獲物は寝て待て3
白い、とルクトは思った。
白いだけではない。静かでもあった。耳に届くのは自分が息を吐く音と、足が雪を踏み固める音だけだ。
そして寒い。吹きつける風はまるで切りつけるかのような鋭さを持っている。目に入る立ち木は全て一枚の葉も付いてはおらず、身を縮こまらせてこの風雪に耐えているかのように見えた。
冬山はきつい。頭では分かっていたが、しかし頭でしか分かっていなかった、とルクトは内心でごちる。武芸者の端くれとして体力にはそこそこ自信があったが、冬山というなれない環境の中、ルクトは三人が一列に並んだその最後尾にくっついて歩くだけで精一杯であった。集気法を使っていなければ、とっくの昔に動けなくなっていたであろう。
三人の先頭を行くのはフルプレートを装備した男だ。ただしこのフルプレートは魔装具、つまりは〈魔道甲冑〉であり、つまり男は騎士だった。名前はジョシュア・カーク。ルッグナード・モリスンの小隊に所属する、彼の部下だ。
ジョシュアの後ろを歩くのは、オーフェルで雇った案内役の男である。もともとはカーラルヒスで衛士をしていたらしいのだが、どうにも性に合わず退職。オーフェルに移り住んで、以来猟師として生活しているという。雇った案内役はもう一人いるのだが、今は〈プライベート・ルーム〉に設置した移動式住居〈ゲル〉の中で休憩中である。
そして二人の後ろにルクトが続く。現在この三人はオーフェルの塩田の近くに出没するという魔獣〈ベヒーモス〉を探し、冬の雪山を歩き回っている。時折足を止め望遠鏡であたりを探索するが、これまでにそれらしい姿は発見できていない。そして発見できぬまま、今日で三日目となった。
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オーフェルに向かうまでの準備は特に問題が起こることもなく順調に終わった。あらかじめ用意しておいた荷物を〈プライベート・ルーム〉に運び入れるだけなのだ。問題など起こりようもない。ただ、ゲルを組み立てるときに少しだけアクシデントがあったが、それも作業を手伝ってくれていた技師たちのおかげで無事に乗り越えることが出来た。
食料、水、調理道具、医療品、暖房のための魔道具、寝袋、魔道甲冑の整備道具などなど。運び入れられた荷物は多岐にわたるが、決して多すぎたわけではない。少なくとも〈プライベート・ルーム〉の収容能力を超えるものではなかった。後で聞いた話によれば、必要なものがあればオーフェルで買い揃えられるよう、結構な額の軍資金を貰っていたらしい。
運び入れられた物資の中で最も多かったのが、魔道甲冑を動かすために必要な魔力を充填したカートリッジである。
「これがないと魔道甲冑は動かないからね。使わないことも承知で多目に持っていくんだ」
そう説明したのは魔道技師のケイル・クーリッジだった。確かにギリギリの量しか持っていかず、いざという時に魔道甲冑が動かなかったら目も当てられない。物資に余裕を持たせておくのは重要である。荷物の量が多くなったとしても、〈プライベート・ルーム〉に放り込んでおけば問題ないのだし。
その後のミーティングも、これまた大したこともせずにすぐに終わった。結論を一言で言うならば「とりあえずオーフェルに向かい、そこで話を聞いてから再度どうするかを考える」といったところか。実際、詳しい事情が分からない以上、これ以外の結論など出るはずもなかったのだが。
ただ、このミーティングの中でルクトは防寒具の不備を指摘された。自分ではしっかりと用意したつもりだったのだが、小隊長であるルッグナード・モリスンから「そんな格好で冬山に入ったら、お前死ぬぞ」と言われてしまった。さらにケイルも満足な防寒具を持っていないことが判明。結局、ルクトとケイルは衛士隊のほうから防寒具一式を借りることになった。
(冬に都市の外にでるなんてほとんどないもんな……)
当然、そのための防寒具など持っていない。迷宮の中はむしろ暖かいし、これまで必要がなかったのだ。
ちなみに騎士の三人はどうするのかと聞いてみたところ、「防寒機能のある魔道甲冑を持っていく」との事。便利なものもあるもんだ、と感心してしまったルクトである。
