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嫉妬

 窓際で点された灯りに向かって、ガラスの外で蛾が集まっている。


 アイニはそっと手を伸ばした。

 背後でジャナフが息を呑む音が聞こえる。


――絶対に駄目だ。


 突然、頭の奥でリフの声が響いた気がして、アイニは弾かれたように顔を上げた。


 こつん、こつんと床を突く音が聞こえる。カーテンが開いて、空気が流れ込んできた。振り向かなくても、それがタリクだと分かる。


 もしニナを救えば、ジャナフは喜ぶだろう。無論、後ろめたさを感じながらではあっても。


 けれどアイニ自身が石に閉ざされた眠りにつけば、タリクに孤独を強いることになる。


「……ごめんなさい……私には、できない」


 アイニは外した革手袋を、強く握りしめた。

 その時、手袋をはめたままの左手に何かが触れた。


 わずかに残った人の部分を動かして、ニナの指先がアイニに伸ばされている。

 もういいのだと、告げるかのように。薄い革を通して、ほんのりと温もりが伝わってくる。




 ジャナフが長い息を吐き、室内の緊張が解ける。


「ごめん、僕が卑怯だったね。アイニを試してしまった。もしかしたらと期待をかけてしまったんだ」


 ニナの手をとったジャナフは、その柔らかな手の甲を愛おしそうに撫でた。


 アイニの後ろに立ったタリクが、背中からアイニを抱きしめる。

 かたん、と杖が床に倒れた。

 いや、それは杖ではなく鞘に収められた剣だった。


「よかった。間に合って」


 肩に触れる銀の柔らかな髪。タリクの声は震えていた。


「もしジャナフが石化を解くことを強要したら……俺、あいつを殺してでも止めるつもりだった」

「タリク」

「……本気でそう思っていた」


 とても重々しい呟きだった。




 ジャナフはアイニとタリクを促して、病室の外に出た。何度もニナを振り返りながら。


「サブズに水晶の爪を持つ子がいるとの噂を聞いたことがある。石化を治し、命を戻すと。だから就職試験の時、提出された書類のサブズ在住という記載と、君の手を見てすぐに分かった。ああ、この子がニナを救ってくれるかもしれないと」


 廊下の長椅子に座ったジャナフは、肩を落としている。

 いつもの華やかさは微塵も見えず、全身に疲れを滲ませていた。


「八年は長いんだ。彼女が、ただ衰弱していくのを待つばかりだからね。どれほどお金をかけても、援助してもらっても、治療法がない。踊れない舞姫を養うような余裕は、舞踊団にはない。

 僕はニナが戻るまで、彼女の場所をなくさずにいようと舞姫として舞台に立ち続けているけれど、いつ終わりが来るのか、いつか報われるのかとそればかりを考えてしまっている」


 ジャナフは頭を抱える。

 愛しい舞姫と同じ色の赤い髪をかき分けた指から、消毒薬のにおいがした。

 きつい香水をいつもつけていたのは、洗っても消せないこのにおいをごまかすためだったのだろうか。


「僕はアイニを試した……ニナはきっと失望しているよ」

「失望なんてされないわ」


 アイニは革に包まれた手を見つめた。

 ニナは自分自身の為に他者を巻き込むことを良しとしていない。だからこそこの手袋を外すことを止めてくれたのだ。


「どうして? 僕はあろうことか、ニナの死を願ったことがあるんだよ。良くも悪くもならないまま、その瞳に二度と僕を映してくれないのなら、いっそ解放してほしいと。

 その思いに気付いた時には愕然としたんだ。舞姫の座を守り続けているのは、罪滅ぼしでもあるんだ。そして薔薇の君を続けるのは、王女への償いだ」


 眩い光に届かぬことに気付いたのか、病室の外を飛んでいた蛾は、今は廊下の窓に張りついていた。


 どこからか寂しげな犬の遠吠えが聞こえてくる。


 ジャナフは一人きりでニナを見舞うたびに、自分を追いこんでいたのだろう。

 そして舞台では舞姫ニナが健在であることを、ことさらあでやかに皆の心に刻みこんでいった。

 パートナーである薔薇の君と共に。


 二人は舞台で同時に存在することはできない。でも共演を夢見ることが出来る。


 ニナは踊れる、注目を浴びて称賛され、拍手をもらい。誰からも愛されて……元気でいるのだと。


「アイニを利用しようとしたのは、ジャナフだけじゃない」


 ゆっくりと言葉を発したのは、タリクだった。


「アイニのもつ力は、サーリカのものだ。噴火の前から化石の森は、微量に流れ込むガスのせいで木々が結晶になっていたからさ。妹神が人の似姿をとる力と一緒に、王には石化を戻す力を与えたんだ。タイ父さんも、水晶の爪で森の木々を守っていた」


