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其ノ一

 山間、ぷかりと切り立った岩の平らな上に、小野桐峰(おののきりみね)は両脚を投げ出し、両手は後ろについて自らの重みを如何にも怠惰に支えていた。

 乱世ではあるものの、季節は桐峰の住まう出雲国にも等しく巡り、春の霞に取り巻かれるようなもやついた感覚に、桐峰は抗うでもなく身を委ねていた。


(尼子は終わる)


 その確信は、戦国大名尼子氏栄華の時代を知る桐峰の胸を虚しくさせた。

 鳴く鳶の声もほろ苦く聴こえてしまう。


「あぁあー」

 薄く繊細な唇から息を洩らすと、ばったり、岩に背をつけた。

 空が沁みるように青い。


 天正六(1578)年春。織田信長の命を受けた羽柴秀吉に援助され、播磨国上月城(はりまのくにこうづきじょう)に籠る尼子勝久(あまこかつひさ)は孤立しようと毛利軍に抗するだろう。

 だが息も絶え絶えで余所者に頼らざるを得ない尼子氏と、中国に確固とした地盤を築いた毛利氏とではまともな戦にもなるまい。

 勝久は言わば信長の傀儡だ。

 毛利を牽制する為の布石に情など元よりある筈もないことは、勝久自身が知っていよう。

 まだ二十を幾らか過ぎたばかりの勝久は、桐峰には悲運の将と見えた。


 薄く目を開けてぼんやりと山々の新緑を眺める。

 春の楠はとりわけ緑が鮮やかで瑞々しいのだ。


 滅びるもの、芽吹く緑。


 大国主命(おおくにぬしのみこと)を祭神とする杵築大社(きつきたいしゃ)(現・出雲大社)の神官家の人間も、権力の趨勢に無縁ではいられない。神官を統括する国造家は実質、これまで出雲国を支配して来た。宗教的威勢がそこに絡んでいたことは言うまでもない。

 そして足利幕府の権威が応仁の乱で失墜し、戦乱の世になると、戦国大名・尼子氏と毛利氏が国造家始め神官たちを巻き込み出雲国の奪い合いを始めた。


 桐峰の幼い頃は尼子氏の天下だった。


 杵築大社の信仰を人々に勧め、参拝を促す「御師(おし)」と言う職権を持つ桐峰の家は尼子氏に絶対服従の姿勢を示した。

 桐峰もそれに倣い、尼子氏こそ国造家に並ぶ主君と素直に考えていたのだ。

 尼子氏の戦に参戦したこともある。


 しかし時代の風は、桐峰が信じていたものを砂塵にしてしまった。


(国造家のお家騒動も面倒だ。親父殿も苦慮しておられる。どうでも良いけど)


 国造家自体が一枚岩ではなく、南北朝期には千家家(せんげけ)北島家(きたじまけ)に分裂して対立し続けて来たことは配下の神官らには頭の痛いことであった。

 桐峰は最早それらにかかずらうことなく、御師として回国の傍ら商いをしている。

 上月城に馳せ参じるつもりは、ない。

 親兄弟は桐峰の風来坊振りをもう諦めているが、中にはしつこい連中もいる。


「桐峰殿。お捜し申し上げた」

 桐峰の脱力を誘うように野太い声が響いた。

「…捜すな。こんなとこまで」


 尼子氏に仕える忍び、鉢屋衆(はちやしゅう)六輔(ろくすけ)は、仰向けの桐峰を上から覗く真似はせず、岩と繁みの中程に律儀に控えているようだった。

 声の聴こえる位置から桐峰はそのように推測した。

 六輔は桐峰を一人の武人として敬っている。

 それが厄介でもあった。


「上月城に、お越し願えませぬか。貴殿の御力が必要でござる」

「忠義だな、六輔」


 桐峰はそうとだけ返した。本心だった。

 尼子の行末が見えない人間が、どのくらいいる?

