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其ノ五

 阿片と赤震尼に溺れ、狂人の域に身の半ば以上を踏み込んでいた宗麟だが、耶蘇教への傾倒も忘れることなく、遂に臼杵の小さな教会の聖堂(カーザ)で洗礼を受けた。立ち会ったのは数少ない宣教師(バテレン)修道士(イルマン)、家来のみ。

 ここに後世に名高いキリシタン大名・大友宗麟、洗礼名ドン・フランシスコが真に誕生したのである。

 それはまた、新たなる混乱と滅亡への前途を招く呼び水ともなった。

 宗麟に忠節を尽くして来た、今や老齢に至る家臣たちからは落胆と憤り、嘆きの声が上がった。

 角隈石宗や戸次道雪らも苦々しい目をした。

 耶蘇教をとやかく疎んじてのことではない。

 現状と人心を省みない統治者の在り様に溜め息を禁じ得なかったのだ。


 オルゲルが不穏な楽を奏でるように、大友家に不吉の音色が奏でられていた。

 けれどそれを耳に拾える人間は、多くはなかった。

 大友家の隆盛を支えた家臣も、或いは黄泉路を辿り、或いは病床に就き、新しい当主・義統の時代に居並ぶ若い家臣たちに、宗麟が当主であった頃程に抜きん出た才覚を持つ者は少ない。そうして若く意志薄弱な義統は、専ら母・奈多の方の兄である伯父・田原親賢(たわらちかかた)の言を重用した。

 血の繋がりが政に悪しき影響を及ぼす例えのような状況が生まれていたのだ。


 二度目の日向遠征に向けての軍議は、軍議としての形を成していなかった。


 時期尚早との反対意見が多い中、田原親賢の強硬な遠征・出兵の主張。

 加えて、軍議に姿こそ見せなかったものの、それを後押しするような宗麟の、島津との戦への意気込みが伝えられ、不服に思う者も次第に口を閉ざし、最終的には義統と親賢、宗麟ら三者の暴走が軍議を制した。

 軍術を語っても意味を成さないのなら違う方向から反対するしかない。

 それならばと角隈石宗は天文と陰陽の論を用い、この無謀な戦を避けるべく熱弁を振るったが、それも徒労に終わった。

「今年は大殿の厄年であるのに加え、未申(ひつじさる)(南西)の方角への出陣は良からず。更には去年から現われた彗星の光の尾が西に靡いているのは凶兆じゃ」

「臆病風も大概にされい、角隈殿!」

「田原殿…、せめて戦に相応しき時節を待たれよっ」

卜筮(ぼくぜい)(亀甲や筮竹(ぜいちく)で占いをする)屋の出る幕ではないわ!!」

 義統の伯父である威を借り、親賢は徹底して石宗をつっぱねた。

 彼の背後には赤震尼と九品の繰る糸がある。

 血塗れの、戦へ―――――――。

 宗麟も知らぬところで、親賢は赤震尼の色香に篭絡されていた。

 大友家は中核のあちこちから、魑魅魍魎に絡め取られていたのである。


 戸次道雪は軍議にすら出なかった。



 その晩、石宗は夕餉の席で終始、無言だった。

 彼の眉間に刻まれた深い皺に、桐峰も明那も何があったかと問うことが出来なかった。

 明朗快活な老人が、初めて年相応に見える。

 夕餉が終わり、いつものように怪しげな品物を押し売りされることもなく、桐峰は離れへと引き揚げた。


(…戦が決まったのか)


 石宗の様子に思い当たることがあるとすれば、それしか無い。

 島津との戦が避けようのないものであることを、石宗は語っていた。

 しかし凶事を推し量ることと、その凶事が明確に定まることでは重みが違う。


『鬼室』が自分たちを奈落に引き摺り込もうとしている。


 桐峰にはそう思えた。

 暗雲が頭にも胸にも立ち込めたようで寝付けずにいた桐峰の耳に、火の粉が爆ぜるような音が聴こえたのはそんな時だ。


 まさか火事ではあるまいと思いながらも、明那を起こさぬように自らの床から抜け出し、音の源までを辿るようにして歩くと、馴染んだ母屋に行き着いた。裏手から煙が上がるのが見えるのは、夜でも火明かりがあるからだ。

