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其ノ二

克明な描写でないつもりですが牛の解体シーンがあります。

苦手な方はご注意ください。


 大和国、奈良町。


 広い町屋の店内では反物から小袖、衣桁に掛けられた打掛が色の華やぎを見せている。

「桐峰はん。何ぞ買うて行かはりますか?」

 鬼瓦のような顔の女主人が桐峰に尋ねた。この夫婦鹿(めおとじか)屋は彼女の才覚によって切り盛りされていて、夫は専ら生地の買い付けや品物管理を担う。それぞれの得手不得手に見合った役割分担が功を奏したのか、商売繁盛していることは品物や店子たちを見れば自ずと知れる。

 店の前も綺麗に掃き清められ、客を招き寄せる空気があるのだ。商人として見習うべきところは多いと桐峰は常々、考えていた。

「手持ちの銀と干し魚で西陣織は買えるかな」

 桐峰が腰を下ろした板の間に、荷を広げた。粒銀がざら、と鳴る。

 奥にいた夫がすすす、と寄って来た。妻と桐峰の商いを検分するのだ。

 睦まじい商人夫婦だ、と桐峰は胸中で苦笑した。

 妻が鬼瓦なら夫はふにゃ、として生白い麩のような面相だが、垂れ目から洩れる光は桐峰に剃刀を思わせる。

 鬼瓦も油断ない目で桐峰の出した商品を一瞥した。それから満足したようにうんうんと頷く。

「ええわ。ええ品ですねえ。これなら――――――お待ちください」

 立ち上がり、店の中を移動する。

「これと、これで」

 西陣織の反物を二反、持って来て桐峰に差し出した。

「…公方様が御不在でも西陣の職人の腕は変わらないな」

 現在、室町幕府将軍・足利義昭は都を落ち、毛利氏の元に亡命している。織田信長に追われた為だ。仲がこじれて逃げた、とも言える。

 権力者同士の喧嘩など桐峰にはどうでも良いが、庇護者であった足利政権がどれだけ動揺しようと、織物の品質を保ち続ける西陣の職人たちの心意気は見上げたものだった。

「足利はんとこの被官になった人らもいますけど、大舎人座(おおとねりざ)の人は大商人らとの繋がりも強いですから。腕と才があったらどんな世でもね」

 女主人は自分のことのように誇らしそうに言う。

 大舎人座とは西陣の織物職人集団だ。

「夫婦鹿屋のように?」

「滅相も無い」

 桐峰の言葉に妻は磊落に笑い、夫は垂れ目の眉尻を更に下げた。

 成功している自覚はあるのだ。

「西陣織だけでええですの?」

「他にお薦めは」

 ここは夫が口を出す。

越後魚沼(えちごうおぬま)の麻、岐阜川島斜子織(ぎふかわしまななこおり)、ええのがありますよ」

「手広いなあ。俺より御師に向いているのではないか、ご亭主」

「御冗談を。長年かけて方々に伝手を作ってるんですよ、桐峰はん」

「うーん。杵築大社も頑張らねば」

「大和にはしばらくご滞在ですか?」

 桐峰の素直な反応に微笑んだ妻が訊いてくる。

「ああ、良い刀鍛冶がいると聴いたので訪ねてみようと思っているんだ」

「どちらに?」

「山」

「どこの?」

「南か北としか解らん」


 夫婦揃って呆れた顔をされた。これは仕方ない。


「御師殿がそない心許無いことでは」

 夫が麩のような顔を渋面にして言えば。

「信心まで怪しまれますよ」

 妻が続ける。

 桐峰はちょっとしゅんとして子供のように侘しい気持ちになった。

「…吉野の桜は見頃だろうか」

「そうですね。ここのところは好いお日和が続いてますし、私共も商いがなければ花見に参りたいものですよ。何せ暇がねえ」

 女主人の吐くものは恵まれた溜め息だ。

「桜狩に行くかな」

「吉野に参られるので?」

「うん」


 夫婦鹿屋の夫婦が顔を見合わせる。


(暇人は良いねえ、と思われている…。絶対)

