第一章#6 『いつだって、ではなかったこと』
手の甲で蒼白く煌めく光は、指と指の間の付け根から流れて、溶ける様にステンレスのドアノブに吸い込まれて行く。
夕陽を背に、自分の影で腕を覆う体勢が、余計に痣の輝きを強調していた。
甲の筋に灯る光は、右手首の周りに星の砂を散りばめた様な靄を作り、宛らそれはハリウッド映画に有る、魔法使いの振る杖の先、
『詠唱を終え、発動を終えた後の様に余韻をチリチリと残し、消える』
と言ったイメージだった。
握るドアノブは、光が侵食し、元の質感を感じさせず、新しい鉱石の様にエメラルド色に変わり、
鉄の戸板との接合部分にも漏れ出すと、水溜まりに水滴を落とす様な綺麗な円の波紋を描き、ドア全体に薄く広がっていった。
柊奏は、今自分の手に起こる異常と、平行して目の前にある扉の異常とを目の当たりにしていた。
光の原因は、一切解らない。
しかし、何か痛みを伴う訳でも無く、目を瞑り、事実を知らなければ何も気がつかない程に、神経系に何かしらの反応を示す具合も一切感じられない。
自分の身体に起こっている現象を、受け入れている訳では決して無いのだが、それでも彼は途中で止めていたノブを最後まで回した。
鍵穴の奥で何かに当たる様な感覚。
これ以上は回らない。
回転の動きに合わせて、扉の波紋に若干の乱れが見られた。
ゆっくりと力を込めて押す。
少し空いた隙間の先は暗く、オレンジ色が吸い込まれる様に差し込んでいく。
この屋上は、見慣れた風景が広がり、遥か先まで景色が見渡せるのに、時の止まったこの空間は、どこか閉鎖的な印象を受けた。
この扉を開ける事は、その時間の縛りを解くような、閉ざされた箱の蓋を開けるような、
いつだって僕を気にかけてくれた奏を探す、最初の一歩を踏み出すのだと、
そう自分に言い聞かせ、
臆病な彼は、扉を開けた。
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「・・・・・・・・・・」
最早どう反応したら良いのかも、この状況をどう受け止めたら良いのかも解らなかった。
小さな覚悟を持って屋上の非常扉を開けた僕は、
その先にある筈の、見知った階段を降りていくつもりだった。
開いた扉の先は、薄暗い部屋に続いていた。
夕陽が差し込み、室内を照らす。
その部屋に覚えはなかった。
本がぎっしり詰まった棚は天井まで高く、木造のテーブルには、コップや本、小さなステンドグラス等、生活感を漂わせる品々が無造作に置かれており、
右手の奥の方に見える大きなベッドには、白く少し皺になったシーツが敷かれていた。
特に皺になっている部分が、ベッドの縁のあたりであることから、そこには誰かが座っていた事が解る。
それを裏付ける様に、そこから向かい合う位置に大きく、非常に座り心地の良さそうで、高価に見える椅子があった。
乱雑で、決して広くは無いが、ここから見る限りこの部屋は長らく放置されている訳ではなく、誰かが生活している独特の空気を感じられる。
「早く閉めろ」
声が聞こえた。
突然の事に僕は心臓がギュッと縮んだが、声の語気が明らかに怒りを含んでいるのが分かり、
一歩前に進み、後ろ手でゆっくりと扉を閉めた。
少しずつ背後から伸びるオレンジの筋は細くなり、やがて途切れた。
部屋の中は最初の印象より思った程暗く無いと感じたのは、夕陽がそれほどまでに強烈だったからだろう。
奏は、訳が解らず、ただ扉の前に立ち尽くしていた。
「今日は珍しいねー。立て続けに転生者が来るなんて」
最初の声は、低くはあったが野太い訳ではない、声変わりはしたが、まだ青年の男の子という位の印象だったが、
今聞こえた声は、明らかに女の子で、
それも相当若い。いや、幼い印象を受けた。
「あいつが出ていった後もドアから【調律】の痕が消えないと思ったら、そう言う事か」
「反対側から転生者が同じタイミングでドアノブを握ってたんだね」
「こっち側からも見えるってことは・・・・」
「中々の素質があるんだよ。きっと。反発してない時点で次の子は【奏者】だねー。それよりも・・・・・あの夕陽・・・・」
