美術館
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スーツ姿の中年の男は細く華奢な足場に体を揺らされていた。
3メートル程離れて彼を見守っている女性は目を激しく左右に移ろわせながら、
口は半開き。何やら不安げな表情で男の頭部よりやや上を注視する。
とても広い世界があった。壁は白やクリーム色を基調としており清潔感に溢れ、
またその壁にはいくつもの絵画が額縁に入って飾ってあり、絵の下には
一つ一つ題名も掲げられている。空間を占める空気、緊張感、香り…
これら全てが協調し合うことで「芸術」は形となってゆくらしい。
男は高めの梯子に登り、絵画の入った額縁を持っている。足元は少し不安定だ。
「うーん、もう少し右側です…あ、右側を気持ち上に」
「こっちかい?」
見守っていた若い女性の言葉に合わせるように男は額縁を微妙に動かす。
「どうだい、菅沼君」
「お疲れ様です、館長。良い具合ですよ。じょーでき、です」
ひと仕事終えた館長と呼ばれるその男は、ため息を大きく吐き出すと
ハンカチを額に当てつつ子供の様な笑顔を見せる。菅沼も胸の前で
音がしない程度の小さな拍手をしながら、白い歯を見せた。
「普段、君達はこんなに大変な作業をしていたんだね…腰が痛いよ」
「苦労をお分かり頂けてとても嬉しいです、館長。でも空間作りは楽しいですから。
一般のお客さんじゃ手にとって見ることができないものに直に触れて、尚且つ
公開前に堪能できるなんて絵画好きにはたまらないです」
女性はふふっと笑いながら館長の隣へ、同じ位置から飾り終えた絵画を眺めた。
ここは東京都内のとある美術館だ。その一角にある個人展コーナーの
展示用意を、従業員付き添いの下館長自らで行っていた。
どうやら館長が飾った絵で個展の準備は完了したらしい。
遠くから具合を見てうんうんと男はうなずいた。満足感に胸を張った。
「苦労の甲斐あってか、いいスペースになったね。彼が喜んでくれたらいいが…」
「館長のお知り合いなんですか? 齋藤、賽輔さん…初耳の画家さんです」
「古い友人でね。時期を見計らって個展を開いて欲しいと頼まれていたんだ」
美術館スタッフの菅沼美菜が訪ねると、男は感慨深げにそう答えた。
口角は上がっていた。でも目はあまり笑みに滲んでいないように感じられた。
遠くを見つめているように菅沼には感じた。
「友人さん、きっと喜びますよ。早くコーナーを見せてあげたいですね」
そう、菅沼が言ってすぐ、静かな空間に電子音が鳴り響いた。電話だ。
条件反射で急かされる菅沼に、男は微笑みながら「私が出る」と
その行動を遮った。
電話の主に心当たりがあった。男はすぐに電話を取る。
「お電話有難う御座います、こちらミーネス美術館。館長の田仲でございます。
はい、はい、伺っておりますよ。予定通り明日ですね。承知致しました。
お待ちしております」
そう伝えると、田仲は受話器を置き絵を見ていた時と同じ眼差しで窓の外を見た。
「君の絵を見る初めてのお客さんは、輝かしい未来に満ち溢れた高校生だそうだ。
夢がやっと実現するんだ。私は良い友人だろう?」
空には風に流れる雲が、ちらほらとまるで誰かの筆による仕業の様に置かれている。
それは一つの絵画にも見えた。雲一つ無い空が一番美しいと、果たして誰が決めたのかと
訴えかけられた気がした。しかし、そんな完成された景色は今の
田仲の目に意味を成していたのか定かではない。
ぽつりと言うと、田仲は机の上に来客予約ノートを取り出して開く。
明日の日付の欄を見つけた。その欄には以前あらかじめ記した予定
「聖・平原女子高等学院様 館内見学」の文字が見える。
作品は、人の目に触れる事で初めてその存在に命が吹き込まれる。
その日に画家・斎藤賽助の絵画は、ようやく本来の意味での「彩り」を手に入れる事になる。
「明日は忙しくなりますかねぇ」
「学生が騒がしいんだけど、っていうクレームならあるかもしれない」
大変なことになるぞ、とまた子供のような笑顔で歯を見せて答える田仲。
それは嫌ですねぇ、と菅沼は舌を出して苦笑した。