晴れ後雨時々曇り6
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ルクトたち六人が目指す最初のチェックポイント、つまり♣のチェックポイントは、カーラルヒスから見て南西、十二時の方向を北にすればだいたい七時くらいの方角だった。そこにあるのは小高い丘で、地図と一緒に貸し出された付録によれば標高はおよそ200メートル。目指すチェックポイントはその頂上にある。
目標となる地点を視認して、六人は誰からともなく息を吐いた。地図とコンパスを頼りにここまで進んできたが、それが間違っていなかったと分かったのだ。
「ルクト、時間は?」
「十一時少し前、だな」
ポケットから懐中時計を取り出し、竜頭を押して上蓋を開け時間を確認したルクトが答える。出発が朝の八時だったから、かれこれ三時間ほど歩き続けたことになる。ただ集気法を使い続けていたおかげで疲労はそれほどでもない。マナの濃度が薄いとはいえ、身体能力強化の恩恵は大きいといえるだろう。
「お昼はチェックポイントのところで食べるとしようか」
ロイの提案にメンバーは皆一様に頷く。
それからしばらく歩くと、周りには木々が生い茂り始めた。木の陰に隠れて目的地である丘は見えなくなるが、コンパスで定期的に方向を確認し、さらにその都度適当な目標を定めて進むことで六人は迷うことなくチェックポイントに近づいていく。
ひとしきり喋って満足したのか、六人は無言で足を動かす。静かだ。しかし人間が無言であっても、世界は音に満ちている。
力強さを感じさせる足音。小鳥の囁き。風が戯れに鳴らす木の葉のさざめき。
さらに六人は集気法を使い身体能力強化を施している。そのため普通の状態に比べ感覚が鋭敏になっていた。その鋭敏になった感覚は、森の中の命の気配をつぶさに教えてくれた。
(迷宮の中にはない気配だよな……)
迷宮というのは基本的に無機質で、命の気配を感じさせない空間だ。そこで出現するモンスターは所詮“擬似生命体”であり、命の持つ力強さ、口の悪い言い方をすれば生々しさには欠けるところがある。
逆に、擬似生命体だからこそ生身の生物にはない凶暴性や破壊衝動、あるいは捕食衝動を持っている、とも言える。それらの意志は確かに強烈で飲まれてしまいそうになることもある。だが反面、どこか刹那的であるようにルクトには思えるのだ。それは、死ねばマナに還り魔石とドロップアイテムのほかは何も残さない、モンスターの末路も関係しているだろう。
まあそれはそれでいいとして。つまり武術科の学生として日々迷宮攻略にいそしんでいるルクトが、日常的に身を置いているのはそういう世界なのだ。ルクトだけではない。同じく武術科の学生であるロイたち五人もまた同様だ。それに加え、彼らが都市の外に出ることはほとんどない。
だから、であろうか。この森の中の気配は彼らにとってはひどく新鮮だった。
半ば目を閉じ、周りの気配だけを頼りに進むルクト。目から入ってくる情報を制限すると、他の四感の伝える刺激がより鮮烈になった。
耳に入る様々な音。踏みしめる腐葉土の感覚。少しだけ青臭い風はほのかに湿っていて鼻腔に優しい。口を開いて深く息を吸えば、吸い込んだ空気は少し甘い気がした。
(一人で旅をした時は気づかなかった……)
一人で旅をするとき、ルクトは当たり前だが荷物を全て〈プライベート・ルーム〉に片付けておく。そうして身軽な状態になり、集気法を用いた身体能力強化に物言わせて駆け抜け距離を稼ぐことが多かった。
当然、そうやって走っていては、こうして全身で森の中に浸っていることなどできない。
(これはこれで、アリ、かも……)
決して楽しいわけではない。いや退屈でもないのだが、少なくとも“興奮する”とか“興味を惹かれる”とか、そういう類の楽しみはない。
何度も繰り返せばきっと飽きるだろう。いや、もしかしたら明日にはもう何も感じなくなっているかもしれない。だがしかし今だけは、今このときだけはこの森に満ちる気配は新鮮で、そして鮮烈だった。
今コンパスを持ち方角を確かめながら一行を先導しているのはイヴァンだ。この役は持ち回りでルクトもすでに一度やっていた。ただ今は先導役のイヴァンについて行けばいいだけで、それをいいことにルクトはさらに周りの気配に意識を向け森の中を楽しんでいた。
だからこそ、彼が一番最初に異変に気づけたのかもしれない。
(気配が変わった……?)