 只事ではないと駆けつけた桐峰が見たのは、母屋の裏に砂利と下草が混在する庭に佇む石宗の背中だった。庭の向こうには雑木林が続いている。


「桐峰殿か」


 低く誰何(すいか)する声は、石宗のものと思えぬ程に重い。

 桐峰はこんな響きを聴いたことが今までにもある。

 戦敗れ、討ち死にするしかないと決まった時の武士の声だ。

 闇夜を煌々と照らす火の前で、石宗は何かを燃やしているようだ。

「石宗翁。…何をしておられる」

「儂が生涯掛けて極め、したためた軍学の書を焼いておるのよ」

「―――――――何ゆえに」

 それは石宗の魂とも言える物ではないのか。

「最早大友家に、この学を御し得る器はおらぬ。敵に渡すも業腹じゃて」

 血を吐くように石宗は言い切った。

 愕然として、桐峰は炎の中で踊りくねって燃えゆく紙を見た。

 ばち、と火の粉が飛ぶ。

 火焔の苛烈は、そのまま石宗の苛烈な無念を思わせた。

 石宗は一度も桐峰を見ようとしない。

「嘗ての大友家はこうではなかった。嘗ての大殿はこうではなかったのだ」


 顔を見ずとも、石宗の悲嘆と憤怒が桐峰を打った。

 桐峰は石宗の胸中に共鳴するものを持っていたからだ。


 嘗ての尼子はこうではなかった、と―――――――――。


「戦には、俺も出してもらえるか」

 尋ねると石宗は答えずにしばらく押し黙った。

「貴殿から請け負った務めは果たす」

 重ねて言うが、それでも火の粉の囀りしか聴こえない。



「…左様に取り計らおう」

「忝い」


 長い沈黙のあと答えた石宗に、桐峰は礼を言った。

 恐らく石宗は沈黙の中で、己より若い桐峰を死地に追い遣ることを躊躇ったのだ。

 敗色の濃い戦に出れば、九品を斬る以上に命を危険に晒すことになる。

 だが武士として、大友家の武将として情を割り切って答えを出した。石宗も戦いを知る者ゆえに、桐峰が武人として如何に優れているかは判る。味方として戦場にあれば心強い限りなのだ。

 知り合って間も無い年少の厚意を、石宗は甘んじて受けた。


(もっと早う、違う時に出逢いたかったものよ)


「桐峰、死ぬるな」


 火勢が弱まって来た頃、それに合わせるように石宗が背を向けたまま言った。


 大友家の軍勢が日向に向けて出立する日より前、石宗は自ら所有する甲冑を幾つか桐峰に着用させ、彼に使いやすい物を選ばせるとそれを譲った。




 長月の四日、宗麟は後妻・ジュリアや宣教師・カブラル、ルイス=デ=アルメイダ、他、二人の修道士を伴い、三百人の耶蘇教徒たちを率いて日向に向け出発した。

 十字架と、大友家の杏葉紋の旗を掲げ、宗麟始め美々しく着飾った彼らは教会に咲く華のようであり、もしもこれを総大将に任じられた田原親賢が見たならば、さぞかし渋面になったであろう。


