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403 シングル・ルーム  作者: 新月 乙夜
第八話 獲物は寝て待て
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手紙

お気に入り登録件数が5000件を超えました!!


まさかここまで来れるとは……。

感慨深いものがあります。読んでくださる皆様、本当にありがとうございます。

これからもよろしくお願いします!

 お義父さん、お母さん、リーサ。みんな、元気ですか? 冬はいつものように寒かったと思います。カゼとかひいていませんか?


 手紙を書くのが遅くなってごめんなさい。カーラルヒスに来て、学園に入学して、いろいろばたばたしていたら冬になってしまいました。冬になると、オルジュに向かうようなキャラバン隊もなくって手紙を出すことができず、結局春を待つことになってしまいました。


 わたしのほうは、カーラルヒスでの生活にも随分と慣れました。元気にやっています。カゼもひいていません。


 ハンターになるという夢のほうはまだまだ全然実力が足りていないけど、今は自分にできることを一生懸命やろうと思って、毎日木刀を振るっています。おかげで、皮がむけたり、マメができたり潰れたりで結構大変です。手のひらが随分と硬くなったように思います。


 でも、辛くはありません。


 これは一人前のハンターになるために必要なこと。ただでさえ、わたしが木刀を振るい始めたのはつい最近のことで、同級生たちに追いつくにはもっと努力しなきゃ、と思っています。


 友達もできました。みんな気のいい子達です。わたしの自主練にもよく付き合ってくれます。まだ誰も道場には通っていなくて、みんなで同じところに行こうかなんて話しています。まあ、使っている武器が違うのでそこまで本気の話じゃないけど。


 迷宮(ダンジョン)にはまだ一度も潜っていません。というより、武術科では一年生は迷宮に潜ってはいけないことになっているんです。例外的に先生たちが引率してくれる攻略実習では入ることができるけど、わたしはまだその実習にも参加できていません。実力が足りない、って先生たちに言われています。


 分かっているけど、やっぱり悔しい。もっと早く前に進みたい。


 焦っている、って自分でも思います。だけど回りはみんなわたしよりレベルが高い。なんだか、置いていかれそうで怖いです。


 仲良くなった先輩からは「焦っても仕方がない」って言われています。分かっているけど、やらなきゃいけないことが多すぎてやっぱり焦っちゃいます。なんでもかんでもできる訳がないと、それも分かってはいるんだけど……。


 それと、冬のころからアルバイトを始めました。カーラルヒスに来るときに乗せてもらったキャラバン隊の人たちが、「お金は要らない」って言ってくれたので多少余裕はあるけど、やっぱりこの先お金は必要になるから。


 早くちゃんとした道場に入って稽古を付けてもらいたい。そのためにもお金は必要です。まあ、その前に早く自分の得物を決めないとだけど。そういえば、武器を買うためのお金も必要だなぁ……。


 あ、決してお金の無心をしているわけじゃないですよ!? 


 わたしはわたしでちゃんとやります。武術科にはお金のない子も多いので、それなりに支援策も充実しています。お金がないのは事実だけど、切羽詰っているわけでもないので安心してください。


 早く迷宮に潜れるようになって稼ぎたい。最近はよくそう思います。早く稼げるようになって、お母さんたちに楽をさせてあげるからね。


 あと、リーサも大きくなったらカーラルヒスに来ればいいかもしれません。来てみて驚いたけど、ノートルベル学園にはたくさんの学科があります。ここで勉強すれば、リーサの将来に役に立つと思う。学費は、それまでにわたしが稼げるように頑張ります。