半ば閉じられ焦点の合っていなかったルクトの目に、鋭さをもった剣呑な光が灯る。ただすぐに大きな動きを起こすことはせずそれまでと変わらずに歩き続けながら、しかしこれまで以上に集中力を高めて周囲の気配を探る。
(動く気配……、六つ、いや七つか? 見られている……、いや探っている……?)
人間か? いや違う。では獣だ。正確にはわからないが気配は複数ある。ということは相手は群れだ。獣の群れがこちらを伺っている。その目的は考えるまでもない。
「ロイ」
すぐさまルクトはパーティーリーダーであるロイの名前を呼んだ。彼のその硬い声を聴いた瞬間、メンバーは全員緊張を高めて臨戦態勢に移行する。
「ん? ……ああ、五、いや七つかな?」
すぐさま周囲の気配を探ったロイがそういう。こちらの雰囲気が変わったことに気づいたのか、周りにいるはずの獣たちの気配がいっそう濃くなる。隠す気がなくなった、ということだ。
「動きやすいように荷物を降ろして。ルーシェとテミスは荷物の番ね」
ロイの指示にメンバーは無言で頷きすぐさま従う。真ん中に六人分の荷物をまとめ、それを挟むようにしてルーシェとテミスが立つ。さらにその二人を囲むようにして残りの男四人が油断なく四方を固める。
「……魔獣かしら」
高まる緊張感の中、誰にともなくルーシェが呟く。都市の外における最大の脅威といえば、やはり魔獣だ。
「魔獣と思っておいたほうがいい」
「だね。想定より低い限りは大事にならないから」
ルクトの硬い声に、ロイがいつもの調子で続く。二人の声には一見あからさまな温度差があったがそれを咎めるメンバーはいない。声の調子は変わらずともロイは緊張を高めて周囲をつぶさに探っている。それにこういう時に自然体でいられるのは、それはそれでなかなか頼もしい。
ちなみにルクトは明確に臨戦態勢を取るタイプだ。幾つか段階はあるが(とはいえ感覚的に、だ)、この状態になると集中力が増し感覚が鋭敏になる。ただその反面消耗が激しく、現状では全力を継続していられるのは、体調にもよるが一時間程度が限界だ。それを超えると頭がゆだってくる。〈プライベート・ルーム〉で確実な休息が取れるからこそのスタイルと言えるだろう。
まあそれはそれとして。
場の緊張感は時々刻々と高まっていく。メンバーは全員が集気法を使って烈を補充済み。もちろんマナの濃度が薄いので迷宮の中とは比べるべくもないが、ともかく出来る限り万全の状態だ。
(無いものねだりしても仕方がない……)
そんなことを考えながら、ルクトは腰を落として太刀の柄に手を沿えて抜刀術の構えを取る。万が一に備えて小さな魔石を用意してあるが、外法は使わずに済むのならそれに越したことはない。
緊張の中に殺気が混じり始め、肌にピリピリとした刺激が走る。そしてそう間をおかずに威嚇の唸り声が上がり始めた。もはや気配を隠す気もないらしい。
緊張が高まりそして爆発する、その一瞬前。その瞬間を見極めて誰より早くルクトが動いた。
――――カストレイア流刀術、〈抜刀閃・翔刃〉
ルクトが鞘から走らせた太刀の刃は当たり前に空を切る。しかしそこに込められていた烈は刃となって茂みの奥にいる気配に向かって飛んでいく。
「ギャウン!!」
悲鳴を上げて茂みから獣が一匹飛び出してくる。四足でその姿は狼に似ているが、狼にはない大きくて鋭い犬歯が二本上顎から飛び出していた。魔石を確認しないことには断定できないが、恐らくは魔獣。
最初の一匹が動いたことで群れの残りもそれにつられるようにして動き始め、一気に場が騒々しくなる。それにあわせて人間の側も迎撃に動く。
太刀を抜き放ったルクトはそのまま前に出る。狙いはもちろん〈抜刀閃・翔刃〉を浴びせ一番最初に飛び出してきた個体だ。
その個体は左の前足の付け根から首元にかけて斜めに傷を負っていた。間違いなく〈抜刀閃・翔刃〉による傷だ。流れる血の量は多いが、まだ動けるところを見ると致命傷にはなっていないのかもしれない。
(やっぱり魔獣か……!)