「私はタリクのお父さんから、この力を受け継いだの?」

「うん。サーリカは元々の体が大きいから、ちょっとくらいの石を体内に引き受けても平気なんだ。でもその力を息子にじゃなくて、人の子に託すなんて卑怯だ」


 かんっ、と床に当たった剣の音が、静かな廊下に響く。


「シンダリを守ったのはタイ父さんだけど、残った俺が石化した時には、アイニに救ってほしいと考えていたんだ。人を守るのに人を犠牲を強いるなんて……おかしいよ」

「そうかしら」


 アイニは顔を上げて、表情を歪めているタリクを見つめた。


「干の鳥の王としての責務を果たして、それでもなお子どもを守りたかったのではないかしら。親として」


 八年前の噴火は、もう遠いことのはずなのに。でもまだ誰の心にも傷は開き、血は溢れ続けている。


「タリクやジャナフがこうして生きて、普通に生活していることこそが、干の鳥の王やニナさんの望みなんだと思う。ニナさんにとっては、あなたが元気でいることだけで嬉しいのよ、きっと」


 ジャナフは、大きく目を見開いた。そして、ははっと力なく笑いをこぼす。


「そうだね、忘れていたよ。僕という人間は、ニナが命をかけても守り抜きたいと思った存在だったんだ」


 ニナ、ニナ、と今にも消え入りそうな声でジャナフは繰り返した。






 アイニの回復と同時に、タリクも強引に退院してしまった。

 医者は、毎日必ず通院することや薬を欠かさぬことを条件に、渋々と許可していた。


 まだ怪我人のタリクは家で休んでいるが、明日からはアイニと一緒に出勤すると言って聞かない。



「アーイニ。お見舞いに来たわよー」


 家にやってきたのは幼なじみのナディールだった。


 今日は珍しく、顔に白いテテニアを塗っていない。黒髪は丁寧に一つにまとめて豪華な銀の髪飾りをつけ、手には布をかけた籠を抱えている。


「タリクが大怪我をしたって聞いたんだけど。大丈夫なの?」


 家に招き入れる前から、ナディールは中をきょろきょろと見回している。


「部屋で寝ているわ。明日から本当に自転車でハフトまで通えるのかしら」

「心配なら、私がタリクの世話をしてあげるわよ」


 ナディールは中に入って食卓に籠を置いた。


「ねぇ、タリクってパシュボサが好物なのよね」

「ええ、そうだけど」

「たーくさん作ってきたから、いっぱい食べて元気になってもらわなくちゃね」


 ひらりと布を取ると、籠の中には山積みの揚げ菓子が詰め込まれていた。


 これまでのナディールなら薔薇の君の話をしていたのに、今日はタリクのことばかり気にしている。

 二人は仲が良くないのに。


 お茶の用意をしようと、アイニは湯を沸かす。その隙に、ナディールはちらっと階段の方を見やった。

 その視線が熱っぽさを帯びている。


「今日はどうしたの? 急にタリクを見舞うなんて……」

「うん。タリクってかっこよくなったわよね」


 パリン! アイニが手にしたカップが、床に落ちて割れた。

 アイニの怪訝な表情に気づかぬのか、ナディールは笑みを浮かべている。


「タリクって、テテニアをたっぷり塗るのは嫌いなのよね?」

「う、うん」

「ねぇねぇ、彼女とか付き合ってる人はいないんでしょ?」


 返事ができずに、アイニは口を閉ざした。床に散乱した破片を拾っていると、指を切ってしまった。

 赤い血が、ゆっくりと指先ににじむ。


 しゅんしゅんと湯の沸く音だけが、やたらと大きく聞こえる。


「ついこの間までは、体が大きいだけの子どもだったのにねー。なんかこう、最近は愁いを帯びてるっていうか。色気っていうの? そういうのが滲んでいるのよ」

「……見て分かるの?」


 指先に唇を当てると、錆びに似たにおいと血の味が口の中に広がった。


 いやだ。なんでナディールがタリクのことを気にかけるの? 