 あとこれは書くべきか迷ったけど、書いておこうと思います。


 まずは、ごめんなさい。


 何を謝っているのかと思うことでしょう。実は、何年か前にお義父さんとお母さんが二人で話していることを盗み聞きしてしまいました。まずはそのことを謝りたいと思います。


 本当に、ごめんなさい。


 それで、その話の中で、お義父さんが前にいた都市はヴェミスであることや、ルクトと言う名前の実の子を残してきたことを知りました。


 実は、ノートルベル学園の武術科にルクト・オクスという先輩がいました。出身都市はヴェミス、黒目に黒髪で、今は四年生です。


 本人にも確認しました。父親の名前はパウエル。お義父さんがヴェミスに残してきたルクト・オクスで間違いないと、本人もそう言っていました。


 お義父さんに会ってほしいと頼んでみましたが、断られてしまいました。借金があるから時間が惜しい、と。借金の額は1億6000万シクで、利子無しだと言っていました。


 ルクト先輩はお義父さんのことを「許す」と言っていました。だけど、「会いたくない」とも。なんで許してくれたのに会いたくないのか、わたしには分かりません。許してくれたのなら、会ってくれてもいいのに……。


 先輩がどうして会いたくないのか、その理由はわかりません。きっと、借金のことは表向きの理由でしかないのだと思います。


 正直、すごく悲しかったです。「どうして?」って思いました。


 先輩は、はっきりとは答えてくれませんでした。ただ「恩は血より尊い」と言っていました。お義父さんはこの言葉の意味が分かりますか? わたしは、よく分かりませんでした。ただその言葉を聞いたら、もうなにも言えなくなってしまいました。


 ルクト先輩のことは書いたほうがいいのか、本当に迷いました。先輩はたぶん、書いて欲しくないと思っているのでしょう。それは、なんとなく分かります。


 でも、お義父さんは知りたいんじゃないかと思って書くことにしました。


 お義父さん。わたしはお義父さんがなにを抱えているのかはわかりません。だけど、お義父さんが何を抱えていても、わたしはお義父さんのことが大好きです。それは何があっても変わりません。それだけは忘れないでください。


 また近いうちに手紙を書こうと思います。それでは。


 3月4日 シェリア・オクスより。



▽▲▽▲▽▲▽



 読み終えた義理の娘であるシェリアからの手紙を、パウエルはそっと折りたたんだ。手紙を受け取ってから今日で二日。もう、何十回と読み返した。


「ルクト……。まさか、カーラルヒスにいるとは……」


 そのことについては、パウエルも純粋に嬉しく思っている。彼が考えていたルクトの現在よりもはるかによいものだったからだ。武術科にいるというのは少し不安だったが、それでも生きてまともな生活を送っている。それを知ることができただけで、あの日以来の苦さが随分と和らいだように思う。


 ただ、決して苦さがなくなったわけではない。いや、なくしてはいけないのだろうと思う。


「許すが会う気はない、か……」


 息子の答えにパウエルは苦笑する。ただ不快感はなかった。もっとも、そんなものを感じる権利など自分にはないのだろうと思う。


 区切りとして許しはする。パウエルを恨み続けても意味はない。過去に、あの日に拘り続けるのはもう止める。ルクトの言う「許す」とは、そういうことなのだろう。彼自身の内側で問題にかたをつけるための行為であって、実際にパウエルが「許された」と思えるかは別問題なのだ。


 だから、「会うつもりはない」。つまり、関係を修復する気はない。家族としてもう一度やり直すつもりは彼にはないのだ。ルクトはきっと、もうパウエルのことを父親とは思っていないのだろう。


 勝手に終わらせて、勝手に前に進んでいる。それを身勝手と責める権利はパウエルにはない。勝手に捨てたのは彼なのだから。当事者がそこにいないのだ。勝手にやる以外、どうしろというのだ。


「それで、私はどうする……?」


 パウエルの心のうちは、すでに八割方決まっている。ただ、最後の決心がつきかねていた。


「あなた……」


 背後に人の気配を感じると同時に声をかけられた。声の主はミーナ・オクス。パウエルの妻で、シェリアの実の母である。


「……行くの?」


 ミーナはパウエルの後ろに立ち、手を彼の肩に置いてそう問いかけた。平静を装ったその声音には、不安と諦めが隠れている。


「……行く。行かなければいけない、と思う」


 肩に置かれた妻の手に自分の手を重ね、パウエルはついに決意を固めた。それを聴いた瞬間ミーナはこぼれそうになったため息を、目を強くつぶることでこらえた。


 カーラルヒスへ、行く。ルクトに会うために。


 会って何ができるとも思っていない。いや、実際問題として謝ること以外できることなどないだろう。ルクトが抱える借金を肩代わりすることは不可能だし、今の息子に自分がすべきことはないように思う。