 この忍びは滅亡も覚悟で主家に尽くしているのだ。


「俺が一角の武将であれば、或いはお前に応えてやったかもしれん。だが、違う。俺は一介の御師に過ぎない。こんな小石で大局の流れは変えられんよ」

「小石だなど、」

「小石だよ」


 いきり立つ男に噛んで含めるよう、桐峰は言を継いだ。

 春の柔らかい風のように、声を六輔に吹かせた。

 忠義な忍びはそれ以上何も言わず、気配を消した。


 それを感知した桐峰は目線を天に戻し、枝のように長く白い右腕を浮遊する雲を目がけて伸ばした。


(届かぬ。届かぬのだ。俺の力も声も。芥のようなもの………)


 大社も家も捨て、山に隠棲してしまいたい。

 近頃ではずっとそう思うようになっていた。



 六輔ら鉢屋衆にこれ以上追われぬ内にと、桐峰は出雲国を出て隣国・石見に入り、佐摩(さま)銀山(石見銀山)で銀を幾らか入手して、他の荷と共に背負い交易盛んな備後国は三次(みよし)までの道中を旅していた。

 金・銀・鉄などの鉱石は軍需物資としても貴重だ。

 石見銀山を掌握している毛利も佐摩銀山に近付く人間には神経を尖らせているが、大勢が毛利に靡いた杵築大社の御師の立場はこの点、便利だった。諸国を巡るにも見咎められることは少ない。

 今、桐峰がいる場所は江の川と三次までの陸路が交わる浜原(はまはら)。江戸時代には「銀山街道」と呼ばれるようになる道の途上である。

 ここからは舟に乗り水路に切り替える。

 慣れた商業経路だ。


(鉢屋衆はまだしも、尼子の御大たちにまで出張られては困るしな…)


 川で獲った山女に携帯している塩を振り、串刺して焚火で焼くと香ばしい匂いが煙となって流れて来る。

 河原の繁みを賑やかすような黄の花がある。

 なぜかもう咲いている女郎花(おみなえし)の黄色は、生薬にも利用されることを納得させる、生の明るさだ。

 焚火に照らされ、橙めいた色から夜闇の紫に浸る色まで、本来の色以上に色分けがされている。魅了される灯りの不思議だ。

 川のせせらぎ、川の恵みを楽しむ佳き宵。

 空には朧月。


 御師の服装に規定は少ないが、「浄衣」の類たるべしと言われている。

 しかし生絹の白い狩衣姿は長旅に不向きと考える桐峰は、白の上衣に白袴、それに手甲や脚絆などを着けた旅装で動いていた。

 白は汚れが目立つと思うが、耐える。

 仮にも神官、御師なのだ。


 ぼうと霞む月明かりの下、白衣に身を包み唇を結ぶ桐峰は、焚火を囲む他の人間には絵草子のように見えた。

 

 挿絵(By みてみん)


 本人は偏に魚の焼け具合を気にしている。


「よう、小野殿。だな?あんた、桐峰だろ」

「ん、」


 赤ら顔の男が、桐峰を遠巻きに見る人間たちの中から進み出て、馴れ馴れしく桐峰の肩に手をかけた。

「…誰?」

 問うと相手は噴き出した。自分を指差す。

「ぶ、俺も御師だよ、お仲間お仲間!」

 ばんばんと背中を叩かれるが一見細身の桐峰は微動だにしない。

 ただちょっと面倒臭いなと思う。

「はあ…」

 そろそろ山女が頃合いの焼け具合だ。

 桐峰は串を抜きながら上の空で返事した。桐峰は男を知らないし、御師を名乗る割りに衣服は野良着めいて「浄衣」らしさは全くない。そういう手合いも中にはいる。気持ちが解らないでもなかった。

(小まめな洗濯が要らないものな)


「桐峰は斬り峰」


 ぱくり、と桐峰が熱々の山女にかぶりついたところで男が唄うように言った。

(これは美味い。良く肥えている、脂の乗りが、)

 どうだ、とばかりに顎を逸らした男を置いて桐峰は無心に食べ続ける。

 何か言われた気がしたが、食事を中断する気はさらさら無い。美味を食することこれ即ち生きることである。

(うん、塩加減も絶妙だったな。我ながら…)

