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始まり

1

その家は東京都渋谷区にある。地名に似合わぬ位静かな住宅街の中、一般民家、

アパートに紛れつつも明らかに存在感が違う佇まいだ。何も知らない

人間でさえ一種の羨望を感じるこの家は、近所ではまた違う意味でも有名であった。

周囲の民家から、私の家の夕食が一番だと言わんばかりに料理の香りが

漂い始める午後八時を回る頃、専業主婦の霧宮しずるも、自宅で夕食の支度をせっせと進めていた。

テレビ等は付いていない。極めて静かな部屋の中、黙々と料理をこなしていく。

極力音がしないからか、途中で二階から聴こえるガタガタとした音が厨房にまで 多少届いた。

何も驚く事はない、夫の光修の部屋からの音だ。

夫の霧宮光修は世間一般では名の売れた作家である。栄新社から 出版された

小説「真人間の証明」がベストセラーになった事で マスメディアから注目を集めた。

今現在も作品を執筆中である事は公然の事実で 出版業界の注目を集めている新鋭作家である。

ミステリー作家であった 光修はどこか普通の人とは変わった感性を持っていて、作品を

執筆しながら体を揺らす癖があった。いわゆる貧乏揺すりとは違うタイプの

リズムを持った大きな振動。つまり、厨房にまで聞こえたガタガタとした騒音は

「問題なく仕事は順調である」というサインであると思ってよかった。

実際にはその様な意味ではなかったとしても、長年の習慣からその周囲の人間の中に

形成された「思い込み」は、しずるに一片の疑惑さえ感じさせる事はなかった。

「料理も終えたし、光修さんを呼びに行かなくちゃ。仕事は大事だけど、

 その仕事を順調にこなすには、まず体力。健康が一番。さて、と」

サインと同様に料理も順調にこなしていたしずるは、盛り付け、テーブルへの用意など

夕食の準備を終えたあと、二階の書斎に向かうべくエプロンを外し居間を出た。

家の中は広めである。 仕事中に余計な雑音が耳に入るのを嫌った光修が書斎と家を離す為に、

繋ぐ廊下に距離を置いた為だ。しずるは早歩きで書斎へと急いだ。夫ではあるが作家先生の

光修は少し変わった男だった。書斎に向かう度にしずるは例外なく毎回緊張した。

唾を飲み呼吸を整えた後、扉を二回ノックする。ひと呼吸置いて、中にいるであろう

光修に話しかけた。

「あなた、夕食の支度が整ったわ。お食事にしましょう」

様子を伺うがしかし、返事はない。これもいつもの事だった。仕事に集中している

光修にはしずるの声が届かないらしい。それなら、廊下を長くした意味が 無いではないか。

そう思う人もいるかもしれないが念には念を、であった。気を取り直し、しずるは声を掛ける。

「失礼しますよ」

そう言って、戸を開けると目に入った光景はやはりいつも通りの

机に腰掛けている光修の後ろ姿。後姿を確認すると、しずるは何となく安心した。部屋は天井から電気が、

一番暗い小玉で照らされており、真っ暗とは言えない位のぼんやりした雰囲気だった。

机の上にある電気スタンドから、手元の原稿周囲のみを照らせるようにしてある。

光修曰く、部屋全体を明るくすると気が散って、作業に集中できないらしかった。作業机右側には電源の

入ってないPC、作業机左側には、膨大な数の書物や本が納められた本棚、

小説を書く際に資料として使っていたのだろうか。いくつか歯抜けのように、本が抜かれている

形跡が確認できる。部屋全体は、色々なものが散乱しており、お世辞にも綺麗だと褒められる状態ではなかった。

机の下には穂先が墨のようなもので固まった、既に使い物にならなそうな筆も見えた。床には、

書き損じた原稿用紙、執筆に利用している付けペンのペン先を拭いた、

墨で汚れたティッシュペーパーが膨大な数転がっていた。

今日は、あまり仕事の進行が順調にいってないのかしら。書き損じの原稿用紙の量がいつもより

異常に感じたしずるは、作業中の光修に恐る恐るもう一度声を掛けた。

「あなた食事ができたのですけれど…」

見慣れた光景は、今回初めてある変化を見せていた。

机に座る背中を向けた夫。よく見ると、後ろから姿を確認した時は部屋の暗さで気づかなかったが、

机に座っている光修の体は、微動だにしていない。呼吸による両肩の上下運動すら見られない。

光修には既に息が無かったのだ。作業に使っていたペンと、初めて見る薬瓶が床に落ちていた。

静かな室内は一瞬に しずるの悲鳴に染まった。夫の名前が繰り返し響いた。

机の上には執筆途中の原稿用紙、 欄外には「レナの膝の下で眠りたい」と不安定な筆で記されている。

それは、作家・霧宮光修の声にならない遺言となってしまった。

誰か、助けて。しずるは泣きながら呟いてみるが、部屋には息のしてない光修と、自分しかいない。

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