其ノ三
思いも寄らぬ道行になったと思いつつ、桐峰は明那を連れて大和から河内国、河内国から和泉国に抜け、堺から船に乗った。
大きな帆船による長旅に慣れぬ明那は、初めの内酔っていたが、瀬戸内海、安芸灘(現・広島県近くの海)に至る頃には慣れたようだった。
桐峰は大和国を出る前に、明那に旅の目的を詳らかに話したが、彼女の同道の意思は変わらなかった。九国・豊後は遠く、桐峰でさえ未踏の地なのに。この時代、長い旅路をゆけばゆく程、戦火その他の災いに巻き込まれる危険が高まるのは周知の事だ。明那の熱意の出処が、桐峰にはいまいちよく解らない。とにかく「恩を返すんや」との言に終始する。頬を桃色に染めて。ぶっきらぼうな口調だが、なぜかはにかみながら。考えた末に桐峰は、若い身空でとても義理堅く律儀な娘なのだという結論に落ち着いた。
実は淡路島の横を過ぎて播磨灘を船が進む間、桐峰の胸には未だ上月城に籠っているであろう尼子勝久や六輔たちに対する慙愧の念が去来していた。臥千上人は桐峰に咎は無い、と言ってくれたが。
桐峰幼年の折に育まれた尼子氏への思いは身に沁みつき、一朝一夕に消せるものではない。海の伝える震動は桐峰の胸にも響き、桐峰は晴れぬ胸中に耐えるように大太刀・丹生を抱き締め船室にあった。他の客が雑魚寝する中、浄衣を着て一人、太刀を抱えて胡坐をかく御師の姿は目立ったが、話しかける者は無かった。
桐峰の変化を訝しがり心配した明那も、今では何を言うでもなく、彼を見守っている。
皆が遠巻きにしていた桐峰に、悠々と歩み寄ったのはこの船の女主だった。
夷空、と名乗る彼女は倭寇だ。つまり海賊兼商売人。
公に堂々と航海出来る船ばかりを選り好みしていては、いつまでも堺を出られない。
桐峰は夷空の人柄を信じるに足ると判断して乗船した。互いの持つ荷を幾らか交換した上でのことだ。
どれだけ価値ある品物を相手に披露出来るか。
商人としての駆け引きにおいて、桐峰も夷空も相手の力量を評価するに至り、夷空には格別、色々と便宜を図ってもらっている。
「あんたがその調子では付き合わされる明那が気の毒だよ。桐峰」
腕組みして鷹揚な口調で話す夷空の大柄の身体は、褐色でたくましい。船の揺れにもびくともしない。
長い髪を高く結い上げている点は明那と同じだが、色は黒く、鳶色めいた艶を持つ。
桐峰が夷空と明那、それぞれに向けて仄かに笑う。
「すまんな…」
気弱な声だった。
「『鬼室』を追うんだろう?しっかりしないと鬼に喰われてしまうぞ」
夷空がさばさばと言って口の端を吊り上げる。
口調にも笑みにも湿り気や嫌味が無く、名前のように広々したものを感じさせる。
情報通でもある彼女は『鬼室』のいわくとその流れた先を知っていた。夷空にそれを教えたのは、臥千上人が桐峰の助けとなると言った『初震姫』と言う巫女だと聴かされた時は、桐峰も些か驚いた。
だが彼の性格であるので、その驚き様は「そうなんだぁ」と言った程度だった。『鬼室』に関する驚きに免疫が出来ていたせいもある。
更に夷空は初震姫の依頼で『鬼室』をその後独自に調べ、それが豊後の大友家に渡ったところまで突き止めた。
宗麟に『鬼室』を献上したのは美僧と、これまた美貌の尼であったようだ。
僧侶の名は、やはり九品。『鬼室』と行方知れずになった僧の名前と同じだ。尼は赤震尼と言う。これまで得た情報を鑑みても、その二人が『鬼室』で騒乱を呼ばしめる元凶のようだ。
「鬼ならあたしが山刀で真っ二つにしてやるよ」
「明那は勇ましいな。愛器があるのは良いことだ」
夷空が胸元の十字架にちゃらりと指を絡めて微笑む。
桐峰の目がそれを見る。
「私のエキドナは、明那よりもじゃじゃ馬で困る」
エキドナが夷空の持つ得物―――――銃の名であることを桐峰は知っている。
夷空の腕も。
桐峰と夷空が相手の力量を評価したのは、商人としてだけではなかった。
そして船は海上交通の難所である安芸国・音戸の瀬戸の手前、芸予諸島の島の一つに着岸。夷空とはそこで別れる。
桐峰と明那はそれから別の船で周防国に近い屋代島へ、また更に別の小舟で周防国に渡り、周防からは陸路で長門国へ抜け、赤間関(下関)から船で筑前国に渡った。
周防国を通過する間は、国情の見聞にも努めた。何しろ周防と豊後の政治と戦は複雑に絡み合うものがあるからだ。
嘗て大友宗麟の弟・大友晴英は、天文二十(1551)年に周防の戦国大名・大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれた折、晴賢に望まれて大内義長として新当主の座に就いた。しかしこれも弘治三(1557)年、毛利元就に攻められ自害して果てるという結果に終わる。
かくして大友は周防に対する影響力を失い、その後も多々良浜の戦いや大内輝弘の乱など、毛利との攻防は絶えず続いている。