 黒いしみのような気持ちが、心に広がっていく。


「そりゃあね、最近はずっとタリクの写真を部屋の壁に貼ってるのよ」


 ほらほら、とナディールは一枚の写真をさしだした。


 そこには剣を振るうタリクが写っていた。制服をはだけて上半身は裸だ。琥珀の肌に浮かぶ汗がきらめいている。

 精悍な表情。甘えん坊の面影はどこにもない。


 時折見せてくれる真剣な表情。あまりにも愛おしくて、アイニは思わず手を伸ばした。


「あーら、だめよ。タリクの写真はけっこう高かったんだから」


 ナディールは眉をひそめながら、写真をひらりと裏返した。


「ねぇ、タリクはお姉さんが大好きなんだから、アイニの頼みなら当然聞いてくれるわよね」


 お姉さんという部分に力を込めるナディールは、まるで挑んでくるかのような鋭い瞳をしている。


 うん、と答えてはいけない気がする。きっとよくないことを頼まれるに違いない。

 アイニは身構えた。


「私ね、タリクと二人でお出かけしたいのよ。化石庁の休みはいつかしら。アイニから話をふってくれない?」


「無理よ。まだ怪我が癒えていないし、休日は体を休めないと」

「んー、そうね。お出かけはまだ難しいかぁ。じゃあ、やっぱりまずは看病からね。タリクの部屋は二階でしょ」


 籠を手にして、ナディールは立ち上がった。呆然とするアイニを残して、嬉々として階段を上がっていく。

 まるで飛び跳ねるかのように。


「ま、待って」


 机の脚や椅子につまずきながら、ナディールを追いかける。

 友人がわざわざ弟を見舞う。それだって普通に考えたらおかしいのに。


 この間まで薔薇の君がいいって言ってたじゃない。どうしてタリクの印象が変わったからって、急に好きな相手を変えてしまうの?


 タリクが大人っぽくなったからって、そんな見た目の印象だけで選ばないで。好きにならないで。


「タリクを、とらないで」

「……とらないでって、どういう意味?」


 階段の途中でナディールがアイニを見下ろした。

 なんでついてくるのよ、と言わんばかりの鋭い目つきで。


「あなた達、姉弟よね。いやだ、そこまで弟のことを束縛したいの? アイニもさっさと職場で恋人でも見つけたら? そうしたらタリクも自由じゃない」

「自由って?」

「アイニがタリクを構いすぎるから、タリクが他の女性に目を向ける暇がないんじゃないの? アイニったらアビ山で怪我をしたのに、わざわざタリクに迎えに来させたんですって? 恋人きどりはやめた方がいいわ」


