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誰彼刻の小さなカフェで。

作者: ナンブ

 ──ふと気付くと、私は夕方のカフェにいた。


 何時から居たのか、どうして此処にいるのかも分からない。それどころか、前後の記憶も定かではない。

 にも関わらずカフェだと分かったのは、鼻腔を擽る珈琲の匂いと、目の前にあるテーブルに置かれたパンケーキとカップの存在だった。

 あとは、細かい網目のクロスが掛けられたテーブルの端に置かれた簡単なメニュー表。

 そこは子供の頃、母親に連れられて訪れたカフェに似た雰囲気だった。

 目に見えるもの全てが橙じみて映るのは、恐らく窓から入る西陽のせいなのだろう。そんなところまで、子供の頃に見た光景と似通っていると思った。


 耳に届く女性の歌声は、曲名も歌手も忘れてしまうほど、昔に聞いた曲だった。時々混じるレコードのノイズが、私の感覚を過去へと引き戻す。

 まるで自分が過去へ──忘れてはならないと必死に努めたあの年代に帰ったような、そんな気分にさせる場所だった。


 そんな感傷とは別に、何故こんなところにいるのかの疑問は晴れない。私は自分の前に置かれているパンケーキと珈琲のカップをしげしげと眺め、続いて辺りを見回した。

 私が座っている場所を含め、テーブルは二つ。後はカウンター席となっている。私以外に客の姿は無く、随分とこじんまりしたカフェだ。

 カウンターの真ん中にレコードプレイヤーを乗せている辺り、経営者は余り集客にこだわらない人なのかもしれない、とも思った。

 続いて、カウンターの奥へと視線を向ける。

 窓から入る西陽で顔は伺えないが、従業員にしては随分と背の高い人物が皿を洗っている姿が見えた。


 彼に対して此処が何処で、私はいつこの店に来たのかを聞こうと、席を立とうと思った時だった。

「ねえ、たべないの?」

 不意に正面から声が掛かり、私は驚いてそちらに目を向けた。

「えへへ、やっとみてくれた」

 先程まで誰もいなかった筈の席に、幼い少女の姿があった。椅子に腰掛けているため、上半身どころか口までテーブルに隠れている。

 夕日を浴び、きらきらと光る金の髪も硝子珠のような蒼い目も、まるで人形のような──整った顔立ちの少女だった。


 戸惑う私を他所に、少女はテーブルの上にのった皿を指差し、まるで歌でも歌うような口調で話す。


「まんまるふわふわ、こんがりきつねいろのパンケーキ。おねえちゃんが、せいこうしたはじめてのパンケーキ。これはおとうさんがつくったけど、おねえちゃんのレシピでつくった、おねえちゃんのパンケーキなんだよ」

「それって……」

 少女の些細な言葉で、遠い記憶の中で眠っていた、とある出来事を私は思い出す。

 決して忘れてはいけない──けれども、思い出すと辛い過去のやりとりだった。

「すごくすごくおいしかった、おいしかった。って、おにいちゃんがいってたパンケーキ」

「その“お兄ちゃん”ってまさか……」


「はい、ジョーエルさんです」

 私が望んでいた答えは、少女からではなく。カウンターの向こう側から聞こえてきた。


「さしでがましいようですが、娘が話をややこしくしてしまいそうでしたので……」

 先程までカウンターの奥で洗い物をしていた黒髪の男性が、私の方に歩み寄りながらそう言った。

 先程までは逆光で体躯しか伺えなかったが、穏やかな顔をした中年男性だった。掛けている眼鏡と雰囲気が相成って、随分と物腰が柔らかなのが印象的だった。


「ここは“迷った人”が訪れる場所なんです」

「まよった……人?」

「はい、クレアさん」

「ど、どうして私の名を……」

 迷う素振りすら無く名を言い当てられ、私は動揺を隠せなかった。

「名前、生年月日、経緯、死因。それら全てがオーダー票に明記されておりますので」

「死因……じゃあ私は」


 横に立つ男性を前に「私は死んだのですか?」という疑問を投げ掛ける前に、これまですっかり忘れていた筈の記憶が津波のように私の頭の中に押し寄せる。


 ──そうだ、私は死んだのだ。


 七十余りの人生を生き、看取る家族も居ない中。私はこの世を去ったのだ。

 最後に見たのは、飽きるほど長い間見続けた病院の天井では無く、ベッド脇にずっと飾っていた写真だった。

 思ったことはこの世を去る寂しさでは無く、写真の中で老いることの無い笑顔を浮かべている、かつての恋人──ジョーエルだった。


 男性の持つ銀のトレイに映る自分の姿を見て私は驚く。そこに映っているのは、皺だらけの顔に白髪の老婆では無く。若き日の私だった。


「ここは天国なんですか?」

「んー……正確に申しますと“その手前”と申しますか、まあそんなところです。現世でないのは確かですけど」

 不思議な事に、自分が死んだと分かった途端、私の心からこの場所に対する不安は消え去った。ただ単に疑問に思ったことを男性に問う。

「此処は何と言うか、未練を断ち切る場所とでも言えばいいのでしょうか? 端的に言えばまあ、まっすぐ天国に行かず迷ってしまったお客様にサービスをする場所なんです」

「……サービス、ですか?」

「はい、此処では迷っていらした方が“最期に食べたい”と思っていたものを、俺が作ってお客様にお出しする店なんです。俺の場合はこうして料理をお出ししますが、他のものに対して強い想いを抱く方も勿論おられます。そういう人はまた別の場所へと流されるわけなんですが……」

