移り気なジョーカー8
コツコツ、とガラス窓を叩く、いやつつく音がする。寮の食堂で朝食を食べ終え自室である403号室に戻ってきたルクトは、反射的にその音のするほうに視線を向けた。そこにいたのは、思ったとおり“黒い鳥”だ。本物の小鳥のように首を小刻みにかしげながら、ガラス越しにルクトの様子を窺っている。
闇を押し固めて作ったかのような“黒い鳥”は一見して不気味な存在だ。ただ見慣れてしまえばどうということもない。それにこの“黒い鳥”を使っているのは、ルクトの恩人であり養い親でもあるメリアージュだ。親しみを覚えこそすれ、不審に思うことなどありえない。
“黒い鳥”を見つけたルクトは、「ふう」と一つ息をついた。そしてそれからいつものように窓を開けてその珍客を部屋の中に招き入れる。
「調子はどうじゃ、ルクトよ」
「ぼちぼち、かな」
いつもの問い掛けに、いつものように応じる。少なくともルクトはいつも通りに応じたつもりである。だがメリアージュはその言葉のなかに混じった安堵の響を聞き逃さなかった。
(さて、なにやらあったようじゃな……)
とはいえ、メリアージュは自分のほうからその事に触れようとは思わなかった。自分が来てルクトが安堵したということは、彼自身話したいと思っているのであろう。ならば話してくれるのを待てばよい。
「はい、これ今月分」
そう言ってルクトは“黒い鳥”の目の前に金貨を十枚並べた。今月の返済分である。“黒い鳥”はそれらの金貨をついばむようにしてたいらげ、自らの内側にしまいこんでいく。その様子をルクトは少々恨みがましげに見ていた。
それからしばらくの間、ルクトとメリアージュは他愛もない会話を続ける。この一ヶ月であったことを一通り話し終えると、会話が一瞬途切れた。
「…………少し相談したいことがあるんだけど、いいかな?」
「ふむ、なにごとじゃ?」
少々言いにくそうにしながら話を切り出したルクトに、メリアージュはいつものように応じる。そんな彼女の様子(とはいっても目の前にいるのは“黒い鳥”だが)に、ルクトは少しホッとした表情を浮かべた。
「実はギルドから勧誘されているんだけど…………」
「ほう、どこのギルドじゃ?」
「どこって、色々……」
そう言ってルクトは貰った手紙の束をメリアージュに見せた。カーラルヒスに一体幾つのギルドがあるのか知らないが、そのすべてから手紙を貰ったと思ってみてもよさそうな量である。
「モテモテじゃな」
からかうようにしてメリアージュからそう言われ、ルクトは苦笑した。ルクト自身、これが本当に自分の正当な評価なのか信じ切れていない部分があるのだ。彼の側であおったつもりはないが、騒ぎの熱に浮かされて過大評価されているのではないかとも思う。
実際、「手紙で説明するだけならやっておこう」と考えて小さなギルドも勧誘合戦に参加し、その結果数が増えたという側面はあるだろう。だがそれでも、メリアージュはルクトに対するその評価が間違っていたとは思わない。むしろ学生という身分でなければ、勧誘合戦はさらに白熱の様相を呈していたであろうと思っている。
(思っていた通りではあるが、まあこうなるであろうな)
ルクトがヴェミスにいた時分から、様々なギルドが彼を勧誘していた。その数はルクト本人が把握しているものよりもはるかに膨大である。そんな中でいわば“壁”となってきたのが、保護者でもあるメリアージュだった。
ヴェミスの武芸者社会におけるメリアージュの影響力というのは絶大なものがある。そんな彼女が一貫してその誘いを断り続けていたため、ヴェミスのギルドはルクトに手が出せなかったのである。
その“壁”がなくなればどうなるか。答えは積み上げられた手紙の束である。それにしたってメリアージュにしてみれば“緩い”ほうである。
(婚約希望者が列をなして押しかけてくるのはもう少し先じゃな……)