 またちょっとしゅんとなった桐峰を取り成すように夫が言った。

「そう言えばじき、文殊供養があるそうです」

「興福寺殿が?」

「はい」

「そうか…」


 出雲に戻られる前にはまた寄ってください、と商人らしい愛想に見送られ、桐峰は店を出た。

 桐峰の歩く道は興福寺の威勢を誇示するように真っ直ぐ整備されている。

 と、行く手に十歳くらいの男の子が立って桐峰を見ていた。

 質素だが清潔な身なりで、髪の毛こそ丹念に梳った様子はないものの、眼差しは少しどきりとするくらいに澄んでいる。

 彼がす、と伸ばした右手の拳を開くと、中から桜貝を二つ合わせたような蝶が舞って出た。

 ひらひら、ひらひら、とそれは桐峰の眼前まで飛んで来ると、桜の花びらに変じて落下した。

 咄嗟に出した桐峰の掌をすり抜けて、地に触れる前に消え失せる。

 桜貝はこの頃、花貝(はながい)と呼ばれた。未だ涼やかに立つ子供の素性が桐峰には見当がついた。

「そなた、声聞師(しょうもじ)の子か?」

 声聞師とは陰陽師としての役目をよく務める。奈良町に住まう賤民だがその子からはどこか気品のようなものが感じられた。己を卑下する人間の悲壮がない。

 子供ゆえ、と侮らせない空気が彼にはあった。

「はい。左様でございます。御師様は、鬼退治に行かれまするのか?」

「――――え?」

「赤き鬼を、退治されるのでは?」

「いや、そんな心算はない」

 赤き鬼、の言葉に『鬼室』が桐峰の心を掠めたが、桐峰は否定した。

 しかし童は退かなかった。

「吉野山に行かれるのでございましょう」

「そうだが」

「そこにわたくしやわたくしの父達の師匠が住まっておられまする。御師様は師匠に逢われ、丹生都比売(におつひめ)様の御加護を受けることになりましょうぞ」

「そなたの言うことの意味が解らない」

 声聞師の子はふんわりと微笑む。春の空気が混ぜ込まれたような笑みだ。

「桜狩に行かれませ。さればお解りになりましょう」

 それから丁寧に一礼すると、彼は桐峰を置いて横道に消えた。


 横道などない筈の、町屋の壁の向こうに。


 桐峰は足をのろのろと吉野山の方角に再び進め始めたが、どうも言い知れぬ摩訶不思議な力に操られ、導かれているようで落ち着かない気分だった。

 御師として諸国を巡っていれば珍しい体験もするが、今回程に奇怪なのは初めてだ。


(『鬼室』に、関われる器量でもないと知っているのに)


 夫婦鹿屋の亭主が言っていた文殊供養とは、弱者・賤民の救済や施しを目的とする。

 北山十八間戸(きたやまじゅうはっけんど)に収容されている癩病者(らいびょうしゃ)は穢れた者として忌避される存在であると同時に、平安時代中期からはその逆に、文殊菩薩、観音菩薩などの化身とする見方も出て来た。

 興福寺の文殊供養の最たる対象者は彼ら、難病に侵された者たちなのだ。


 穢れと聖性が混然として複雑な時代だった。

 声聞師の子もまた、清らかな印象だけを桐峰に植え付けた。



 回国で足腰を鍛えてある桐峰にとって、吉野山はさして労せず登れる山だった。勾配をどんどん歩む。

 鶯の声に混じりながら、桜は丁度、満開を迎えんとしていた。

 時折、ほろほろと花びらが桐峰の前を通り過ぎる。

 優しい春の雪を見る心地だ。


 室町幕府南朝の天皇だった後醍醐天皇は、一時的な避難場所として吉野を選んだのだろうか。それとも本気でこの楚々と鄙びた山を政の中枢にしようと考えていたのか。

 丹生都比売と呼ばれる吉野の姫神の懐で、安らぎたかったのかもしれない。

 埒もないことを考えてしまうのは、桜に彩られた吉野山が甘やかで美しいからだ。

 春の霞の中、桐峰は陶然となった。

 まるで溶けない雪のように優しい色合いが桐峰の頭上を飾る。

 ここに清酒があれば完璧なのに、と少し残念に思う。


 ぼお、っと突っ立って桜に見入っていた桐峰の耳に、悲鳴が届いた。

 酩酊から一気に醒めた彼は、周囲を見回し、声のした方向に駆けた。

 荷を負っていようと、山道を走るくらい訳ない。


 駆けた先では、桜の幹が立ち並ぶ向こう、夫婦連れと見られる男女が山賊に囲まれていた。

(全く、どいつもこいつも)

 人の財を奪うな、自分で働けと呆れる。乱世だから許されるという話ではないのだ。

 桐峰は荷を置くと、むっつりした顔で刀を抜いた。

「何やお前はあっ」

 突然現れた白衣の桐峰に、唾を飛ばしながら賊の一人が叫ぶ。

 男の目は桐峰の太刀に向けられ、それから、へっと嘲笑を浮かべた。

「おいおい、優男が。ええ格好しよう思うて」

 その先を、口臭著しく漂わせる男は続けられなかった。

 一閃した桐峰の刃が喉をぱっくりと切り裂いたからだ。

 鮮血がばあ、と噴き出し、男は呆気なく絶命した。

 桐峰は再びここで不機嫌になった。浄衣が返り血で汚れたせいだ。

(また洗わねばならん!)