「・・・・・そうだな。あの時と同じだ。しかも、そこで突っ立ってる奴は気絶する事無く、自分からこっちに来てる」
「じゃああの子も、綾と一緒の世界から来た子だ」
「しかも『異世界渡り』が出来るみたいだな」
ベッドと向い合わせに設置してある大きな椅子から、ひょっこりと幼い顔が出てきた。
まだ、幼稚園児に程では無いのだろうかと思える容姿で、愛らしい顔立ちのその子は、日本人形の様に切り揃えられ、流れるように艶やかなショートボブの髪を揺らしながら、大きな目で此方を見ていた。
この位置からは、ちょうど椅子の背で上手いこと前が隠れているが、見渡す限りそこ以外隠れる場所も見つからない。
もう一人の声の少年も、その大きな椅子に座っているのだろう。
「しかし、あの女も容姿だけ見れば日本人・・・・・同じ世界の人間だ。随分とタイムリーな話だな」
「この子が、おねぇさんの探してる男の子だったら凄いねー」
少女は、僕を見たり、綾と呼ばれる少年を見たりしながら楽しそうに話していた。
少し距離はあるものの、にっこりと可愛らしく笑う彼女の唇が、先程から比べると徐々に桃色に煌めいていくのが肉眼ではっきりと解る。
「茅 《カヤ》」
「・・・・・確認しなくていいの?」
「さっきのを見たら、そいつに能力が有るのは解ってる。さっさと話を進める」
「はーい」
茅と呼ばれる少女は、椅子の上で立ち上がった。唇の煌めきが少しずつ褪せていく。
少年が椅子に座っているのだとしたら、太股の上に立っている事になるが、
少女は背もたれにつかまり、此方を覗き込むような体勢で僕に向かって言った。
「こんにちは、おにぃさん。こっちにおいでよー」
「お前の今の状況を教えてやる」
少年が被せる様に僕に向かって言い放った。
置かれた状況が全く理解出来ないのは先程まで居た屋上でも同じなのだが、
確かに僕はあの時死んだ筈で、
万に一つ奇跡的に助かる余地など全く無かったし、それは奏も同じだろう。
ところが、気が付くと全く時間が動かない見知った風景に寝転がっていて、決心して屋上を出れば知らない部屋に繋がっている。
だからこそ動揺こそするものの、今の僕には少年の指示に従わざるを得なかった。
僕自身が死んだとかどうかはどうでも良くて、
今、僕にまだ何かをする余地が残されているのだとしたら、この時間を奏の安否に使う為に僕は扉を開けたのではないか。
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柊奏は、自分自身の価値観に疑問は感じていなかったが、不思議な気分だった。
「僕は生きている間、こうして自分の意思でちゃんと何かを決めたことは一度も無かった」
と思うからだ。
一歩一歩、知らない部屋を歩く。
少しずつ大きな椅子に近づく間、こちらを見る少女は以前と変わらず笑顔だった。
男の声の正体が、露になっていく。
肘掛けに腕を付き、頬を傾けて支えていたその容姿は、口調をそのまま体現したかの様に随分と浅く腰掛け、傲慢な態度に見える。
こちらには顔を向けず、美しく紅に染まる長髪の間から除かせる、同じく深紅の瞳だけを一瞥する様にこちらに向けているが、
そんな態度とは裏腹に、何やら良からぬ事でも考え付いた少年の様に、その口角はニヒルに上がり、
悪役の首謀者が『よお、待っていたぜ』
とでも言いそうな表情だ。
「いいか・・・・・・最初に言っておくがな、俺は綾では無く、綾國だ。呼ぶ時は間違えるな」
胸のあたりに抱き付くように、もたれ掛かる少女の事は、れがさも当然かのように好きにさせておきながら、
もう片方の空いた腕で、先程まで誰かが座っていたであろうベッドの縁を指差して、美少年は僕に座る位置を促した。
「綾の方が呼びやすいし、可愛いのにねぇ」
誰に向かって言うでもなく、茅はそう言うと、ちょうどベットに腰掛けた奏に向かい振り向き、
「ねぇ?」
と、笑顔で合意を求めて来たが、
僕がそれに対し、今の何もかもが全く解らない状況でもその同意と言う選択肢は『間違っている』と判断出来た。