晴れ後雨時々曇り10
ルクトの備蓄のおかげで少しだけ豪華な昼食を堪能した六人は、短い休憩を挟んでから全員がフード付きの外套を羽織って〈プライベート・ルーム〉の外に出た。外は相変わらず雨降り模様。ただ移動するだけであれば、わざわざ全員が濡れる必要はないのだが、これから行うのは探索だ。人の眼は多いほうがいい。
「まずは南側の崖を下ってみよう」
ロイの言葉に他のメンバーたちは頷く。それはオルガ班が通った道だ。彼らがどこにいるのか有力な情報がない以上、その道を丁寧にたどっていくのが上策だろう。何かしらの痕跡が残っているかもしれない。
「道はあるけど、細いし、今は雨も降って滑りやすくなっている」
足元には気をつけて、と注意点を話すロイに他のメンバーたちは再び頷いた。救助に来た人間が、要救助者になっていてはお話にならない。
チェックポイントのある岩山の南側は崖になっている。それ自体はすでに聞いて知っていたが、なるほど確かに南側は崖であった。なだらかで登りやすかった北側と比べると、その差は歴然である。本当に同じ山なのかと疑いたくなるくらいだ。
細い道には幾つもの大きな石が落ちていて歩きにくく、また雨が降っているせいで滑りやすくなっている。その上、細い道はところによってはさらに細くなっていて、体を横向きにして壁側に張り付くようにし進まなければいけない箇所が幾つもあった。
さらには、土砂崩れかなにかで崩れたのか、道そのものが途切れてしまっている場所もあった。幸いにも崩落箇所は大きくなく、身軽で、さらに身体能力強化を施した武芸者にとってはさしたる障害にはならなかった。
だがもしここで重いリュックサックを背負っていたら、とルクトは考える。「跳べるか跳べないか」を問われれば、「跳べる」と答えるだろう。ただ「やりたいかやりたくないか」であれば、やりたくはない。やらずに済む無茶ならば、したくはないのだ。
首をめぐらして崖下を覗き込む。ゴツゴツとした岩肌をさらす崖はほとんど垂直といっていい角度で直立しており、そのおかげかせいか、一番下まで見通すことができた。岩山それ自体がさほど高いものではないのだが、それでもルクトのいる位置から木々の梢を見下ろすことができる。足場が悪いこともあってか、妙な居心地の悪さを感じてルクトは視線を戻した。
足元に気をつけながら崖を細い道をたどって下る。しばらくすると、道が小さく崩れている箇所が目に留まった。
「どうやらここから落ちたらしいな……」
足を滑らせたと思しき痕跡をためつすがめつ観察してイヴァンがそう呟く。そこから下を覗き込むと、下の道にも転落の痕跡が残っていた。道が細かったせいか、どうやらそこでは止まれずさらに下まで落ちてしまったらしい。
(よく骨折で済んだな……)
随分降ってきたとはいえ、まだ木々の梢と同じくらいの高さはある。これぞ集気法と身体能力強化の偉力、といえるだろう。
「あ、あそこ!」
そこからさらに下に降っていくと、何かに気がついたのかルーシェが声を上げて指を差す。崖を降りた先には森が広がっているのだが、その森のなかの断崖から少し離れた位置に雨を凌ぐための簡易テントが張られていた。彼女が指差していたのはそれだ。
木々が生い茂っていたせいで上からは見えなかったが、オルガ班はどうやらここで救助を待っていたらしい。だが、今ここに彼らの姿はない。
「あんまり良くない事態が起こったみたいだねぇ……」
崖を下り終え簡易テントのところまでやって来ると、そこの様子を観察したロイは苦い口調でそう呟いた。それを聞いたルクトも、苦い表情で頷く。オルガ班が張ったのであろう簡易テントには、リュックサックが六つ取り残されていたのだ。
リュックサックは十中八九オルガ班のものであろう。彼らは六人という話だから、つまり全員分である。食料を含む大切な物資を、それも全員分放り出して彼らがどこかに行ってしまったということは、状況の緊迫度合いがかなり高い、もしくは高かったことを推測させる。
「少し、この周辺を調べてみよう」
ロイの言葉に頷いてから、六人は適当に散らばって周囲を調べ始めた。もちろん、集気法で身体を強化し辺りを警戒しながら、だ。ただ、今現在この周辺に魔獣や野獣の気配はなく、そういう意味では安全といえるかもしれない。
雨でぬかるんだ地面には、足跡がまだ残っていた。ほとんどは人間のものだが、そのなかに一種類だけ明らかに人間の足跡ではないもの、蹄の割れた足跡が混じっている。大きさや形から推察するに、恐らくは鹿ではないかと思われた。
(ま、ただの鹿じゃないだろうがな……)
学生とは言え、戦える武芸者が五人もいたのだ。ただの鹿を相手に荷物を全て捨てて遁走するなど考えられない。もっとも、この足跡の主がオルガ班と連絡が取れなくなった原因であれば、の話だが。
ルクトは地面から視線を上げてさらに周囲を観察する。先ほどは簡易テントのほうに気を取られて気づかなかったが、周辺の木々には不自然な傷がある。しかもごく最近、ついさっき付けられたかのような真新しい傷だ。
傷の一つ一つは決して深くはない。表面の木の皮を吹き飛ばしたかのような印象だ。近寄ってさらに調べてみると、その傷口の外周には黒く焦げた痕も残っている。
(焦げた痕……、火……、個人能力……、火炎弾か何かか……?)