実際、ルクトが子供であった頃からそういう話は幾つもメリアージュのところに来ていた。彼が成長し結婚の適齢期になれば婚約話が大量に舞い込んでくるのは避けられないであろう。そしてその時期は卒業とも重なる。となれば故郷に帰すまじと求愛する女性達に追い掛け回される、などという事態が冗談抜きで起こるかもしれない。
(さてさて、見ものじゃな)
大いに困るであろう養い子の姿を想像して、メリアージュは邪悪な笑みを浮かべた。もっとも“黒い鳥”が届けるのは声だけで、彼女がそんな笑みを浮かべていることなどルクトは知るよしもない。
まあそれはともかくとして。カーラルヒス中のギルドがルクトを獲得するために勧誘合戦を繰り広げているこの状況は、メリアージュにしてみれば不思議でもなんでもない。ルクトから「実技要件を達成した」と聞いたときから、いずれ近いうちにこうなるであろうと予想していた事柄である。
「……つまり、いい話であることは分かっているがなんとなく気乗りしない、ということじゃな?」
ルクトの話を聞き終えたメリアージュは、彼の話をそうまとめた。まったくその通りなのだが、散々悩んできたことをこうも簡単にまとめられてしまうと、ルクトとしては苦笑するしかない。
(もしかすると、怖がっておるのかもしれんな……)
大人相手に金の話をすることを。直感的にではあるが、メリアージュはそう考えた。
大人と金。この二つが絡む話となると、ルクトが十歳のころにまでさかのぼることになる。
そのころルクトの父親は商売に行き詰まって多額の借金を抱えてしまい、そのあげくに自分一人で夜逃げした。彼の妻はすでに他界していたから、後に残されたのは事情もよく分からない息子、すなわちルクト一人である。
あれよあれよと言う間に残った全財産は処分され、しかしそれでも完済には至らず、ルクトは奴隷商に売られそうになる。そんなときに借金を肩代わりして彼を助け引き取ったのが、他でもないメリアージュだった。
そこからは比較的穏やかな日々ではあったが、しかしだからといって過去はなかったことにはならない。あのときに感じた恐怖と絶望は、今もルクトのなかに残っていてふとした拍子に首をもたげる。
今回の話に限って言えば、これはルクトが損を被るような類の話ではない。彼自身が認めているように、いい話である。だがそれでも、「大人と金」という単語が絡んでくることで、トラウマが刺激された可能性はある。
もちろんこれは可能性の話であって、メリアージュの直感が正しいと言う保障はどこにもない。ただ仮に正しかったとして、ルクト本人にそういう自覚はなさそうなので、これは無意識のうちの拒否反応と言うことになる。
(存外、根が深いのかもしれんの……)
メリアージュはそう思ったが、しかし同情しているわけではない。なにしろ彼女はルクトの債権者、つまり借金を返す相手だ。同情するくらいならば、最初から借金など背負わせなければ良かったのである。
「……どうかした?」
沈黙が気まずくなったわけではないだろうが、ルクトが“黒い鳥”に、いやその向こうにいるメリアージュに声をかける。その声をきっかけにメリアージュはひとまず思考を打ち切った。
「いや……。確認するが『気乗りする条件があればやりたい』ということでいいんじゃな?」
メリアージュの問いかけにルクトは数秒考え込み、それから躊躇いがちに首を縦に振った。ただ肯定の意思表示を返しては見たものの、その「気乗りする条件」とやらが本人にすらさっぱり分からない状態なのだ。
「ではもう一日、いや二日待つがよい」
それだけ言うと“黒い鳥”はさっさと窓辺に移動する。どうやら今日はこれで帰るつもりらしい。
「なにかするつもり?」
「まあ、すぐに分かる」
楽しげな声でそういわれてしまえば、ルクトは苦笑を浮かべて黙るしかない。窓を開けると“黒い鳥”はいつものように「ではな」とだけ言い残して飛び立ち、そしてすぐに見えなくなった。
