いと尊し8
その会話を聞いてしまったのは、本当に偶然だった。
『私は……、私は、こんなに幸せで本当にいいのだろうか……?』
ミーナとパウエルが結婚してからおよそ二年。彼らの間に、双方にとって第二子となる女の子リーサが生まれてから約一年。その日は、交易の仕事のせいで普段家にいないことが多いパウエルが、久しぶりに家に帰ってきた日だった。
いつもより少しだけ豪華な食事を家族みんなで食べ、その後はたくさんの事を話した。話題は尽きず、時間はあっという間に過ぎていった。
いつの間にか寝てしまった妹のリーサを連れて、シェリアは自分の部屋に引っ込んだ。普段なかなか二人だけの時間が取れないお母さんとお義父さんを、二人きりにしてあげるためだった。まだまだ話したいことはたくさんあったが、今は我慢するとしよう。今回の休みは少し長いといっていたから、まだ別の機会があるはずだ。
シェリアはリーサを自分のベッドに寝かせ、そしてその横に添い寝する。妹の頭を撫でているうちにうつらうつらとして少しだけ眠り、それからふと喉の渇きを覚えてベッドを抜け出した。
居間の方からミーナとパウエルの話し声がする。盗み聞きをするつもりはなかったが、二人の話の邪魔をしたくないと思い静かにしていると、その内容はシェリアの耳にも届いた。
「私は……、私は、こんなに幸せで本当にいいのだろうか……?」
パウエルのその言葉に、シェリアは思わず息を呑んだ。義父が笑うとき、どことなく影があることは彼女も何となく気がついていた。今まではそれほど気にはしていなかったが、やはりそこには理由があるのだろうか。
「借金があるのに、幸せ?」
少しからかうかのようなミーナの声。それに答えるパウエルの声には苦笑の成分が含まれていた。
「幸せさ。愛すべき家族がいる。……ミーナは違うのかい?」
「そうね……、幸せだわ。……あの頃より、ずっと……」
どこか遠くを見るようにして、ミーナはそう応じた。彼女の言う「あの頃」とは、パウエルと出会う前のことだろう。確かにその頃は幸せではなかった。いや、今と比べるならば地獄のようだったとさえシェリアは思っている。
「……幸せじゃあ、ダメなの?」
ミーナは心配そうにそう問いかけた。それに対しパウエルは数秒の間沈黙する。その間、心臓の鼓動だけがやけに大きくシェリアの耳に響いた。
「…………果たして、私には幸せになる権利なんてあるんだろうか…………?」
痛々しい、声だった。絞り出すでも、慟哭するでも、泣き叫ぶでもない。ただただ、どこまでも痛々しい声だった。
「……ルクトさんの、こと?」
ルクト。初めて聞く名前だった。名前の響きからすれば男だろう。彼はパウエルと一体どんな関係があるのだろうか。
「……あの子はきっと、私のことを恨んでいる」
あの子、とパウエルは確かに言った。ということは、そのルクトと言う人物は彼の息子であろうか。
「確か、今年で十六歳になるのよね、ルクトさん……」
「ああ……」
十六ということはシェリアの三つ上だ。つまり、ルクト・オクスはシェリア・オクスにとって義理の兄、ということになる。
「ヴェミスへ調べに帰ったりは……?」
話の流れからすると、「ヴェミス」というのは都市国家の名前だろう。かつてパウエルが住んでいて、そして今もルクト・オクスがいるであろう都市。
「……帰れば、きっと生きては戻ってこられない」
パウエルのその言葉を聞いたとき、シェリアは口元を押さえて激しく動揺した。義父が死ぬかもしれない。その可能性を考えただけで絶望的な気持ちになる。だから次の言葉を聞いたときには、心の底から安堵した。
「……だから、帰らないよ。君たちを放り出しては行けないさ」
どこか悲しげにパウエルはそう言った。「帰らない」といったのはもちろん彼の本心だろう。しかし、その同じ本心の別の場所では「帰りたい」という気持ちが燻っているのだ。シェリアはそう感じた。
「でも、だからこそ思うんだ。こんな最低の人間が、ここでのうのうと生きて、幸せになっていてもいいのだろうかって……」
違う! 最低の人間なんかじゃない! とシェリアは叫びたかった。絶体絶命のあの時に、母と引き裂かれそうになったあの時に助けてくれたのは、ほかでもないパウエルだったではないか。誰も彼もが見て見ぬ振りをしたあの時に、ただ一人声を上げて手を差し出してくれたのはパウエルだけだったではないか。
聖者も賢者も、誰も助けてはくれなかった。助けてくれたのはお義父さんだけだ。そんな人が最低の人間であるはずがない。
だが叫びたいのと同時に、子供ながらにも分かってしまった。そんな慰めでは届きはしないのだ、と。分かってしまったから、シェリアは何もできずただ耳を澄ますしかなかった。
