れてもカタカタ、と微動していることがおぞましい。
丹生をすらりと抜き放つ。
(…長き道のりであったことよ)
運命の輪という物があるのであれば、この春に桐峰のそれは急に回転を増し、夏は瞬く間に過ぎ、今や秋だ。
目を閉じて、息を深く吸う。
吉野山にも似た、澄んだ空気が桐峰の肺、心の中枢を満たした。それは丹生都比売の加護の一端であるのかもしれない。
丹生を両手で構え、肘をやや後方に引き、人心を惑乱させた鬼を目に焼き付ける。
繰り出した刺突は『鬼室』に衝突し、椀は形を保てず崩れた。
ぼろぼろ、と。
吹いていた赤い泡もやみ、消える。
数百年の終焉は、九品以上に呆気ないものだった。
「ひふみよいむなや こともちろらね しきるゆゐつ わぬそをたはくめか うおゑにさりへて のますあせえほれけ」
古神道の祓いの言霊を唱えながら、砂礫と化した『鬼室』を清流に撒く。
砂礫は光る川面にすぐ飲み込まれ、見えなくなった。
「…………」
石宗からの依頼はこれで全て果たした。
それを報告すべき相手は、もう現にはいないが。
〝冷たき風から私を庇ってくれたのは、母上だけであったのだ。ゆえに、私は〟
九品の言っていた冷たき風とは、人の世の持つ一面であろう。
自らに馴染まぬ者を弾き、貶めようとする。
桐峰も知る風の冷たさ、明那が晒されてきた人の非情さだ。
(俺たちの敵とは、何であったのだ。俺は一体、何と戦っていたのだ……)
石宗を死なせたのは、本当は何であったのか。
画僧の横にいた鷺が天に飛び立った。
全てを見届けたとでも言うように。
白い姿を上空へと追いながら、桐峰は明那に似た式神の娘のことを思い出していた。
石宗は、なぜあのような姿の式神を封じていたのだろう。
彼ならではの遊び心だったであろうか。
或いは生きてまた、逢いたい人間に逢えることがどれ程の僥倖であるのか、桐峰に知らしめたかったのかもしれない。
(初震姫殿の、首尾はどうなった―――――――)
天はまだ秋本来の蒼穹を見せない。
赤が残っている。それを確認して桐峰は再び顔を引き締めた。
桐峰の疲弊も大きく残っているが。
後ろで固唾を呑んでいた島津兵に向き直り、問いかける。
「御大将・島津義弘殿、並びに初震姫殿の行方を存じておるなら、今しばらく、俺を案内してくれぬか?」
島津兵が桐峰を見る目は、僅かの時の内に変化していた。
ただ命を受けて動くばかりでない、桐峰への信頼が、彼を頷かせた。
「…ついてきてたもんせ」
(初震姫殿の首尾如何によっては、『泥顔』と赤震尼をも相手取らねばなるまいが…)
そこまでの余力は、桐峰にも残されていない。
甲冑も、丹生さえ重い。
だが桐峰は足を無理矢理に動かした。
亡くさない為の無茶ならば、幾らでもするつもりで。
桐峰らの遣り取りにも我関せずと、画僧は筆を動かし続ける。