さて、カーラルヒスでの準備が済んだら、次はオーフェルに向かわなければならない。その道のりはおよそ一〇〇キロ。ルクトはこれまで何度かオーフェルに行ったことがあるが、集気法と身体能力強化を駆使して一日で到着してしまうというのが常だった。
だが、今回はその方法は使えない。なぜならカーラルヒスからオーフェルまでの道のりには雪が降り積もり、走って駆け抜けられるような状態ではなかったのだ。
そこで今回は馬そりが用いられた。そりを引くのは「ばん馬」と呼ばれる種類の馬で、身体が大きくて力が強く、足は遅いが体力があって長時間働けるのが特徴である。
当然、御者が必要になる。とはいえ、御者以外の人間は特にすることもないからいるだけ無駄だ。いや、それどころか完全なお荷物になってしまうのでいっそ邪魔ですらあった。
だから馬に負担をかけないためにも、御者はローテーションを決めて順番に務め、それ以外は〈プライベート・ルーム〉の中で待機することになった。それに寒い外よりも、暖房をつけたゲルの中のほうが快適なのだ。わざわざすき好んで外に出ることもない。
ただ一人、ルクト・オクスという例外を除いては。
ルクトが〈プライベート・ルーム〉の中に引きこもっていては、他の誰がオーフェルまで行ったとしても意味がない。討伐作戦に使う物資は全て〈プライベート・ルーム〉の中に収納されており、ルクトがオーフェルにたどり着かないことにはその中身を使うことはできない。
だからルクトは否が応でも、カーラルヒスからオーフェルまでの全行程を馬そりに揺られながら踏破しなければならないのだ。たとえ他の連中が〈プライベート・ルーム〉のゲルの中でのびのびと温んでいたとしても。
(いや、分かってはいたけどさ……)
そう、頭では分かっている。なにせそういう能力なのだ。こればっかりは仕方がない。だが理性とは別のところで、どうにも理不尽なものを感じずにはいられない。
深々と雪が降り積もる中を、馬そりは比較的ゆっくりとした速度で進む。周りの樹木は葉を全て落としてしまったものも多く、どことなく物悲しさを感じさせた。荷そりに揺られながらルクトは「はあ」とため息をつく。吐いた息もまた白い。
「どうした? ため息なんかついて」
ちょうど御者をしていたルッグナードがそのため息を聞きつけて振り返る。ちなみに彼は「名前が長いから」と自分のことを「ルド」の愛称で呼ばせていた。
「いやあ、今回の仕事は大変そうだな、って思っただけですよ」
ルクトは別に嘘をついたわけではない。彼の役回りが荷物運びである以上、ルクトは常に〈プライベート・ルーム〉の外にいて動き回ることになるだろう。それも恐らくは冬の雪山で。それが大変であることは想像に難くない。
「まあ、そうだな。早く見つかってくれればいいんだが……」
ルドの言葉にルクトも頷く。今回見つかった魔獣〈ベヒーモス〉を討伐するためには、まずは相手を見つけなければならない。発見までに時間がかかれば、その探索の分の負担が増えることになる。そしてその負担増の割合が最も大きいのは、常に外にいなければならないルクトであろう。
「ま、それを今から心配しても仕方がないわな」
そう言ってルドは懸念を笑い飛ばした。
「ガイドも雇うつもりだし、まあなんとかなるだろうよ」
それよりちょっとコッチに来い、とルドはルクトを御者台の隣に誘った。
「なんです?」
「暇なんだろ? ちょっと御者変われ」
そう言うが早いか、ルドは手綱をルクトに押し付けるようにして渡す。馬はただ歩かせているだけだから、手綱もただ握っているだけでいいのだが、それでも余計な仕事を押し付けられたという感じがする。しかも、ルドは時間が来れば温かいゲルの中に引っ込めるというのに、である。
「ちょっと、ルドさん」
手綱を渡されたルクトが少しばかり恨めしげな目をルドに向ける。しかしそんなものはどこ吹く風。ルクトの非難がましい視線を気にするでもなく、ルドはにやにやと楽しげな笑みを浮かべながら懐に手を突っ込み金属製の水筒であるスキットルを取り出した。彼が蓋を開けると、そこから僅かに芳醇なアルコールの香りが漂ってくる。
「……お酒ですか?」
「まあな。十五年物のウィスキーだ」