 それに、そもそもルクトはパウエルが会いに来ることなど望んではいないのだろう。彼はもう新たな生活を確立してしまった。そこにパウエルが入り込む余地はない。会ったところで何かが変わったり、あるいは始まったりすることはないのだ。


「どうして……、行くの……?」


 ミーナが問いかける。それが意図されたものなのかは分からないが、パウエルは言外に「行くべき理由はあるの?」と問われたように聞こえた。


 理由など、ない。そしてできることもない。行ったところでまったくの無意味だと、パウエルも頭の片すみでは理解している。


「私がそう望むから、ではダメ、かな……?」


 行くべき理由はない。当事者の片方であるルクトも、それを望んではいないだろう。だが、もう片方であるパウエルは行くことを望んでいる。ちっとも理性的ではない。どこまでも感情的な結論だ。だけど、そうでなければ動くことはできないのだろうとパウエルは思う。


 夫の答えを聞くと、ミーナは今度こそ諦めたようにため息をこぼした。そして椅子に座ったパウエルに後ろから抱きつく。


「必ず……、帰って来て」


「ああ、帰ってくるよ。ここに」


 もう家族を捨てはしない。心のうちでそう呟いたパウエルは、次の瞬間言いようのない苦さを味わった。ルクトをオルジュに連れてくることはできない。ならば「ここ」に戻ってくると言うことは、つまりもう一度ルクトと、家族と別れると言うことだ。


 もう家族を捨てはしない。胸のうちで固めたはずのその決意が、途端に薄っぺらい偽善的なものに変わり果てる。だがそれでも、パウエルの「カーラルヒスへルクトに会いに行く」という決意までは揺るがなかった。


 傷つくだけかもしれない、とパウエルは思う。いや、自分が傷つくだけならばそんなことはどうでもよい。だが、またルクトを傷つけることになるかもしれない。そう考えると、まるで心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを感じた。


 それでも、行く。それはきっと誰のためでもなく、自分のためなのだろう。そのことを自覚してパウエルは苦虫を噛み潰したかのように顔を歪ませた。後ろから抱きしめてくれる、ミーナの暖かさが痛かった。



▽▲▽▲▽▲▽



 5月12日。その日はよく晴れていた。前日まで降り続いた雨も上がり、空気は湿り気を持ちつつも澄んでいる。木々や草花は青々と生い茂った葉を伸ばし、久しぶりの日光を存分に満喫する。春はそろそろ過ぎ去り、初夏が訪れようとしていた。


 そんな清々しくて気持ちのよい陽気のなかを、ルクトは寮に向かって歩いていた。レイシン流の道場に顔を出し、汗を流してきたその帰りである。前に一度パーティーを組んだことのある道場の一人娘クルーネベル・ラトージュは生憎の留守。昨日から友人であるロイニクス・ハーバンらが遠征に出ているので、パーティーメンバーである彼女も迷宮に一緒に潜っていることだろう。


 そんなわけで今日ルクトに稽古を付けてくれたのは、道場主であるウォロジス・ラトージュだった。彼は去年の夏休み明けくらいからギルドに入って働いており、そのため道場に顔を見せる機会も減っていたのだが、この日は時間が空いていることを事前に教えてもらっていたのだ。


 レイシン流の道場は、あいかわらず門下生が少ない状態が続いている。今日も道場に来た門下生はルクト一人で、そのおかげでウォロジスが付きっ切りで稽古を付けてくれた。時間の半分以上は立会い形式の稽古にしたので、ウォロジスのほうも「よい鍛錬ができた」と喜んでいた。


 ちなみに訓練が終わった後、掃除と洗濯を手伝った。一人娘のクルルが遠征に行っていて家にいないので、なんやかんやと家事が溜まっていたのである。むしろこれをさせるために今日は時間を空けておいたのではと勘繰ってしまったルクトである。


 なお、家事を手伝った後は昼食をご馳走してくれた。もっとも、ウォロジスはルクトよりも料理が下手で、七割方はルクトが作ったのだが。多目に作っておいたので夜は作らなくてもいいだろう。我ながらニクイ心配りだ、とルクトは自画自賛した。


(いやいやいやいやいや! そうではなく!)


