エグゼリオの守護騎士12
「拘束された人物の名はロイニクス・ハーバン。容疑は禁制品の密輸、だそうです」
「……やれやれ。これは僕の失態かなぁ」
苦い口調でそう言いながらセイルは首を振った。そんなセイルに事情を説明している男の表情は険しい。
「失礼ですがセイル様、彼に我々のことは……」
「何も教えてないよ。その点は大丈夫」
セイルの答えに男はあからさまにほっとした。男はレジスタンス〈ベトエイム解放戦線〉のメンバーだ。彼にしてみれば、自分たちの情報が洩れてしまうことが何よりも怖い。
セイルが今いるのはベトエイム解放戦線のアジトの一つである。とあるバーで連れのロイニクス・ハーバンことルクト・オクスが拘束されたことを知ったセイルは、彼らの伝手を使って情報を集めてもらっていたのだ。
そのようなことができたのは、セイルが以前から彼らに協力していたからに他ならない。それでルクトも同様に自分たちのことを知っているのではないかとレジスタンスのメンバーは心配していたのだが、もちろん彼はそのようなことは何も知らない。
「騎士団が動いたと言う話だけど?」
「はい。魔道甲冑を装備した騎士が三人ほど宿まで出張ってきたようです」
ベトエイムにおいて、というよりアーカーシャ帝国内の地方都市において、騎士団というのは帝都から派遣されてくる総督の直属部隊である。よってその騎士団が動いたと言うことは、そこには総督の意向が大きく関わっていると見て間違いない。余談になるがこのあたりの事情も、今回の件でレジスタンスのメンバーが警戒感を示した理由だろう。ベトエイム解放戦線にとって、騎士団は仮想するまでもなく不倶戴天の敵なのだから。
「では、セイル様を狙ってのことでしょうか?」
つまり、セイルがレジスタンスと繋がっていることを知った総督か騎士団が、彼を捕らえるための人質、あるいは彼の関係者としてルクトを拘束した、ということだ。ありそうな話ではあるが、しかしセイルは首を横に振った。
「それだと、動きが早すぎる」
ルクトとセイルは今日の午後の少し前にベトエイムに来たばかりである。このタイミングでセイルを狙い騎士団が動いたのであれば、彼らは事前にセイルのことを知っていたはずだ。しかしもしそうであるなら、そもそも二人が都市に入ろうとした時点で拘束を試みるような動きがあってしかるべき。騎士団で情報が止まっていたと言う可能性はあるが、それならば動くのが早すぎる。
「容疑の禁制品の密輸に心当たりは?」
「まったくないね。ここで売ったのは魔石だけだよ」
ルクトが拘束されたのは泊まっていた宿とのこと。つまり彼は宿に入ってから外には出ていないのだ。これでは密輸をしている暇などない。そして当然、セイルと一緒に売った魔石は禁制品ではない。
つまり「禁制品の密輸」という容疑はでっち上げなのだ。総督がそうまでして拘束に踏み切る理由となると、やはりレジスタンス絡みである可能性が高いと考えられる。しかし今回に限ればそれは外れだ。繰り返すが、ルクトはベトエイム解放戦線のことなど何も知らないのだから。
「僕や君たちとはまったく関係のない理由でルクト君は拘束された」
それがセイルの見立てだ。そしてその理由にセイルは心当たりがある。
(ルクト君の個人能力、だろうねぇ……)
ルクトの個人能力〈プライベート・ルーム〉は私的な空間を提供する能力であり、また大量の物資の輸送に向いた能力である。そしてベトエイムの総督が、ひいてはアーカーシャ帝国がその能力を求める理由も、セイルはおおよその想像がつく。
「まあ、なんにしても助けないとだね」
セイルはそう呟くとすっと目を細めて視線を鋭くした。彼の放つ鋭く切り付けるような雰囲気に、一緒にいる男は思わず息を呑んだ。
「どうなるかは分からないけど、まあ、多分騒ぎにはなるだろうね」