オルガ班のなかに火炎弾か何かを操る個人能力を持つメンバーがいるのでは、とルクトは考える。しかしただの火炎弾ではこの傷は説明できないように感じた。火炎弾によるものであれば、傷よりも焦げ目が大きく残るはずだ。木の皮が炭化して崩れ落ちたにしても、その痕跡がまったく残っていないのはおかしい。
(ま、なんにせよ……)
なんにせよ、ここで戦闘があったことはほぼ間違いない。オルガ班はここで何者かと戦い、そして荷物を全て捨ててまで逃げたのだ。そしてその相手は恐らく、先ほどの足跡の主であろう。
「ロイ、〈共鳴機〉がありましたわ」
そう言ってテミスが拾い上げた〈共鳴機〉を持ってくる。間違いなくオルガ班が使っていたものであろう。それをきっかけにして、散らばって周囲を調べていたメンバーが簡易テントのところに戻ってくる。
「戦闘痕があるな。相手は恐らく魔獣」
開口一番ルクトがそう告げ、他のメンバーも頷く。他のメンバーも戦闘痕を見つけたらしいから、結構広い範囲で戦ったか、あるいは広い範囲に及ぶ攻撃を行ったか、もしくはその両方か、と推測される。
「あっちの方向に、刃物でつけたような傷が残っている。たぶん目印だ」
イヴァンが指差したのは森の奥へと進む方向だ。烈を目に集めて視力を強化しそちらの方向を見てみると、確かに木の幹に何かで切りつけたかのような傷跡が残っている。そのさらに奥にも同じような傷跡があり、恐らくはそのさらに先にもあるのだろう。
「さて、なんのために目印を残したのか……」
この目印を残したのは間違いなくオルガ班のメンバーであろう。目印を残した理由について、すぐに思いつくのは二つ。
一つ目は、彼ら自身がこの簡易テントに戻ってくるため。荷物を全て捨てていくのがどれだけまずい状況なのか、オルガ班だって十分に承知しているはず。ならば危機が去るなりした後で、荷物を回収するためにここに戻ってくることを考えていたとしても不思議ではない。
また状況から考えるに、彼らは〈共鳴機〉を落としたことに気づいていたはずだ。子機の位置を親機から確認できることは彼らも知っているから、救助隊がそれを目印にしていることも分かっていたはず。救助隊に自分たちの位置を知らせるためにも、〈共鳴機〉の回収を考えていてもおかしくはない。
二つ目は、後から来るであろう救助班が、自分たちの後を追ってこられるようにするため。ルクトらロイニクス班がすでに救助に向かっていたことは、オルガ班もトレイズから知らされていたはずだ。その救助班と合流するために“足跡”を残していくのは間違っていない。
「ま、これ以上は考えても仕方がないね。とりあえずここまでの経過をトレイズ先生に報告するよ」
そう言ってロイは〈共鳴機〉を取り出し、これまでに分かったことをトレイズに報告する。詳しい状況、特に戦闘痕が残っていることを聞いたトレイズは、〈共鳴機〉の向こう側で苦い唸り声を上げた。
『…………血痕などは残っていませんでしたか?』
「見た限りではありませんでした。ただ、この雨ですから……」
仮に誰かが怪我をして血痕を残したとしても、この雨によってすでに洗い流されて分からなくなっている公算が大きい。
「それで、これからどうすればいいですか?」
一通りの報告を終えたロイが、今後の方針を尋ねる。探査の続行か、この場で待機か、それとも撤退か。
『……オルガ班が戻ってくる様子はないんですね?』
「はい。ウチの班のメンバー以外は、辺りに人の気配はありません」
『…………では、目印を伝ってオルガ班の後を追ってもらえますか?』
少し考えてから、トレイズはそう言った。オルガ班と連絡が取れなくなってから、つまり彼らがこの簡易テントを離れてからすでに二時間近くが経過している。戦闘があったにせよ、決着をつけるだけの時間はすでに経っているのだ。
(逃げ切ったか、勝ったか、あるいは負けたか……)
大雑把に分ければこの三つのいずれかであろう。なんにしろすでに戦闘は終わっており、ロイニクス班に危険が及ぶ可能性は低い、という判断であろう。
それにオルガ班の安否も気になる。その確認は早ければ早いほどいい。そしてそのためにはロイニクス班に動いてもらうのが一番効果的なのだ。
「分かりました。では、オルガ班を追います。通信終わります」
『お願いします。……本当に、くれぐれも無茶だけはしないでくださいね。通信終わります』