「まったく、なにをする気なんだか……」
呆れ混じりにルクトは呟く。あの話の流れでメリアージュが何もしないことなど考えられない。ただ、ここはカーラルヒス。彼女が圧倒的とも言える影響力を持つ都市国家ヴェミスではない。普通、他所の都市に伝手だのコネだのはそう簡単に作れないのだが、そこは黒鉄屋のメリアージュ、何とかしていそうで頼もしくもあり怖くもあり。
「ま、待てといわれるなら待つさ」
メリアージュは二日待てと言った。ということはその間に何らかの動きがあるのであろう。答えはそれから出せばよい。
「結局、棚上げの先送りか……」
我ながら優柔不断だな、と自嘲気味に呟くルクトの表情は、しかしどこか晴れやかだった。
――――借金残高は、あと1億4220万シク。
▽▲▽▲▽▲▽
ギルド〈水銀鋼の剣〉。このギルドの名前の由来が初代ギルドマスターの個人能力であることは周知の事実である。
このギルドができたのは、およそ200年前。そしてその創立には、〈水銀鋼の剣〉を振るった初代ギルドマスターのほかにもう一人、別の人物が大きく関わっていたことがギルド内に「創立秘話」として伝わっている。
その人物の名は、〈闇語り〉のメリアージュ。闇を纏った妖艶な女とも、笑顔で無茶を吐く勝気な女であったとも伝わる。
カーラルヒスにおいて、〈水銀鋼の剣〉は規模こそ中堅だが所属ハンターは実力者揃いで、さらに長い歴史を持つ老舗として知られている。だからこそその創立秘話と〈闇語り〉のメリアージュの名については、少し情報に通じたものならば誰でも知っていた。まあ、200年も前のことだ。別に秘匿されているわけではないし、知っているからといってどうというわけでもない。酒の席で話のネタになるくらいである。
しかしながら、その〈闇語り〉が過去にもう一度、〈水銀鋼の剣〉とカーラルヒスに関わったことを知っているものはそう多くはない。
現在の〈水銀鋼の剣〉のギルドマスターはフェルナンド・リーバイという。ノートルベル学園武術科で武術科長をしているゼファー・ブレイズソンと同じ世代であり、つまりすでにハンターとしての現役は引退している。
武芸者ではない一般の人々が「ギルドマスター」に抱くイメージというのは、「ギルドで一番強い人」というのが最も多いであろう。しかしながら実際は、「強い」どころか迷宮に潜って攻略を行うことさえしないギルドマスターがほとんどである。
確かにギルドマスターはギルドにおいて最大の権限を持っているわけだから、そういう意味では「強い」といえる。ただそれが一般人の考える「強さ」でないことは容易に想像できるだろう。つまり、ギルドマスターは戦闘能力に秀でていると思われがちだが、実際にはそんなことはないということだ。
少々語弊があるので説明を付け加えておく。いわゆる“弱い”人間がギルドマスターになる、というわけではない。ギルドマスターは現役を退いたハンターがなることが多いので、必然的に戦闘能力は落ちてしまうのである。
もちろん、イメージ通りに「強い」ギルドマスターもいる。たいていの場合ギルドの創設者、つまり初代のギルドマスターは自ら指揮をとり攻略に臨むタイプが多い。生まれたばかりのギルドには何よりもまず実績が求められ、そのためには強力なリーダーシップが必要だからだ。〈水銀鋼の剣〉を創立した初代ギルドマスターもこのタイプであった。
しかしギルドが組織として成熟してくると、マスターに求められるのはそういう類の仕事ではなくなる。ギルド内の調整に他のギルドや取引先との付き合い、つまりいわゆるデスクワークのほうが多くなるのだ。当然のことながら、それらの仕事に戦闘能力は全く関係ない。要は求められている能力が違うのだ。
だが、だからといってまったく畑違いの人間がギルドマスターになってしまうと、今度は所属する現役のハンターたちから反発が起こることが多い。「何も知らない奴が偉そうなことを言いやがって」と、そういうことである。そこでギルドマスターには、そのギルドで長年活躍してきた古参のハンターが(大抵は引退を機に)なることが多い。