 一体、何をしに行かれるおつもりか、と。


 宗麟の耳には最早、赤震尼の爛熟した声しか聴こえず、目は赤く濁り、舌は赤震尼のもたらす赤水(せきすい)しか欲さない。

 彼女を斬ることを宿命と言う初震姫によれば、それは赤震尼の身の一部のようなものであるらしい。


「今は赤震尼の声以外は耳には入りますまい」


 初震姫は断言した。


 桐峰も明那と共に日向に向けて発ち、途中で初震姫、夷空、五鶯太と合流した。

 桐峰と明那は石宗の陣に身を寄せた。

 驚いたのは、初震姫が見せた初めて乱れた姿だった。

 (あがた)・松尾城(宮崎県延岡市)に入ったは良いものの、宗麟は戦そっちのけで自ら作らせた教会に通い詰めた。

 ある日、教会で礼拝したその足で、宗麟は獣の血を欲して鷹狩に興じた。殺生禁断の教えなど宗麟の頭には無いようだ。桐峰たちは九品と赤震尼の姿をしかと見定めるべく、そのあとを追った。宗麟の一行に付き従っている、赤震尼の気配を窺う初震姫の様子は尋常ではなかった。


「あれが九品だ」


 弱視である初震姫に桐峰は一応、手で示して教えた。

 一行の中に立つ長身の美僧は、清げでありながら、どこか赤震尼に通じる毒めいたものを桐峰に感じさせる。見えずとも、視覚以外の感覚が研ぎ澄まされた初震姫には、きっと気配が伝わっただろう。


「あれは赤震尼の貴重な末裔(たね)の一つです。恐らくこたびのいくさが終わる頃には、また別の同胞(はらから)が増えておりましょう」


 何人もの女の命を犠牲にして生まれた星の落とし子・忌み子である赤震尼は、何百年も争乱を招いては、同胞を増やすことだけに執心しているのだと言う。目的を達するには多くの血が贄として必要なのだと。初震姫は幼い頃、両親を恐らくは赤震尼によって殺され、その時より弱視となった、と語った。

 初震姫の本拠地であり、図らずも世に災いを呼ぶ赤震尼を生むこととなった星震郷は、赤震尼を討つ為に幾人もの刺客を送り出したが、いずれも皆、返り討ちにされた。

 自らの亡き両親が鍛えた星震の太刀を持って、初震姫は悲壮な程の覚悟で赤震尼を討とうとしているのだ。

 桐峰は宗麟に謁見した時の様子を思い出す。

 赤震尼に耽溺し切っているように見えた。


(宗麟をたぶらかした化け物――――初震姫殿の手に負えるのか)


 同じ剣を使う者同士、初震姫の剣腕は察しがつく。

 尋常の使い手ではあるまいが。

 相手もまた、尋常とは程遠い妖だ。

 一行は、草木に身を潜めた桐峰たちには気付かず、鴨や雉など獲物の死臭と血臭を、秋の澄んだ野山の空気に漂わせながら通り過ぎた。


 物見(偵察)はそれで終わる筈だった。


 しかし。

「きっ、桐峰あれ!」

 帰途で明那が声を上げる。

「赤震尼や」


(先程まで宗麟といた筈)


 だが山間の獣道、涼し気に佇むのは確かに赤震尼だった。

 桐峰は咄嗟に初震姫を見た。

「赤震尼イッ!」

 止める間も無く赤震尼に殺到した初震姫の剣は、宙を薙いだだけだった。

 それは敵方の刺客『泥顔(でいがん)』の見せた幻だったのだ。

 歯を剥き出し、凄まじい面差しをした若い女の能面は、怨霊を演じることが多い。

 初震姫と五鶯太は、堺で夷空と落ち合う前、山城国大山崎(やましろのくにおおやまざき)で『泥顔』に遭遇していた。『泥顔』は傀儡(くぐつ)の術で人を操ってさえいた。幻術を使えても不思議ではない。

 偽とは言え宿敵の気配を前に、常に茫洋として感情の起伏に乏しい初震姫が、別人のように昂ぶっている。

 姿を見せぬ『泥顔』の声が、嘲るように響く。


「やっぱりだ。赤震尼を前にすると、お前は星震の剣をまともに振るえない。それでは、赤震尼に相対するまでもない。今のお前ならわたしでも仕留められそうだ」


「オノレエエエエッ!」

 初震姫は闇雲に剣を振るう。

 剣筋も何もあったものではない。

(いかん)

 桐峰は五鶯太と共に彼女を止めた。剛腕の桐峰が、五鶯太と力を尽くさなければ止められない程に初震姫は猛っていた。

 それにしても五鶯太の、初震姫を止めんとする様は必死の形相で、桐峰が当惑する程だった。

 手負いの獣みたいや、と明那は茫然と初震姫を見ながら思う。

 いつも真っ直ぐに垂れた初震姫の黒髪が、ばらばらに乱れている。

「落ち着け」

 そう宥めると、桐峰は丹生を抜いた。

 朱赤が光る。

(どこにいる―――――?)

