いと尊し10
シェリアの後を追ってカルミが教室から出て行く。その背中を見送ると、ルクトは一つ息を吐いた。
「……まさか、カーラルヒスでパウエル・オクスの名前を聞くことになるとは、な」
焦点の合わない目でぼんやりと天井を眺めながら、ルクトはそう呟いた。パウエル・オクス。特別なところなど何もない、ただの普通の名前だ。偉人でもなければ聖人でもない、ただの男を指すただの名前。だが、ルクトにとっては特別な名前だった。
父親の、名前。
もう自分とは関係のない人間だと思っていた。これから先、関わることなどないと思っていた。無関心でいられると、そう思っていた。
だがその名前を聞けば心はざわつき無関心ではいられない。多少なりとも気になる部分があるのは、認めなければならないだろう。
だがそれでも会わないと、少なくとも自分から会いに行く気はないと答えた。
後悔は、するかもしれない。大雑把に考えてパウエルがいるオルジュまで往復で二ヶ月。たったそれだけの時間を惜しんだことを、十年後の自分は後悔するかもしれない。なぜあのときに決着を付けておかなかったのか、と後悔するかもしれない。
「それでもオレは、アンタに謝って欲しくない。謝って欲しくなんか、ないんだよ……!」
顔を合わせればきっと、パウエルは頭を地面にこすり付けて謝るだろう。それが彼の望みだからだ。すまなかったと涙を流し、断罪されることを望むだろう。
そんなことをされたら自分は惨めだ、とルクトは思う。親に捨てられ、巨額の借金を背負わされた可哀想なルクト・オクス。そう見られているのかと思うと、はっきり言って虫唾が走る。
『ルクトよ、おぬしは運が良い。飛び込んできたその場所が、他でもないこの黒鉄屋だったのじゃからな』
メリアージュはそう言って、よくルクトの頭を乱暴に撫でて笑ったものだ。彼女は一度として「かわいそう」などと言ってルクトに同情したりはしなかった。1億6000万シクという巨額の借金だって、見方を変えればルクトのことを一個の人格として尊重していたからこそ、超えなければいけない一つの区切りとして目の前に置いたのだ。
ルクト自身、今の自分をそれなりに気に入っている。メリアージュのところで暮らしていたときは充実していたし、カーラルヒスに来てからの学園生活もなかなか楽しい。斜に構えて「自分は不幸でかわいそう」などと暗い悦に浸るのはどうにも性格的に受け付けない。他人から見ればそう見えるのかもしれないが、ルクト本人の感覚としてはそこまで切羽詰っている気はしないし、苦笑して済ませてしまえる今の自分がルクトは結構好きだった。
なによりルクトにはハンターとしての才能があった。たとえその道を選んだのが自分自身の意思ではなかったとしても、才能があってそれを伸ばしていけるというのは幸運なことだとルクトは思う。
仮に、パウエルの商売が順調に続いてルクトが彼の店を継いだとする。その時、ルクトは今ほどに周りの人から高い評価を受けることが出来ただろうか。
出来ないと言い切るだけの根拠はないし、そもそも商人とハンターの評価を一概に比べても無意味なのだろう。だが、今ほどの評価を受けると言うことは、商人として〈プライベート・ルーム〉並みの評価を受ける、ということだ。そのハードルが高いと言うことはルクトでも何となく分かる。
つまり何が言いたいのかといえば、ルクトは自分のことを不幸だとも可哀想だとも思っていないということだ。それどころかメリアージュの言うとおり、自分は運がいいとルクトは思っている。
父親が夜逃げし、奴隷として売られそうになったところをメリアージュに助けられ、ハンターとしての才能を開花させた。つらいことがなかったとは言わない。だが今までの人生全体としてはそれなりに満足しているし、間違っても不幸だったとは思わない。
それなのにパウエルに会って涙ながらに謝られたらどうだろうか。彼がルクトを残して夜逃げしたことは、そこだけ見れば確かに非難されるべきことだ。しかし、そこから今に繋がっていることも事実なのだ。それなのに最初の根本を否定されたら、それはとても惨めなことではないだろうか。
「アンタにはもう、新しい家族がいるんだろう……?」
もう顔も良く思い出せない父親に、ルクトはぼんやりと語りかける。シェリアから聞いた話ではそうなっていた。問題がないわけではないが、ひとまずは幸せそうというのがルクトの感想だ。
「そっちを大切にしろよ。……別に、恨んじゃいないからさ」
パウエルのやっていることが贖罪になっていないことはルクトもわかっている。なにせ彼自身にはなんのメリットもないのだから。パウエルの新しい家族がいくら幸せになったところで、ルクトの借金は1シクとして減らないのである。そういう意味ではまったくの無意味と言えるだろう。