 ほくほくと食べ続ける。

 赤ら顔の男は毒気を抜けれた様子でそんな桐峰を見ていた。

「……あのぅ…なあ…。あんただよね?〝斬り峰〟って呼ばれてる凄腕の御師。小野家の風来坊で、優男。こんなに意地汚いとは思わんかったぜ」

「ふぁふぁふぁふぁふぁふふぃふふぃふぁふふぁふぃ」

「えええ、何だって?なあ、まずは魚を置けよ」

 魚は熱い内が美味い、と桐峰は言ったつもりだが通じていないようだ。

 見て解れよ、とやや苛つく。

 桐峰は男の呆れた声を聴かず一匹を平らげた。すかさず今日、手に入れた濁酒を呷る。

 清酒を望める身分でも状況でもない。


「…だがやはり清酒のほうが」

 喉越し爽やかでこんな晩には相応しい。

 桐峰の、魚肉の欠片がついた頬が憂いを帯びた。

「すまん、人違いだったようだ」

 白けた目をした男は桐峰から離れた。

 そんな彼に桐峰は胸中で舌を出していた。


 小野桐峰は斬り峰。


 いつの頃からか自分がそう言われるようになったのは知っている。見かけによらない膂力と技術で相対する者の刃の峰をも斬り折ることがあるからだ。音に聴こえ過ぎて今のような男や六輔のような男を引き寄せてしまう。


(だいぶ刃毀れもしてるし)


 そろそろ新しい刀が欲しい。

 今提げている太刀も元は大太刀に迫る程長かったのだが、手入れして短く加工する磨上(すりあ)げを施す内に、桐峰の目から見れば寸足らずとなったのだ。

 山女三匹目に噛みつく。じゅわ、と魚の脂汁が出る。

(うま。さて三次で手に入るかな…)

 何本もの河川が合流する備後・三次は鉄の産地としても知られている。


「…けほ、げほっ」


 硬い骨の伏兵に遭い、桐峰はむせてしまった。端整な顔立ちを歪める青年を見かねたのか、夫婦連れの一人、女のほうが竹筒を差し出してくれた。

「大丈夫かい?ほら、これを飲みんさいな」

「けほほ、」

 竹の香りと清水が喉元まで爽快に流れる。

「……忝い。命拾いした」

「大袈裟だねえ、」

 女が笑う。傍で見ていた者たちもどっと笑った。

 桐峰の外見と言動の差異が可笑しかったらしい。

「大袈裟ではありません。俺は柔弱だから硬い食べ物は鬼門なのです。歯応えの優しさについ油断した」

 遠くに坐して桐峰を見ていた男の表情が「やっぱりこいつじゃないわ」と言っている。

 落胆してくれて大いに結構だ。

「お前さん、如何にも優しそうだもんねえ。腰の刀が重いんじゃないかい?」

「おい、御師殿に失礼だぞ」

「いや、重くはないです」

 遠慮ない妻の言葉を隣の夫らしき男が慌てて注意するが、桐峰は気を悪くすることもなく端的に否定した。

「御師殿なら力持ちでございましょう」

「見た目よりは。猪や熊と格闘することもありますゆえ」

「またまた、」

 男の追従に真面目に答える桐峰を、女が手を振って笑う。よくあることだが桐峰は頭を掻いた。人の容貌や顔の造作に無頓着な桐峰は、自分が非力に見られる理由が解らない。一時期、髭を伸ばそうとしたことがあるが、なぜか母親に泣いて止められたのだ。息子に向かって「綺麗なままのお前でいておくれっ」と発言するのは母としてどうなのだろう。桐峰は髭の伸びが遅いほうだが、母のお蔭で剃刀を三日に一度は顎に当てる習慣がついた。妻の機嫌を損ねるのは面倒なのか、父はそれについて沈黙を貫いている。