魔獣は普通の獣に比べて防御力が高い。いくら迷宮の外で烈が十分に練れていないとは言え、狼のサイズで〈抜刀閃・翔刃〉の一撃を受けてまだ動けるとなれば、魔獣でほぼ間違いないだろう。
傷を受けた個体はそれで怯むどころかさらに興奮した様子を見せ、口から涎を流しながら迫ってくる。その目から叩きつけられるのは強烈な怒りと捕食の意志だ。傷を受けてなおその意志は弱まることがなくむしろより燃えたぎっており、本来の獰猛さに拍車がかけられているように思われた。
身体を左右にふり、血潮を撒き散らしながら走る牙を持つ狼に似た魔獣。その動きに惑わされないようにしながらルクトは間合いを詰める。
(狼……。動き、牙、爪、注意……)
加速した思考は単語で走り注意点を列挙していく。それと同時に集気法で烈を補充し太刀に流し込む。
間近に迫った魔獣がルクトの横に回りこむようにして大きく跳ぶ。そして地面に足を付くのと同時に低く地を這うようにしてルクトに襲い掛かった。
魔獣の牙が狙うのはルクトの左足の、くるぶしの辺り。低く、そして最も細くなっている位置だ。今にも突き立てられようとしているその牙を、ルクトは右足を軸に回転するようにして左足を引いて回避する。
さらにルクトはそのまま身体を一回転させる。そして浮かせたままの左足を伸ばすようにして蹴りを放つ。その蹴りはちょうど体勢を立て直そうとしていた魔獣の柔らかい腹部を捕らえた。
いかに普通の獣より防御力が高かろうとも、体重はどうしても体躯の大きさに左右される。そして狼に類似しているこの魔獣は、やはり狼並みの体躯でそれ相応の体重しかない。腹部に蹴りを入れられた魔獣は、そのまま飛ばされて五メートルほど先にあった木に叩きつけられた。
一瞬の停滞の後、木の幹に沿ってずり落ちてくる魔獣の身体。さすがにダメージを負ったのか、すぐさま動けるような様子ではない。その身体が地面に落ちるより早く、一瞬にして間合いを詰めたルクトの太刀がきらめいて魔獣の首筋を刺し通し、その身体を木の幹に縫い止めた。
「グフホオォォ……!」
血を吐き、それを牙から滴らせて呻く魔獣。首に一撃を入れたというのにいまだ絶命しないその生命力は流石であり驚異的だ。
魔獣がまだ死なないのを見たルクトは、すかさず太刀を捻る。太刀は横から縦へと向きを変え、さらにその過程で魔獣の首筋を抉る。さらにルクトは幹に突き刺したままの太刀をそのまま下へと振りぬく。烈を流し込んであるが故の荒業だ。
縫いとめていた太刀が振りぬかれたことで、魔獣の身体は落下を再開する。地面に落ちた魔獣は、切り裂かれた首元から大量の血を流しもはや動く気配はない。
最初の一匹を仕留めたルクトはメンバーたちの方に注意を向ける。当たり前だが、彼が一匹仕留める間にも事態は時々刻々と動き続けていた。
「〈伸縮自在な網〉!」
そう叫んで構えたロイの両手に青白い網が現れる。ロイニクス・ハーバンの個人能力〈伸縮自在な網〉である。簡単に言えば、よく伸びよく縮む網だ。
ロイはその青白い網を、自分めがけて突っ込んでくる二匹の魔獣にいなすようにしながら被せる。網に絡め取られた二匹の魔獣は突っ込んできた勢いそのままに進もうとし、ロイはそれにあわせて〈伸縮自在な網〉を伸ばす。そして適当なところで手を離して同時に青白い網を縮め、その反動を利用して網がさらに魔獣に絡まるようにする。