だがしかし、「贖罪しかしてはならぬ」という法もまたない。パウエルの自己満足で誰かが救われているのであれば、それには自己満足以上の意味と価値があるのではないだろうか。
「お互いそれなりにうまくやってるんだ。古傷えぐって気まずくなる必要もないだろう?」
ルクトは苦笑混じりにそう問いかける。当然、答えは返ってこない。彼が語りかけているのは、ここにはいない人物なのだから。
それにシェリアに告げた、「恩は血よりも尊い」というあの言葉。あの言葉は偽らざるルクトの本心だった。彼にしてみれば、血の繋がった父親よりも、命を助けてもらいまたここまで育ててくれたメリアージュのほうが大切なのだ。パウエルに会うことよりも借金の返済を優先したのは、そのことの一種証明のつもりでもある。極端な話、パウエルにかまっている時間はないのだ。
これはたぶん自分の我侭なのだろう、とルクトは思う。だが、たとえ我侭であっても譲る気にはなれなかった。メリアージュが聞けば「頑固で愚かなことじゃ」と盛大に笑うだろう。
「賢く生きるのは、借金返してからにするよ」
苦笑混じりにそう呟き、ルクトは立ち上がった。教室を出て人気のない静かな廊下に出ると、階段のほうから泣き声がする。心の中でカルミに「任せた」と呟き、泣き声に背を向けてルクトは歩き出した。それもまた、自分の我侭なのだろうと思いながら。
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机の上のランプに明かりをともす。寮の食堂で夕食を食べた後、ルクトは自室である403号室に戻ってきていた。普段は談話室で友人たちと雑談やカードゲームなどをして時間を潰すことが多いのだが、今日はなんとなくそういう気分ではなかったのだ。
ルクトは木製の椅子に浅く腰掛け、背もたれにだらしなく身体を預けてぼんやりと天井を見上げる。考えてしまうのは、やはり父親のことだ。
会わないと、そう決めたはずだった。決めたはずなのに、ふと気がつくと彼のことを考えてしまっている。そんな自分をルクトは薄く笑った。
と、その時、窓をコツコツとつつく音が部屋に響いた。ルクトがカーテンを開けてランプを近づけると、そこには案の定“黒い鳥”がいた。どことなくほっとしたものを感じながら、ルクトは“黒い鳥”を窓を開けて部屋の中に招き入れる。
窓を開けると“黒い鳥”はすぐに部屋の中に入ってきた。一緒に吹き込んだ冷たい風に身を震わせ、ルクトはすぐに窓を閉める。部屋の暖房費は自腹なのだ。
「調子はどうじゃ、ルクトよ」
「ボチボチ、かな」
いつものように“黒い鳥”がメリアージュの声で問いかけ、ルクトもまたいつもと同じように答える。
「おぬしはいつもボチボチじゃな」
そう言って“黒い鳥”はメリアージュの声でいつものようにカラカラと笑った。お決まりのそのやり取りに、どこか安堵するものをルクトは感じていた。
「はい、これ今回の返済分」
そろそろメリアージュが取り立てに来るころだと思って用意しておいたお金を、ルクトは“黒い鳥”の目の前に積み上げる。その額400万シク。合同遠征で稼いだ分の全額だ。ここの所ルクトは自己鍛錬に時間を取っており、そのせいで合同遠征以外の部分での稼ぎが減っている。そのため、最近の返済額はずっと400万で固定されていた。まあ、400万という金額は結構な大金なのだが。
金貨40枚をいちいち一枚ずつ啄ばんで回収するのも面倒だったのか、“黒い鳥”は一度解けて闇に戻り、金貨を一度に全て回収するとまた鳥の姿に戻った。金貨40枚を腹の中に収めた割には、その姿はさっきまでと比べ変化があるようには見えない。
「……便利な能力だな」
「ふふん? 今頃気がついたかえ?」
得意げな声でそう言い“黒い鳥”が胸を張った、ように見えた。やたらとコミカルに見えるその動きに、ルクトは思わず苦笑を漏らす。
「ま、オレの〈プライベート・ルーム〉もなかなか便利だけどね」
「ほほう? 引きこもってアレコレやっていた成果が少しは出たかえ?」
ルクトはメリアージュに個人能力を検証して分かったことを話す。一番の成果はやはり擬似的な瞬間移動ができるようになったことだろう。もっとも、移動可能な距離はおよそ30メートル程度で、これによって劇的な変化が現れることは考えにくい。それでも新たな可能性という意味では、とても大きなものをルクトは感じている。
「ま、どう使うかはまだ考え中だけどね」
「ほうほう。まあ、それはゆっくりと考えるがよかろう」