「ほんとは大太刀が欲しいくらいで」


 寂しい顎をさすりながら桐峰はぽつりと言うつもりも無かったことを言った。

 河原の女郎花がこぼれた言葉に賛同するように風で揺れ動いた。

「…刀鍛冶ならええのが大和におるとか聴いたがの」

 それまで焚火を見ながら一貫して無言だった痩せた老人が呟いた。

「大和?大和のどこですか、ご老体」

「さて。山じゃったかいのう」

「どこの山ですか?」

「さて。どこじゃったかいのう。南か。北。じゃったかいのう」

「………」


 要領を得ない。だが桐峰は大和国・奈良町に住まう知己の存在を思い出した。

 絹や木綿、麻から着物生地を手広く商っている。

 三次でめぼしい収穫が無ければ、挨拶がてら大和に行くのも良いと思った。

 着く頃には桜が拝めるだろう。


 食事を終えると下草が適度に生えたあたりまで移動して敷布を敷く。焚火の火は獣除けに消されぬまま。時折、火が爆ぜる音が聴こえる。

 仰臥し、月にも負けぬ満天の星を見上げて桐峰が眠りに入ろうとしていた時。


「…ほんまか?」

「そう聴いたで」

紅屋(べにや)さんがよう手放さはったな」

年行司(ねんぎょうじ)が金、積んだんやろ。あそこは大友さんのお膝元で儲けてはるさかい」

「せやけど、『鬼室(おにむろ)』やで?」

「しっ。…『鬼室』やからこそ、やないか」

「まあ持つほうは酔狂な命知らずやな」

 ふ、と開く間。続いた声は引きつった笑いと怯えを孕んでいた。

「―――――鬼が出るな」

「鬼が出る」


 桐峰の頬をなぜる風が冬の形見のように冷たいのはなぜか。


「くわばらくわばら、」


 和泉国あたりの訛りが強い密やかな会話はそこで終わった。

 桐峰は星々を数えながら聴いた会話を反芻した。

 紅屋とは、恐らく堺の会合衆の一人の名前だろう。堺を自治する大商人。

 年行司は、博多の自治衆のような存在だった筈だ。


(大友…。大友義鎮(おおともよししげ)――――宗麟(そうりん)か)


 耶蘇教(キリスト教)を熱心に庇護し、布教させようとする戦国大名・大友義鎮は、そのことに反発する家臣たちを宥める為、出家して宗麟と名乗るようになった。

 大友さん、と言えば宗麟のことだ。

 そこまでは見当がつくが「おにむろ」とは広く回国する桐峰にも初耳だった。

 遣り取りを聴いた限りでは不穏な物のようだ。


(宗麟は銘物蒐集に熱心らしい)

 

 天下の三大肩衝(茶入れの一種)である初花(はつはな)楢柴(ならしば)新田(にった)を揃えた程。その為にどれだけの金銭を投げ打ったのか。異常とも言える蒐集熱だ。

 桐峰は腰にぶら下げた、種々の動物や草花を象った石細工に触れる。

 出雲(いずも)玉造(たまつくり)の工に作ってもらった品で、桐峰の数少ない嗜好品だった。翡翠の中でも加工しやすい軟玉で桐峰にも買えるくらい安価な石だ。

 宗麟の蒐集とはかかる金額からして度合いが違う。大友家は交易で相当、潤っていると聴くが。

 栄華を極めればあとは落ちるばかりというのが桐峰の経験則から来る持論だ。

(だが遠い九国。豊後の話)

 自分には無関係、と思うものの、「おにむろ」と言う不吉な響きは桐峰の耳に残った。


 翌朝、焚火の近くでめいめい野宿した人々が帆船に乗り込もうとしていた時に異変は起きた。

 追い風の強い船出日和、既に船の屋形には数人が座し、桐峰も船梁(ふなばり)を超えようとしていた。

 繁みから、鎧を出鱈目に着た足軽のような男たちが十名程、湧いて出た。

 手に手に刀、槍。

 鎧下の前部分・草摺には黒くこびりついた染みが目立ち、赤い錆びが見える武器同様、手入れが悪い。彼らの目的は明白だった。

水運を利用する人間の所持する荷。人々を切り殺してでも。

(どこの足軽崩れだ。尼子とは思いたくないな)

 桐峰は荷を素早く降ろし刀を抜いた。まだ全員が乗船し切ってはいない。

「防ぐ。他を乗せて船を出せ」

 顔馴染みの船頭らは桐峰の言葉に頷き、船に乗るべく並んでいた人の列を急がせた。「お前さん、危ないよっ」と叫ぶ夕べの女には笑って見せた。中には馬を伴う者もいて、素早い乗船に少なからず苦心していたがその頃には桐峰は、二人を斬り伏せていた。

 表情に変化はない。怯えも力みもないが、彼は内心、怒っていた。

 他人が懸命に貯めた財を掠め盗ろうとする輩が桐峰は大嫌いだった。地道に稼いでこそ人間、と骨の髄まで思うのは御師根性だろうか。

 脚に刃を走らせ、柄頭で腹を突く。

 ぱし、と柄を逆手に持ち旋回すると血の花が舞った。

 弾みで女郎花の黄色も散り、舞う。

 カチカチカチ、と小さく歌うのは擦れ合う玉の細工たちだ。

 ぺらぺらした鎧を斬るのは大振りの魚を捌くよりたやすい。

 ガキィン、と鈍く、且つ澄んだ音が響く。

(お。しまった)