ロイの〈伸縮自在な網〉に捕らえられた二匹の魔獣は団子になった状態で必死にもがくが、しかしもがけばもがくほどその青白い網はよけいに絡まり彼らの動きを封じていく。これでこの二匹は無力化された。ロイの手を離れた〈伸縮自在な網〉は自然に消えてしまうのだが、それでも数分程度は持つだろう。迷宮の中ならばもう少しもつのだが、そこは仕方がない。
「テミス! あの二匹は任せるよ!」
「了解ですわ!」
荷物の番、つまり荷物に被害がでないよう守る役割だったテミスに、ロイが動けなくなった二匹の処理を任せた。そしてテミスが動くのを気配だけで確認すると、ロイは腰間の剣を抜いて残りの魔獣と対峙する。〈伸縮自在な網〉は一度に一つしか使えず、つまり今のロイは自分の能力が使えない状態だ。
「ま、別に困りはしないさ」
もちろん、〈伸縮自在な網〉が時間経過によって自然消滅するか、あるいは自分でもう一度掴むかすればすぐにでも個人能力は使用可能だ。だが自然消滅までは数分かかるし、ここで〈伸縮自在な網〉回収のために動くのは悪手だろう。
「剣もね、嫌いじゃないんだ」
ロイの浮かべる笑みが物騒になる。彼の個人能力は攻撃力が皆無で、つまり止めを刺すための決定力には欠ける。そのためロイは剣の稽古には熱心で、そしてその熱意に応じた実力を身につけていた。
ちょうど一匹仕留めたルクトが、魔獣の血で濡れた太刀を手にロイのフォローに回る。二人の武芸者を警戒したのか、こちら側に残った最後の一匹は動きを止めて唸り声を上げる。
(さて、こっちは終わりが見えたけど……)
魔獣の気配は全部で七つあった。ルクトが一匹仕留め、ロイが〈伸縮自在な網〉で行動不能にした二匹はテミスがすでに処理している。さらに目の前に一匹足止めしてあり、つまり残りは三匹だ。その三匹の気配はロイの背後にあり、そしてそちら側にはソルとイヴァンがいた。
「はっはー、やっぱすばしっこいな!」
ソルが楽しそうに声を上げる。声は楽しげだが、彼が顔に浮かべている笑みは獰猛で、いつものニヤニヤとした軽薄さは影を潜めている。
今ソルが対峙しているのは、狼に似た三匹の魔獣。いや、“対峙”という言葉を使うには両者の距離は離れすぎているかもしれない。彼我の間合いはおよそ三十メートル。
これまで見た限り、この距離からの攻撃手段は魔獣たちにはない。彼らが獲物を仕留めるためには、普通の狼と同じようにゼロ距離まで接近してその牙を直接突き立てるしかない。だがそうしようにも、魔獣たちは攻めあぐねていた。
普通であればこの程度の距離が魔獣たちに障害となることはないだろう。狼に似た体躯を持つ彼らは、これまで見たとおり俊敏さに優れている。三十メートル程度の間合いなら即座に潰せるはずだ。
その上ここは見晴らしのいい草原ではない。目に入る範囲においても何本もの木々が乱立し茂みがあちこちにある。魔獣たちはその利用法を本能的に知っているし、それらを上手く使えば獲物に接近することなど容易い、はずだった。
三匹の魔獣が同時に疾駆を開始する。それぞれ別方向へと走り、木や茂みに身を隠し不規則に進路を変えながら獲物へと迫る。
「ギャウ!?」
獣らしいその滑らかな疾走は、しかし突如として中断させられる。魔獣の足元の土が突然破裂音をともなって爆ぜたのだ。
さらに幾つもの“パンパンパン!”という破裂音が連続して響く。もしこの場の全体を俯瞰している存在がいたとしたら、三匹の魔獣全てが足を止め、さらには後退させられる状況を見ることができただろう。
連続して響く破裂音の源は、ソルが両手に持つ武器だ。彼の手には無骨な銃が二丁握られていた。いわゆる「双銃」と呼ばれるタイプだ。