そう言ってからメリアージュは「それにしても」と少々意地悪な声で言葉を続ける。
「随分と、今更じゃな?」
その指摘に、ルクトはバツが悪そうに苦笑した。個人能力の検証というのは、一般にはもっと早い段階でやっておくべきものなのだ。メリアージュに言われるまでもなく、ルクトもその事は知っている。
ルクトが個人能力の検証を後回しにしていたのは、それよりも闘術の鍛錬を優先していたからだ。それに加え、〈プライベート・ルーム〉にある種の先入観があったことも事実だろう。倉庫や休憩所としての使い方以外考え付かなかった、いや考えることさえしなかったのだ。
決して怠けていたわけではない。その時間も全て闘術の鍛錬に費やしていただけなのだから。ただ、放置していた感は拭えない。ルクト自身「今更これか……」と思いながら検証を進めたのだから。
「よく知らないで使っていたのにこんなに便利なんだ。凄いだろう? 〈プライベート・ルーム〉は」
「なるほど、そういう考え方もあるかえ」
逆説的に、というよりほとんど開き直って個人能力を自慢するルクトに、メリアージュは呆れたように苦笑する。
それから少しの間、二人は黙り込んだ。話すことがなくなったから、ではない。むしろメリアージュはルクトがなにか話したがっているのを察して、彼がその話を切り出すのを待っていた。
「…………なあ、メリアージュ」
「なんじゃ?」
穏やかな沈黙に背中を押されるようにして、ルクトは口を開いた。そんな彼を急かすことなく、メリアージュはゆっくりと言葉を待つ。
「……親父のこと、なにか知ってるか?」
「……おぬしの父親であるパウエル・オクスはヴェミスにはいない。妾が知っておるのはそのくらいじゃな。それ以上の事は知らぬよ」
「調べたのか?」
「一応、の」
そっか、とだけ答えてルクトは再び黙った。パウエルがヴェミスにいないという情報は正しい。なぜなら、今彼はオルジュという別の都市国家にいるのだから。
「おぬしの父親のこと、気になるのであれば調べてやるぞ?」
パウエルが今どこで何をしているのか。メリアージュがその気になれば調べることは可能だろう。彼女はそれくらい広い伝手と情報網を持っている。それは“黒い鳥”を飛ばすことができる、彼女ならではの力だ。
「いや、いいや」
ルクトがメリアージュの話を断ったのは、彼がすでにパウエルのことを知っているから、というだけではない。メリアージュはパウエルのことをことさら調べようとはしなかった。それはその情報が特に必要ではなかったことを意味している。
それがメリアージュ自身にとってなのか、それともルクトにとってなのか、あるいはその両方なのか、それは分からない。なんにせよ、実際問題とてパウエルがどうしているのか調べる必要などないのだ。なぜなら借金、つまり契約はルクトとメリアージュの間のものであって、父親と言えどパウエルは部外者でしかないのだから。
ルクトが黙っていると、今度はメリアージュのほうがその沈黙を破った。彼女は優しい声でこう問い掛ける。
「……おぬしは、父親が絶望の底で打ちひしがれていたとしたら、そのことを『いい気味だ。自業自得だ』と思うかえ?」
「……いや。助けたいとは思わないかもしれないけど、そんなふうに喜んだりもしない、と思う」
少しだけ自信なさげにルクトはそう答えた。メリアージュは「ふむ」とだけ呟くと、また別のことを問いかける。
「では、逆に父親が幸せになっていたらどうじゃ? おぬしはその事を許せないと思うかえ? 羨み妬むかえ?」
「他人の幸せに嫉妬するほど、今のオレは不幸じゃないさ」
幸せだ、と言わなかったのは気恥ずかしさのせいか。肩をすくめるようにしてルクトはそういった。
「では、そういうことじゃ」
「ああ、そうだな」
そんな自分が、ルクトは嫌いではない。そしてそういうふうに育ててくれたのは、他でもないメリアージュだ。
(まったく、借金が減った分だけ恩が増えていく……)
返しきれるだろうかと思いつつ。
――――借金残高は、あと9500万シク。
というわけで。「いと尊し」いかがだったでしょうか。
夜逃げしたルクトの父親の話はどこかでやらなければ、と思っていました。ただパウエル自身が直接カーラルヒスに来るのは出来すぎかな、と思いこういう形に。
もうお気づきと思いますが、タイトルの「いと尊し」は作中に出てきたセリフの「恩は血より尊い」から取っています。
ポンと思いついたセリフで、どこかで使いたいと思っていたんですね。使えてよかったです。
さて、次のお話ですが、どうしようか考え中であります。もしかしたら幕間扱いになるかも?
気長にお待ちくださいませ。