「おねえちゃんは、おにいちゃんといっしょでうちだったんだよ!」

 それまで黙って話を聞いていた少女が唐突に口を挟み、そこで私は、漸く目の前のパンケーキをまじまじと見た。

 白い皿に積み重ねられたパンケーキ。全部で四枚あるそれは、私にとっては量が多いものだ。表面はこんがりと焼けて、随分と美味しそうだが……私はこれが美味しいかどうかは知らない。

 味は知らないけれど、このパンケーキは良く知っていた。

 数十年前の自分が、初めて成功した狐色のパンケーキ。さして裕福でもない、戦時中の貧困時にも関わらず、何度も何度も練習しては母に怒られた。

それでも、あの人に美味しいものを食べさせたくて、私は頑張った。


「このレシピを作るのは二度目でしたので、他の物よりか多少は自信があるのですよ」

「うそつきだー、おとうさんはおりょうりなんでもおいしいのに」

「……いや、その。美味しさと心の味とはまた違うから……」

 二人の日常を垣間見る言い合いを他所に、私は未だパンケーキから目を逸らすことが出来なかった。

 男が告げた「二度目」という言葉に引っ掛かりを覚えるが、状況が分からず私は何も返せない。


「あの人……ジョーエルも、ここに来たんですか?」

 聞いておかなければならない言葉をやっとの思い出絞り出すが、私の言葉は震えていた。

「はい」

「い、いつですか?」

「そうですね、貴女方の時間では五十年程前です。頭を撃ち抜かれ、即死の状態でこちらに」

 即死。

 その言葉を聞いて、不思議と私は安堵した。

 幼馴染みであった恋人は、子供の頃から弱虫で少しの怪我で泣き叫ぶ位に意気地が無かった。

 そんな彼が戦場に赴き、どのように無残な死に方をしたのだろう? 命の灯火が消えるまで苦しくて

泣き叫んでいたのではないか? 私は何も知らず書類だけで彼の死を知り、毎晩のように泣いた。

「ジョーエルさんも、これを食べて何度も『美味しい』とおっしゃって泣いておられました」

 私の内心を知ってか知らずか、男性は言葉を続ける。

 彼の苦しみが最低限だったのを今になって知り、見知ら目の前の男性に感謝を覚えた。


「……さあ、冷めてしまわないうちに」

 男性の促しに、私は無言で深く頷く。心の中で何度も感謝の言葉を述べ、きつく閉じた目尻からは涙が溢れた。

「おにいちゃん、まってるから。はい」

 少女が差し出してくれたナイフとフォークを受け取り、私は礼を言おうとするが……それは嗚咽にしかならない。

 涙で滲む視界で四枚のパンケーキを切り分け、一切れを丸ごと頬張る。味なんか分からない、ただ涙のしょっぱさとパサパサした食感だけしか感じなかった。


 味も分からず夢中で食べていると──ジョーエルと一緒だった頃の思い出が、頭の中で次々と思い浮かんでは消えていく。

 年上だった私がいつも彼を振り回しては、困らせて。それでも、どんな時でも必ず傍にいてくれた。

 きっと、彼は死んだ後も──独りでは逝かず、私を待っていてくれたのだろう。戻ってきたら必ず渡す、と言っていたプレゼントを持って、私をずっと待っていてくれたんだろう。


 いつの間にか親子の姿は消え、私の前には背の低い恋人が立っていた。

 まだ子供のあどけなさが残る顔を恥ずかしそうに下に向け、それでも彼の手は私に差し伸べられていた。


「ジョーエル、ごめんね。ごめんね、待ってくれてたのね……ごめんね、お待たせ」


 最後に言ったのは、そんな言葉だったと思う。

 曖昧なのは──彼の胸に飛び込んだ時。『私』という全てを忘れてしまったからだ。




 クレアという魂だったものが光り輝き、その姿がかき消された後。彼女が持っていたフォークが、テーブルの上に落ちた。


「いっちゃったね……」

「うん」

 残念そうに呟いた少女の言葉に対して、男は短く頷いた。

 夕陽が差し込むカフェの中、男と少女の影が長くなって床へと落とされている。

 ふと、レコードの曲が止まっている事に気付いた男が慌ててカウンターの方へ歩み寄った。

 針を中央へと戻しながら、ぽつりと男は独り言を漏らす。

「五十年もさ、互いに想って待ってるって……人間って凄いよね。ちょっと……羨ましいな」

「そーだね!」

 独り言のつもりだったので、少女から返事が返って来て男の手が止まる。しかしそれよりも、彼女の声がくぐもっていた事の方に驚いて振り返った。


「あっ、こらユノ!」

 振り返って目が合った少女の頬が膨らんでいるのを見て、男は思わず怒鳴る。

「お客様に出した料理を食べるなとあれほど……」

「……うー、まずい。なまやけだよ」

「だから言ったのに……」


 溜息混じりに返した言葉は、再び流れ出したレコードの曲に消され。

 この後──全く似ていない“娘”の御機嫌を取る手間がさらに増えた。

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