 それらの鬱憤も含めて、残る山賊を一睨みする。

 刀を抜けば日頃のおっとりした空気が霧散するのが桐峰である。

 彼を知る者でも菩薩が明王になるような変貌振りに驚く。


 斬りかかって来る者は残らず刃の露にすると、桐峰は決めた。




「ほんまに、ありがとうございました」

 夫婦が桐峰に何度も頭を下げる。

 あれから桐峰は、刃向う賊は決意通り、全て斬り伏せた。それを見て戦意喪失した残りの男たちは散り散りに逃げた。


(浄衣を洗濯して行けっ)


 そう怒鳴りたいのをぐ、と我慢した。

 美しい桜の景色も血で汚れてしまった。ああ、と桐峰は落ち込む。

 ともあれ、夫婦連れに怪我はない。

「無事で何よりです。――――――…」

 声をかけた桐峰の、物言いたげな視線を追った夫が、自分の抱える白くて長い布の包みを持ち直す。

「賊の狙いはそれでしたか?」

 三十歳程の容貌の夫はまだ青ざめていたが、頷いて桐峰の問いに答えた。余程、大事なのだろう。しっかりと掴まれた布には無数の皺が出来ている。

吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)に奉納する筈やった大太刀です」

「刀鍛冶殿でしたか。…する筈だったと言うのは?」

 男は一度俯き、また顔を上げて喋ろうとしたが、それを妻が遮った。

「あんた。立ち話も何やし…、うちに寄ってもろうたら」

「せやな。御師殿。良ければうちにお出でください。あばら家ですけど、お礼に昼餉でも食べて行ってください」

「いや、それは―――――」

 遠慮しようとした桐峰だったが、ぐううぅぅぅきゅるぅ、と物欲しそうに腹が鳴ってしまった。しかも細く長く音は響いた。


「…………………」


 三人の間を春風と沈黙が通り過ぎて行った。笑みを含むように舞う桜。

 これでは催促しているも同じだと桐峰は恥じ入る。かなり恥ずかしい。

「…あの、お言葉に、甘えます」

 頭を掻きながら言った桐峰を見て、あわや命を落とすところだった夫婦は、強張っていた顔を緩めた。



 案内された家は鄙びていたが、小柴垣で囲われた一端の住居だった。

 庭には常緑の松や柿の木などが植わっている。

 濡れ縁の向こうには春の空が広がり、良い眺めだ。


 囲炉裏の傍で桐峰は、荷を降ろし、太刀と脇差を抜いて置いた。

「どうぞ」

 そう言って鍛冶師の妻が出してくれた物を見て、桐峰は目を輝かせた。

 それは吉野名物の「つるべずし」だった。鮎のなれずしのことだ。

 釣瓶形の桶に漬け込んだことから、つるべずしと呼ばれるようになった。

「良いのですか、かようなご馳走を、」

 つい尋ねてしまう。

 そもそも、庶民ではまだ一日二食が普通の時代だ。桐峰は一日三食以上は食べなければすぐに腹の虫が鳴くが、回国中は手に入る最小限の食糧で遣り過ごすしかないのが現状だ。

 昼餉を振る舞われるだけでも御の字だと言うのに。

「命を助けてもろたんです、このくらいはさせてください」

「そうです。その前に、浄衣を着替えてください。お食事される間に、洗います」

「何から何まで。ありがとうございます」

 鍛冶師である夫が腰を低くしつつも笑みながら言うと、妻が桐峰に夫の物であろう小袖を差し出す。

「丈が短いと思いますけど、堪忍してください」

「何の」

 受け取った小袖は、浄衣には及ばないものの、白に近い生成り色でこざっぱりとしていた。夫婦の寝室であろう続きの間で着替えた桐峰から血で汚れた浄衣を引き受けた妻は、井戸があるという家の裏手へと姿を消した。