 また相手の剣を折ってしまった。桐峰の刃は稀に見る頑健さだが刃毀れもそろそろ限界だろう。剣を折られた相手は目を白黒させている。

 そして横では昨夜、大和に良い刀鍛冶がいると告げた老人が、何と小刀を持って躍動していた。

 猿のような身のこなしに、桐峰は呆気に取られた。

 野盗の刃をかいくぐり、目にも止まらぬ速さで逆に腕や脚などを斬って戦闘不能にしている。

 彼の動きに目を奪われていた桐峰は、悲鳴を聴いて振り返った。

 船頭の一人に野盗が斬りつけようとしている。


 桐峰は刀を順手に戻し構えると疾駆した。ダッと岸辺を蹴りつけ刀の柄を胸元に引き寄せ野盗に飛びかかる。

 船梁の上に渡した船枻(せがい)に着地するより前にずん、と野盗の背後から心の臓を刺し貫いた。刺突。突いて即、抜く。並でない膂力を要する技だ。一見は細い優男に、まさか刺突で仕留められるなど、この野盗は夢想もしていなかっただろう。絶命した男がぐらりと揺れ、物言わずにくずおれる。

 見下ろす桐峰の瞳は玻璃のように冷たい。

 骸となった野盗の、鉛のような瞳とは正反対な煌めきを宿している。

 船頭に怪我が無いことを確かめた桐峰は、促した。

「早く船を出せ。こちらは問題無い」

「―――――はい、桐峰様。ありがとうございます」


 それから桐峰が老人と二人がかりで野盗を片付け終える頃には、船影ははるか遠くにあった。

 

 うつほ舟、という言葉が桐峰の胸に浮かんだ。

 貴人や異能の者を乗せて運ぶ珍かな舟の話を、幼い頃に母から聴いたのだ。

 着く果ては、いずこと知れず。


 江の川沿いには、水運などのもたらす恵み目当てに領主層が山城を随所に築いている。恵みに目をつけるのはまっとうな人間ばかりでないことは、今回のような件でも如実に表れる。

(豊かさは日も影も招く)

 懐紙で刀の血脂を入念に拭き取り、鞘に納めた。


「浄衣が汚れてしもうたのう」


 手を腰の後ろで組んだ老人に、長閑に指摘される。

「はい。洗濯しなければ」

 暗い気持ちで答える。血の汚れは落ちにくい。不浄の象徴でもあると言うのに。

「見事な刺突じゃった。若い身体が羨ましゅうなったわ」

「ご老体こそ。只者とは思えぬ身のこなし」

 どこかの忍びではないか、と桐峰は多少の警戒を交えて称えた。

「何の。鵜飼が生業の老いぼれじゃぁ」

 のほほん、とした意外な答えに桐峰が目を大きくする。

「へえ」

「じゃが今はもう、隠居の身でな、ぶらぶら三次にお買い物に行こうと思うたんじゃが」

 水を差されたわ、と老人は続けた。

「…お買い物」

「うむ。息子夫婦からお小遣いももろうての。わくわくするわい。長生きの秘訣じゃなー」


 鵜飼を始めとする川の民は、賤民とも見なされているが、若い娘のようにはしゃぐ目の前の老人からはそうした背景から来る悲壮さがまるで感じられない。

 それはそれとして桐峰には干し魚やら塩やら銀やら祈祷札を三次までの道中で商う目算があったのだが、船はもう出てしまった。運良く新しい船が下流から浜原に着くのがいつになるかも判らない。

「野盗の莫迦…」

 まだ転がって呻いている男たちを恨めし気に見る。

「うむ。野盗の莫迦、じゃ。儂は悲しい。のう、あんた、塩を持っとるじゃろう」

「はい」

「ちいとくれんか」

「どうするんですか」

「こやつらの傷口に摺り込む」

「―――――武士の情けと言う言葉もあります。やめましょう」

 老人がぷう、と頬を膨らませる。

「儂、武士じゃないもん。か弱いおいぼれじゃもの」

「やめましょう」

 川の民の老人が、年齢より若々しい理由が解った気がした。

「つまらん。わしゃ帰る」

「送ります。ご老体の家は」

「んにゃ、それには及ばん」

 そう言うと老人は首に下げていた竹笛をぴいいと吹いた。

 その音に招かれたように、繁みをかき分けて来たのは一頭の鹿だった。茶色の肢体は大きく目は濡れたようにくりっとしている。老人はごく自然に、鹿の背に飛び乗った。

「これに粕淵まで送らせるから」

「そうですか」

 疑問を投げるだけ無駄な人間がこの世にはいる。その鹿はどうしただのと言っても一層、混乱する答えが返るに決まっている。引き際を弁える程度の賢明さを桐峰は持ち合わせていた。