それをどう使うかは君たち次第だ、とセイルは幾分軽い口調でそう言った。それを聞いた男は目を見開く。それはつまり、事と次第によっては騎士団と一戦やらかす、と言っているのだ。そしてそうなる可能性は非常に高い、と言えるだろう。
男はこの“セイル”という客人がどれほどの力を持っているのかは知らない。普通に考えれば、生身の人間が魔道甲冑を装備した騎士に敵うはずがない。しかも騎士団には、そんな騎士が二〇〇名もいるのだ。
しかしセイルの口調はそれがさも当たり前と言わんばかりで、気負いというものが感じられない。まるで騎士団など最初から歯牙にもかけていないようである。
「……すぐに上に知らせてきます」
セイルについて詳しいことを知っているのは、組織の中でも上の人間だけに限られている。だから彼が動くこの機会をどう利用するかは、上の人間でなければ判断できない。
「僕は夜までここで待たせてもらうよ」
かまわないね、とセイルが聞くと男は頷いた。さらにセイルは「総督府の見取り図か何かあれば貸して欲しい」と頼み、男はそれにも頷くと部屋から飛び出していった。今日の夜、ベトエイムは大きく動く。そんな予感があった。
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アーカーシャ帝国における〈総督〉とは、帝都から派遣される地方都市のトップだ。帝都に御座す皇帝の代理として地方都市を支配する存在、と言い換えることもできるだろう。
そのような役職だから、当然帝国内における総督の地位と言うのは高い。高いが、最高位というわけでもない。至高の玉座に座る〈皇帝〉や、独自の領地を持つ〈大公〉は別にするとしても、複数人の総督をまとめる〈太守〉に、帝国全体の意思決定に携わる〈大臣〉や〈宰相〉など、総督よりも位の高い役職は少ないながらも存在する。である以上さらに上の地位を目指すのは、あるいは人としての本能なのかもしれない。
ベトエイムの総督は、名をワルター・ギースという。当然帝都の出身で、名家の生まれだ。そのせいかプライドが高く、良くも悪くも野心的だった。
ワルターは自分が野心的だと自覚している。そしてそのせいか、彼は野心的とは言わないが向上心のある人材を好んだ。そんな彼が最近目をつけている人物がいる。モルディオ商会を継いだ新たな頭領、クーゲル・モルディオである。
クーゲルに自分に近いものを感じ取ったワルターは、ある面彼を自分の弟のように思っている。ある種のシンパシーを持っている、ということだ。
もちろんワルターがクーゲルに目をつけたのには打算的な理由もある。代々モルディオ商会は総督府とは敵対的とまではいかないが、距離を置いてきた。そのモルディオ商会が、ベトエイムにおいて第三位の規模を持つモルディオ商会が総督に擦り寄ったとなれば、より大きな二つの商会とあわせてこの都市の経済は総督府が牛耳ったに等しい。安定した支配のために、その状況はワルターにとっても大いに望ましいものだったのだ。
さてそんな事情もあって最近クーゲルと懇意にし始めたワルターであるが、そのクーゲルが面白い情報を持ってきた。「面白い個人能力を持つ者を見つけた」というのである。
詳しく聞いてみると、なるほど確かに興味深い能力だった。名前は〈プライベート・ルーム〉。私的な空間を提供する能力であり、大量の物資の輸送に向いている。その収容能力は「十個のパーティーと遠征用の荷物を収容できる」程度だと言う。
それを聴いた瞬間、ワルターは自分が笑ったのを自覚した。そして同時に彼の脳裏に一つの名詞が閃く。〈都市国家カームベル〉。彼の野心のための生贄になる都市。少なくとも、ワルターの中ではそうなった。
さらに都合の良いことに、〈プライベート・ルーム〉を使うロイニクス・ハーバンはベトエイムの外からやって来た人間。多少強硬な手段を用いても問題はない。都市とは基本的に閉鎖的な環境で、そこに住む人々は明確に内と外を区別するからだ。極端なことを言えば、身内でない人間などどうなったところで知ったことではないのだ。