 これで血の臭いに妨げられず、後顧の憂いなく名物を堪能出来る。

 人助けとはするものだ、と桐峰はしみじみ思った。

「う、」

「うっ?」

「美味い………」

 つるべずしを頬張った桐峰は、両目を閉じて感極まった声で言った。

「酢と塩加減と、独特の風味が何とも言えない!」

「ようございました」

 顔をほころばせる鍛冶師の顔には、よく見るとあちこちに水膨れが出来ている。腕や手にも。

 鍛冶師には目を患う者も多いと聴く。

 何の生業も楽ではない。

 桐峰が人の上前をはねる輩を許せないのは、様々な人間と接して、そのことを知り抜いているからでもあった。

「自ら打った大太刀を、売るのではなく奉納しようとは奇特ですね」

 本心から桐峰は言った。

「いえ。手前共にも、欲はあるのです。奉納を考えたんも、それを叶えたいからでして――――――」

「ほう?どのような望みでしょうか」

 会話をしながら桐峰はひょいぱくひょいぱく、とつるべずしを食べている。

 それが粗野な動作に見えないところが彼の得なところだった。

 端整な目元の下、もこもこ動く頬袋に愛嬌がある。

「子を、授かりとうて…」

 小さく答えた鍛冶師は俯く。

「………」

 桐峰はずず、と白湯を啜った。

 夫婦は共に三十路に見える。その年でまだ子が出来ない、というのはこの時代では焦っても無理からぬ状況だ。

 桐峰の母は長兄を十五で産んでいる。

 杵築大社の御師の家に嫁いだ人間として、あの時は本当に肩の荷が下りたように楽になったものだ、と母が語るのを何度か聴いた。

 嫁げば、それだけで女の細い双肩に重みが掛かる。

 家によっては子を成さないことを理由に嫁を里に帰すことさえままある。その事実を世間は咎め立てするどころか、平然と受け容れる。

 桐峰は濃やかな心遣いを見せてくれた鍛冶師の妻の顔を思い出していた。

「せやけど、迷うてもいたんです」

 空気が湿気るのを振り払うように、鍛冶師が作り笑いした。

「迷う?」

「はい。…ご覧ください、御師殿」


 布を取り払われた大太刀を、鍛冶師が鞘からすらりと抜く。

 抜き放たれた刀身の色は尋常ではなかった。


「これは」

「辰砂を混ぜて鍛え上げたら、こないなったんです。丹生都比売様の御加護があるようにと。吉野をお守りになる丹生都比売様は、みずがね(水銀)の、辰砂の神でもあられますから」


 柄と鞘は簡素な仕立てだったが、刀身は鮮やかに澄んだ赤に輝いていた。

 このような刀を、桐峰は初めて目にした。

 ――――――壮麗だ。

 鳥居の朱赤に見出すような神聖さを感じさせる。大きく波打つ波紋が桐峰の胸にまで迫り来るようだった。どくん、どくんと、桐峰の鼓動と一体となって。


「このような色にございましょう。天水分命(あめのみくまりのみこと)様の、御不興を買いはせぬかと」

 天水分命は吉野水分神社の祭神だ。

「無用な心配ではないかと思うが…」

「ええ、ですが、ですが、万一、と思いますと」

 鍛冶師の男は先程よりも深く俯いた。

 余程、進退が窮まっているのだろう。桐峰の胸に、行きずりの夫婦への憐憫の情が湧いた。

「女房は時折、私に気付かれんよう、泣いてます…。その、絞り出すような声を聴くと、胸が抉られるようで。どうしても、赤子を抱かせてやりたいんです。鍛冶師の座の中には、心無いことを言う奴らもいてて。…あいつがどんな思いしてるかもよう知らんで」