 浜原で仙人に逢ったことにしようと考える。

「帰る道中、泊まり場所に困ったら邇摩(にま)の松源寺に行くと良い」

「松源寺…。天台宗の?」

「あんた幾つじゃ。とうに浄土真宗に改宗しとるわい。粕淵の孫兵衛に勧められたと言えば、快う迎えてくれる筈じゃ。では達者での、小野桐峰殿」

 老人を乗せた鹿はぴょんぴょんと飛び跳ね、やがて暗緑の山中に消えた。

 気の早い山藤がもうほころんでいることに、桐峰はその時、気付いた。

 血を見たあとの目に、淡い紫が優しい。


 その日は荷を捌きながら来た道を戻った。

 集落が近くなると野宿にも抵抗が出て来る。泊まる当てがないではなかったが、好奇心も手伝い、桐峰は邇摩の松源寺を訪ねた。

 春の黄昏が迫り石段脇の桜は蕾が膨らみ果実のようにこぼれ落ちそうであった。

 山門を通り東西に長く平たい境内に入り、落ち葉を几帳面に掃いていた稚児の少年に住職と話したい旨を告げると、少年は頷き、箒を持ったままぱ、と身を翻した。

 正面の本堂から出て来た住職に老人に言われた通り告げると、剃髪した頭も青々としてまだ若い彼は頷き、桐峰を丁重に迎え入れてくれた。

 庫裡の内に設けられた風呂を使わせてもらえたのは有り難かった。

 桐峰の着ていた装束の汚れも洗って落としておくと言われ、恐縮すること頻りだ。

 湯から上がり用意された白小袖に着替えると、家に帰ったかのように人心地ついた。

 おまけに山裾にあることもあってか、ふんだんな山菜料理まで振る舞われては、浜原の仙人を拝みたい気持ちになる。


(鵜飼の老人恐るべし)


 桐峰のこうした畏敬の念や感慨は、主に美食・美酒にありつけた時に湧く。

 今も般若湯を頂戴しながら、上機嫌だった。


 (ふき)(とう)土筆(つくし)、たらの芽、うるい、(わらび)(ぜんまい)、うど、こごみ。


 行者にんにくやのびるなど、香りに癖の強い物は無い。

 多くの禅宗の寺で「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」と石柱に刻むように、仏教では臭みの強い野菜に魚肉、酒を修業の妨げになるとして禁じている。その戒めがどこまで守られるかは寺にもよる。松源寺では酒は許容範囲らしく桐峰には嬉しい限りだ。


 うるいは大葉擬宝珠(おおばぎぼうし)の若葉である。茹でて調理するとぬめりが生まれる。

 こごみは成長すると蘇鉄のように大きくなる。小川の堤に群生するが、食べられるのは葉が開く前の若芽の部分。

 これらの山菜を佃煮やら天麩羅、味噌和えなどでいただく。

 酒も飯も進む、進む。


 桐峰の気持ちの良い食べっぷりに、住職も破顔していた。客殿の上座にまで座らせてもらっている。良いのだろうか、他宗なのに、という気後れは山の御馳走を前に飛んでしまった。

 揚げたての、青味が混じる香りからして、桐峰の遠慮を奪った。

 更には山菜には骨が無く、柔らかく調理されている。喉に引っかかる伏兵を恐れることもない。お寺の料理って良いな、と思った。


 桐峰が食べて飲む間、住職が、松源寺は佐摩銀山とも縁が古く、元は天台宗の鳥羽山光明寺の末寺だった、などという話を誇らしげに教えてくれた。

 桐峰は名前こそ知ってはいたが、思った以上に格式ある寺らしい。

 ふむふむ、と相槌を打ちながら、酒の入った桐峰の意識は心地好くふんわりしていた。

(顔が赤らんでは様にならんな。仮にも御師なのだから赤鬼のようには――――――)