 なんだか稽古に行ったのか、それとも家事をしに行ったのか分からないが、まあ充実していたからいいか、とルクトはそれ以上考えるのを止めた。


 道場帰りの道をルクトは寮に向かって歩く。明日からは合同遠征なので、今日は迷宮に潜るつもりはない。少し休んで腹がこなれてきたら、軽く太刀を振るって汗を流し、夕食後に明日からの準備をすればいいだろう。


(必要な食料はもう備蓄してあるから、後は確認して、武器の手入れもしておくか……)


 今日この後の予定を頭のなかで大雑把に立てながらルクトは人気の多い通りを歩く。降り続いた雨が上がっての晴れだからか、いつもより人の数が多く活気に満ちているように思える。


 その人ごみの中、ルクトはふと見覚えのある背中を見つけた。


(老けたな……)


 反射的に覚えた感想がそれだった。そして十年近くたっているにも関わらず、背中を見ただけでそれと分かったことに少なからず動揺する。


(さてどうするか……)


 思わず気配を消して人ごみに紛れながら、ルクトは見覚えのある背中を追う。個人的なことを言わせて貰えば、このまま見なかったことにして寮に帰りたい。そしてこの先、何も接点がなければ言うことはない。


(そう上手くもいかないか……)


 ルクトは人知れずため息をついた。シェリアから父親であるパウエル・オクスの名前を聞いたときから、いずれこの時が来るだろうとは思っていた。ルクトのこととはまったくの別件で彼がカーラルヒスまで来ているとは考えにくい。ならばここで見なかったことにしても、遠からず彼のほうから会いに来るだろう。


(しかたない。今日中に終わらせよう)


 そう決めて、ルクトは今日これからの予定を変更する。もっとも、仮に諸々が今日中に終わらなかったとしても、明日からの合同遠征は揺らがない。個人的な事情と200万シクなら、ルクトは200万のほうを優先する。


 よし、と呟いて気合を入れ、ルクトは歩く速度を速めた。そして見知った背中、つまり父親の背中におよそ十年ぶりに声をかける。


「ご苦労なことだな。オルジュからだと、そう気楽に来られるような距離でもないだろうに、ここは」


 それはルクトが自分でも驚くくらい平坦な声だった。そして冷静でいられることに彼は安心する。無関心でありたいとは思っていた。ただ、実際にその姿を見たときに自分がどう反応するのかは、我が事ながらルクト本人にも分からなかったのだ。いきなり声を荒げて怒鳴りつけてしまう可能性もあったわけで、そうならなかったことにルクトは安心したのだ。


(別に和解したいと思っているわけじゃないけど……)


 かといって一方的に撥ねつけるのもどうかとルクトは思ってしまう。そこまでドス黒い感情は、もう彼の中にはないのだ。そういうものよりは面倒臭さが先に立つ。手早く綺麗に、後腐れなく終わらせたい、というのが一番大きな本音である。


 声をかけられた背中が硬直して立ち止まる。そしてゆっくりと、ぎこちなく振り返った。


(老けたな……)


 顔を見て、ルクトはもう一度そう思った。顔にはシワが増え、黒い髪の毛にも白いものが混じり始めている。およそ十年ぶりに見る父親の顔に、ルクトは「そういえばこんな顔だった」と少し感慨深いものを感じた。


「ルクト……」


 振り返ったパウエルの顔には少なからず動揺が浮かんでいた。彼にしてみれば、心の準備を整えてから会いに行くつもりだったのだろう。それが不意打ち的に出会ってしまった。およそ十年前に捨てて逃げた、実の息子に。


「久しぶり、でいいか、親父。会いたかったわけじゃないけど」


 思わず余計な一言を口にしてしまい、ルクトは内心で顔をしかめた。別に喧嘩がしたいわけではない、と自分に言い聞かせる。


「ルクト、私は……!」


「焦らなくても話は聞くさ。……近くに喫茶店がある。話はそこで」


 言うが早いか、ルクトは返事も待たずに目当ての喫茶店に向かって歩き出した。確かに往来のど真ん中では落ち着いて話もできない。その背中を追ってくる人の気配を感じながらも、ルクトは振り返ることなく歩いた。