 それは世間体ではなく、伴侶を思い遣る言葉だった。堪え切れないように、語尾が少し震えていた。


 自分が天水分命であれば、すぐにでも彼らの願いを聞き容れるのに。


 埒の無い思いと知りつつ、桐峰はそう思った。


「なあ!彦次(ひこじ)さん、いる!?」


 若い娘の声が飛び込んで来たのはその時だった。

 やや赤茶けた長い髪を後ろで高く結い上げた娘は、鋭い眦と野の獣のように光る目が印象的だ。髪と似たような色の小袖に、黒に近い紺色の袴を穿いて裾を絞っている。

 そう言えばまだ、互いに名乗っていなかった、と桐峰は自分の迂闊が恥ずかしくなった。

 仮にも御師で、命の恩人と目する自分にはあちら側からは訊き辛かったのかもしれない。

「おお、明那(めいな)。どないした?」

「黒の…、牛の躯の処理をしたいんや。井戸、使わせてもろてもええか?」

 明那と呼ばれた若い娘は、ようやく桐峰の姿を目に留めて驚きと警戒の表情を浮かべた。

「井戸は今、(うた)が使うとる。こちらの御師殿の浄衣を洗うてんねや」

 明那が桐峰の全身を検分するようにじろじろと見る。

 不躾な態度に、鍛冶師がはらはらしているのが窺えた。

「俺は杵築大社の御師、小野桐峰。こちらでは昼餉を馳走になったのです」

「せや、明那。山賊に襲われたところを、歌も儂もこの方に助けていただいたんや」

 彼女の煌めく目が刺すように険しくなる。

 簪の鋭利な先端みたいだと桐峰は思う。

「………へええ。杵築大社の御師様ともなれば、穢多(えた)の生業なんぞ卑賤なものはご不快でしょう」

 どうやらこの娘は牛馬の解体を生業とする、被差別民らしい。

 賤民と蔑まれ、辛い思いをして来たのだろう。

 敵意混じりの挑戦的な明那の物言いに、鍛冶師の男は青くなったが、桐峰はあっさり首を振った。

「いや、俺も山中で熊、猪、鹿を捌いたことがある。御師仲間には内密に、牛馬も捌いたことがある。何なら俺がやろう」

 明那と鍛冶師の目が同時に丸くなった。

 そこへ、鍛冶師の妻の歌が戻って来た。


「ほんまに持てるん?」

 明那が何度目かになる問いを桐峰にぶつけた。不審と共に。

 牛の遺体は鍛冶師の家を出て山道を少し下ったところにあった。

 まだ黒く濡れたように艶やかな被毛に、桜の花びらが飾りのようにちらほらと落ちていた。開かれて時を止めたまなこは黒曜石に似ている。

 綺麗な遺体だった。

「うん」

 桐峰も同じ答えを繰り返した。

 骸から漂う、血の生臭さがむっとあたりに立ち込めている。生きていた者の発していた、熱の残滓が消えていない。

 明那の仲間らしき男たちも訝しげに見守る中、桐峰は広い布で牛の遺体を包み、借りた小袖を汚さないようにと気を付けた。

 それから牛の腹部に左腕をくぐらせ、ひょ、と肩に抱え上げる。

 周囲の誰もが目を見張った。


 一見、脆弱な優男に見える御師風情がたった一人で、日頃の自分たちと変わり映えせぬ要領で、そのまま牛を運んで行くのだ。

 桐峰の見た目に寄らぬ怪力に、明那もぽかんとしていた。

「おい、明那。なにもんや、あいつ」

「うちもよう知らん。彦次さんとこのお客らしいけど……」



 流れで明那だけが牛を背負った桐峰に続いて、再び彦次たちの家を訪れた。

 庭に出て、井戸近くの地面に布が下敷きになるよう、牛を下ろす。

「血抜きは済んでいるのか?」

「ああ」

「山刀を貸してくれ」

 獣の狩猟、解体には鉈にも似た山刀が適している。

「あんた、持たへんの?」

「今は荷の中にある。取りに行くのも取り出すのも面倒だ」

「………」

 黙って明那が寄越した山刀の刀身を見て、桐峰が唇をほころばせた。

「良い出来だ。彦次殿の作か?」

 明那は頷き、桐峰はあとは口を開かず解体に専念した。

 しかしそれより前、一番初めに彼がしたことは、牛の身体に触れて目を瞑り、黙祷を捧げることだった。

 明那はその姿に目を見張った。

 それから桐峰は牛の鼻面を掴み、持ち上げると首筋横に山刀を当て、無造作に切り進めて頭部を切断した。

 滑らかな手際に明那が息を呑む。

 桐峰は明那の反応を介せず脚を一本ずつ切り落とし、皮と脂の間に刃を入れ、途中で切れないように皮を剥ぐ。

 途中からは身を柿の木に縄で吊るして皮を剥いだ。


 春風の吹く庭に、死して尚、存在感を放つ肉の塊。


 不思議とその光景は、残忍さより神聖さを感じさせた。

 神に捧げる儀式のような。

 明那から見ても慣れた手つきの桐峰の、動きが鮮やかなせいだろうか。

 山刀を振るう眼が、何とも優しいからだろうか。牛の躯に情愛さえ感じているのではないかと思ってしまう。だがそこに熱狂的なものはなく、ただ穏やかさがある。

 顔色も変えず次々と内臓を取り出していく桐峰に、明那のほうが戸惑っていた。

「あ、あんた、卑しいことしてると思わへんの?」

「なぜだ」

「なぜって――――――。血だらけになるし、汚いし、皮を剥ぐのは残忍やし」

「明那殿もそう思っているのか?卑しい行いだと」

 すると弾かれたように明那が反駁した。

「阿呆、そんな訳あるか!あたしは自分に誇りを持ってる。ただ、―――――ただ世間には、煩く言うぼんくらが多いから……」

 明那はぐい、と目を拭った。

 

 獣の子やから獣を屠れるんや。

 えげつないことが出来るんや。


 幼い頃から明那は、そんな言葉の礫を受けて育った。

 しかし桐峰は手を休めず淡々と言う。

「死んだ獣の皮を剥ぎ、臓腑を取り出し、肉を喰らう。何が悪い?生きる為だ。獣への弔いでもある。馬の血は呪力があると言って高く買う者もいる。背骨を絶つから離れていろ、明那殿」


