第一章#2『いつだって、にはならないこと』
柊奏は、ただ呆然と立っていた。
日の温かさや眩しさは確かに感じられるのに、角度がまるで変わらない夕陽。
延びる影。
動かぬ雲。
遠くに見える、等間隔に並んだ木々は、まるで動かず、逆光がまるで影絵を切り取った様な印象を作り出している。
時計を持たない彼には、この夕暮れの屋上で目が覚めてから一体どの位の時間が経ったのか正確にはわからない。
ただ、
『このよく解らない不可解な現状』
に、常識を当てはめるとすれば、既に夕陽は水平線の彼方に落ち、辺りは暗く、夜が訪れて来ていてもおかしくない。
その位は経過している筈だった。
幼馴染の奏と落ちた筈の場所には、血の痕1つ無いどころか、自分以外の人も一人として確認出来なかった。
自分の声や、布ずれや足音はちゃんと聞こえるが、それ以外、日々注意深く聞かずとも自然と耳にする音が全くと言って良いほど聞こえ無い。
形容する言葉を選ぶとするなら、今、奏が立つこの世界は正に
『時間を切り取った一枚の写真の中にいる』感じだ。
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自分の手を胸に当てると、確かに鼓動は感じられるから、僕に恐らく生きているんだろうと思う。
「こんなことって、あるのか」
が僕の正直な感想だ。
今まで、何かにつけては漠然と『生きてても良いことなんかない』と思っていた割には自害には至らず、自分の殻に閉じ籠ってばかりだった僕は、
つい最近になって、虚しい自問自答の末、飛び降りを選んだのだ。
誰かに迷惑をかけるかもしれないし、両親や親戚、もしかしたら奏は悲しむかも知れない。
でも、今回の僕はそういう全てを置いて、あの白い柵を手放したのだ。最後まで、誰かに謝りながら。
ところが、これだ。
もう、全くもってどうなってるのか理屈は解らないが、僕は少しだけ時間が経った上で、そこで切り取られた様に静止した世界で
生きているのか死んでいるのか、よく解らないまま立っている。
解る事と言えば、ここが何処なのかと言う事位で、
ここは僕の家族と、奏の家族が、幼い頃から同じ階にすみ続けているマンションの屋上で、
都会からは少し離れた、海に近い立地にあって、
ここに上がってくる為の非常階段には、
最上階の渡り廊下に設置してある侵入防止用の格子形のドアがある。が、鍵は壊れていて、
昔から僕と奏しか知らない場所だ。
自分で嫌な捉え方をして、
自分に自分で鎖をかけて、
嫌な思い出にして、
自分で勝手に思い悩んで、
最後の最後まで、自己完結で終わらせようとした、此処しかない唯一の僕の居場所で、僕が最も嫌いな場所だ。
まるでファンタジーの様に生かされている僕にこれ以上何があると言うのだろう。
「―――――――――――――もう一度、死ぬか。」
一度やったことに対する抵抗って、そんなに無いもので、一度目の人生終了に比べれば、二度目の人生終了など、思い悩むまでも無い。
と、実に理解しがたい理屈を考えていると全く楽しいわけでも無いのに、少し笑いが込み上げた。
「そう言えば、死ねるのか?」
ふと、気が付いた。
死のうとして死ねなかった奴が、ましてやこの不可解な環境の中でどうして死ねると解るのか。
先程下を覗いた時、遥か下に向かって汗が落ちていくのが確認出来ているだけあって、恐らくこの不思議な世界にも重力は働いていると推測出来る。
まあこの高さだ。
落ちれば死ぬ。これが普通に考えると行き着く一般的見解だが・・・・・・
「まあとにかく、やってみるか。」
全くもって、さっきまでの塞ぎこんだ自分は一体なんだったのか。
笑いの次は、自分に向けて呆れてくる。
多分これは、僕が立っている今の状態に現実味が妙にかけている事も少なからず影響しているのだと、考える事にした。
「よく人間は死ぬ程の体験をすれば、大概の事に恐怖心は無くなると誰がかが前に言っていた気がするけど・・・・あ、奏が僕に言ったんだっけ・・・・・・」
―――――――――――――――――僕はふと、思った。
奏は一体、どうなったのか。
もし、奏が生きているなら。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
彼女は、僕を救おうとしたのだ。
それが彼女のお陰かどうかは解らないし、寧ろあの状況では助かっていたと考えられる可能性は皆無だった筈だ。
それでも、結果として僕はこうして生きている。
確証を得るには不明瞭で不確定な部分が多すぎるのも事実だけれど。
彼女もまた、生きているなら、
僕はちゃんと伝えなければ。
『ゴメンナサイ』
と
『アリガトウ』
を。
「あ、生きる意味、できた」
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柊奏は、白い鉄柵に背を向けた。
変わらず角度を変えることなく降り注ぐ夕陽の光が、彼の背中をじんわりと暖めて、
足元から長い影が伸びている。
自分の何倍もある影の頭部は、非常階段へと続くドアに反って、遠くでもう一人の自分と向かい合っている様な気がしてくる。
少しずつ、
少しずつ、ドアに近付いて、
彼女が強く握ってくれて残った、
5本の、甲に赤く引かれた痣の線を少し見た。
ほんのさっきより、痣の印象が違うのは、自身の心情の変化からか。
ドアノブに手をかけて、力を込めて握りしめた。
ゆっくりと、ノブをひねる―――――――――――――
「え?」
柊奏の痣の1つ、
人差し指と中指の間から伸びる痣の線が、蒼白く、光っていた。
「何?コレ――――――――――――――――――」
柊奏は、異変が起こる自分の手の甲をただ呆然と立ち尽くし、
手の中に有るノブを引くことが、どうしても出来ないままでいた―――――――――――――――――――――