フェルナンド・リーバイもだいたいそのような事情でギルドマスターになった。それ以前から幹部職についていたとは言え、やはり現場出身の彼にとって書類仕事は今もなれない。昔はこれで大いに苦労したものである。
とはいえ、フェルナンドはギルドマスターの仕事に誇りを持っている。彼にとって人生の大半をつぎ込んできたギルド〈水銀鋼の剣〉。現場を引退してなおもギルド内で果たすべき仕事があるというのは幸運なことだ、と彼は思っている。
その日も、フェルナンドは夜遅くまでギルドホームの執務室で仕事をしていた。すでに夜半時を回っており、仕事が一段落ついたら家には帰らず隣りの仮眠室で休むつもりだった。
当たり前だが、室内は暗い。机の上に置かれたランプだけが光源で、仕事をする上で最低限の明りしか確保されていなかった。
(さすがに目が疲れる……)
奥のほうに重さを感じるようになった目を、目蓋の上からもんでやる。ついでに軽く上体を反らし固くなった筋肉をほぐしてやると、血の巡りが良くなって身体が軽くなる。その爽快感にフェルナンドが浸ったその瞬間――――。
――――ゾクリ、と現役時代でもそうそう感じたことのない悪寒をフェルナンドは背筋に覚えた。
反射的に立ち上がり暗い部屋の中を見渡す。さらに集気法を使ってマナを集めて烈を練り上げ臨戦態勢に移行。それをほとんど無意識に行えるあたり、現役を退いたとは言えさすがというべきだろう。
(誰だ……? いや、何だ……?)
ランプを掲げ室内を探る。しかし決して広くはない部屋のなかにフェルナンド以外の人影はない。しかし彼は自分以外の存在を、しかも明確な意思と強大な力を持った何者かの存在を確信していた。
そしてついに、執務室に用意されたテーブルの上にソレを見つける。
「初めまして、というべきか、はたまたそれとも……」
女の声で楽しげにそう話すソレは黒い小鳥の姿をしていた。しかしながらソレは決して見た目どおりの小鳥などではないと、否が応でも理解させられる。放たれる存在感が強すぎるのだ。まるでかつて対峙した強大な魔獣を目の前にしているようである。なにより、ただの小鳥ならば言葉など喋るまい。
目の前のあまりに異質な存在について、フェルナンドの記憶の中には合致するものはない。しかしながら、心当たりならばあった。
「〈闇語り〉殿…………」
その二つ名を口にした瞬間、“黒い鳥”がニヤリと笑った、ように見えた。
「ふむ、どうやら“久しぶり”でよいらしい」
そういうと“黒い鳥”は放っていた威を抑える。感じていた強大な圧力が消えると、フェルナンドは思わず安堵の息をついた。普段であれば決して人には見せない“醜態”ではあるが、今は体裁を保つことにまで気が回らない。
「再び……、貴女にお会いできるとは……」
フェルナンドは感極まった声を出す。彼の脳裏には、“黒い鳥”の向こうにいるはずの妖艶な女性の姿がはっきりと思い浮かんでいた。
「ふふ、見ての通りこれはただの使いよ。そう硬くなるでない」
「いえ、〈闇語り〉殿相手に失礼があってはいけませんので……」
そう言いながらフェルナンドは来客用のソファーのところにまで移動し、そこに腰を下ろした。“黒い鳥”がいるのは、そのすぐ目の前のテーブルの上だ。
「…………かれこれ、四十年近く前になりますか。私が貴女にお会いしたのは」
「ほう……、もうそんなに経つのかえ」
今からおよそ四十年前、カーラルヒスの近くに一体の強力な魔獣が現れた。三メートル近い巨躯を持ち、外見は熊に似ていた。
最初に被害にあったのは郊外で牛の放牧をしていた農家である。幸いにも人的被害はなかったが、牛舎は破壊され数頭の牛が被害にあった。