宗麟に迫る以上、大友と多勢力との現状把握は欠かせない。
「戦や公の商い目的ならば別なんだがな……」
「何がや」
寡黙だった桐峰が久し振りに自分から発した言葉を、明那は理解出来ずに訊き返した。
潮風が香る。博多の町は寺院が多く、人はもっと多く賑わっている。
これが九国、筑前の日明貿易で潤う大都市。
「海路だ。船の便は俺たちのものとは比べるべくもないだろう」
桐峰たちが夫婦鹿屋に寄ってから大和国を出て、筑前の博多津(博多港)に到着するまで、二十日近くの日数がかかった。
今は皐月。桜も終わっている。
筈だが、まだ道に植わる桜が舞うのを見て愕然とする。遅咲きなのかもしれないが、さすがは南国だ。
因みに夫婦鹿屋では、質の良い薩摩上布が手に入ったら仕入れて来てください、と、ちゃっかり頼まれてしまう桐峰だった。
明那は彼女なりの解釈でまた桐峰に問う。
「悪いことやるほうが楽、言うこと?」
「え。いや、一概に悪いと断じることは出来ないと思うけど。商いは、俺もするし…。しないと食べられないし…」
「ふーん」
明那は行き交う人、店に売られる品などを意外に醒めた目で見ている。
桐峰でさえ心に浮き立つものがある。若い娘である明那は猶更かと思ったのだが。
掘立柱の建物もまだある時代に、博多では板葺はもちろん、富裕の証である瓦葺の建物が当然のように立ち並ぶ。二階建て、三階建ての家屋さえ見えるのだから驚いてしまう。
人種も多様だ。
明人、朝鮮人、南蛮人。
特に明人が多いのは気のせいか。
博多津の中には明人が集住する区画「大唐街」もあると聴く。
開かれた国際港・博多津と政治・経済・宗教は深く結びつく。
その結びつきを強めるに一役も二役も買っているのが、彼ら明人であった。
「すごいな。堺にも見劣りしない。楽市(取引の自由化)はしてるんだろうが、楽座(組合による特権の撤廃など)はどうなのだろう?」
「さあ」
桐峰は明那の気を惹くように話題を振ってみたが、明那の返事は冴えない。
播磨灘の海上にあった頃の二人とは立場が逆になっている。
路上で大きな魚を捌き、客に売る男を明那は遠い目で見る。
「あたし、商売の賑わいとか、余り好きやないの。牛皮とか、馬の皮とか肉とか売る時も、おとんもおかんも、腰が低うて、卑屈で。あたしらの生業は、人にまっとうなものて認めてもらえん。爪弾きもんなんや…。こないな場所に来ると、それを思い知らされるんや」
桐峰は自分の軽率を悔いた。
しかし。
「御師とて蔑まれることはあるぞ、明那殿」
「――――――嘘や」
「いや、他愛ないものでは童に乞食呼ばわりされて、石を投げられるくらいだが。大人にも卑しい間者紛いと言われることがある。真っ向から反論しにくいのが苦しいところだ」
「でも桐峰は杵築大社の御師やろ?杵築大社言うたら、日の本で知らん人間はおらんやん」
「まあ、考え方はそれぞれあるようだ」
ふわり、といなすように説くと、明那は考えるように自分の帯に挟んだ山刀の柄を左手で撫でた。
その左手の中指に桐峰の目が行く。
「珍しい指輪だな」
「ああ、鹿の角で作った細工や。高い品は、買えへんから」
そんな遣り取りをしていたら、桐峰の鼻に白粉の匂いがむっと押し寄せた。
見れば小袖の襟を鎖骨が見えるくらい大胆に崩した女が、桐峰の浄衣の袖を絡めるように捕らえている。
「男前の御師さん。彼の花屋で一っ風呂、浴びていかんね?」
どうやら湯屋の客引きのようだ。
二階建ての店は瓦葺でこそないものの、大きな構えで、他にも婀娜っぽい女が数人、店の前で男たちを誘っている。
「要らんわっ」
鼻白んだ明那が吠えて、桐峰の袖を奪い返した。
「あん、」
今にも桐峰にしなだれかかりそうだった女が、唇を尖らせる媚態も堂に入っている。
この時代の湯屋は遊女宿も兼ねている。加えて湯は混浴。
明那と泊まるには不向きでしかない。
(しかし――――――――)
湯屋の情報収集能力は侮れないものがある。
湯に浸かり、女の肌に戯れ、気の緩んだ男たちが垢と共にぽろぽろこぼす言葉を組み立てれば、世情を知ることが出来る。
それ目当てに湯屋に泊まったことも桐峰にはあった。
「男女別に入れる湯はあるか?」
女が手を打ち鳴らして笑う。
「あっはっ、可笑しなお客さんやね!あるにはあるけど、湯船は小さかよ?」
「構わん」
「桐峰っ。何を考えとんねん!あんた、お、女遊びがしたいんか、見損なうたで!!」
鋭い眦を吊り上げ、頬を朱に染めた明那が怒気も露わに叫ぶ。
「いや。…情報を集めたい」
女を横目で一瞥して、桐峰は明那に小声で説明した。
「ああ、そういうことね」
聞き耳を立てたらしい女が納得顔で頷く。
それまでとはやや異なる風情で桐峰たちを手招きする。
