葬儀屋 -後編-
「私はとても愚かな人間だった。愚かで、民の苦しみを放置し、自らの幸福だけを考えていた。
耐えかねた民は、私に牙を剥いた。そこまできてようやく、自分が間違っているのではないかと思い始めたんだ」
馬鹿だったなあ、と道化はしみじみ遠くを見つめた。
「遅すぎた。私は本当に馬鹿だった。愚かにもほどがある。間違いを確信したのは、命からがら民から逃げきった後だ」
道化は項垂れた。
「だからせめて、誰かを笑顔に、誰か一人でも笑顔に、と思って、こんなことを始めたんだ」
道化はポケットから白いハンカチを取り出し、ぱっと翻した。ハンカチは白い花束に姿を変える。ーー見事だ。
「誰か一人でも笑顔に、か……」
道化の言葉を繰り返して呟く。何故か脳裏にリーンズの姿が浮かんだ。
そういえば、あいつはあまり笑わない。情報屋という職業柄、愛想笑いが基本仕様だが、その分、心から笑ったことはないんじゃないだろうか。
「私は民を苦しめた罪を、誰かを笑顔にすることで、贖いたいんだ。こんなことで本当に贖えるのか、全くわからないけどね」
懐かしむように目を細め、道化は続けた。
「初めて、私の芸に笑ってくれた子供たちのあの顔を見たときは、なんだか胸がいっぱいになったよ。……初めてだった。嬉しいなんて思ったのは」
誰かが笑ってくれた。それが嬉しい。ーー俺にはいまいちわからない感覚だ。
ブラインは、笑っていなかった。
人も、そうでないものも、殺しすぎて笑い方を忘れた、と。
足を洗ったつもりでも、未だに[殺す]という行為に悦びを覚えてしまう……ねじがばかになっているのさ、と寂しげに自嘲したブライン。
幼い頃から殺し屋たちとの間で[情報屋]としての仕事を全うしてきたリーンズ。
それを見つめてきた俺。
振り返ると、誰も笑わない世界に俺はいた。
それが悲しいと思ったことはない。普通だと思っていた。
だが……何だ? 何か、胸に引っ掛かりを感じる。
「わからないな……」
無意識にこぼれた呟きに道化が優しく問いかける。
「きみは、誰かを笑わせたいと思ったことはないのかい?」
「誰かを……」
夕焼け色の瞳が浮かぶ。
「……なら、さっきの万国旗、教えてくれ」
俺は脳裏に浮かぶ顔への疑問を放棄し、道化に訊ねた。
道化はにこやかに頷き、俺に手解きした。表情は晴れやかだ。
気づいているのだろうか。
自分がまもなく殺されるということに。
楽しげな道化からはそこまで読み取ることはできなかった。
万国旗以外にも、様々な芸を教わった。道化がやってみせた帽子から鳩を出したり、ハンカチを花に変えたりといったごくありふれた芸だ。
まるで、自分がいた証を遺すように。
「……道化師」
「なんだい?」
「あんたは、知っているのか?」
「何をだい?」
俺は顔を上げた道化と目が合った。
ーーわかっているよ、と、青い星で塗られた灰色の双眸は語っていた気がした。
「……いや、いい」
「そうか。……いや、きみは筋がいい。きっと、人を笑顔にできるよ」
俺が答えると、道化はどこか儚げに笑った。
俺は道化に借りたハンカチを手の中に入れる。オレンジ色のハンカチだ。一、二、三……と心の中で数え、手を開く。ーーぽん、とやけに愛らしい音を立てて、オレンジ色の花が現れた。いつも摘んでいる、オレンジ色の弔花。
リーンズが[仇花]と呼ぶそれは、ひらりとその花弁の一枚を散らした。散った花弁は道化の元へと向かう。
「綺麗な花だね。懐かしい気がするのに、見たことがない花だ」
それもそうだろう。この花は突然変異種だ。道端に咲き乱れていたある花に似た、けれど違う花。毒を持つ災禍の花。
……けれど、どんなに言葉を連ねても、俺にとってのこの花は弔花以外にはならない。
大切な人を弔った花だから。
これからも、人を弔い続ける花だから。
「俺は、あんたを弔いに来た」
「……そうか」
道化は星の奥の瞳を細めた。
「きみが[葬儀屋]だったんだな」
「そうだ」
俺は葬儀屋。
それは最早、人外専門の殺し屋という意味ではなくなった。
そう、今、この瞬間に、俺は俺の本当の役割を理解した。
「俺は生きとし生けるもの全てを弔う[葬儀屋]だ」
赤い海に、オレンジの花が散る。
どうやったかは覚えていない。ただ俺は、弔うために花をまいた。
それが、俺の役目……
赤い海に散らばる夕焼け色に、俺はぽつりと、会いたい、とこぼした。
リーンズに、会いたい。
「本当に、ありがとうございました、葬儀屋さん」
仕事を終えて、数日が経ったある日。
依頼人の男が俺を訪ねてやってきた。
「別に、俺はあいつを弔っただけだ」
「ご謙遜を。……とにかく、ありがとうございました。これでようやく私も故郷に朗報を持って帰れます」
そういえば、この男の目的は愚王の首を持ち帰り、その死を民に知らせることだった。
「よかったな」
俺は淡白にそれだけ言った。こいつの故郷のために俺は仕事を引き受けたわけではないから、興味はなかった。