悪いことに、魔獣の被害がこれで終わらなかった。魔獣は味をしめたかのように数日のうちに立て続けに農家と家畜を襲い、そして三件目でついに人的な被害が出たのである。
この間、カーラルヒスの都市国家政府はなにもしていなかったわけではない。衛士、つまり都市国家の治安維持を担っている武芸者を中心にして討伐隊を編成、山狩りを敢行した。しかし討伐は失敗。討伐隊のうち二名が殉職、三名が武芸者として再起不能になる大怪我を負うという被害を被った。
そして一回目の討伐の失敗後、三件目にしてついに人的な被害が出た。事態を重く見た都市国家政府は戦力上の切り札である〈魔道甲冑〉の投入を決定。さらに各ギルドに対して協力を要請し、前回をはるかに上回る規模の討伐隊を編成したのである。なお、このときに件の魔獣に対して〈ベヘモス〉という個体名称が与えられた。つまり都市国家カーラルヒスから明確に敵として認定された、ということである。
たかだが魔獣一匹に大仰なことだ、と思うかもしれない。だがこのまま事態を放置すれば、ベヘモスはカーラルヒスを狩場と見るようになるであろう。いや、数日のうちに立て続けに襲われたことを考えれば、すでにそう考えている可能性が高い。
ヤツをこのまま放置すれば、カーラルヒス郊外の農地や牧場は壊滅的な被害を受けるであろう。その被害は食料供給量の減少に直結する。そして自給自足が基本である都市国家において食料供給量の減少は致命的な事態だ。
さらにこの先ベヘモスがつがいを見つけて子孫を残し一個の種族として増えていった場合、その被害と結末は考えるだけでも恐ろしい。人がこの地から魔獣によって駆逐されるかもしれないのである。
つまりこのときまさに、カーラルヒスは生存競争にさらされていたのである。
ベヘモスの討伐それ自体は、大きな被害を出しながらも完遂された。ベヘモス討伐に投入された魔道甲冑三体のうち一体が修復不能な状態になり、それを装備していた騎士が殉職。さらに討伐に参加した武芸者のうち一割が戦死し、二割は怪我が原因で引退、四割に長期にわたる治療と療養が必要になり、まったく無傷である者は一人もいないという状態であった。
甚大な被害、と言っていいだろう。討伐に参加した武芸者のうち、長期的には三割、短期的に見れば七割の戦力が失われたのである。これらの損害に対しては責任論も噴出したが、それは今はいい。
問題なのは、武芸者、とくにハンターの人手不足による迷宮攻略の遅滞と、それによって引き起こされる魔石や鉱物資源等の供給量の減少である。
さらに悪いことに、その時はこれから冬に向かうという季節であった。カーラルヒスの冬は氷点下になることも珍しくない。当然、暖房が必要になる。そしてそのための燃料というのが魔石であった。つまり、これから一年で最も魔石が必要な季節に向かう、そういう時期だったのである。
市場の反応は素直だった。すなわちドロップアイテム全般の取引価格が高騰したのだ。特に魔石の高騰は深刻で、最高でベヘモスが現れる前の十倍近い値になっていた。都市国家政府も色々と手を尽くしたのだが、なにしろ供給量そのものが減っている。どれも有効な策とはならなかった。
魔石の取引価格は日々上がり続けた。「この冬だけで3000人に凍死の危険性がある」。そんな恐ろしい予測が現実味を帯び始めてきたとき、ふらりとカーラルヒスに現れたのが〈闇語り〉のメリアージュだったのである。もっとも、当初彼女は〈闇語り〉の二つ名を名乗ってはいなかったが。
彼女を連れてきたのは、当時の〈水銀鋼の剣〉のギルドマスターである。ただハンターたちの反応は懐疑的だった。実力を疑っていたわけではない。彼女がどれだけ優秀なハンターであったとしても、ただ一人でその時のカーラルヒスの状態を何とかできるとは到底思えなかったのである。
当時まだ二十代の半ばだったフェルナンドも同じ意見だった。そもそも迷宮攻略はパーティーで行うもので、一人で潜ったところで普通は何もできはしない。
