迷惑な恋文
3
ラヴレターをご存知だろう。愛、手紙。読んで字の如く、人の恋心が赤裸々に綴られた
大抵の人間が想像するに容易い、あの、ラヴレターである。
携帯電話が普及し、電子文字による人間関係の形成が主になっている現代。
そんなものを貰うことが珍しくなった21世紀に、それを実に膨大な枚数
抱える魔の箱が存在した。もう一つの名を、学校の下駄箱と言う。
「きゃあ!」
手に掛けた魔の箱の口から、今まさに吐き出されたそれは一瞬にして
その場の空気を二つの領域に分けた。
「…すごい、凄いよ…何あれ漫画?」その他、魔の箱の
嘔吐物の数に驚く声、羨ましがる声。つまり黄色に近い空気がまずひとつ。
「勘弁してよもう…信じられない」一人、既視感のある状況にうんざりという感じで
うなだれる…色に例えるなら灰色めいた空気がもうひとつ。
それら異なる空気の割合は9:1。ちなみに後者が1である。その行動から今まで何度か
同じ経験をしてきたという事実は、第三者から見ても想像に難しくない。
「ししし、音色このやろー!この内何通がアンタの自作自演なのよ 」
「…のぞみ、それ本気で言ってる訳?」
「いやー…目が怖いってば」
お茶らける木嶋のぞみを嘔吐物の被害者、一ノ宮音色は顔を赤らめて精一杯睨みつけた。
「でもさぁ、私とかモテない女組は音色のモテモテぶりが羨ましい訳じゃないですか」
見せ物じゃないから!と下駄箱周りにうろつく野次を払いのける音色に、のぞみは
溜め息を吐きながら「大漁だ」と腰を下ろし床に吐き出された手紙を拾う。
「拾わなくて良いよ!」
のぞみを振り返りもせずに、靴を履き玄関を出る音色。大衆の前で、過去に
起きた悪夢が繰り返された事に対する羞恥心は周囲には計り知れない。
校舎を出て、帰路を共にする音色とのぞみ。空は限りなく夜空に近い夕焼けで染まっていた。
日は殆ど沈んでおり、肌寒い筈が音色は一人火照っていた。羞恥心より今は怒りが勝っているようだ。
「音色さんを一目見たときから心にその姿が離れない…」
「え、のぞみ?」
「…本当、疑う余地も無い典型的なラヴレターだね」
「読むな!」
音色の一歩後ろを歩いていたのぞみは、急ぎで拾いあげたラヴレターを読み始める。
端から見ると自分宛てのラヴレターに大喜びしている女子にしか見えず
何だか彼女が気の毒に思えてくるが、しかし彼女に微塵にもそんな考えはないらしく、
音色とは真逆に、実に手紙を面白がっていた。やはり気の毒に思えてならない。
「じゃあ音色読む?」
「私は興味ない…というかむしろ迷惑なの!」
「なら、別にいいでしょ?」
しししっ、と笑いながら読み手を止めない彼女を見て口を尖らせながら
前を向き…音色はうつむくしかなかった。
「わ、これなんかセピア色のペンで全文書いてる!!…お、これも。
あはは、男共も必死だねえ!」
ピンク色のフレームを指で押さえ、眼鏡を顔に固定させながら手紙を
凄い勢いで読破していくのぞみは、綴られたセピア色の文字に埋まっている
便箋を目にし、感嘆の声を漏らした。
セピアインクの魔力。若者の間で流行っている恋愛成就のおまじないだ。
一年程前に、ベストセラー作家・霧宮光修の薬物による自殺がマスメディアに
よって報道された際、彼の遺作である作品の原稿も一部公開されたのだが、
その原稿はセピア色のインクで執筆されていた事が報道により
一般に知れた。その際、二年前にベストセラーになり作品が映画化もされた
ラブストーリーを得意とする作家・松本かのんも霧宮と同じく
作品執筆にセピアインクを使用している事が明らかになる。
結果、「セピアインクでラヴレターを書くと想いが叶う」という噂が、
やはりメディアを通じ一般に広まった。まさに今、セピア恋文ブームが
学生の間に蔓延していたのだ。これによりラヴレター文化も、
このブームに便乗する形で電子文字の陰から見事に復活した。
ただ、残念な事に音色はあくまでこのロマン溢れるブームの被害者にすぎず
本人はむしろ不快すら感じているという始末だった。便箋が全て壱万円札なら良いのに…
と心から思った。慰謝料よ、と。
「あれ、この人"明日私とデートしませんか?"だって。
中央公園で待ってるって。」にこっと音色を見る。
「No-thanks.大体、ウチの学校にラヴレターなんて"有り得ない"わ!」右手親指を突き立て地面をえぐる。
「うん、そこは確かにちょっと気持ち悪いかな。でもさ、音色だって
年頃の乙女じゃん。恋に興味はないの?」こんなに異性に持てはやされている
音色に友人として当然の疑問をぶつける。
「今は、良いの。同い年の男子じゃなんか幼すぎるしさ。それに明日は、ね。
ある意味のぞみとデートじゃない」でしょ、と軽快にのぞみの隣まで足を戻し
腕を後ろに組んで手紙を覗き込んだ後、彼女の顔を見て微笑んだ。
「私と…その他大勢ね。ま、確かに男の気持ちもわかるけどー」
ニヤけながら音色を見返すのぞみに目を丸くする。
「どういう意味よ」
「サラサラな亜麻色の髪に、眉目秀麗な顔立ち。身長167の長身美脚、極めつけは…」
ゆっくりと音色に近づくのぞみ、しかし目の前まで迫った彼女は音色の視界から消えた。
「…は!?…あ…やだ…は…ちょっと」
「この胸は反則だろ!」
のぞみは音色の背後に回ると胸部を弄る。音色には予想外すぎる行動で
なすがままうなだれた。ぞわぞわと、電流が走るような感覚が音色の意識の中を走った。
「えぇ?この!ししし、ずるいよね!綺麗な上に巨乳なんてさ!」
「やめ…のぞみ…んあ…」
安定した立ち位置を得たのぞみの指使いは、たちまち柔らかさを増していった。
音色の感情にダイレクトに迫る。しかし「いい加減にしろーっ!!!!」
からん、どすん、と眼鏡が落ちた音の後に続く、体が落ちる音が路面のコンクリートに響く。
揉み合いの時、のぞみの眼鏡の位置がズレた瞬間を見逃さなかった音色は、視界の揺れで体勢を
崩した彼女のわき腹に重い手刀を叩きつけ窮地を脱する事に成功した。
のぞみはコンクリートに大の字に転がる。一応、彼女も年頃の乙女の筈だ。
「し…Cと見た」
「E!」
夜に移り変わる直前の住宅街に響く甲高い声。近くを歩いていた三人の
男子中学生達が、女性二人のガールズトークを聞き逃すはずもなく、
反応を露わにした。健全故の早すぎる反応だ。状況に気づいた二人はその体勢を一気に正すと、
じゃ、またね、とその場から逃げる様に別れた。月明かりに見守られつつ
ショートカットの少女は眼鏡の位置を直しながら、つい本音を呟いた。
「あれは反則だよなぁ」