「上がりんさい。もてなしは〝普通に〟したら良いっちゃろ?あんたたちみたいな客、たまに来るけんね。ま、女連れは珍しかけどくさ」
「まだ建物が新しいな」
彼の花屋の一階の廊下を客引きの女・なえに導かれながら桐峰は言う。
木材の色が若く、香りが新しい。
「鋭いっちゃね、御師のお兄さん。博多は二十年近く前、筑紫惟門様が大友様に謀反を起こした時、焼野原になったけんね。まだまだ町そのものが新しいとよ。ここ、彼の花屋もね。博多っ子は打たれ強かばい。さ、ここがお二人の部屋」
からり、となえが開けた襖の向こうには、生々しい春画の描かれた大きな屏風が鎮座しており、それを見た明那が悲鳴と怒号の入り混じった奇声を発して、猪突するとそれを蹴り倒した。
寂れた教会の、小さなステンドグラスが黄昏の光を受けて輝く。
拙い技術で作られた、何を描いたものか耶蘇教に精通している宣教師でもなければ解さぬような細工を、橋姫は気に入っていた。
美しい物は良い。華やかな物は良い。
彼はステンドグラスを背に小卓に脚を組んで座っている。
目の前では腹の膨れた男が痙攣しながら橋姫を仰ぎ見ている。
瀕死の形相だ。
否、実際に彼は死の淵にあった。橋姫の配下により無理矢理に大量の水を飲まされ、現代で言うところの水中毒を起こしている。水の過剰摂取は血液中のナトリウムイオン濃度の低下を招き、症状が重くなれば死に至る。
これまでに色んな拷問方法を試した結果、原理は定かに掴めないものの返り血が飛ぶことのないこの拷問法を、橋姫は気に入っていた。華美な小袖も汚さずに済む。半弓を好むのも返り血を浴びることが少ないのが理由だ。
くつくつと笑い、能面を外した橋姫がくい、と顎をしゃくると、横にいた男が彼の化粧箱の蓋を開けて差し出した。化粧箱の蓋には蒔絵に螺鈿の細工。
そして中には鉄鋏、鉄毛抜き、化粧筆、櫛、櫛払い(櫛の目に詰まったごみを取る道具)などが納まっている。
橋姫は化粧筆を取って口に含んで湿らせ、懐から出した蛤に入っていた紅を掬い唇に注し始めた。ある程度、差し終えると満足して唇をにい、と歪める。
嘗てこの博多の町外れに、素朴な教会を建てた宣教師が、今の彼の表情を見れば悪魔と言って恐れたかもしれない。十字架を投げつけたかもしれない。
「それで、その御師と娘は湯屋に入ったのじゃな?」
痙攣を続ける男はようよう、頭を縦に振る。
彼は、博多津に着いた船から降りて町の賑わいを楽しんでいたところを、橋姫の配下に捕らわれたのだ。自分がなぜこのような仕打ちを受けるのかも解っていない。解らぬまま言葉に尽くせぬ苦しみを、腹と心に詰め込まれ、水に殺されようとしている。
硝子を通した夕陽の光に輪郭を縁取られた、小袖を着て鬼女のように笑う男になど面識も無い。
橋姫にも格別、彼に拘る必要はなかった。
配下に命じれば桐峰らの行き先などすぐに知れる。
事実、彼の狙いが『鬼室』であることも既に承知だ。
『鬼室』を追う輩を除け、という、紅屋にいる血縁の命令など知ったことではないと考えていたが、こうなれば話は別だ。
そして橋姫は、無辜の人間をなぶる愉悦に浸るのが好きだった。
後々、桐峰と改めて対峙する時、お前のせいで多くの人間が苦しみながら殺されたのだ、と言った時の、桐峰の反応を思うと心が躍った。
割れた小袖から覗く白い左脚には、桐峰によってつけられた傷痕が残っている。
残忍でありながら美しさを至上とする橋姫は、己に傷をつけた者を決して許さない。
橋姫の復讐心も知らず、桐峰は彼の花屋で考えに耽っていた。
(周防の大内支配も今では昔話だな。すっかり毛利の領地だ。しかしそれもいつまで保つか。織田の勢い、破竹の如しだからな。…大友の領国経営も盤石とは言い難い)
骨肉の争いの末に大友家の家督を継いだ大友義鎮(現・宗麟)は耶蘇教への傾倒と家来の偏った重用振りなどで家中には不満を燻らせている者も多いようだ。なえの話したようにその不満を謀反として実行に移した人間もいる。
父の代から続く交易によって築かれた富、ひたすら忠義を尽くす有能な臣という財、そして室町幕府の看板を利用する狡猾さが大友宗麟をして大領主とまで成さしめたのだ。
加えて、戦における駆け引きを宗麟は知っている。
(鋭敏ではなくとも、周到なのであろう)
だがその周到さも、彼の花屋で得た情報によればどうもむらっ気がある。
宗麟の人物像を、桐峰は把握しかねていた。
現在の大友家当主は宗麟の息子の義統であるが、義統は父と比べて凡庸で、実質の采配は宗麟が振るっていると言っても過言ではないらしい。
そこまで考えをまとめた桐峰は、正直なところ、げんなりした。
こうした現世のいざこざこそ、彼が最も疎んじるものだからだ。
がっくりと顔を両手で覆う。
(…もうやだ。臥千上人みたいに暮らしたい。でも『鬼室』はほっとけないし。……あああ、やだやだやだ!)