 『泥顔』の得体の知れなさは五鶯太からも聴いている。だが赤震尼のような化け物はさておき、生身さえあれば斬れぬことはあるまい。

「小野桐峰。お前も、殺さねばならなかったね。よくわたしのこの世の主人を始末してくれた」

「紅屋か」

 海岸での戦いの顛末を夷空や初震姫に知らせたところ、和泉の訛りであったこと、武器、風体、これまでの経緯を鑑み、『紅屋』の手代・次郎五郎であろうと知らされた。

「まあ、それはいいんだけれどね。あの男は、欲を掻き過ぎた。遅かれ早かれ、九品あたりに始末されていたろう」


 ならば、そうであれば良かったのだ。

 桐峰は怒りと共に強くそう思った。

 次郎五郎の襲撃が無ければ、明那が人を殺めることもなかった。


 初震姫は、僅かに平常心を取り戻したように見える。

 親を殺され光を奪われ、彼女もまた人生を狂わされたのだ。


「わたしはね、そもそもあの紅屋に加担しようと言う肚でもないんだ。忍びの業さえ活かせればいいのさ。あの尼の肚の深さは中々、興味深い。海賊上がりの三下で終わるはずが、この分では中々楽しめそうだ。いくさは止めさせないよ」


 紅いうねりが桐峰に襲い掛かる。

 桐峰が丹生の剣線を瞬きで描くと、ぼとぼとと頭を落とされた蛇が地面に落ちた。

「無駄だ」

 蛇は地面をのたうち、跡形なく消える。

「そいつは赤震尼から、死出の餞だ。来るといい。そこに死が待っている」

 『泥顔』の笑い声が響いて消えた。

「無事か」

 剣の構えを解かぬまま、桐峰は初震姫に尋ねる。

 彼女はまだ肩で息をしている。


(石宗翁から請け負った依頼は、『鬼室』と九品を斬ることだが……)


 赤震尼が初震姫の手に余るようであれば、丹生で割り入ってでも彼女を救ったほうが良いのでないか。

 桐峰はそう考え込んでしまった。


 南方の雄・鬼島津との戦が始まる。

 人の世に合わせるように、空気までが冷え冷えとしてくる時節のことであった。


 桐峰と明那はそのまま石宗に添い、初震姫たちは宗麟のもとに留まった。

 次に(まみ)える時の惨状を、予期する者は誰も無い。




 日向国、高城(たかじょう)が見える石宗の陣は、田原親賢に不満を抱く穏健派の将の陣近くにあった。

 ある夜、その陣中から一人の男があたりを窺いながら這い出て、道も無き道を島津軍の群れる方角に向けて走り出した。

 それは隠密裏に和平を求める使者だった。

 しかし主君の命を完遂するべく駆ける彼の前方に、立ち塞がる者がいた。


 閃く墨染の衣。


 豪奢な音が鮮血を迸らせ、使者は使命を果たせず、呆気なく事切れた。


 虚ろな躯を眺める九品は無表情だ。

 古風且つ厳めしい、金色の兵庫鎖太刀は華やかに眩く、袈裟姿の美僧を一層引き立てた。

 人倫に背く退廃を思わせる美であった。


「………何をしている」


 桐峰の声に、九品は面を上げた。何ら恥じるところのない、優美な仕草で。

 桐峰は朝晩の冷えに足先が痺れると言う石宗の為、薬草を探していたところだった。島津軍守る要衝である高城近くまで行き、物見したいという思惑もあり、夜間を選んだのだ。久しぶりに明るい月の出る晩なので、松明(たいまつ)も持っていない。