銃、というのは特殊な武器だ。種類や機構、形状などはともかくとして、基本的にこの世界の銃は魔道具なのだ。そして魔道具であるがゆえに、銃は迷宮に潜るハンターからは敬遠されがちだった。
しかしソルジェート・リージンは得物として銃を使っている。それは彼の使う銃が魔道具ではなく、彼自身の個人能力だからだ。
――――〈双子銃〉。
ソルは自分の個人能力をそう名付けた。“双子”の名前が示すとおり、彼が両手に一丁ずつ持つ無骨な銃は本人ですら見分けが付かない。銃身の部分が縦に分厚く重厚になっており、使いようによっては至近の格闘戦にも使えそうな銃だ。実際、ソルはこの銃を使って接近戦を演じることもある。
ちなみに、個人能力が覚醒する前、ソルは二本のショートソードを使う「双剣」タイプの剣士だった。現在は〈双子銃〉のほうが性に合ったのかこちらをメインに使っているが、双剣の方も鍛錬を続けており彼の腰にはショートソードが二本、しっかりと吊るされている。
ソルが引き金を引くたびに〈双子銃〉の銃口からは烈を圧縮した銃弾が放たれる。放たれた烈の銃弾は魔獣の足元や進路上に狙い違わず撃ち込まれ相手の動きを止めていた。
口元に獰猛な笑みを浮かべながらソルは銃を撃ちまくる。双銃で二方向を同時に、視線を向けることなくほとんど気配だけを頼りにソルは引き金を引き続けた。
「とはいえ、足止めにしかなんねーな」
苛立たしげに前足で地面を掻く魔獣を尻目にソルは苦笑気味にぼやいた。〈双子銃〉が放つ銃弾は烈を圧縮したもの。つまりその威力は練り上げる烈の量、さらに言えば周囲のマナの濃度に依存する。
マナが潤沢に存在する迷宮のなかであれば、〈双子銃〉は十分な威力を発揮する。だがマナの濃度が薄い迷宮の外ではどうしても攻撃力不足になりがちだった。
いや、相手が普通の獣であればそれでも十分な攻撃力だったかもしれない。しかし今回の相手は魔獣だ。体内に魔石を持つ魔獣は、そのせいか総じて防御力が高い。硬い甲殻を持つものはもちろんのこと、今回のようにただの毛皮のように見えても弓矢くらいは簡単に弾き返してしまう。
それゆえソルはこれまで足止めに徹してきた。幸いにも彼は仲間がいる。自分にできないことは他人に丸投げするのがソルのやり方だった。
「もう少し言い方というものがあるだろうに……」
呆れ気味にそうぼやきながらソルの前に出たのはイヴァンだ。その手には何も持っておらず、無手だった。
「手甲はどした?」
「重いからな、置いてきた」
こともなさげにそう言ったイヴァンに、ソルは「おいおい」と苦笑をもらす。イヴァンが選び研鑽を積んでいるのはいわゆる格闘術、つまり無手の技だ。しかしだからといって完全なる素手で戦闘を行う使い手はほとんどいない。それは攻撃と防御その両面において、やはり手甲などを装備していたほうが有効で戦いやすいからだ。
当然イヴァンも普段の迷宮攻略であれば、指の半ばほどから手首を覆うタイプの手甲を装備している。しかし今回のオリエンテーリングにはそれを持ってこなかったという。
「強化が十分にできないからな。振り回されるような感覚がして嫌なんだ」
肩をすくめながらイヴァンはそう理由を説明した。その口調はどこか自分の鍛錬不足を恥じているようでもある。
「まあ……」
少しばかりの苦味を含んで歪んでいたイヴァンの顔が、その言葉と共に引き締まる。そんな彼に向かって疾駆する影が一つ。突っ込んでくる魔獣にあわせてイヴァンは大きく一歩を踏み出し、さらに地面すれすれからすくい上げるようにして居合いに似た一撃を放つ。もちろん彼は手に何も持っていない。イヴァンの振るう刃は彼自身の手、手刀だ。