ただ、例外的に帝都アーカーシャの住民であればこうはいかない。帝都の住民には幾つもの特権があり、帝国の役人である総督はそれを守らねばならないからだ。それに、心情的に見ても帝都の住民は総督にとっては身内の存在。強硬な手段など用いる気には普通はならない。
そしてロイニクスは帝都の出身ではない。そしてベトエイムの住民に気を使う必要もない。ワルターの決断は早かった。「禁制品の密輸」という容疑をでっち上げ、騎士団を動かしてロイニクスの身柄を拘束させたのである。
そして拘束されたロイニクスは、今ワルターの目の前にいる。意識を失い、木製の簡素な椅子に縛り付けられている。そんな若者の姿を目にして、ワルターは蛇のように笑った。
「起きたまえ」
そう言ってワルターは腕を振るい、椅子に縛り付けられた若者の頬を平手で叩く。叩かれた若者は短くうめき声をもらすとゆっくりと目を開けた。身じろぎをするが、縛り付けられているせいで身体はほとんど動かない。
椅子に縛り付けられた若者がゆっくりと頭を上げる。状況がまだ理解できていないのだろう、その顔は呆けているように見えた。やがて彼の目の焦点が正面に立つワルターに合う。それを確認すると、ワルターは笑みをいっそう深くした。
「起きたかね? 状況は、分かっているわけがないか……」
さてどうしたものか、とワルターはわざとらしく考え込む。そしてニヤリと笑みを浮かべると、芝居がかった仕草で両手を広げ大仰に自己紹介をした。
「私はベトエイム総督のワルター・ギース。そして君は禁制品密輸の容疑でここに連れてこられたわけだ」
まあ容疑自体は私が適当に用意したものだがね、とワルターは薄く笑ってそう言った。ここまで舞台が整えば、後はもうどうとでも出来ると思っているのだろう。どうやら隠すつもりもないらしい。
「それで、君の名前は?」
「…………ロイニクス・ハーバン」
わずかに口ごもった後、ルクトは偽名を名乗った。そもそもベトエイムには、セイル以外に彼の本名を知っている人間などいない。簡易滞在許可証にもその名前が記載されており、つまりベトエイムで彼はルクト・オクスではなくロイニクス・ハーバンなのだ。
ルクトが(偽名だが)名乗ると、目の前の男、つまりベトエイム総督ワルター・ギースは口の両端を釣り上げるようにして笑った。名前を聞きだせたから、ではない。目の前の哀れな若者の名前など、ワルターはすでに把握している。彼が笑ったのはロイニクス(ルクト)に喋らせることができたからだ。完全なだんまりを決め込まれると、“交渉”はやりにくいものなのである。
ワルターの笑みを見て、ルクトは「蛇のような笑みだ」と思った。つまり、弱者を弄る強者のそれである。
ワルターは、自分は総督だと名乗った。つまり彼がベトエイムにおけるトップである、ということはルクトにも分かる。そんな彼が椅子に縛りつけられた自分の目の前にいて、そして先程の言葉である。ということは、今のこの状況はワルターが命じたものなのだろう。混乱する頭を何とか宥め、ルクトはなんとかそれだけ理解した。
「ではロイニクス君、単刀直入に言おう、君に協力を要請したい」
「協力……?」
「そうだ。偉大なるアーカーシャ帝国の栄光と光輝に満ちた覇道のために働けるのだ。君は運がいい」
ワルターの言葉はどうにも芝居がかっていて、まるで舞台の台詞を読み上げているようだった。その言葉の裏にはもっと個人的な欲望と野心が見え隠れしている。
「私は君の出身・経歴・目的その他一切にはまったく興味はない。私が興味を持っているのは君の個人能力だけだ」