 ドアを開け、目当ての喫茶店に入る。ただ、この喫茶店に入るのはルクトも初めてだ。日々300シク弁当でせせこましく節約している人間が、喫茶店なんて金のかかる場所にすき好んで入るわけがないのである。


 喫茶店の店内は都合のいいことにすいていた。ルクトは入り口から店内を見渡し、人気のない隅っこの席を選んでそこに座る。パウエルもその正面に座る。


(おお……、高い……)


 メニューを見て、思わずゴチる。とはいえ、店に入ったのになにも頼まないわけにはいかない。仕方がないので紅茶を一杯頼む。パウエルも同じものを頼んだ。


 およそ十年ぶりに向かい合って座った親子は、しかしながらしばらくの間言葉を交わすこともなく沈黙する。注文した紅茶が運ばれてきて、一礼したマスターがテーブルから離れるとようやくパウエルのほうが口を開いた。


「……まさか、お前のほうから声をかけてくれるとは思っていなかった」


「シェリアからあんたの名前を聞いていたからな。いずれこういう時が来るとは思っていたさ」


 紅茶にミルクを入れながらルクトはそう答えた。ミルクを入れると紅茶の香りが少し柔らかくなったように感じる。


「そうだ……、シェリアの、あの子のことは……!」


 シェリアの名前が出たことで、パウエルは自分の義娘と息子が会っていたことを思い出した。しかも手紙の内容からすれば、その時にルクトはパウエルのことを知ったことになる。


 自分がどう思われようがパウエルはかまわない。だが、自分が原因で義娘にまで累が及ぶのは、なんとしても避けなければならない。


「べつにどうとも思っちゃいないさ」


 さばさばとした口調でルクトはそう答えた。シェリアのことは自分勝手だと思わないでもない。確かに彼女はルクトの都合など何も考えはしなかったのだから。


 だが、「それは自分も同じこと」とルクトは思っている。自分の都合を優先して諸々を勝手に決めた。それは自分の我がままだとルクトは思う。我がままを押し通した自分に、他人の我がままを非難する理由はない。ルクトはそう考えている。


「まあ、あれ以来シェリアには避けられているけどな」


 あの時以来、ルクトはシェリアと話をしていない。実技講義にアシスタントとして出るときも、彼女はルクトを避けて別のアシスタントのところへ行っている。ルクトのほうにもわざわざ話をしなければいけないような理由はなく、結局二人の距離はあの日から開いたままになっていた。


「きっと、どんな顔をして会えばいいのか分からないのだと思う。気を悪くしないでやって欲しい」


「分かってるよ」


 そこで会話が途切れた。パウエルは思いつめたような表情をして視線を落とし、顔をあげようとしない。ルクトは自分のほうから何か話すつもりはなく、少々冷めた目で父親の姿を見ていた。一秒一秒が長く感じる。まだ手をつけていなかった紅茶を一口飲む。ルクトがティーカップをソーサーに戻すと、パウエルがゆっくりを顔を上げた。


「……それで、ルクト……、その……!」


「謝るな」


 パウエルが謝罪の言葉を口にするより早く、ルクトは鋭くそれを封じた。言葉を詰まらせる父親を尻目に、ルクトは視線を下げて紅茶の入ったティーカップをぼんやりと眺める。そしてテーブルに肘をつき、ソーサーの上でカップをいじりながら、誰にともなくとつととつと話し始めた。


「アンタは謝りたいんだろうけどな。だけどオレは謝って欲しくない」


 謝られたら自分は惨めだ、とルクトは言う。


「オレは不幸なのか? オレはかわいそうなのか? 誰かを恨まなきゃいけないのか? 世界を憎んで恨み言を吐きながら生きていかなきゃいけないのか?」


 答えろよ、と言ってルクトは視線を上げた。その先でパウエルが気圧されたように小さく息を呑む。しかしそれでも、彼は視線を逸らそうとはしなかった。


「…………恨まれている、と思っていた。恨まれてもしかたのないことを、私はしたのだから」


「……確かに、最初のころは恨んだよ」


 捨てられたと分かったその時は、ただただ混乱するばかりだった。恨みの感情が沸いてきたのは、メリアージュに拾われて少ししてからだ。その頃は自分がどうしようもなく惨めで、価値がないように思えて仕方がなかった。「自分なんか、自分なんか」と自己否定を繰り返し、「なんで、なんで?」と恨み言を吐き続けた。