顔を手で覆ったまま、ぶんぶんぶん、と頭を左右に激しく振る桐峰を、明那は傍から怪訝を通り越して懸念の表情で見ていた。
この部屋に通された当初こそ、露骨に色気溢れる内装に慄いたが、桐峰が全く気にする素振りを見せないので今では落ち着いていた。
しかし畳に敷かれていた真紅の天鵞絨(ビロード)は引っぺがして丸め、部屋の隅に置いた。
毒気に当たりそうなくらい艶があって心臓に悪かったのだ。
そして現在、目の前で何やら葛藤しているらしい桐峰に、現に戻るよう願いも込めて質問してみた。
「なあ、桐峰。あんた、もしかして前にも湯屋を使うたこと、あるんか?」
「――――――ん?うん」
我に返った桐峰が明那を見て頷く。
「泊まったってこと?」
「そうだ」
だが桐峰は湯女(垢すりや髪梳きに加え色を売る女性)たちの色香に溺れ遊興に耽ったこともない。湯屋に泊まる目的は情報収集であり、御師たる者、身辺は清らかに保つべきと考えているからだ。万一、寝首を掻かれないとも限らないという用心もあった。
「…泊まったってことはやな、つまり、」
「ん?――――これはっ!」
ずざ、と桐峰が突然、間近に迫ったので明那の心臓は跳び上がった。
桐峰の目は明那ではなく、その横の燭台に向いていた。
「…青白磁ではないか!余程の豪商でも青白磁の燭台など使わぬものを」
「…はあ」
次は素早く床の間を向く。
思考から浮上して、やっと部屋の内装に目が向いたらしい。
「何と、釉裏紅の玉壺春瓶だと……!?これが博多の力かっ」
杜若が活けられた紅の瓶を掲げ持って感動している。
花の濃い青紫と紅色の対比が鮮やか且つ艶やかなのは明那にも解るが。雄叫びを上げる程の物とは思えない。
「…すごいん?」
桐峰が、ばっ、と明那の声に反応する。顔が活き活きと輝いている。
「もちろんだ!!これはそもそも元の時代に景徳鎮窯で生み出されたもので、この紅色は銅を焼いて発せられる色であり、安定して生産するのは難しいのだ。明になってからは廃れて近頃では市でも幻の品となっていて――――――――」
「あ、うん、解った。もうええ」
明那が興奮する桐峰に右手を挙げて待ったをかける。
しかし桐峰は止まらない。
「釉裏紅は辰砂とも呼ばれつまり俺の持つ丹生と兄弟とも言えるのだ!」
「うん、よう解らんけど、もうええ」
「よっし!!九国滞在中に見世棚から大店から見て回るぞ、明那殿!」
「………うん、…え?」
商人魂に火がついた桐峰を前に、大和国で聴いた『鬼室』という茶器を追う話はもう良いのか、とは明那には訊けなかった。
思い出すまで放っておくことにする。ちょっと考え詰めて疲れていたようでもあったし、丁度良いだろう。
「あんな、うち、風呂、貰うて来るけど」
「お先にどうぞ!俺はなえ殿に、調度品の由来を訊いて来るっ」
言うなり桐峰は部屋を飛び出して行った。
あとに残された明那は呆気に取られた。
「…なんやの、あいつ」
愛牛を丁重に、鮮やかに解体して、華麗な太刀捌きを披露した男とはまるで別人だ。
しかも、なえに話を聴きに行くと言った。
あの色気漂う女性に。
湯屋に泊まり慣れて免疫もあるのだろうか。胸がむかむかする。
(いや、でもあの朴念仁な商売莫迦が女遊びなんてするか…?)