「伯父さん、どこに帰るの?」
感無量の男に、冷たい声が降りかかった。声の方を振り向くと、その先には夕焼け色の瞳と額に朱色のヘアバンドをつけた少女。ーーリーンズがいた。
「リーンズ……?」
依頼人はリーンズを知っているようだ。情報屋としてのではなく、[リーンズ=ケイル]として。
ーーただの依頼人というわけではないらしい。リーンズの言葉から察するに、伯父ということでいいのだろうか。
「伯父さん、いい加減、目を覚ましなよ。ボクがここに来る前にはもう、あの街は滅んでいた。父さんも母さんも死んで、街の人はみんな死んで、愚王とボクらだけが生き残って……それが許せなかったのは、伯父さん、アナタだけだ」
男は凍りついている。リーンズは容赦なく続けた。
「父さんの仇。母さんの仇。戦争のせいであの人たちは死んだんだ。戦争を呼び込んだやつが悪いに決まってる。でもね、伯父さんーーあいつを殺して、父さんや母さんが生き返るの? 街が蘇るの? ……そんな虚しいこと、ボクにはできないよ。だから、伯父さんにも、やめてほしかった」
「リ……ンズ……」
男の声は嗄れていた。糸が切れたように崩れ落ちる。
「あ……あ……あ……ぅぅぅううううああぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁあああああああぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁっ……っく、ぅぅぅううううああぁぁぁぁぁあああっ!!」
叫びが谺する。
枯れ木のようなこの男から、信じられない声量だな、と冷静な感想を抱いた俺は、自ら虚しさに拍車をかけるその傍らで。
側に寄り添ってきた夕焼け色の瞳が、じっと枯れ木を見つめていた。
枯れ木のような男は、崩れ落ちてそのまま力尽きていた。
俺は無言でその上にオレンジの花をまいた。
「花が咲いたみたいだ」
リーンズがそう言って微笑んだ。ーー否、微笑みというにはあまりにも空だった。
本当に、こいつは笑わないな……
ぼんやりそう思いながら、俺は訊ねた。
「教えてくれ。どうして俺にこの仕事を回したのか」
「うん。話すよ」
答えて、リーンズは果てた[伯父]を見た。
それから、俺に振り向き、場所を変えよう、と歩き出した。
リーンズと俺がやってきたのは、[広場]と呼ばれる[空の街]の公園だ。中央に噴水がある、植木で囲まれた丸い空間。[情報屋]リーンズの活動拠点であるそこは[仕事]を受けにくる殺し屋しか立ち寄らない。それに、リーンズは今、休業看板を入口に立てている。そのときは誰も入って来ないのだ。
休業看板が立っていても入ってくるのは、[空の街]の中でもリーンズと親しい研究者の女と[殺刃鬼《the edge of crow》]の少年くらいなものだろう。
もちろん、俺の名もその中に含まれる。だからあまり違和感はない。
リーンズは別に自宅もあるが、そちらよりここの方が誰にも聞かれずに済むという判断でこの場所にしたにちがいない。情報屋から情報を盗むなどという二流三流の輩はこの街にはいない。 俺とリーンズは噴水前のベンチに座った。
ふぅ、と一息吐き、リーンズは語り始めた。
「さっきの会話でわかったと思うけど、あの人……依頼人はボクの伯父だったんだ」
「……縁者が生きていたのか」
リーンズは苦笑いした。
「心は死んじゃってたけどね。……伯父さんは、あの街で愚王に楯突いた反乱軍のリーダーだったんだ。弟だったボクの父さんが戦争に行かなかったために殺されて、義妹だった母さんは空爆で死んだ。……まあ、ボクはそのときにはもう、こっちにいたから、知ったのは後になってからだったけど」
その街はあまりにも情勢が酷かったため、我が子を徴兵されまいと外の街に捨てる親が多かったのだそうだ。そういう意味では親心による捨て子だったのだ。
「……[情報屋]のボクの耳には否が応でもあの街の情報が入ってきたよ。人探しをしている伯父さんのこともね。伯父さんが愚王を見つけて、[情報屋]を訪ねてきたとき、あの枯れ木みたいな姿を見て思ったんだ……終わらせてあげたいって」
「それは……そいつの虚しい戦いを、か?」
ゆるゆるとリーンズは首を横に振った。
「全て、だよ。ボクのわだかまりも含めて、ね」
リーンズは夕焼けの瞳を遠くに向けた。ーーあの方角に、彼女の故郷があるのだろうか。
「ボクには終わらせられるような力はない。だから、殺し屋に頼るしかない。だったら……キミにやってほしかった」
俺はリーンズの横顔を見る。リーンズは俺の視線に気づき、こちらに向き直った。
「キミに、終わらせてほしかったんだ」
リーンズは
「キミは、全部、弔ってくれるから。ブラインを弔ってくれたから。きっと、ボクの思いも……」
言いながら、夕焼けの瞳から一滴、雨をこぼした。
「ありがとう、ごめんね、葬儀屋」
俺はその表情に目を奪われた。
リーンズは、笑っていた。