 九品は答えず、ただ笑った。

 笑うと月下に毒の花が咲く。宗麟に謁見した時と同じだ。

 桐峰はしかし、毒の花よりも太刀の美しさに目を奪われた。

 何と優美な剣であるか。九品の笑みに感じる毒が、その太刀からは感じられない。

 朱赤に澄んだ丹生程ではないが、清かにさえ感じられた。源平争乱の頃に使われた太刀は通常は革である帯取り(鞘を腰につける為の紐)が金色の()となっていて、それが三つばかり連なっている。鞘は金覆輪(きんぷくりん)(強度と装飾の為の塗装)、柄も鍔も渋い金だ。古色を帯びたゆかしさは、丹生の率直な明るさとはまた異なる趣があり、それこそ神社に奉納されてもおかしくない風格だった。


 更に刀身は、丹生にも似た朱色だった。


「小野四郎桐峰…。全ては、母上の御為。あの方の為に私が在る」

「…和睦の使者を、斬ったのか…?」

 兼ねてより、今は物言わぬ躯と成り果てた使者の主である武将は、石宗に和平の相談を持ち掛けていた。それゆえ、桐峰も目の前の惨状の次第を呑み込めたのだ。


 九品は毒の度合いを深めた。爛熟するように。


 桐峰は佩いていた丹生の刀身を抜いた。

 九品が応じ、刃同士が斜めに交差する。

 互いにすり流し、ぱ、と離れる。

 初めて、九品が面白がる童のような顔をした。

「桐峰。続きはまたいずれ…」

 墨染の袖を翻して、桐峰に追う暇も与えず九品は去った。

 あとには夜目にも赤い樹々の葉と、血に覆われた男の死骸が残った。


 例え桐峰が見たことを公言しても、九品は白を切るだろう。

 親賢の背に隠れ、親賢も聞かぬ振りをする。

 このようにして、和平の芽は摘まれてしまうのだ。




 戦場には縁起を担ぐ為に様々な禁忌がある。

 武将たちは逃亡、敗北に関わる物事をとかく嫌った。

 逆に、勝利や慶事に関わる物事は歓迎、奨励した。

 三献の儀もその一つである。

 三献の儀とは、大将が出陣前に、打鮑(うちあわび)、勝ち栗、昆布を肴に酒を呑む儀式だ。

 「打って勝ってよろこぶ」の単純な語呂合わせだが、当時の武将たちはこれを真剣に重んじていた。

 正式な三献の儀は宗麟も親賢も、日向に発つ前に行っている。

 しかし家臣が私的に自陣で追ってこれを行い、咎められることはない。

 石宗は明朝の戦の前にこれを執り行うと家臣たちに告げた。


 それから陣幕の内で、桐峰のみを共に杯を交わした。近侍の者たちも下がらせている。

 交わすのは酒ではない。

 再び会えるか解らぬ時に交わす、水盃(みずさかずき)だ。

 白い土器(かわらけ)の盃に、耳川から汲んだ水が満たされる。

 南国にしては冷えた晩で、おまけに島津軍の陣営からは僧侶たちの読経が響いて聴こえる。

 行軍中、大友の守護神である柞原(ゆすはら)八幡宮にまで攻撃を仕掛けたことに慄いていた大友方の兵たちは、自らの暴挙と神罰の恐ろしさをその読経によって思い知らされる心地でいた。