それに一緒に旅をしてみて、桐峰がかなりの食道楽だと判った。
美味と商売になりそうな珍品があれば、横で美女が裸踊りしてても狸が輪になって踊っていても目に入らなさそうだ。
むかっ腹を立ててから色々と思い巡らせ、明那は考え込んだ。
そんな調子で商人魂赴くままの桐峰に付き合い、明那も釉裏紅の掘り出し物や、当時、博多に多く輸入されていた同安窯系青磁碗などを探し巡る内、青花(染付)や赤絵、白磁、青磁に関する薀蓄を桐峰によって授けられることになった。
明那も面白がって、そこそこ耳を傾けた。
これも桐峰の希望で、野菜市で賑わう川口町を巡り歩いたりした。
時折、桐峰が目を光らせて飛びつき、買って帰った野菜を、彼の花屋で料理してもらうこともあった。
皐月過ぎ、水無月。
日を追うごとに少しずつ暑気が人々の肌を撫で、汗を誘うようになっていた。
遠からず聴くことになるであろう蝉の声を予感する頃。
桐峰は怪異に遭う。
桐峰も明那も寝付きが良い。初めこそ桐峰と同じ部屋に寝ることに密かに緊張していた明那だったが、余りに桐峰が健やかな寝息で眠り入る様子を見て肩の力みがかくりと取れた。莫迦らしいような莫迦にされたような安心したような複雑な心境だったが、桐峰らしいと言えば非常に桐峰らしい。それで明那もさっさと寝ることにした。
しかしそんな桐峰が、ふと真夜中に目覚めた晩があった。
ぼんやり意識が覚醒した桐峰は、障子戸の白を際立たせるやわやわとした月の光を感じた。
虫の音一つ聴こえぬ静かな晩だった。静寂が痛い程。
旅の道中であれば熟睡していても、頭に鳴り響く警鐘に起こされ難を逃れることもある。
だが初夏の穏やかな夜更けに、危機的な兆しは見受けられない、と桐峰は判断した。
ならばなぜ、自分は目覚めたのだろう。
喉も乾いていない。厠に行きたいとも思わないのだが、桐峰は明那を起こさぬようにして障子戸を開け、濡れ縁に出た。
目の前の庭には小さな池があり、空に浮かぶ月を映し揺らめかしていた。金銀錦に光る魚など一度も観たことのない池だが、月光を受けた様はそれだけでも美しい。
夜気は心地好い。
涼しい――――――…寒いくらいに。
冷涼な空気が張り詰めていると桐峰が感じた時、空気と空気が微細に擦れ合うような、極めてささやかな気配がした。
池のすぐ上に、ほう、と仄白く浮かび上がる影があった。
ばらばらと解けた黒髪。
細い顎の下には、鎧直垂。
本来あるべきあちこちの装備が欠けているが、戦国の世で見るには古風な大鎧姿の若武者だった。
よく見れば胴と首の境が透けている。
恐ろしいと言うよりは、年端もゆかぬ若武者のかんばせが寂しく悲しげであった為、桐峰は哀れを誘われた。死霊を見るのはこれが初めてでもない。
「…いずこの家中の方であられるか。何か私に、訴えたいことがおありか」
顔つきを改め、差し伸べるような声でそう尋ねる。
若武者は悲しげなまなこをゆるりと瞬きさせて、唇を幽けく動かした。
〝………菊池………〟
(菊池?)
大友氏に反旗を翻した肥後の名族・菊池義武は大友宗麟の叔父であったが、天文二十三(1554)年には大友三宿老の一人に数えられる戸次鑑連(立花道雪)らによって自害させられ、ここに菊池氏は滅亡している。
しかし桐峰の頭には今では見かけぬ大鎧の姿から、「博多合戦」という言葉が浮かんだ。
今から凡そ二百五十年近く昔の出来事だ。
元弘三(1333)年、時の反鎌倉幕府の気運に乗って、菊池武時一族が鎮西探題(鎌倉幕府の民事裁判所)を襲撃した。当初は豊後の大友・筑前の少弐も共に探題を襲撃する筈だったが、大友と少弐は裏切り、菊池のみが討ち入って、悲惨な結末を迎える。この時討ち取られ、晒された菊池氏の首の数は二百に及ぶと言う。
鎮西探題が置かれたのはここ、博多。
未だ安らかに眠れぬ御霊があるのか――――――――。
「御無念が、忘れられぬか。私に出来ることはあるだろうか」
亡霊の姿は、鎧の色こそ識別出来るものの、靄のように頼りなくて儚い。
池に映る月と同じようにゆらゆら揺らめいている。
〝豊後に集う邪気が……我を眠らせてくれぬ〟
「邪気?」
〝赤い鬼が、我らを裏切りし大友を、惑わそうとして騒ぎ、我らの眠りを妨げるのだ〟
「それは―――――」
『鬼室』のことか。
呪われた茶器を手にした宗麟の惑乱を感じて、霊魂までが不安に陥れられているのか。