トレイズの声は相変わらず少しだけ苦かった。今のところロイニクス班に直接的な危険は及んでいない。だが、少しずつ明らかになっていく事態は危険な予感をヒシヒシと伝えてくる。
一刻も早くオルガ班の安否を確認し救助したい。その気持ちは間違いなく強い。しかし確実に危険の予感が増していくこの状況で、学生であるロイニクス班をどこまで関わらせたものかとも思う。
この“予感”というヤツが厄介だ。「危険が増している」というのであれば、トレイズも躊躇なく撤退するように言っただろう。だが実際に増していくのは予感ばかり。それがロイニクス班をずるずると事態に関わらせ続ける。彼らに動いてもらうのが有効なのは事実で、それがまた厄介だった。学生であることを差し引いても、その手を打ちたくなる。
まあそれはそれとして。トレイズとの通信を終えるとロイは〈共鳴機〉を懐に戻す。そしてオルガ班を追う前に、彼らが残していった荷物を全て〈プライベート・ルーム〉のなかに回収した。邪魔にならないのであれば、わざわざ置いていく必要はない。
「オルガ班の人たち、無事かしら……?」
「無事でいて欲しいとは思うけどね……」
彼らが無事であるかどうか、楽観できる状況でないことは口には出さなくても六人全員が承知していた。なにしろ連絡が取れなくなってから二時間近く。状況が一段落したのであれば、簡易テントのところまで戻って来てもよさそうなものである。それなのに彼らが戻ってこないその理由は……。
「今まさに目印をたどって戻ってきている最中かもしれませんわ!」
頭をよぎった最悪の予想を振り払うかのように、テミスが少し大きな声を上げた。根拠のない楽観論ではあったが、そのおかげでメンバーの表情が少しだけ緩んだ。
「じゃあ途中で鉢合わせできるかもね」
ロイの言葉にメンバーは頷いた。人間の単純な心情として、死んだ人間よりは生きている人間を探したいものなのだ。
集気法を使って烈を練り、身体能力強化を施す。フード付きの外套を羽織っているとはいえ、すでに体は雨に濡れていた。氷雨というほどではないが、それでも体は冷える。集気法で烈を練ると、体の芯が温まったように感じ心地よかった。
雨の降る森の中を、ルクトたちは再び走り出した。断続的に残された目印を追い、木々の間を縫うようにして森の奥へと進む。雨のせいか森の中は静まり返り、地面を蹴る足音だけがやけに大きく響いた。
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オルガ班の残した目印を頼りに、ルクトたちは森の中を進む。目印は決して一直線上に残されているわけではなく、恐らく右へ左へ少しずつ曲がっているのだろう。今自分たちがどこにいるのか、ルクトには分からない。右も左も分からない森の中で自分の位置が分からないというのは、恐怖こそ感じないがやはりある種の居心地の悪さを感じる。
もっとも、“居心地の悪さ”で済んでいるのは、こうして目印を追えているからにほかならない。あの岩山のふもとまで戻れば、地図上で位置を確認することはできるのだ。またいざとなれば〈共鳴機〉を使って親機の方からカーラルヒスの方角を指示してもらうこともできる。
目印を見失い、学園とも連絡が取れなくなったら、“居心地の悪さ”ではすまない。
メリアージュと出合った夜のことを思い出す。あの時ルクトは目の前に飛び出してきた黒猫を追いかけていた。もしもあの時黒猫が飛び出してこなかったら、自分はただうずくまって怯え震えていることしかできなかったかもしれない、とルクトは思う。そうなっていたらなら、メリアージュと出会うこともなく奴隷商に売り払われ、恐らくはもう死んでいたであろう。
「……どうかしたか?」
隣を走るソルの声で、ルクトはあの夜から意識を引き戻した。
「……なんでもない。それよりも、オルガ班と合流できる気配がないな」
「そうなんだよなぁ……。結構走ったはずなのになぁ……」
蜂蜜色の長髪を雨で濡らしたソルがそうぼやく。確認はしていないが、ルクトたちが目印を追って走り始めてからすでに三〇分以上が経過しているように思われる。それでもまだ彼らはオルガ班と合流することはできずにいた。
目印は途切れていない。断続的に残された目印はかわらずルクトたちを森の奥へ奥へと導く。というより、まだ目印を追えるからこそ、彼らはまだ探索を続けていた。