 島津軍は無論、そうして動揺を誘っているのだ。


 戦はもう始まっている。


 水を口に含みながら、桐峰は思った。

 石宗とて知っているだろうが、今宵の彼は眉間に皺を刻むこともなく朗らかで陽気だった。

 他愛ない昔語りばかり。

 桐峰には出雲の話を振った。

「いかがじゃ。大国主命(おおくにぬしのみこと)の都は」

「良いところだ。酒も上手い、良い湯もある。玉造には良い(たくみ)もいる。戦があれば―――――否応なしに荒れるが」

「…左様か。何処(いずこ)も同じ、人の世じゃな」


 桐峰らが見上げる曇天に、星は見えない。


「石宗翁は臥千上人のように、隠棲しようとは思われなんだのか?」

「さあてのう。…物心ついた時には、大友家家臣だったゆえ。お主にも覚えがあろう」

「………」

「九品とて。生ある者の子であれば、何ゆえああも人非人(にんぴにん)(悪事を働く者)でいられるのか。儂には解せぬ」

 和平の使者を斬り捨てた話を、石宗はさもありなんと言って聴いたのだ。だが、親賢に取り入っている九品を糾弾するには、動かぬ証拠が要る。それを持たぬ石宗は口を噤むしかなかった。

「俺にはまだあの男が何を考えているのか知れない。非道な輩は非道である理由や過去を持つものだが、『鬼室』で争乱を広め、赤震尼を助け、そこにあの男の意思は無いのだろうか…。そうも従順に、非道足り得るものだろうか……」

 九品の毒のような笑みと、母上の為と言った言葉を思い出す。

「問えるようであれば、直に奴に尋ねるが良かろうよ。返る答えは刃であろうがの」

 言葉を探しながら語った桐峰の盃に、石宗が水を注いだ。

 と、と、と、と満ちる水を見ながら、桐峰に問いかける。

 まさか今飲んでいる川の水が、明日には味方の死屍で埋まることになろうとは、互いに予想だにしていない。

「桐峰殿。…大殿や義統様を恨んでおるか」

「なぜだ」

「大友が援軍を出せば、尼子は救えたやもしれぬ」

 桐峰はかぶりを振った。

「それは、言うても詮無いことであろう。己が社稷(しゃしょく)(国家)を第一に優先するは、上に立つ者として当然。(そし)りを受ける筋合いではない」

「…桐峰殿のような男が領主であれば、世もまた変わろうな」

 桐峰はまさか、と言って笑う。

「出雲に来られる折りは俺が案内する。石宗翁。次は出雲の幸をご馳走するゆえ」

「おう。儂も、まだお主に薦めたい品々があるのだ」

 石宗が悪童のような笑みを見せる。

「いや、御免被る」


 二人はおどどおどろしく届く読経の音をまるで無視して笑い合った。



 桐峰が割り当てられた陣幕に戻ると、明那が待っていた。

 本来であれば戦場に女性を伴うのは御法度だが、石宗が差配してくれたのだ。

 不埒な考えを持つ兵が現れないとも限らないので、桐峰と同じ幕にいるよう心配りをしてくれた。

「まだ起きていたのか」

「やっぱりうちが戦に出るんは駄目なん?」

「足手まといになる」

 桐峰はきっぱり言った。それは事実で、むざむざと彼女を死なせる訳にも行かなかった。

 吉野で娘を待つ父母がいる。

 桐峰自身は男であり、この戦乱の世であり、親兄弟にもいざと言う時の覚悟がある。

 混戦の中で九品と遭遇すれば彼を斬る務めもある。

 本当であればもっと早く、明那を戦場から遠ざけておきたかった。

 明那は怯えた顔をしていた。

「……勝てるん?」

「解らない」

 桐峰は常と変わらぬ顔で答えた。

 両軍共に三万ばかりと兵力は拮抗している。

 しかし相手は屈強な島津の兵。加えて指揮官の力量に差がある、と桐峰は見ていた。

 そして恐らく石宗は勝算は低いと考えている。

 明那は、桐峰が語らぬ何事かがあると察したようだった。

 左手の中指から鹿の角で出来た指輪を引き抜くと、桐峰の懐のあたりに押し付けた。

「明那殿?」

「…お守りにやる」

「大事な物だろう」

 娘にとって、身を飾る品とは。

 商人の端くれだからそのくらいは解る。

「ええんや、せやからええんや」

「――――――荷は石宗翁の邸に置いて来たゆえ、代わりの品とてやれぬ」

 幾ら何でも出征するのに御師の商売道具は持参しない。

「そんなら、それ、頂戴」

 明那が指さしたのは、桐峰の右腰にぶら下がる石細工だった。

 玉造で作ってもらった物だが、そう高価ではない。動物や草花を象ったのが気に入ったのかもしれない。

 桐峰は微笑んだ。

「うん。良いぞ」

 吊っていた紐を解いて明那の両手に置くと、ざらりと鳴った。


挿絵(By みてみん)