 桐峰は山刀を明那に渡すと腰の太刀を抜いて踏み込んだ。

「無茶や、刀が折れる」

 明那の声は、桐峰の刀の起こした風に流された。


 鈍い衝撃波があった。刃は折れなかった。

 吊るされた牛の肉は、見事に両断されていた。



 血の跡に明那が持参した砂を撒き、桐峰は井戸水で汚れを落とした。


「黒、言う名前やってん」


 振り向くと明那が綿布を桐峰に差し出していた。桐峰は礼を言ってそれで腕や手を拭いた。

「あの牛か?知った牛だったのか」

 明那が頷く。赤茶色の髪が肩から手前に揺れた。

「うちで飼うてた子や。気立てのええ、働き者の牛やった。…いつかこんな日が来るて思うてたんやけどな……。いざ、その時が来たらよう手が動かんかった。情けないなぁ」

 明那の自嘲を窘めるように桐峰は彼女の顔を見つめて言った。

「身内の死に平常心で臨める者は少ない」

 武士であってさえそうだ。

 これまで戦陣に赴き死線をくぐる中で、桐峰自身、数多の死に立ち会った。介錯を引き受けたこともある。

 生業とは言え、若い娘には過酷なことと思えた。

 明那は顔を背けた。髪と同じ色の小袖の肩に、ぎゅ、と力が入る。


「おおきに。黒を弔うてくれて……」


 桐峰が微笑を湛えた時、小柴垣の向こうから、老人の声が聴こえた。

「これ、出雲の御師殿。そこもと、狙われておるぞ」

 明那も桐峰も声のした方向に近付き、ぎょっとした。

 そこに立っていたのは、神々しい程に白い鹿だった。

 角は金色に輝いている。

 神の使いか、と桐峰は思った。


「この鹿に案内させる。まずは儂の庵に参られよ」


 風がざあ、と鳴って、庭内に幾枚もの花びらを運んで来た。




 白い鹿はどんどんと春の山を踏み分けて行く。

 もう奥千本まで来てしまった。


 桐峰は彦次に借りた生成り色の小袖姿だ。歌が洗ってくれてだいぶ浄衣の血の汚れは落ちたが、乾くにはまだ時がかかると言われた。


 桐峰は恐縮頻りに、浄衣と荷を任せて単身、鹿の跡を追った。明那は黒の肉などの始末に追われていたが、桐峰に気遣わしげな視線を向けていた。

 恐らくあの鹿は式神であろう、と桐峰も今では見当がついていた。


 青い空、若草の山、舞う桜。


 日の本の国のそこかしこで起こっている戦乱が、遠く感じられる。

 こうしている間にも血は流れ、汚辱に塗れる人々がいると言うのに。


 桐峰は六輔や尼子勝久の顔を頭の隅に追い遣ろうとした。


〝上月城に、お越し願えませぬか〟


(もし、俺がそれに応じれば、俺とて死ぬると解っていた筈だ、六輔。それでもお前は俺を与させようとした)


 盲目的な忠誠心。六輔の心は、狂乱に向けて既に踏み出しているのかもしれない。


(そして俺はそれを拒んだ。…死ぬなら一人で死ねと、突き放したのだ)


 厭世的な気分が桐峰に押し寄せた。

 苦い思いの中、吉野の美しさは彼の心を慰めるようだった。

(西行法師は奥千本に庵を結んだのであったか。気持ちが解るな)

 世に聴こえた和歌の名手は、吉野と桜を殊の外愛でて、その心を何首もの歌にして詠んだ。



 気が付くと桐峰は蔦の絡まる洞窟の前に出ていた。

 岸壁に怨念がましくへばりつく蔦は長の齢を思わせる風情があった。しかも足元の叢には髑髏が転がっている。もしこの洞窟が誰かの住まいであれば、これらの髑髏を弔うか片付けるかすれば良いのに、と桐峰は思う。