生者のみならず死者まで。
〝不思議に温かな朱赤の光を感じ、ここまで彷徨うて参った〟
丹生都比売に加護された、丹生に惹かれたのかもしれない。
桐峰は濡れ縁に跪き、若武者の虚ろな顔を、眼光を以てくるむように見た。
「御安堵召されよ。赤き鬼は、この小野桐峰が成敗致すゆえ」
その為にここまで来た。商売に明け暮れても本来の目的は忘れていない。
それでもまだ池に浮かぶ彼は不安の面持ちだった。
桐峰は濡れ縁から庭に下り、池の縁に立った。裸足にざらりとした感触が冷たい。
間近に見る亡霊の顔はやはり若く、十代半ば程に見える。
その齢で、大鎧を纏って刀を振るい、斬られて首を獲られたのだ。
世の習いであっても、傷ましさを感じないという道理は無い。
(…もう良い。もう眠られよ)
「幽世の大神、憐れみ給い恵み給え、幸魂奇魂、守り給い幸い給え」
低く、空気に染み渡るような声で、大国主命の神徳を仰ぐ咒言を桐峰は唱えた。
若武者の顔が初めて、生きる者のように驚いた表情を見せる。
咒言を唱え終ると、一条の光が池を照らした。
強く鋭い光ではなく、嘆きを慰撫するような慈愛に満ちた光だった。
ほんの少しだが若武者が微笑んだ気がする。
常の闇が戻った時には、桐峰の他には誰の姿も無い。
どこからか飛んで来た蛍の灯が桐峰の顔の前を、弧を描いて飛び、空に吸い込まれるように消えた。
光の軌跡を追った桐峰は、顔を和らげた。
数日後、豊後より桐峰に文が届く。
差出人は越前守角隈石宗。
大友家家臣であり名高い軍師だ。どのようにして桐峰の在所を突き止めたものか、豊後来訪の折にはぜひ、当家に立ち寄られよとある。
首をひねりながら桐峰は、お心遣い忝いと返書をしたため、以降、数回、文の遣り取りをした。
水無月も過ぎて、蝉が出番とばかりに声高に鳴くようになった。
博多にも馴染んだ桐峰を、彼の花屋に訪ねる者たちがいた。
「―――――夷空殿が?」
なえが頷く。
「そう言ったら解る、って言われたけん。知り合いなん?」
「ああ。通してくれ」
「はいはい」
部屋にいた明那も、夷空の名に反応して寄って来た。
「夷空さんが来たんか?」
「そうらしい」
「…なんでやろ?商売?」
「さあ」
やがて部屋に通されたのは夷空だけではなかった。
小柄な若者と、すらりとした立ち姿の女性。
夷空も上背があるが、この女性は細く高い体つきだ。
白い小袖姿、腰には鹿皮を巻き、袴は穿かず脚絆。
端麗な顔立ち。伏せがちの目から弱視かと推察する。
手には戒状杖。
長い黒髪を夷空や明那のようには結わずさらりと流していた。
「久しいな、桐峰。こっちは初震姫だ」
(巫女と聴いていたが…)
変わった身なりだ。
「あなたが小野桐峰殿ですか」
初震姫が桐峰のいるほうに顔を動かす。
「ああ」
「そうですか。わたし――――――――」
区切られた言葉の続きを桐峰と明那は待った。
なぜか夷空は困ったような笑いを顔に浮かべている。
「わたし、お腹が空きました」
ぐぐううううう、と主張を裏付ける音。
「あんたは時と場合を選べよ!」
初震姫の後ろで、それまで沈黙していた若者が思わずと言った風に叫んだ。
桐峰は何だか自分が怒られたような気持ちになった。
若者は桐峰と明那に五鶯太と名乗った。富士御師と言うから桐峰とは同類だ。但し、五鶯太のほうが忍び臭が強いと桐峰は感じた。
なえの差配で用意されたのは海豚の煮込みだった。
器の中に牛蒡、人参、蒟蒻、そして皮つき海豚肉が盛られている。
調理して時が経つのか湯気は出ていない。
海豚は桐峰も何度か食べたことがあるが、この調理法で食べるのは初めてだ。
どんなものだろうと一口、箸をつけてみる。
口に入れると、海豚肉がとろけた。味も絶妙。
しっかりした血抜きなど、下拵えも万全なのだろう。
(味付けは…砂糖)
貴重品の砂糖が惜しげも無く使われる。彼の花屋の潤い振りが知れる。
(それから塩、醤くらいか?野菜と肉の風味が存分に活かされている。何と滋味豊かな…)
何杯でも行ける味だ。
結局、桐峰と初震姫だけで海豚の煮込みを十杯食べてしまった。
集まった面々の中でも特に端整な顔立ちの男女二人が揃って大喰らいだったのだ。
他の三人に「こいつら……」と呆れられたのは仕方ない。
「さて、本題に移ろうか」