確か〈プライベート・ルーム〉だったね、とワルターはわざとらしく確認した。初対面のはずの彼がなぜそこまで知っているのかとルクトは思ったが、その疑問はすぐに氷解する。なんのことはない。彼の話す能力の中身が、モルディオ商会で話したものそのままだったからだ。どうやら情報元はクーゲルらしい。
「君の能力があれば、帝国はカームベルを征服できる」
狂気を滲ませながら、ワルターはそう言った。カームベル、という名前にルクトは心当たりがない。ワルターの口ぶりからして都市国家の一つだろうとは思うが、しかしそれ以上のことは何も分からない。それでルクトは黙っていたのだが、なにを思ったのかワルターは一人語り始めた。
「都市国家カームベル。忌々しき、帝国の怨敵」
ワルターはそう言う。彼の話す言葉は帝国の視点からのものであり、そのためカームベルについて初めて聞くルクトでさえ、それが偏った意見であることはすぐに分かった。
ワルターの話から帝国の主観と偏見を出来る限り取り除きながらルクトは話を聞く。そうやって話を聞いていると、アーカーシャ帝国とカームベルの関係がだんだんと分かってきた。
まずは大まかな位置関係だが、エグゼリオのある広大な未開の原生林の西にアーカーシャ帝国があり、帝国のさらに西は海になっている。帝都アーカーシャの位置は帝国の版図全体から見ると東よりで、つまり帝国はアーカーシャの西征によって生まれたと言えるだろう。
それでカームベルの位置だが、原生林の北の端、と言ったところだろうか。カーラルヒスよりも北に位置しており、そのため冬はより長くより厳しい。帝国との距離は領内の最も近い都市から徒歩で一ヶ月前後だという。
アーカーシャ帝国は地方都市からなる国だ。そして地方都市はベトエイムと同じくかつては都市国家であった。そしてここ百年ほどの間、次なる獲物として目をつけているのがカームベルなのだ。
もちろん百年の間なにも行動を起こさなかったわけではない。それどころか百年の間に三度遠征軍を派遣している。そして三度叩きのめされ、大敗しているのだ。
帝国遠征軍の規模が小さかったわけではない。例えば第一次遠征の際には、魔道甲冑を装備する騎士五〇〇を中心に、総勢二五〇〇の軍勢を組織して動かした。一般的な都市が保有する魔道甲冑の数が八〇から一〇〇程度であることを考えると、これは大軍であると言えるだろう。そして第二次、第三次遠征の際にも、これと同じかさらに上回る規模の軍を動かしている。
だが、それでも三度とも負けた。その原因は、カームベル側の地の利を生かした奇襲攻撃だ。その奇襲によって兵糧や物資の多くを失った帝国遠征軍は引き下がるほかなかったのである。
例外的に第一次遠征では兵糧や物資を失ってもなおカームベルへの攻撃がなされた。必要なものは奪えばよい、と考えたのだ。虎の子の騎士部隊がほとんど無傷だったことも関係しているのかもしれない。
だが、その結果は悲惨なものだった。まともに戦うこともできず、遠征軍が戻ってきたときその戦力のおよそ八割が失われていたのである。ただし、その大半は戦死ではなく逃亡だが。
他の都市国家を征服し併合することによって版図を拡大してきた帝国にとって、遠征は最も華々しい国家事業である。それを、しかも三度にわたって妨げたカームベルは、まさに帝国にとって「忌々しい怨敵」というべき存在だった。
余談になるが、第一次遠征の際にカームベルは遠征軍が残していった大量の魔道甲冑を回収している。そのため、現在カームベルは魔道甲冑を二〇〇体以上保有しており、それが第二次以降の遠征の難易度を押し上げる結果になっていた。
加えて余談をもう一つ。以前、「都市国家連盟アーベンシュタットはアーカーシャ帝国に対抗するために生まれた」という話をした。だが、実はカームベルは連盟に加盟していない。主に連盟に加盟しているのは、カームベルより西の都市国家群なのだ。連盟は帝国とこれまで相対することなくそのせいで形骸化が進み、その一方で連盟に加盟していないカームベルがこれまで三度も帝国を退けている。この点だけ考えても、世界や歴史というのはままならぬものである。