「でもなぁ、その度にメリアージュが言うんだよ」


『おぬしは運がよい』と。『助けを求めて飛び込んできたのが、ほかでもないこの黒鉄(くろがね)屋だったのだから』と。


 思えば、ルクトはそのおかげで卑屈な人間にならずに済んだのだろう。自己否定しかできないその時に、傍に寄り添って肯定してくれる人がいる。それがなによりの救いだったのだ。


「で、その後はいろいろと忙しくなったからな。恨み言吐いてる暇もなくて、アンタのことは自然と思い出さなくなった」


「……そう、か……」


 ルクトの言葉にパウエルは力のない笑みを浮かべた。思い出さなかったから恨むこともなかった。それはある面、当然のことだ。だが、忘れられてしまうことは、ともすれば憎まれ恨まれることよりもつらい。


「そういえば、さっき黒鉄屋の名前が出たが……」


「ああ、メリアージュに助けてもらった。知らなかったのか?」


「シェリアからの手紙には、その辺りのことは書かれていなかったからな……」


 ヴェミスで商売をしていたパウエルは、関わりはなかったものの、金貸し「黒鉄屋のメリアージュ」の名前は当然知っている。だが、オルジュでも黒鉄屋の名前はそれなりに知られていたが、それはいわゆる「その筋」の人間だけ。シェリアが知らずとも無理はない。


「では、1億6000万シクの借金というのは……」


「オレがメリアージュから借りている金だ」


 もともとメリアージュがルクトの身柄を引き取るために支払ったのは、パウエルの借金の残りである8000万シク。そこに利息分を合わせて1億6000万シクという金額になっている。利息何パーセントという形にしなかったのは、計算するのが面倒だったのだろう。誰が、とは言わないが。


 パウエルは少しだけ難しい顔をした。もともとの金額が8000万シクで返すべき金額が1億6000万シクだと、利息は十割という計算になる。商売をやっていた人間の感覚で言わせて貰えば、これははっきりとぼったくりである。


 しかしその一方で、返済の当てなどない子供のために8000万シクという大金を用意し、そして恐らくは返済の期限も設けてはいない。さらに債務者であるルクトを働かせるのではなく、あろうことか都市の外に出して学ばせている。逃げられる可能性があるにも関わらず、だ。


(「黒鉄屋の借金を踏み倒そうとした者は、死よりも恐ろしい目に遭う」とは、よく聞く話だが……)


 ただ、黒鉄屋は返済の意志さえあれば、借金の減額はせずとも支払いを猶予することはある。期限さえ待たずに暴力的な取立てを行う高利貸しもあるなか、そういう意味では良心的とさえいえるだろう。


 黒鉄屋について知っている情報を頭の中でまとめると、パウエルはさらに難しい顔をした。甘くはないが、しかしあくどいとも言い切れない。強いて言うのならば「厳しい」だろうか。パウエルにはそれが一番しっくりくる感想に思えた。


「……メリアージュには、金より恩のほうを多く借りている」


 ルクトがポツリと呟いた言葉に、パウエルはハッとして視線を上げた。恐らく父親の表情から何を考えているのかある程度察したのであろう。


 パウエルはルクトの言葉から、彼のメリアージュに対する全幅の信頼を感じ取った。それは子供が親に抱く信頼と同種のものだ。その信頼を受けるのが自分ではないことに、その資格などないと知りつつもパウエルは一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。