姿勢を正した夷空、初震姫、五鶯太、桐峰、明那は車座になった。
「『鬼室』を追う人間、つまりは桐峰や初震姫に刺客を放っているのは堺の会合衆の一人、『紅屋』の手代。商品の買いつけを担当している男だ」
「欲得に踊らされていますか」
静かに口を挟んだ初震姫に夷空が頷く。
「大友を出汁に儲けたいようだ。九品と赤震尼に便宜を図って能面の刺客を動かしている」
「では、『橋姫』も?」
今度は桐峰が尋ねる。
「ああ。だが『橋姫』の場合は手代の甥だか何だかで、命令に沿って動く奴でもない。吉野での顛末を聴くに、桐峰個人に対する執念を持ったと考えるのが妥当だろう」
「九品の動きはどうです」
初震姫が先程と変わらぬ恬淡とした声で問う。
「不穏だ。相も変わらず。島津が攻める、毛利も来るやも、とまあ、噂を流して戦の火種をばら撒いている。どうあっても大友に合戦をさせたいらしい。悲惨な結果のな。―――――――――それで桐峰。お前に伝えることがある」
夷空の双眼が桐峰に据えられた。
「何だ?夷空殿」
夷空はふと間を置いたが一気に告げた。
「上月城が落ちた。尼子勝久は、死んだ」
桐峰は御笠川、地元では石堂川とも呼ばれる川の畔に来ていた。
凪いだ水面を夏の陽が照らしている。
蝉の声が注ぐ。
水面に視線を落とし、浄衣姿の青年はふわりと佇んでいた。
(親父殿たちは息災だろうか)
小野家が尼子氏に絶対服従であったのは昔の話。
時代の趨勢を見極め、桐峰の父も兄も近年では毛利氏寄りの立場になっていた。
しかし心中ではまだ、尼子氏を諦めきれない思いがあった筈だ。
(俺のように)
〝上月城は落ちた。尼子勝久は、死んだ〟
この水無月三日のことだったと言う。
尼子勝久は享年二十六。
尼子は滅んだのだ。
(…六輔)
あの忠義の忍びもこの世にはもういまい。
過去に残して来た己の肉片が葬られた。
そんな心地が桐峰を覆っていた。
悲しみより冴え冴えとした虚しさが胸を満たした。『鬼室』を放置しておけない一念でここまで来たが、それを尼子から離脱する名目として掲げ、どこかで安心してはいなかったか。
そう疑心暗鬼に陥る自分もいた。
蝉がぴたりと鳴き止んだことにも構わぬ桐峰の周囲に淀む暗雲を裂いたのは、一本の矢だった。
それは桐峰の頬を掠り川に水音を立てて沈む。
桐峰は身じろぎもしない。
「腑抜けたかえ、小野桐峰」
聞き覚えある高飛車な声。
「……今はお前に構う気分じゃない。『橋姫』」
ゆっくりと振り返ると、橋姫が以前にも劣らぬ豪奢な小袖を煌めかせて立っていた。
手には半弓。
「お前、左様な温い存念でこれまで生き抜いて来たか」
「………」
「左様な体たらくでは、お前の為に妾の手に掛かった者共も浮かばれまいなあ」
その言葉と、声に宿る愉悦を桐峰が聴き咎める。
「―――――何?」
「おう、それ、そのように答えてもらわねばの。ああ、数多の無辜の命、お前の行方を知る為に奪うてやったわ。じわりじわりと、なぶってのう。どうじゃ?泣けてこよう?」
虚ろだった桐峰の瞳にちかりと闘志が灯る。
丹生の柄に手を掛けた。博多に滞在中、拵えを職人に依頼し、柄の色は丹生の刃に合わせた鮮やかな朱色に変わっている。
「成る程。俺が甘かった。お前は吉野で殺しておくべきだった」
「後悔はあとに立たぬぞえ」
「この先に後悔せねば良い」
素早い抜刀と同時に間合いを詰める。
橋姫は予め、桐峰の大太刀の間合いを警戒して十二分に距離を取っていたつもりだったが、それでも丹生の剣先は帯に輝く金糸に届き、数本の金の糸が千切れ飛んだ。
それらがはらはらと地に落ちるより前に、橋姫は更に後退する。
吉野山での戦いで負傷した左脚はもうすっかり回復しているらしい。
だが桐峰は冷淡な口調で宣言した。
「十歩だ」
「何じゃと?」
「俺が十、歩んだ後にお前を斬る。お前は、成す術も無く斬られるだろう。お前がなぶり殺した人々のようにな」
「戯言を…、」
「一」
桐峰が雲を歩むような足取りでふわ、と動く。
橋姫が狙いを定めて放った矢は丹生で易々と打ち払われた。
「二」
矢筒から矢を取り出してつがえ、射る。
つがえて、射る。何度も何度も。
その動作を繰り返す内に橋姫の首も背中も汗みどろになった。能面の内側にも汗が流れて、化粧を台無しにしているのが解る。
(なぜ当たらぬ、なぜ!!)