目印が残っているということは、オルガ班が間違いなくここを通ったということだ。そして通ったということは、その時点でまだ健在だったという意味でもある。ここまでの道中で死体は見なかったから、恐らくは全員健在のはず。
状況はさほど悪くないと言っていいだろう。いまだ合流できていないとはいえ、オルガ班に被害が出た様子も確認されていない。そもそもオルガ班が森に入ってから結構な時間が経過しているのだ。その分遠くへ行ってしまっているのは、ある意味で当然である。
しかし同時に、楽観は出来ない。いや、むしろ緊張の度合いは増しているといってもいい。
「またあったわね……」
黒い艶やかな髪から雨の雫を滴らせながらルーシェが呟く。簡易テントの周りに残っていたものと酷似した戦闘痕を見つけ、ルクトら六人は足を止めた。辺りを見渡せば、簡易テントの周りに比べれば数は少ないが、似たような傷跡がそこかしこに残っている。
つまりここでも戦闘があったことになる。そして同じような戦闘痕が残っている場所を、彼らはここまでで幾つか見てきた。
これが意味すること。それは…………。
「オルガ班は追われていた。そして恐らくは今も追われている」
「相手、いえ敵は魔獣」
「簡易テントでオルガ班と交戦したのと同一の個体、だろうな」
「てことは、たぶん数は一」
「これまでに複数回遭遇。ただ戦闘それ自体は連続しておらず断続的」
「つまり一時的な遁走は可能、ということですわね」
ここまでで得られた情報をそれぞれが口に出して整理していく。この魔獣はどうやら厄介な相手のようだ。なにせ逃げるオルガ班を執拗に追っている。しかも、戦闘痕が連続していないところを見ると、一度は相手の姿を見失っているはずなのだ。それでも確実に見つけて追いついているというのは、はっきり言って驚異的だ。
ただ、絶望的な強敵、というわけでもなさそうである。逃げるだけならば可能な様子だからだ。実際、オルガ班は何度も遭遇しその度に逃げおおせている。死体がない、ということはそういうことだ。
(なんで反撃しないのか不思議ではあるが……)
簡易テントの周辺もそうだったが、目印を追ってここまで来るなかで見つけた戦闘痕は一種類。木の皮を吹き飛ばしたかのような傷跡で、これは魔獣が残したものと思われる。しかしオルガ班のメンバー、つまり人間による傷跡は残っていなかった。よって、オルガ班は敵と遭遇した場合は逃げの一手であると推測される。
(交戦より遁走を優先しているのか、目印が分からなくなってしまうのを嫌ったのか、もしくはさらなる怪我人が出ることを恐れたのか、あるいは戦っても勝てないと諦めているのか……)
ルクトとしては最後の予想には是非とも外れてもらいたい。だが残念なことに可能性としてはこれが一番高い。でなければ荷物を最初から全て捨てて、つまりかなり焦った状態で逃げ出したことの説明がつかないからだ。
(そんな相手にずっと追いかけ回されているのか……)
笑顔で怒ったメリアージュにさんざん追いかけ回されたことを思い出し、思わず身震いするルクト。同時にオルガ班のメンバーには心の底から同情した。絶対に敵わないと思わせる相手から逃げ続けるのは、それはそれは恐ろしいものなのだ。
「……どうした、ルクト?」
「いや、なんでもない。それより学園に連絡を入れなくていいのか?」
ルクトがそう提案すると、しかしロイは首を横に振った。
「連絡したってやることは変わらないよ」
目印をたどってオルガ班を追いかけ合流する。結局それしかない。
オルガ班は常に件の魔獣の攻撃にさらされているわけではない。ならば魔獣がいない時に合流できればさほどの危険はないはずだ。合流さえできてしまえば、怪我人を〈プライベート・ルーム〉に収容して、後は集気法に物言わせてカーラルヒスを目指すだけだ。魔獣がどこまで追ってくるかが問題だが、集気法さえ使っていれば一、二時間程度全力で走り続けることも可能だ。特にルクトの場合、慣れてすらいる。悲しいことに。
間が悪く、戦闘中のオルガ班を見つけた場合は、彼らには悪いがしばし静観するしかない。そして彼らが逃げ切った後で合流する。その後は同じだ。
「いいんじゃね? それで」
「そうね。オルガ班の人たちのこと、心配だし……」
「ここまで来て見捨てるのも、目覚めが悪いしな」
ある者は口に出し、ある者は無言で頷いてそれぞれロイの意見に賛成した。
今後の方針が決まったところで六人は再び走り出す。思い出したように雨が止む。またきっと降り出すことだろう。