「……あなたが幸せじゃないと、わたしもシェリアもリーサも、みんな幸せになれないわ」
だからわたし達のために幸せになって、とミーナは柔らかく告げた。そしてその言葉はパウエルに届いたようだった。
「……ありがとう。君たちを、幸せにしてみせるよ」
「ええ。お願いね、あなた」
そんな両親の会話を聞きながら、シェリアは足音を忍ばせて部屋に戻った。結局水は飲まなかったが、喉の渇きは意識の外に出て行ってしまった。
(お母さん、さすがだなぁ……)
ミーナはシェリアにはできないことをやってのけた。その事をすごいと思うと同時に、嫉妬もまた覚えてしまう。妬ましいのだ。自分よりも義父を理解している母が。
はあ、と一つため息をついてからシェリアはベッドの中にもぐりこんだ。穏やかな寝息を立てるリーサを軽く抱きしめ、そのぬくもりを感じる。いつもならすぐに眠くなるのだが、なぜかこの夜は目が冴えてなかなか眠れない。
眠れないと、色々なことを考えてしまう。
(ルクト……。ルクト・オクス。わたしの義兄さん……。そして、お義父さんと血の繋がった、本当の親子……)
どんな人なのだろうか。親子であるからにはきっと似ているのだろう。パウエルと同じく、きっと優しい義兄に違いない。
妹ができたからだろうか、シェリアは年上の兄姉というものに憧れていた。兄でも姉でもよい。優しくて頼りがいがありなんでも話を聞いてくれる、そんな年上の兄姉がいたらいいのに、とこのごろ思うようになっていた。
とはいえ、そんな兄姉はできないだろうときちんとわきまえてもいた。この先、あるいは妹か弟はできるかもしれないが、しかし兄か姉はどうやったって不可能だ。
しかし、もしルクトと一緒に暮らすことができるようになれば、シェリアと彼は義理とはいえ兄妹になる。そうすればより理想的でもっと幸せな家族になれるのではないだろうか。シェリアはそう思った。
(そうなれば、きっとお義父さんも喜ぶし……)
パウエルは「自分はきっとルクトに恨まれている」と話していた。二人の間に何があったのか、もちろんシェリアは知らない。「ヴェミスに帰れば生きて帰っては来られない」とパウエルが話していたその理由も彼女には分からない。
だがそれでも、パウエルがルクトのことを今でも気にしていて、二人の間にあったことを悔やんでいるのは分かる。なら、ルクトがパウエルのことを許して、そしてみんなでオルジュに住めば何も問題はないはずだ。
目を閉じながらその光景を想像し、シェリアは不思議な幸福感に包まれた。この家族ならきっとみんなが幸せになれる。この家族を壊すものなんて何もない。
そう考えた瞬間、ザラリとシェリアの心がざらついた。そして今の今まで忘れていたあることを思い出してしまう。
ルクト、シェリア、そしてリーサ。この三人の子どもの中で、パウエルと血が繋がっていないのはシェリアだけだ。それどころかシェリアの実の父親はあのジノサ・ガームド。その事実は彼女にとって、まるで呪いのように感じられた。
先ほどパウエルは自分のことを「最低の人間」と言った。だがシェリアにしてみれば、自分の実の父であるジノサ・ガームドこそが最低の人間だった。その血を引くという逃れようのない事実は、どこまでいっても彼女に付きまとう。
(この家族で、アイツの血を引いているのはわたしだけ……)
まるで血の繋がりを求めるかのように、シェリアは妹のリーサを抱きしめた。その身体には半分だけ自分と同じ血が流れている。だが残りの半分まで同じになることは、決してできない。
同じ半分と、違う半分。色は同じ赤なのに、その差はどうしようもなく変えようがない。それは絶望的なことのようにシェリアには感じられた。
▽▲▽▲▽▲▽
年末も迫った十二月の末、カーラルヒスは薄い雪に覆われていた。当然外は寒く、通りを行く人の吐く息は皆白い。ちょうどまた雪が降り始めた。このまま一晩中降り続けば、明日の朝には結構な量が積もっているに違いない。
レイシン流の道場から帰ってきたルクトは、寮の近くに見知った顔を見つけた。二年のカルミ・マーフェスと一年のシェリア・オクスである。聞いたところによれば、夏休みから時々一緒に稽古をしているらしい。カルミはあれでなかなか面倒見がいいし、シェリアも彼女になついている。師弟というほど厳格な関係ではないが、まあいい先輩後輩だなとルクトは思っていた。
「ルクト先輩! 良かった、探していたんです」
カルミがルクトの姿を見つけて駆け寄ってくる。彼女の顔には笑みが浮かんでいたが、その後ろからついてくるシェリアの顔は心なしか強張っているように見えた。
「何かようか?」
ルクトがそう尋ねると、カルミはシェリアのほうを見た。どうやら用事があるのは彼女のほうらしい。