閑話休題。話を元に戻そう。
カームベルを屈服させ併合し支配下に置く。これがここ百年ほどの帝国の悲願だといっても過言ではない。そしてその悲願を果たす上で大きな貢献をした者には、その功績に見合うだけの大きな恩賞が与えられるであろう。
そして最も大きな恩賞を得るのは自分である、とワルターは確信している。そのための道具が、今目の前にいるロイニクス・ハーバン(ルクト)なのだ。
「……君の〈プライベート・ルーム〉があれば、カームベルを落とすことなどたやすい」
これまで遠征軍は奇襲によって物資を失うことにより撤退に追い込まれていた。だが〈プライベート・ルーム〉の中に十分な量の物資を詰め込んでおけば、その心配は激減するといっていいだろう。
また〈プライベート・ルーム〉が活躍できる場面は物資の輸送だけにとどまらない。例えば魔道甲冑を装備した騎士を六〇人ほど中に待機させ、ロイニクス(ルクト)をカームベルに潜入させる。ただ一人都市の中に入ることくらい、そう難しいことではないだろう。そして都市の内部で待機していた騎士たちを展開するのだ。そうすれば戦局の趨勢は一気に帝国側に傾くだろう。
つまり〈プライベート・ルーム〉は戦略的に見て非常に価値のある能力なのだ。それを見出しさらに帝国側に引き入れれば、ワルターの功績は計り知れないものがある。それどころか彼は自身が遠征軍の指揮官となり、カームベル征服の功も自らのものにしようと考えていた。
その功績があれば、文官としての最高位である宰相になることも可能だろう。いや、それどころか皇室に入って将来的には帝位に着くことも可能かも知れぬ、とさえワルターは思っていた。
そのためにも。そのためには、どうしても。ロイニクス・ハーバンの“協力”が必要なのだ。そしてできることならばワルター・ギース個人に“協力”してくれるのがもっとも望ましい。
「……私に、協力してくれないかね、ロイニクス君。もちろん相応の見返りを用意しよう」
金・女・地位・名誉。君が協力してくれるなら全て思うままだ、とワルターは狂気を滲ませながら言った。並みの、そういう狂気に耐性のない人間なら飲まれてしまったかもしれない。だがルクトには胡散臭い程度にしか思えなかった。つい最近遭遇した〈御伽噺〉の持つ狂気に比べれば、どうしようもなく小物じみていたからだ。
「どうかね、ロイニクス君?」
ワルターはルクトに顔を近づけそう言った。笑みを浮かべて凄む彼は、やはりどことなく蛇のように思える。
「……少し、考えさせてください」
ひとまずルクトはそう答えた。とはいえ、彼に協力する気は毛頭ない。ここまでの話をまとめれば、ワルターは自分の野心のために総督の権力を使ってルクトを拘束させたことになる。それも「禁制品の密輸」という容疑をでっち上げて、だ。
そのような相手を信用することはできないし、信用できない相手に協力したいとはルクトも思わない。だが、馬鹿正直にそれをこの場で告げれば、彼の立場はさらに悪くなるだろう。
ゆえに、まずは時間を稼ぐ。そしてどこかで一人になるタイミングがあれば、その時が逃げるチャンスである。〈プライベート・ルーム〉の中に保管してある道具や能力そのものを使えば、ベトエイムから脱出することも難しくはない。
ベトエイムから脱出できれば、あとはエグゼリオを目指すだけだ。幸い、〈プライベート・ルーム〉の中には地図と位置を指し示す羅針盤もある。セイルと合流できれば一番いいのだが、連絡の取りようがないこの状況では難しいかもしれない。まあ、彼は放っておいても死にはしないだろうから、ルクトが優先するべきはまず自分のことである。
「ほう、考えさせてほしい? ほうほう、なるほど……」