中じゃアリーシャがうるさくってよ、と愚痴をこぼしながらルドはスキットルに口をつけて一口呷る。ちなみにアリーシャというのは彼の部下の女性騎士のことで、本名はアリーシャ・ガーバリンという。いわゆる生粋の騎士で、綺麗な金髪をした勝気な女性である。生真面目な性格で、「任務中にお酒を飲むなど言語道断!」と怒る姿をルクトは容易に想像できた。
「……いるか?」
嬉々として酒を飲んでいたルドはルクトが呆れ交じりの眼差しを向けているのに気づくと、そう言ってスキットルを彼のほうに差し出した。顔には“にやり”と実に悪い笑みを浮かべている。まさに青少年にアブナイ遊びを教える不良中年の顔だ。まあ、ただのお酒だが。
「……貰います」
僅かな逡巡の後、ルクトはスキットルを受け取った。口元まで持っていくと、芳醇だが強いアルコールの匂いが鼻につく。その匂いに少しだけ顔をしかめてから、ルクトは一口だけ水筒の中身を飲んだ。
「っ! げほっげほっげほっ!」
喉を焼くかのような強烈な感覚に思わずむせる。アルコールが強いのは分かっていたから少量だけ飲んだつもりだったのだが、それでもどうやら多すぎたらしい。
「かっかっか! どうだ? 大人の味は?」
むせるルクトをからかうようにしてルドは笑う。そんな彼に恨みがましい目を向けながら、ルクトはもう一度スキットルに口をつけた。むせてしまったせいで、味がよく分からなかったのだ。今度はむせないよう、なめるようにして飲む。
「……なんか薬っぽい。美味しいんですか、これ?」
顔をしかめながらルクトは感想を言う。正直に言って、あまり美味しいものには思えない。
「俺も初めて飲んだ時はそう思ったもんさ。なんでこんなもんわざわざ飲むんだ? ってな」
ルクトから返してもらった水筒を傾けながら、ルドは楽しそうにそう語る。
「ま、コイツの味が分かるようになったら、お前さんも大人になったってことさ」
せいぜい励めよ若人、とルドは気分よくルクトの背中をバシバシと叩く。力加減はいい加減なようで、どうにも痛い。
「酔ってますね?」
「酒だからな。酔えなかったら不良品だ」
そういうことが言いたいわけではない、とルクトは思ったが口にはしなかった。酔っていようがいまいが、酒を飲んでいる人間に何を言ったところで無駄なのである。後でアリーシャさんにこってり絞られればいいんだ、と思いながらルクトは視線を前に向けた。
まあそんなこんなで。馬そりは進む。オーフェルへ向けて。比較的、ゆっくりと。
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オーフェルに着いたのはカーラルヒスを出発してから二日目のお昼過ぎだった。出発したのは日が昇り始めたころだったので、だいたい一日半で到着したことになる。途中、吹雪いたときもあったが進めなくなるほどではなく、全行程を見れば概ね順調だったといえるだろう。
馬とそりをオーフェルの衛士隊に預け、一行はそれぞれ行動を開始する。モリスン小隊の騎士三人は〈ベヒーモス〉の情報を集め、また山に入るためにガイドを手配する。ケイルはゲルの中で魔道甲冑の最終調整。そしてルクトは夕食の手配だ。
もともと夕食は衛士隊のところで食べる予定だったのだが、道中で「海猫亭」の話をしたらルドが食いついたのだ。山に入れば簡単なものしか食べられなくなる。英気を養うためにもここは美味いものを、ということらしい。
「もしかしたらやってないかもしれないですけど……」
幾ばくかの不安を覚え、ルクトはそう言った。海猫亭を利用する主な客層は、カーラルヒスから塩の買い付けに来る者たちだ。彼らが来るのはもっと気候が安定した季節で、こんな真冬に雪をかき分けてやってくる物好きはほとんどいない。客が来ないのであれば店を閉めていることは十分に考えられた。
「おや、ルクトじゃないか! こんな真冬にどうしたんだい!?」
幸いなことに海猫亭は営業していた。ただし、宿屋としてではなく食堂として。考えてみれば、完全に店を閉めれば冬の間は収入がなくなるわけで、稼ぐ手段があれば稼ぎたいと思うのは当然だ。海猫亭はもともと料理が評判のお店。地元の人の人気も高く、食堂だけやるのは賢い選択かもしれない。