「……私は、謝るつもりで、謝りたくて、ここまで来た」


「オレは謝って欲しくない」


「……そう言われるとは、思っても見なかった。どうやって許してもらうのか、そればかり考えていたから……」


「許す、許さないだけの問題なら、もう許している。それでいいだろう?」


「許してくれていることは手紙にも書いてあった。ただ、やはり一度謝るべきだと思ったのだけど……」


「だから、オレは謝って欲しくない」


 会話が堂々巡りになってしまい、パウエルは苦笑して一旦言葉を止めた。そして少し冷めてしまった紅茶で唇を湿らせる。


 謝って欲しくない、とルクトは言う。謝られたら自分は惨めだ、と。それは彼なりの意地なのだろうとパウエルは思う。過去を言い訳にしない、と言われたようにも感じる。


「……私は、どうしたらいい?」


 思い切ってパウエルは直接そう聞いてみた。聞いた以上、なんであれするつもりではいる。もちろん出来ることと出来ないことがあるが、今のルクトであればそう理不尽な難題はふっかけないだろうという予感が彼にはあった。


 ルクトが自分の方からパウエルに話しかけてきたことや、こうして向かい合って話している彼の様子が冷静なこと。顔を見せた瞬間に殴られることも覚悟していたので、これまでのルクトの様子はパウエルにとっていい意味で予想外だった。


 そしてパウエルが思ったとおり、ルクトが求めたのは難しいことではなかった。


「オレのことはもう忘れてくれ」


「…………!」


 パウエルの呼吸が一瞬止まる。確かに難しいことではない。だが、それは思っていた以上につらい言葉だった。


「オレとアンタは、もう別々の道を進んでるんだ。この先、交わることはないだろうし、そのつもりもオレにはない」


 この先関わるつもりはない、関わりたくない、とルクトは言外ながらはっきりと告げた。それを理解した、理解してしまったパウエルは奥歯をかみ締めてうつむく。そんな父親の姿にルクトは少しだけ苦笑して言葉を続ける。


「オレは今の自分の生活が大事だし、アンタだってそうだろ? お互い、無理して合わせる必要はないだろう」


 だからもうこれっきりにしよう、とルクトは言う。


「……私は……!」


 なにか言わなければならない。その想いがパウエルの中で渦巻く。だが、想いは想いのままで空回りし、形にはなってくれない。ルクトは何も言わずパウエルの言葉を待っていたが、彼の口から出てきたのは結局ため息だけだった。


「……アンタが負い目を感じる必要はないさ。忘れてくれと言ったのはオレだ。これはオレの我がままだ。……もう、いいよ」


 そう言ってルクトは立ち上がった。パウエルは奥歯をかみ締めてうな垂れる。息子の顔を見ることが、彼はできなかった。


「……すまない……!」


「謝って欲しくない、と言ったはずだ」


 カツン、と硬質な音がテーブルの上から響く。パウエルが少しだけ顔を上げると、そこには銀貨が一枚。どうやらルクトが置いたらしい。


「じゃあな。もう会うこともないだろう」


 それだけ言い残すと、ルクトは立ち止まることなく喫茶店を後にした。


 カラン、カラン、という音を立てて喫茶店の扉が閉まる。その音を、パウエルはテーブルの上に置かれた銀貨を見つめながら聞いた。


 涙が、こぼれる。泣く資格など自分にはないと言い聞かせつつも、自分が泣いていることに気がつくともう涙は止まってくれなかった。パウエルは右手で口元を押さえて嗚咽をかみ殺す。


 テーブルの上に置かれた銀貨に左手を伸ばす。その銀貨は、まるで手切れ金のようだった。


というわけで。いかがでしたでしょうか?


今回は難産でしたね(苦笑)

ここまで筆が進まないのは久しぶりでした。


内容は……、どうでしょうか? 面白かったでしょうか?

ひとまず、父親との問題はここで終わりです。


さて、次のお話は、ちょっとカーラルヒスを離れてみようかと思っています。どこに行くのかは、読んでみてのお楽しみ、と言うことで。


気長にお待ちくださいませ。

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― 新着の感想 ―
「ルクトはきっと、もうパウエルのことを父親とは思っていないのだろう。」 パウエルの子供でなかったら、莫大な借金を背負うことがなかったんだもんね。
[一言] 結局は親父のクソ自己満だかさっさと帰れって感じだよね
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