ワルターはルクトから顔を離すと、あごに手を当てそう呟きながらわざとらしく考え込んだ。彼の口元は笑っているが、しかし目は笑っていない。それどころか、だんだんと温度が下がっているようにすら感じた。そしてワルターはにっこりと笑みを浮かべると、その笑みのまま腕を勢いよく振りぬいた。平手ではなく、拳を握り固めて。
ガタンッ! と大きな音を立ててイスとそこに縛り付けられたルクトが床に倒れた。唇が切れたのか、彼の口の端から細く血が流れる。そして床に転がるルクトに、ワルターは語気を荒げて怒鳴り散らす。
「考えさせてほしいだあ!? ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ! 若造が! テメエにはな、選択の権利なんざねぇんだよ! オレが協力させてやるって言ってんだ! むしろ協力させて下さいって頭下げんのが筋だろうが、ああ!?」
怒鳴りながらワルターは動けないルクトを踏みつけ蹴りつける。彼の目は血走り、整えられていた髪の毛は乱れていく。
やがてルクトが意識を失うと、ワルターはようやくその暴力行為を止めた。しばらく肩で大きく息をして呼吸を整え、乱れてしまった髪の毛を手櫛でかき上げて整える。そしてボロボロになったロイニクス(ルクト)を見下ろし嗜虐的な笑みを浮かべると、落ち着いた口調で控えていた衛士に命令を出した。
「コレを地下牢に放り込んでおきなさい」
命令された衛士はすぐに動いた。自分まで同じ目に遭ってはたまらないと思ったのだろう。しゃがみ込んで縄を解くときにルクトに同情的な目を向けたが、しかしそれ以上のことはせず、彼はただ命令されたとおりにその若者を連れて行った。
ロイニクス(ルクト)が部屋から連れ出されると、それと入れ替わるようにして一人の男が部屋に入ってきた。魔道甲冑は装備していないが、騎士団に所属する騎士の一人だ。
「……閣下はあの若造をこれからどうするおつもりで?」
連れて行かれるロイニクス(ルクト)を目で追いながら彼はワルターにそう尋ねた。とはいえ、彼の問いかけに興味以上のものはない。
「さて、情報を得なければならないのなら拷問でも何でもしますが、私はただ彼に協力してもらいたいだけですからねぇ」
まあ三日も絶食させれば向こうから靡いて来るでしょう、とワルターは喉の奥で笑いながらそう言った。
「そうですか……。それで、ロイニクス・ハーバンについて少し調べてみたのですが……」
「なにか面白いことでも分かりましたか?」
ワルターがそう尋ねると、騎士はひとつ頷いて報告を始めた。
「彼がベトエイムに来たのは、どうやら本当に今日のようです」
簡易滞在許可証を発行した衛士の話によると、ロイニクスの出身地はお隣の地方都市であるボルポルト。ベトエイムに来た理由は「武芸修行のため」だった。
「ほほう……? それはそれは」
ワルターが面白そうに目を細める。そんな彼の考えを肯定するように騎士は一つ頷いて話を続けた。
「ボルポルトから武芸者が修行のためにベトエイムに来るのは珍しくありませんが……」
ボルポルトには迷宮がない。だから武芸者が修行のために、より詳しく言うのであれば個人能力を発現させるために、迷宮を持つベトエイムに来るのは決して珍しいことではない。だが今回に限って言えば、それではおかしな点がある。
「ロイニクスは、すでに個人能力を発現させていますしねぇ……」
いい事を聞いた、と言わんばかりにワルターは嗜虐的な笑みを浮かべる。ロイニクス・ハーバンは嘘をついてこの都市にやってきた。つまり、彼は何かを隠している。
「少し予定を変更ですね」
明日からは面白いことになりそうです、とワルターは愉快げに笑った。
彼は「今日はもうこれで終わり」というつもりだったのだろう。だが、今日はまだ終わらない。長い一日は、まだ続く。