 数日前から赤みを帯びていた雲が、いよいよ不吉に濃さを増している。

 燃えるような朝焼けの下、大友軍と島津軍が高城川(たかぎがわ)を挟んで対峙した。

 石宗の後ろについて馬に跨った桐峰は、鎧より空の景色に重さを感じていた。

 凶兆が極まったような空だ。

 だがもう、石宗は何も言わない。

 合戦の火蓋は切られている。ここまで高まった戦熱はぶつかる他に術が無い。

 緋威(ひおどし)(甲冑の小板の赤色の物)に金と黒の脛当て、腕先を籠手(こて)で覆い、腰に大太刀・丹生を佩いた桐峰は、縦にす、と伸びた金の兜と相まって、合戦の晴れ姿と言えた。

 跨る馬は堂々たる尾花栗毛(おばなくりげ)(白)。

 美麗に目立てばそのぶん、敵に大将首と見なされ狙われる危険は高まるのだが、このあたり、本人は意に介していない。派手なのが少し居心地悪いくらいである。

 初震姫たちはまだ宗麟のもとにいて、この戦場には到着していない。

 初震姫が赤震尼と九品を見て以来、病を得たのが気懸りだった。それでも五鶯太は、健気に彼女を戦場に出られる状態にすべく介抱していた。二人の間に、姉弟にも似た絆を桐峰は感じた。

(初震姫殿が討てぬなら、俺が討てば良い)

 『泥顔』であれ、赤震尼であれ。

 桐峰はとうに、己に叶う限りの力を尽くす覚悟をしていた。


 きん、と冷えた空気の中。


 ただ戦意のみがある。


 やがて北側、大友軍から(とき)の声が上がると、雪崩を打ったように戦闘が開始された。

 大友兵たちは功名を求め我先にと高城川を渡り、島津軍は押されるように後退した。

 これにますます勢いづく大友軍。

 秋の早暁に凍てつくような川の水飛沫を物ともしない。

「お味方の勝利、間違いありませぬぞ。親賢様」

 総大将である親賢の横手に青毛(あおげ)(青みを帯びた黒)の馬をつけていた九品が囁く。僧形でありながら、彼もまた武具を纏っての同行を許されたのだ。戦場だと言うのにその囁きは親賢の耳穴にするりと滑らかに入り、彼を酔わせた。

「うむ。勝機、見えたりっ!」

 逸った親賢の声が轟き、味方の士気の高揚は最高潮に達した。

 大友の家紋使用を許された、言わば譜代の同紋衆の強さには桐峰も感嘆した。

(勝てるやもしれん)

 自らも丹生を振るいながら、心が緩みかけていた。そうは言っても鬼島津もさるもの、丹生とまでは行かぬまでも丈夫な太刀を持つ兵が多く、それらと切り結ぶのは桐峰であっても些か骨であった。しかも扱いやすい短めの槍を揃えている。武器は煎じ詰めると間合いの長さが勝負とは言え、敏捷にそれを使いこなせるかどうかも要点なのだ。油断すれば大太刀の下を掻い潜って槍先を突き上げてくる。


 そうこうしながらも島津軍はじりじり、更に後退するとやがて左右に分かれた。

 勝機に目が眩んだ大友軍は、何も疑うことなく追撃、突進する。


(――――おかしい)


 流石に桐峰は疑念を抱いた。

 余りに容易く、うかうかと敵陣に踏み込んでいる。あれだけの武具、装備を持つ屈強な島津兵たちが、草しか食まない愛玩動物を装っているようで。

 名にし負う島津四兄弟の一人・島津義弘(しまづよしひろ)の軍が。

(計略ではないのか)