「グウゥ!?」
飛びのいた魔獣が怪訝そうに吼える。その身体からは血が滴っていた。決して致命傷ではないが確実なダメージだ。
「油断はしないさ」
烈によって強化された武芸者の身体はそれ自体が武器であり凶器だ。それを駆使して戦うのが格闘術。最初は「格闘術なら武器代がかからない」というわりかし不純な動機で選んだのだが、その選択は少なくとも失敗ではなかった。今はそうきちんと胸を張れる。
「無茶すんなよ」
イヴァンの後ろからソルが茶化すように声を掛けた。闘術の威力は一般的にマナ、つまり練り上げられる烈の量に依存する。そして格闘術というのは他のものに比べてその傾向が顕著だ。
魔獣の防御を突き破るのに十分な攻撃力を得るため、イヴァンは今練り上げた烈の大部分を手と足に集中させている。とりもなおさずそれは他の箇所の防御力が低下していることを意味していた。
「それもお前次第、だな」
ソルに背を向けたまま、挑戦的な笑みを浮かべてイヴァンはそう言った。一対一ならば不覚を取ることも少なくなる。そのためには残りの二匹をソルに抑えておいてもらわなければならない。挑発的なその物言いに、ソルは「お?」と面白そうな笑みを浮かべてクルクルと〈双子銃〉を回す。
「手伝ったほうがいい?」
荷物の番をしているルーシェが声を掛ける。ロイとルクトのほうはすでに終わりが見えており危険度は少ない。テミスもいることだし彼女が前に出ても問題はないだろう。そしてルーシェが加われば三対三になり、一人が一匹ずつ対処すればいいことになる。
「いやいや! こーゆー場面でしっかり点数稼がないと、な!」
パンパン! と破裂音が響く。〈双子銃〉の銃口が向く先を見れば、イヴァンに飛びかかろうとしていた魔獣が出鼻を挫かれてたたらを踏んでいた。
「……じゃ、イヴァンが危なくなったら援護に入るわ」
呆れたようなルーシェの言葉に、ソルは気を悪くした様子も見せずいつもどおりニヤニヤと笑うだけだ。ただし、いつもよりも獰猛に。
そんな背後のやり取りに苦笑しながら、イヴァンも動く。ユラリ、と身体を揺らしてそのまま滑らかに加速。一瞬遅れて先ほど彼の手刀を受けて血を流す魔獣も唸り声を上げながら地面を蹴る。
それから一人と一匹は己の四肢だけを武器にして攻防を繰り広げる。魔獣が這うようにして襲い掛かれば人間はほとんど地面を削るような蹴りで迎撃。魔獣が飛び上がったところでさらに軸足を地面から離し身体を空中で回転させながら連続で蹴りを放った。飛び上がったことで足場を失い自由に動けなくなっていた魔獣は、しかしわずかに身体を反らせてその一撃をかろうじて回避する。わずかにかすった靴先が、魔獣の毛を何本か引き千切っていく。
一瞬の空白。イヴァンの片足と魔獣の前足がほとんど同時に地面につく。しかしそこからの行動は対照的だった。
魔獣は完全に着地して態勢を立て直そうとする。それに対し人間は片足でもう一度跳ね上がり、さらにもう片方の足で動きを止めた魔獣を蹴り上げる。
(あんまり飛び回るな、って言われてるんだけどな……)
道場の師範の苦い顔を思い浮かべて苦笑しながら、足を振り上げた反動に逆らわず縦に一回転する。軽やかに着地したイヴァンが前を向くと、蹴り上げられた魔獣の体はまだ宙に浮いていた。
イヴァンは着地の反動を、膝を深く曲げることで吸収する。さらにその間に集気法を使って烈を補充。練り上げた烈を四肢に供給し、イヴァンは弾かれたように加速して前に出た。
狙いは、伸びきり無防備にさらされた魔獣の腹部。