桐峰の腕前は知っている。
しかし大太刀と半弓では相性が悪い。大太刀に対して飛び道具は有利。幾ら名うての剣客であろうと、得物の相性は無視出来ない事柄の筈。なのに自分の射かける矢は逸れ、或いは地に落とされ、桐峰は悠々と歩みを進めている。
追い詰められた獲物の恐怖を、橋姫は生まれて初めて味わっていた。
このままでは。
「五」
このままでは。
なぜか酒に酔ったような心地で、橋姫の手元は覚束ない。
桐峰の姿が異様に大きく目に映る。
天を突く、仁王のように――――――――。
仁王を中心に視界がぐるぐる回る。
「九、」
仁王が目の前に立っている。朱色の刀身を光らせて。
そこで橋姫はようやく悟った。
「おのれ貴様―――…、妾に毒を仕込んだかっ、いつじゃっ」
「俺を卑怯と言ったのはお前だ」
仁王の持つ丹生が、橋姫の心の臓を貫いた。
ず、と丹生を桐峰が引き抜くと、支えを失った身体は地面に呆気なく伏した。
豪奢な小袖が今では血と土に塗れ汚れている。
華美を愛でた橋姫の末路だった。
丹生の血と脂を懐紙で拭い、鞘に納めた桐峰は、無残な骸と化した敵を伏し目に見た。
「なぜ死に急いだ。橋姫」
(お前には自由に生きる術があっただろう。それしか選べぬ道であった訳でもあるまいに)
「勝久様と違って、お前には…」
非業の死出の旅路をゆくしかない尼子勝久には望めなかった生き方が、橋姫にはあった筈なのだ。
歯痒さと遣る瀬無さと悔しさ。そして虚しさが募る。
何が橋姫に人の道を外れさせたのか、もう尋ねることは叶わない。
「早く去らねば人が来ますよ」
声を掛けられ顔を巡らせれば、いつ来たものか初震姫が立っていた。
「年行司に事情を説明するのも面倒でしょう」
「…ああ」
博多の自治衆である年行司に全てをあからさまに話すのは差し障りがある。今後の動きも取りにくくなる。
桐峰は最後に橋姫を一瞥すると、踵を返した。
初震姫と連れ立って彼の花屋に戻ると、入口をうろうろと歩き回っていた明那に、なぜか桐峰は拳骨を喰らった。
背の高い桐峰に、小柄な明那は果敢に跳躍して拳を振るったのだ。
「人が心配してたいうのに、二人で逢引きか!」
「え?え?違う…、」
目をしぱしぱさせる桐峰といきり立つ明那を横に、初震姫が呑気に口を開く。
「わたし、そろそろお腹が空きました」
「あ、俺も…」
「はあ!?あんたらの胃袋、壊れてるっ」
夷空から桐峰と尼子の事情を聴いて、桐峰をひどく心配していたぶん、のほほんとして戻ったように見える桐峰の様子は、明那には肩透かしで腹が立った。
その後もかりかりして突っかかる明那がなぜそんなに怒っているのか桐峰には解らず、おたおたと腰を低くして彼女に対応した。
夷空はそんな二人を軽い笑みを湛えて傍観し、初震姫は我関せずと言った態度で、五鶯太は同情混じりの眼差しで桐峰を見ていた。
博多の大商人が集う下市小路に、『紅屋』と号する店がある。
和泉国堺の会合衆・紅屋宗陽が九国進出の先駆けとして置いた、言わば支店だ。
その店の買いつけを担う手代・次郎五郎は、耳にした報せに顔を険しくした。
「米藤丸がやられたやて…?」
「はい。年行司の使いが、遺体を引き取りに来るよう、言うて来てます」
「なんで儂の身内と知れたんや!」
次郎五郎にとって、甥である橋姫・米藤丸の訃報よりもそのことのほうが重要だった。
「何でも教える投げ文があったとかで…」
ばしっ、と畳を打つ音に、店子が首を竦める。
商いの記録が記載された帳簿を、次郎五郎が投げつけたのだ。
「派手に金ばかり使うて、役に立たん出来損ないがっ。好き勝手して最後まで儂の顔に泥を塗るんか―――――――忌々しい」
ちっ、と激しく舌打ちする。
「…どないされますか?」
「儂にそんな身内はおらん」
「――――――は?」
「そう言うて追い払え。どうせ裏付けは誰が書いたとも知れん、投げ文一つ。出来損ないの躯なんぞ、犬畜生に喰われてしまえばええんや」
「そ、それではあんまり米藤丸さんが…、供養もせんと、」
恰幅の良い次郎五郎の両目がぎょろりと剥かれた。
「哀れか?惨めか?そないな情、積み上げても一文にもならへんわ。儂に利をもたらすでもなく、野垂れ死んだあいつが悪い。弱くて死んだあいつが悪い。解ったらとっとと小役人を追い返して来んかいっ!!」
次郎五郎の剣幕に、店子は逃げるように飛んで行った。
ふん、と鼻息を荒く吐いた次郎五郎は、畳の敷物の上にどっかり座り直した。
金襴に輝く布地を太い指でなぜる。
(紅屋手代で満足などせえへんぞ。大友様には必ず大戦に打って出てもらわなあかん)
先日この『紅屋』に商談に訪れた宣教師は、この敷物を見て、博多では商人までこのように煌びやかな金襴を用いるのかと驚き、次郎五郎はいたく悦に入った。
南蛮交易の産む富の、何と甘いことか。
堺から遠く離れた博多であれば、主の宗陽に知られず密輸に思うさま手を染めることが出来る。かどわかした人間を売り払えば、元手も掛からずにぼろい儲けも出る。
(けどまだまだや。戦になれば鉛の値も米の値も上がる。買い占めて売りつければ途方もない益になる。大名から小作人まで儂に頭を下げるしかのうなるんや)
その為には赤震尼や九品の力が要る。
大友家を奈落の底に叩き落として蜜の味を味わえるのであれば、手を組む相手が例え鬼であろうと人外であろうと、次郎五郎にはどうでも良いことだった。
家が燃え、血が流れ、築かれる金の山しか見えていない。