しかしながら、そして恐らくは幸運なことに、〈闇語り〉のメリアージュは普通ではなかった。
フェルナンドは忘れることができない。積み上げられた大量の魔石とドロップアイテム。それらは全てメリアージュが一人で、しかもたった一日の迷宮攻略で集めてきたものだ。ギルドの会計係が大雑把に見積もりをしたところ、それらの時価総額はおよそ5000万シク。
いくら魔石を始めとするドロップアイテムが高騰しているとは言えありえない額であった。なにしろ中堅ギルドである〈水銀鋼の剣〉の一ヶ月の売り上げが5000万から6000万程度。つまりギルドの一か月分の働きをたった一人で、しかもたった一日でやってしまったことになる。
あまりにも非現実的な話だ。しかし目の前に積み上げられた魔石とドロップアイテムがなによりも雄弁に現実を語っている。
とはいえやはり疑問は残る。彼女が集めてきた魔石は、そのほとんどが十階層より下でなければ得られないものだった。そこまで行くためにはどんなに急いでも二日かかる、というのがハンターたちの常識だ。ではメリアージュは一体どうやって一日でそこまで行き、そして帰ってきたというのか。
その答えを得るため、「一緒に攻略をして実力を確かめたい」というフェルナンドら〈水銀鋼の剣〉のハンター達に、メリアージュは「付いて来られるならば」といって許可を出した。次の日、迷宮に現れた彼女の姿を見てフェルナンドたちは唖然としたものである。なにしろ彼女は戦闘服の代わりに黒のドレスを身に纏い、手には武器の代わりに扇を持ち、ハイヒールを鳴らしながらやってきたのだ。とてもではないが、これからモンスターと戦おうとする者の格好には見えなかった。
『ふざけているのか!?』
思わずそう怒鳴った自分の浅慮を、フェルナンドはすぐに思い知らされることになる。
『ではな。追って来られるものならば、追ってくるがよい』
そう言って妖艶な笑みを浮かべ、迷宮入り口のエントランスから身を投げたメリアージュの姿は、フェルナンドの脳裏に今も鮮明に焼きついていて色あせることがない。
あ、と声を上げる間もあればこそ。足場を失ったメリアージュの身体は迷宮の底めがけて果てしなく落ちていく、はずだった。
『あはははは、あはははは』
楽しげな笑い声が響く。見れば一羽の巨鳥が迷宮のなかを悠然と飛び回っていた。その背に立っているのは、紛れもなくメリアージュだ。
答えは至極単純だった。メリアージュは迷宮のなかを「飛んで」移動していたのだ。
メリアージュの個人能力は闇を操る力。彼女はその力で闇を押し固めて巨鳥を形作ってその背に乗り、あらゆる障害を無視して迷宮のなかを飛んでいたのである。
普通、ハンターたちは迷宮のなかを縦横無尽に張り巡らされた白い通路の上を歩いて移動する。しかしそれらの白い通路は思うように下へ向かってはくれない。だからこそ深い階層に到達するには時間がかかり遠征が必要になるのだ。
しかしそれら白い通路に縛られることなく、自由に飛びまわって移動することができたらどうか。なにしろ一直線に深い階層まで行くことができるのだ。移動時間を一挙に短縮できるであろうことは子供でも容易に想像できる。
間抜け面を並べて見上げるフェルナンドたちの上空を、漆黒の巨鳥は悠然と一巡りしてそれから下へと向かう。残されたフェルナンドたちは、小さくなっていくその後姿を見送ることしかできなかった。
その夜、〈水銀鋼の剣〉のギルドホームに戻ってきたメリアージュは、前日とほぼ同じ量の戦果を披露する。もはや歓声すらも上がらない。上がるのはただ唸り声だけである。
ことここにいたりフェルナンドを始めとする〈水銀鋼の剣〉のハンターたちは、もはや敵愾心さえ抱けぬほど徹底的に理解させられたのである。すなわちこのメリアージュという女は自分たちなど足元にも及ばぬ高みにいるのだ、と。
この日、メリアージュは〈水銀鋼の剣〉で最新の伝説になった。