 そこまで考えて、桐峰は思い出した。


 鬼が出るな。

 鬼が出る。


 浜原の河原で聴いた言葉。


「ご住職は『鬼室』とやらをご存知ですか」

 まあ知るまい、と思って軽く尋ねたのだが。

 終始にこやかだった若い住職の顔が固まり、三角眉毛がひそめられた。

「…小野殿。どちらでその名を?」

「浜原で。畿内、和泉国人と思しき者たちが話しているのを耳に挟みました」

「―――――――そうですか」

「その者たちは鬼が出る、と申しておりました。持つ人間は命知らずだ、とも。一体、どういうことですか?」

 住職はすぐには答えず、桐峰の顔をくりんと柔和なまなこで見つめた。

「小野殿はしぶき茶はお好きでしょうか」

 しぶきとは蕺草(どくだみ)の古名である。

「はい。風呂にも入っていましたね」

「左様。あれは腰痛にも効く薬湯でして、遠来の御客人が来られた折りにはしぶき湯にすることとしております」

「お心遣い、忝い」

「いえ。臭気のある野草ですが、効用の多いが為に当寺ではよく使っております。しぶき茶を飲まれて、まずはお口をさっぱりとさせてください。……些か、後味の悪い話をお聞かせすることになりますれば」



「さても小野殿は嘉吉(かきつ)の乱をご存知であろうか」

 桐峰にしぶき茶を出し、自らも茶碗を持ちながら住職は厳かに口を開いた。

 嘉吉の乱とは嘉吉元(1441)年、室町幕府六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)赤松満佑(あかまつみつすけ)が殺害し、後に満佑自身も幕府軍に討たれた一連の騒動である。

 御師とは情報収集も生業の内。住職が桐峰に行ったのは単なる念押しに過ぎない。

「はい。それを遠因として彼の応仁の大乱が起き、言わば幕府衰退の引き金となった」

 住職が桐峰の瞳を見据えて深く顎を引く。

「六代公方様は悪御所と称される程、非道な御振舞をなさる御方だったそうです。女色、男色に耽られた彼の方が、しかし何より妄執したのがある油滴天目茶碗だったのです。その銘を『鬼室』」


 茶碗の銘。

 桐峰は思わず自分の持つ茶碗を見た。茶色に澄んだ水面を湛える灰色の素朴な碗。

 住職は桐峰の心を理解するように彼の視線を追った。


「血塗られたように赤かった。迸る血潮のように鮮やかだった。そう聴いております。元は花の御所様(三代将軍・足利義満)所持であったそうな。紛失した筈のその茶器を持って義教公をおとなうたのが艶やかなる尼僧…。爾来、公方様の非道は、より苛烈を極めました。悲しきかな、それは公方様の御首が地に転がるまで止まることはありませんでした。『鬼室』は今公方・足利義昭(あしかがよしあき)様が京を退かれる折り、九品(くほん)なる僧侶と共に行方知れずになった、と。これは私が都よりの客人から伺ったお話でございます」


 燭台の蝋燭が不快な音を立てる。


「―――――その、『鬼室』が」

「小野殿。茶を飲まれませ」

「あ、はい」

 香ばしさは少なく、まろやかな口当たりの温もりが、胃の腑に沁みる。

 それで身体が冷えていたらしいことを桐峰は自覚した。

「しぶき茶は身体に凝る毒を外に出すと申します。このような話には、良い伴でございましょう」

「然り。――――…もしその天目茶碗が。例えば豊後の大友家などに渡ればどうなるでしょう」

 住職は怪訝な顔をした。

「大友様ですか?それは…、私にも何とも言いかねますが。しかし威勢の大きな方の手にもし『鬼室』が渡ったならば、必ずや凶事が起こりましょうな」

 桐峰は素朴な茶碗を床に置いた。

 南蛮往来。

 豊かな九国でも頂点に立つ君主・大友宗麟。

 彼の歯車が大きく乱れれば、その治世下にある人々はどうなるだろう。

 たかだか一個の茶碗で、一人の男の人生が狂わされて良いとも思えない。


(だが俺に何が出来る)


 恩ある尼子氏さえ救えない。

 せめてまともな刀を手に入れ、ざわめく気持ちを落ち着けたかった。


(いずこへ行くとも知れぬうつほ舟に乗っているのは俺だ)


 戦国の波に揺られ揺られて漂っている。




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