「呑気な男じゃな」

 呆れ声に顔を上げると、薄い灰色の衣を纏う仙人のような老人が立っていた。

 白い鹿が老人に擦り寄ると、彼はその喉を撫でて労い、鹿の姿は煙のように消え失せた。

「あなたが、俺を招いたのですか?」

「左様。儂の弟子に逢うたであろう」

「弟子――――――?」


〝桜狩に行かれませ〟


 奈良町で出逢った声聞師の子供。

「鬼退治とか言うていた、あれか…」

「話は中じゃ、小野桐峰殿」

 そう言って老人はごく自然に桐峰を洞窟の中に招いた。

 なぜ名前を知られているのかも解らないまま、桐峰はその背に続いた。

 思えば三次で不穏な会話を聴いてから、不可解なことばかりが続いている。


 桐峰の予想に反し、奥に進むにつれ、洞窟の中は明るくなった。

 半透明の白っぽい石で出来た卓と椅子。

 頭上には石が刳り抜かれたように空が開け、日の光が注ぐ。


「呑気な男じゃな」


 桐峰に向き直り、老人がまた繰り返した。

 桐峰は目をしぱたたかせる。

「このようなところまでのこのこと。儂が悪人であったら何とするか」

 招いておいて随分な言われ様である。

 だがここでおっとり同意するのが桐峰だ。

「はあ」

 そうだよなあ、と自分でも思う。

 老人は白髪を嘆かわしそうに振る。些か芝居じみた動作だった。

「やれやれ、まあ掛けられよ」

 膝丈程ある乳白色の椅子に桐峰は腰掛けた。安定は悪くない。

「茶か酒か、などと、訊くも野暮であろうの」

 老人がにやり、と笑う。

 いたずらめいた笑いだった。直感として桐峰は、この老人の人と為りを信じた。

 やがて洞窟の更に奥から、巫女装束の女が酒器を掲げてしずしずと歩み寄った。

「濁酒ではない、清酒ぞ」

 老人がどうだ、と言わんばかりに告げる。

 その言葉につい、まだ名乗りもせぬ老人に好感を抱いてしまうのだから、我ながら現金だ。老人がくっ、くっと笑う。

「不用心ではあるが、そこもとの人柄は愛嬌があるわ」

「…どうも」

 心を読まれたらしい。

 巫女が桐峰と老人の玻璃の盃に酒を注いでから、老人が盃を高く上げた。

「名乗りの遅れた無礼を許されよ。儂は人に臥千上人(がせんしょうにん)と呼ばれておる。しがない陰陽師じゃ」

「小野桐峰と申します」

「知っておる」

 しがない、と言うのは上人の謙遜だろう。奈良町で逢った子供のような弟子に師と仰がれる身だ。加えて鹿の式神をも操る。巫女も式神だろう。

 全てを心得顔の臥千上人に、何から尋ねたものかと桐峰は考えた。

 あの男の子は何と言っていたか。


「鬼退治…」


 そうだ、赤い鬼を退治するのだろう、と訊かれた。

「知れたこと。『鬼室』を指しておるのよ」

 桐峰の一言に、撃てば響くように臥千上人が説いた。

「『鬼室』は今、大友宗麟の手にある。とすれば畢竟、彼の豊後の地、荒れるであろうよ」

「―――――俺に出来ることなど、ありません」

 臥千上人の目が一変して氷柱の如く冷厳になった。

「聴け、小野桐峰。そこもとは彦次の打った大太刀を得るであろう。儂もそのように口添えしてやる。あれには丹生都比売様の加護がある。それを以てして、『鬼室』のもたらす騒乱を鎮めよ。これは天の理、星の巡り合わせじゃ。そこもとに否やは許されぬ」

 決めつける言い方に桐峰は困惑した。

「無理を言わないでください。たかが一御師に、何が出来る」

「お主の存念次第で、流れる血を流さで済む、と申しておるのじゃ」

 厳かな臥千上人の物言いに、桐峰はぎくりとした。

 尼子を見捨てたと、暗に非難された気がしたのだ。

 だが臥千上人はふと顔を緩めた。

「勘違いするでないぞ、最早時勢で、滅びるしかない者もある。その渦から身を引いたとて、お主の咎ではない。―――――――しかし『鬼室』がことは別儀。お主の手で、九国を救うてやれ」


 桐峰には頭の中を整理し、心を落ち着ける時間が必要だった。

 巫女の酌で、酒を呷る。

 己が生み出した式神を見遣った臥千上人が言い足す。

「行く手を尼と僧侶が阻むであろう。一人の巫女が、お主の助けとなる。星震郷(ほしふりごう)の出の者じゃ。名を、初震姫(はつふりひめ)と申す。これも『鬼室』を追うておる」

「尼と僧侶が敵で、巫女が仲間?」

 桐峰はかぶりを振る。

「ややこしいな。上人殿の託宣は、よく解らぬ」

「いずれ解る」


 これが神仙の類との会話というものか。

 まるで翻弄され通しだと盃に満ちた小さな海に目を落とす。

 海からはもう一人の桐峰がこちらを見ている。


(だがそう言えば、『鬼室』は僧侶と共に行方知れずになったのであったか)

 松源寺住職はそう話していた。ではこれは何も繋がりが無い話ではない。敵になる僧侶とは、恐らく松源寺住職が話していた九品と言う者のことだ。


「―――――狙われている、と言うのは?」

 白い鹿の言葉を思い出して臥千上人に尋ねる。


「彦次と歌を助ける為、野盗を斬ったであろう。あれはここいらに出没する『橋姫(はしひめ)』と申す首領の手下共でな。早晩、『橋姫』が仕掛けて来ようぞ。ゆえにお主、彦次たちの家を疾く離れよ」

 これには桐峰も強く首肯した。

「承知」

「『橋姫』は紅屋とも繋がりがある」

「紅屋?」

 確か『鬼室』を手放したとか言う堺の会合衆だ。

「店主の意図と関わりなくはみ出す輩がおるようでの。刺客が遣わされておるようじゃ。『橋姫』は紅屋の縁者らしい。まあ、誰ぞに命じられて従う手合いではないが」

 白い顎髭を撫でながら、臥千上人が橋姫をそう評した。


 臥千上人のもたらした情報は多かったが、自分に危難が迫っているらしいこと、このままでは彦次たちを巻き込んでしまう恐れがあることを桐峰はまず了解した。悠長に構えている暇は無い。