「ちょっと仕事で。それよりも夕食を五人分予約しときたいんですけど、いいですかね?」
別に保守義務があるわけではなかったが、仕事の内容はぼかしてルクトはそう答えた。
「珍しいね。今回は一人じゃないのかい?」
女将さんからそう言われ、ルクトは苦笑した。確かに今まで彼が海猫亭を利用したときはだいたい一人だった。
「まあ、そんなところです」
「ま、いいことさね。予約のほうも任せときな」
ウチの旦那に腕によりをかけて用意させとくよ、と女将さんは請け負ってくれた。
その言葉にウソはなかった、と言っていいだろう。日が暮れてから五人で海猫亭に向かうと、店の中はすでに多数の客でにぎわっている。ルクトの顔を見つけた女将さんが案内してくれた五人がけのテーブルにはすでに何品かの料理が並んでいた。
「お! コイツは旨そうだな」
ルドが歓声を上げながら椅子に座る。さらに幾つかの料理を注文したが、そのどれもが文句なく美味しかった。特に温かいシチューは絶品で、五人とも揃って御代わりをしたものだ。
料理が旨ければ酒が欲しくなるもので、五人はそれぞれアルコールを注文する。食事の代金は必要経費扱いで騎士団持ちになるので誰も遠慮などしない。
「隊長は飲み過ぎないように」
ウィスキーの御代わりを頼もうとしたルドにアリーシャが冷たく釘を刺す。遠慮しないのと暴飲するのは違うのだ。特に彼らは明日から〈ベヒーモス〉討伐のために山に入る。二日酔いになっていては話にならない。
ルドは情けない顔をして「もう一杯くらい……」と懇願するが、アリーシャは一顧だにせず「駄目です」と切り捨てた。どちらが隊長なのか分からなくなる光景である。とはいえここで隊長だからと強権を振りかざさないのがルドのいいところなのだろう。心残りを全身で表現しつつも、彼は御代わりを諦めた。
「ちくしょう……。討伐が終わったら潰れるまでのんでやる……!」
「駄目に決まっているでしょう! 帰還して騎士長に報告するまでが任務なんですから。任務中に酔いつぶれるなんて言語道断です!」
ここでとうとうルクトは笑い出した。ジョシュアもケイルも笑っている。ルドは肩をすくめて流したが、アリーシャのほうは笑われたのが気に入らなかったらしい。
「ちょっと! 笑わないで! もう、隊長のせいですよ!?」
普段は澄ましているアリーシャがプンスカ怒るのが面白くてまた笑う。もしかしたら、飲みすぎていたのかもしれない。
さて海猫亭で騒いだ次の日。オーフェルの衛士隊に探してもらったガイド役二人と合流したルクトら五人は、一路〈ベヒーモス〉討伐のために山に分け入った。とはいえ、七人全員がずらずらと並んで歩く必要もない。騎士一人とガイド一人、そしてルクトの三人だけが外に出て〈ベヒーモス〉を探し、残りは〈プライベート・ルーム〉に設置したゲルの中で待機することになった。そして〈ベヒーモス〉を発見した場合、まず外に出ている騎士が攻撃を仕掛けて逃げないように牽制し、その間にルクトとガイドはもう二人の騎士を呼んでくることになる。
中で待機している人間がいるのに、わざわざ同じ者が外で探索を続ける必要もない。だから騎士とガイドは一時間ごとに交代する。つまり一回外での探索に出れば、騎士ならば二時間、ガイドは一時間の休憩があるのだ。魔道技師のケイルに至っては、外に出てもやることがないのでずっとゲルの中で待機である。
その一方で、ルクト。彼と交代できる人員は存在しない。だからルクトは常に外に出て雪の山中を歩かなければならなかった。なにしろ彼が動かなければ〈プライベート・ルーム〉の中身全て(人員を含む)が使えなくなってしまう。否が応でも動いてもらわねば作戦に支障が出るのだ。
それでも、疲れて動けない、という事態になれば半ば強引に休憩を取ることは可能だっただろう。しかし悲しいかな彼は武芸者。集気法を使えば身体は動いてしまう。休みたくても休めない、いや、休む必要がない、という状態だった。
「報酬は色つけてもらいますからね……!」
「分かった分かった。そんなに拗ねるな」
「拗ねてません。妬んでるんです」
「なお悪い」
そんなこんなで山中を巡ること三日間。いまだ〈ベヒーモス〉とは遭遇できず。