 石宗に注意を促そうと姿を探すが見当たらない。

「石宗翁!石宗翁っ、どこにおられる!」

 声を張り上げるが、近くの敵兵の気を引くばかり。

 彼らの首元に狙いを定めて、丹生ですぱりと斬る。

 浄衣姿の時とは違い、返り血を気に掛ける場面ではない。


 そして桐峰の不安は的中する。

 大友軍の攻勢に耐えるだけ耐えた義弘軍の後方には、島津軍総大将・島津義久(しまづよしひさ)の本隊が万全の体勢で疲労した大友軍を待っていた。


 その甲冑のたかった光景を目にした時、桐峰の全身から血の気が引いた。

(やはり罠だったか)

 桐峰を乗せた馬がここに来て怯え、動揺している。

「どう、どう、堪えてくれ」

 声を掛け、手綱を繰りながら丹生を構え直す。

 桐峰の体力とて無尽蔵ではない。

 重い甲冑を身に着け、大太刀を縦横無尽に振るう内にじわじわと削がれている。

 咄嗟に、懐を押さえた。鎧の厚く硬い板の下、明那に貰った指輪を仕舞っている。

〝お守りにやる〟


 ―――――――死ねない。


 体の根底から湧くような、決意とも願いともつかない電流めいたものが桐峰の全身を駆け巡った。

 そんな彼の目に、探し求めていた石宗の甲冑の背が飛び込んできた。

 島津兵の塊に突進しようとしている。


「待て、石宗翁っ」


 ここで踏み込むのは自殺行為だ。

 石宗が振り向いた。

「桐峰殿、彼奴(きゃつ)ら、()を飼うておったわ!我ら、してやられたぞっ」


 餌を飼う――――――。

 島津特有の、囮を使ったこうした囲い込み戦法を『()野伏(のぶ)せ』と呼び、関東では「餌を飼う」と言い習わす。

 多くの名軍師、陰陽師を輩出した下野国(しもつけのくに)足利学校(あしかががっこう)の出である石宗は、既にそれと察していたのだ。

 その時の石宗の顔が、桐峰が見た最後の、生きた彼の表情となった。

 石宗は前に向き直ると馬を進めた。


「吾に当たる者は死し、吾に背く者は亡ぶ。急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」


 石宗が唱えたのは、護身法の一部だ。唱え終われば振り返ることは許されない。

 手の動きから、九字を切っているらしいことも窺える。

 しかし幾ら護身法を唱えても、義久軍に特攻をかけるのは無謀だ。


〝嘗ての大友家はこうではなかった〟


「待てっ!!」

(行ってはならぬ!)


 声を限りに叫んだ。

 追おうとした桐峰を敵の刃が阻む。桐峰はそれを馬で蹴散らした。

 石宗の背中が、尼子勝久に、六輔に重なって見えた。


(また止められぬのか。また救えぬのか、俺は)


 矢が、雨霰と降り注ぐ。

 石宗の上にも、桐峰の上にも。


(石宗翁)




 出雲に来るのではなかったのか―――――――。




「討ち取ったりいっ」

 石宗の背中が馬上からあえなく落ちたあと、高らかな声が響いた。



 愕然とする桐峰自身も左肩に矢を受けていた。緩慢にそれを抜き取って地面に投げ捨てる。

「退却じゃ、退却せよ!!」

 親賢が遅きに失した号令を下す。

 取り乱す総大将を置き去りに、それまで横についていた九品が軽やかに馬首を返した。

 桐峰は視界の端でその様子を捉えた。


 九品と目が合う。

 毒花の唇が動いた。


 痛ましいことだな、と。


 蠢く赤雲の下、桐峰はこの男を斬らねばならぬと思った。


 初震姫たちはまだ参陣しない。





(―――――丹生都比売(におつひめ)様。私に御力を)







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