 帰りは臥千上人も、齢を感じさせない足取りで同行した。

 臥千上人のことは彦次たちも明那も知っていたようで、すんなり迎え入れられた。

 彦次は臥千上人に勧められるまま、大太刀を桐峰に譲った。その代わりと言っては何だが、桐峰がそれまで差していた太刀は荷物になるので頼んで引き取ってもらう。

 丹生都比売の加護を受けたと言う大太刀に、桐峰は「丹生(におう)」と銘をつけた。


 暮れる前に、桐峰は乾いた浄衣に着替えて彦次の家を発った。

 血の汚れは完全には落ち切らなかったようで、白い浄衣が今は仄かな桜色に染まって日暮れ前の山道に浮いていた。遠目には桜と紛れて見えたかもしれない。


「お待ち、そこの」


 下千本を歩いていると、居丈高な声に呼び止められた。

 首を巡らせれば漆黒の髪を結い上げた妖艶な姿がある。

 水の流れが金糸で刺繍された小袖をしどけなく着崩し、首には白い毛皮をぐるりと巻いている。

 手に携えた朱色の半弓(はんきゅう)―――小型の弓も異様だが、何より目を引くのは顔に掛けた能面。

 裂けたまなじり、金色の歯を剥き出しにした『橋姫』と呼ばれる面だ。判りやすい。

「…何か用か」

「如何にも。お前の持つ大太刀は、妾の物じゃ」

「お前が『橋姫』か」

 ほぼ確定していることを尋ねながら、桐峰は荷をすぐに下ろすと太刀の柄に手をかけた。

 この間、目はずっと相手を向いたままで逸らさない。油断や隙を生じては危険なことを百も承知だからだ。

「ほう、妾を知り、手向かい致すか。昼には子分共が世話になったの」

 面の下でにやにやと動く紅が見えるような口調に、桐峰は平淡に返す。

「いや。まさか男とは思わなかった」


 そこで寒い間が開いた。


「―――――なぜ解った」

 金の目に開いた二つ穴から眼光が桐峰を刺すようだ。

「声と体つきが、何となく…娘にしては、ちょっと」

「言うなっ」

 怒声と同時に矢が飛んで来る。速い。

 桐峰は木立に紛れ込んで次々に飛来する矢をかわした。

 橋姫の放つ矢は樹の幹を抉るように突き刺さる。威力の程が窺えた。

 これまでの太刀であれば矢を打ち落とすことも出来たであろうが、手にしたばかりの大太刀・丹生ではそれも難しい。

「出ておいで、御師野郎!ぶっ殺してやるっ」


(女じゃないと指摘しただけなのに…)


 狙っていた大太刀を取られた恨みもあるとは言え、怒り過ぎじゃないか、と桐峰は矢を避けながら思う。

 橋姫、とは嫉妬に狂った女の顔を表した能楽の面の名称だ。

 逆上しやすい性質らしい彼には相応しい異名かもしれない。

 と、思う間にも目の前を矢が過ぎて横の幹にざん、と刺さり冷や汗をかく。

 空は黄昏時の表情を見せ始めた。空気も冷え始めている。

 桜の合間から、巣を目指しているのであろう、烏の影が幾つも見える。


 桐峰は丹生を鞘から抜き、樹影から樹影へと渡り歩いた。

 最初に橋姫を見た時、その矢筒にはぎっしりと矢が詰まっていた。尽きるのを待つ余裕はないだろう。

 山の空気と自分が一体となるよう、心がける。御師の回国で学んだ術の一つだ。

 橋姫は今、桐峰を完全に見失い、地団太を踏んでいた。

「畜生、出て来い、出て来いよ、玉がねえのか、ああ!?」

 びゅう、という風鳴りに次いで、橋姫の左脚に桐峰の脇差が刺さった。橋姫が態勢を崩す。

 すかさずその後ろに回り込んだ桐峰が、丹生の刃を橋姫の首筋に当てた時点で勝負はついていた。薄紅の刃は、やはり澄み切って美しい。


挿絵(By みてみん)



 面を落とした橋姫は目に見えて青ざめている。美女と呼ぶには苦しいが目鼻立ちには華がある。まだ若年と見受けられた。唇には毒婦のような赤い紅。

 握った拳が震えているのは屈辱ゆえか。拳近くに落ちた弓は朱色の漆が塗られている。しなり具合や形から、材は鯨の髭かもしれない。矢筒には金の装飾。橋姫と呼ばれる身に相応しい絢爛とした得物だった。

「卑怯な野郎だ」

「そうだな。卑怯な野郎に、お前は負けた。返してもらうぞ」

 橋姫の脚から脇差を抜くと血が滴った。ぐう、と橋姫が呻いたあと、ぎらぎらした目で桐峰を睨みつける。男女を問わず、凄みのある美しさだ。

「殺さぬのか」

「殺したが良いか?」

「殺さねば妾はまた、お前を狙うぞ」

「さすがは『橋姫』…。執念深いな」

 桐峰は肩を竦めて、屈辱に震える橋姫を放置して荷のある場所に戻った。


 それから頭を掻いて目の前の木立に問いかけを投げる。

「…それで、明那殿はいつまでついて来られるのだ?」

 少し経って、決まり悪そうな顔で明那が出て来た。赤茶色の髪に桜がくっついている。

「気付いてたんか」

「うん。気配には敏いほうでな。…俺はこれから、豊後に向かうのだが」

「一緒に行く」

「…ええーっと、なぜ?」

「黒の恩があるからや」

「恩と言われる程のことはしていない。危険が伴う旅になると思う。やめておいたほうが良い」

 諭す桐峰に、しかし明那は頑強だった。

「うちかて自分の身くらい自分で守れる。山刀は、獣を捌く為だけのもんやない。あんたに恩を返す。もう決めた!」

「父御や母御が心配するだろう」

「いつものことやから大丈夫や」


(いつものことなのか)


 かあ、かあ、と烏の声が降って来る。もうすぐ日没だ。

 桐峰は盛大な溜め息を吐いた。


「日が暮れると山を下りにくくなる。急ぐぞ、明那殿」

 切っ先鋭い目元の娘が、顔を明るく輝かせたのが暮れゆく中でも判った。



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