一瞬で間合いを詰めたイヴァンは最後に左足を大きく踏み込み、勢いの全てを右のこぶしに乗せた。いや、拳、ではない。彼の右手は開かれていた。
掌底、である。掌底による攻撃は外ではなく内側に効くという。魔獣は普通の獣に比べて防御力が高く、また今のイヴァンは手甲を装備していない。よって普通に殴りつけても効果が薄いと考え掌底を選択したのだ。
――――衝撃。
掌底を叩き込まれた魔獣は一瞬フワリと浮き上がるように仰け反り、そのままさらに数メートル吹き飛ばされた。イヴァンの踏み込みの勢いからすれば小さすぎる距離である。掌底に乗っていた力がうまく魔獣の内側に叩き込まれた証拠と言えるだろう。
実際、イヴァンも手ごたえを感じていた。恐らくは内臓が破裂しているはずだ。地面に転がる魔獣にも起き上がってくる気配はない。外傷は見当たらないが口からは多量の血が流れ出ている。
イヴァンは再び集気法を使って烈を補充するが、すでに〈双子銃〉の発砲音は聞こえなくなり魔獣の動く気配もなくなっている。見れば、ソルが抑えていた最後の二匹はロイとルクトが一匹ずつ仕留めていた。
「これで最後か」
「そうみたいだね。周りに気配はないようだし」
張り詰めていた空気が幾分弛緩する。しかしそれでもまだ、メンバー全員が臨戦態勢と呼べるだけの緊張感を保っていた。
「魔獣だったみたいだし、魔石でも回収していく?」
魔獣はその体内に魔石を持っている。その魔石は迷宮でモンスターがドロップするものと変わりなく、つまり回収すればお金に換えることができるのだ。
だが倒されればマナに還元されて消えていくモンスターと違い、普通の動物である魔獣の死骸は当たり前だが消えてなくなる気配はない。よって魔石を入手するためにはその死骸を解体して回収しなければならないのだ。
「時間がもったいない。先に進むべきだと思うが……」
辺りに立ち込める血の臭いに顔をしかめながらイヴァンがそう言った。他のメンバーも口々に彼に同意する。その思惑の中には、単純に魔獣の死骸を掻っ捌いて血まみれになりながら魔石を取り出すのが億劫、という後ろ向きな考えも絡んでいるに違いない。
ルクトもイヴァンの意見に賛成する。彼自身に限って言えば、動物の死骸を捌くことにそれほどの忌避感はない。メリアージュに連れられてサバイバルはよくやっていたし、その中で捕らえた獲物を捌いて肉にする、ということは散々やって慣れているからだ。
だからメンバーが「魔石を回収したい」といえば、それはそれで付き合っても良かった。だが今はオリエンテーリングの真っ最中だ。時間制限が付きまとい、その上ルクトは200万シクを棒に振ってこれに参加している。たかだか魔石を七つほど回収するために時間をくい、そのためにオリエンテーリングの単位が取れなかったとなれば、費用対効果はまるで割に合わない。
さして時間もかからずにパーティーの意見はまとまった。それぞれ再び重いリュックサックを背負って歩き出す。
少し歩いてからルクトは後ろを振り返った。そこには獣の死骸が七つ、無造作に打ち捨てられている。
これが迷宮のなかであれば、とルクトは考える。これが迷宮のなかであれば、魔獣の死骸はすでにマナへと還元され消え去っていただろう。
果たしてどちらがマシなのか、という問いかけは恐らくは無意味なのだろう。どのような結末に至るにせよ、“死”は歴然たる結果として動かない。それは迷宮の中だろうが外だろうが同じだ。
物言わぬ骸たちに背を向け、ルクトは歩き出す。立ち止まっている暇はない。それもまた、迷宮の中だろうが外だろうが同じなのだ。