「……少し、お話したいことがあります」
胸の前で両手を強く組み、意を決したように顔を上げてシェリアはそう言った。その雰囲気からして、世間話をしたいということではないだろう。
「寮の談話室でいいか?」
もとより断る理由もない。話したいことがあるというのであれば聞くだけだ。寮の談話室であれば落ち着いて話ができると思いそう提案したのだが、しかし意外にもシェリアは首を横に振った。
「いえ、できれば人に話を聞かれない場所が……」
どうやら少々込み入った話をしたいらしい。ただ、ルクトとシェリアは実技講義を除けばほとんど接点がない。そんな間柄の二人が、どんな込み入った話をするのかと不思議に思う部分は確かにある。だが、それはこれから聞けばいいだけのこと。今この場で詮索する必要はない、とルクトは思った。
「じゃあ、武術科棟にでもいくか」
「あ、じゃあ、わたしはこれで……」
「いえ、できればカルミ先輩も一緒に」
気を利かせようとしたカルミにシェリアは一緒に来て欲しいと言う。わざわざそう言われれば無理に断る理由もなく。三人は連れ立って武術科棟に向かって歩き出した。
ノートルベル学園はすでに年末年始の休みに入っている。かといって敷地内が静かになっているかといえばそんなことは全然なく、むしろ湯気が立ちそうなほどの熱気に溢れていた。
その理由は簡単で、学園祭という一大イベントが近づいているからだ。サークルや研究室などにとっては成果を発表する年に一度の大きな機会だし、そうでない学生たちにとっても自分たちが作り上げるお祭りだ。やはり熱が入る。
さて、そんなわけで休みとはいえ学園内には多くの学生たちがいて、またそれぞれの建物も開放されている。でないと学園祭の準備が出来ないからだ。
そんな中で武術科棟のあたりは比較的人も少なく閑散としている。その人の数の差は、そのまま武術科の学生と他学科の学生の学園祭にかける思いの差だ。
武術科の学生というのは他学科の学生に比べ、良くも悪くも忙しくて余裕がない。学園祭のために割く余力がないのだ。むしろその分の体力と時間があるのなら迷宮攻略に向けるのがルクトを始め武術科の学生というものである。
まあそれでも学内ギルドは毎年何かやっている。そのせいで幹部連中は毎年死線を潜り抜けているらしいが、まあそれはそれでいいとして。
「せ、先輩はどこに行っていたんですか?」
黙って歩くだけのルクトとシェリアに気を使ったのか、カルミはおもむろにそんな話題をふって来た。
「レイシン流の道場だ」
今日が今年の稽古納めの日で、ロイやウォロジスなどと乱取り稽古をしてきたのだという。レイシン流に限らず、多くの道場で今日は稽古納めの日だ。カルミも午前中のうちに通っている道場に顔を出してきた。
「ま、相変わらず門下生は少ないから、ほとんどいつもの稽古と変わらなかったけどな」
苦笑気味にルクトはそう言った。それでも稽古の最後には昼食を出してくれ、みんなで食べてきたという。こういう家庭的な気風は小さい道場だからこそ、だろう。
そんな雑談をしながら歩くこと数分。ルクトたちは武術科棟に到着した。武術科棟の周りも人気が少ないが、なかはさらに人気がなく、低い気温も重なってか非常に物悲しい雰囲気がした。とはいえこれだけ人気がなければ、シェリアの「人に話を聞かれない場所」というリクエストにはぴったりである。
ルクトら三人はなんとなく階段を上って二階にあがり、その階の隅っこにある小さな教室を話し合いの場として選んだ。定員が二十名ほどの教室で、講義に使われることもあるが、それよりは学生たちが遠征などの打ち合わせに使うことのほうが多かった。
「それで、話っていうのは?」
三人がそれぞれ適当な椅子に腰掛けると、ルクトはそう切り出した。シェリアはここに来るまでの間ずっと黙っていたが、ここから先は彼女が口を開かないことには進まない。カルミはもちろんルクトも、この後輩が意を決して語るのを待った。
「…………まず、一つお尋ねしたいことがあります」
沈黙すること十数秒。シェリアはまずそう言った。それに対し、ルクトは椅子の背もたれに身体を預けながら腕組みをして無言で先を促す。
「……先輩は留学生ですよね?」
「そうだ」
「出身都市を教えてください」
「ヴェミスだ。都市国家ヴェミス」
その答えを聞いた瞬間、シェリアは大きく目を見開いた。そしてじわじわと彼女の目尻に涙がたまってくる。
「パウエル・オクス。この名前に聞き覚えはありませんか?」
声を震わせながら、シェリアはそう尋ねる。
「……パウエル・オクス、か。その名前を聞くのは久しぶりだ」
感情を窺わせない声でルクトはそう呟き、そしてこう続けた。
「確か、親父がそんな名前だったよ」