 みっともないから、とナディールは目を細めた。


「恋人を気取ってるんじゃないわ」

「じゃあ、なんなの? 弟と恋はできないのよ。それくらい当たり前でしょ」

「タリクは大事な家族よ。でもそれだけじゃないの……」


 アイニは拳を握りしめた。


「私はタリクが好きなの」

「なに、言ってんの。正気なの?」


 呆気にとられた様子のナディールに向かい、アイニは力強くうなずいた。

 もう迷わない。この気持ちは本物だから。




 とん、とんとん、と足音が聞こえる。

 壁に手をつきながら、ゆっくりと階段を下りてきたのはタリクだった。

 アイニの姿を見た途端、彼は満面の笑みを浮かべた。


「アイニ」


 よろけたタリクを支えようと、アイニはとびだした。両腕を広げてタリクを受け止めたが、体格に差がありすぎて、そのまま壁にぶつかってしまう。


「うわ、ごめん。大丈夫か?」

「うん、平気だから」


 ずきずきと痛む後頭部をさすりながら、アイニはかろうじて笑顔を浮かべた。


「甘い匂いがしたから、目が覚めたんだ」

「……話し声じゃなくて?」

「嬉しい言葉は聞こえたぞ。あー、お腹空いたー」


 アイニにしがみついたまま、タリクは大きなため息をついた。


「あ、あの。タリク。甘い匂いって、私が作ってきたお菓子のことかしら」


 ナディールが、おずおずと籠を差しだす。

 タリクは眩しいくらいに表情を輝かせ、それを見たナディールは頬を染めた。


「うわ、すごいぞ。たくさんのパシュボサだ」

「タリクに食べてもらおうと思って、がんばったの」


 うっとりと微笑んでいるナディールの前で、タリクは「いただきまーす」と声を上げて、蜜菓子を食べ始めた。


 一つ、二つ。ナディールは、にこにことタリクを見ている。

 三つ。四つと五つはまとめて口の中へ。六つ目と七つ目はそれぞれ左右の手に持って。


 だんだんとナディールの表情がかげっていく。

 籠の中に隙間ができ、下に敷いた布が見えてくる。


「あれ? ナディールだ。顔を白く塗りたくってないから、誰か分からなかった」


 十個目のパシュボサを手にしたところで、ようやくタリクは籠を持つナディールに気づいた。


「あ、そうか。アイニの見舞いに来てくれたんだな。意地悪ばっかり言うと思ってたけど、いいところあるんだなー、ナディールも」


 タリクの手も顔も蜜でべたべたになっている。アイニは布を水に濡らして、タリクに手渡した。


「もしかして、だけど。これってナディールが作ったのか?」

「え、ええ。そうよ。早起きして作ったの」

「ごめん。アイニのために作ったんだよな。俺、ほとんど食べちゃったかも」


 しゅんと肩を落とすタリクの傍らで、ナディールの顔は引きつっている。


「なによ。あの写真、偽物じゃない」


 ぽつりとつぶやく声が、確かに聞こえた。


 偽物であるはずがない。

 化石庁の中庭でジャナフに稽古をつけてもらっているタリクが、そのまま写真には写っていたのだから。


 鋭さを感じさせる表情やふるまいも、あどけなさを残しているのも、両方ともがタリクだ。


 あの写真は、彼の一瞬を切り取っただけ。違う場面をとらえれば、これまでと同じ子どもっぽいタリクが写るはずだ。




 急用を思い出したからと、ナディールは急いで帰っていった。


「……なんだったんだろうね。さっき来たところじゃなかったのかな」

「忙しいのよ、きっと」


 廊下には写真が落ちている。

 帰るときにナディールが踏みつけたのだろうか。凛々しいタリクの顔に、足形がついてしまっている。


 アイニはその写真を拾い上げると、手で汚れを払った。


(私、ナディールに嫉妬したんだわ)


 タリクとナディールに二人で出かけてほしくなかった。眠っているタリクを、見せたくなかった。自分以外の人を好きになってほしくなかった。


 独り占めにしたいくらい、タリクのことが好きでしょうがない。


「血のにおいがする」


 ふいにタリクが眉根を寄せたと思うと、アイニの手をとった。


「あ、カップを割ってしまって」


 いつの間にか指先からしたたるくらいに血が流れていた。思っていたよりも傷は深かったようだ。


 タリクはアイニの指を染める血を舐めとった。


 だから、どうしてそういうことを自然にやってのけるの? アイニは恥ずかしくなってうつむいた。


(でも、私以外にそういうことはしないで)


「アイニ? 今、何を考えたのさ」


 金の瞳が、アイニの顔を真正面から見つめてくる。

 少し屈んだタリクは、アイニの指を手にしたままで離してくれない。


「……何も?」

「正直に言ってくれないと、困るよ。アイニが」

「どういうこと」

「こういうこと」


 アイニの指に頬ずりしながら、タリクは瞼を閉じる。


「ほら、早く手当てしないと。また血が出るよ? でもアイニが本当のことを言ってくれないと、俺はずっとアイニの手を握ったままだ。あー、困ったな。アイニが出血多量になっちゃうぞ」

「卑怯よ」


 そんな切り傷くらいでひどく出血するはずないじゃない。分かっているのに、手をふりほどくことができない。


「私、自分で思っている以上にタリクのことが好きなんだって気づいたの。タリクが他の人のことを好きになったりしたら……もしそうなったら、とてもつらいって思って」


 一息にアイニは告げた。けれどタリクの返事はない。

 普段なら「やったー」とか言いそうなのに。


「……参ったな」


 顔をそむけたタリクは、ぼそっと呟いた。

 肌の色が濃いから分かりにくいけれど、もしかして赤面している?


 タリクは手で顔をおおってしまった。


「嬉しいと泣きたい気分になるんだな」



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