勤労学生の懐事情2
父親が夜逃げした。多額の借金を残して。
何が起きているのかまったく分らない十歳のルクト少年の目の前で、しかし事態は無慈悲に進行していく。全財産は処分され、それでも借金を完済するには至らず、ルクト少年は奴隷商に売られそうになった。
あの夜、裏路地を黒猫に導かれながら追ってくる何人もの大人たちから逃げた記憶は、その時感じた恐怖と共にルクトの脳裏に鮮明に焼きついている。
必死の逃亡の末、しかしルクト少年は追いつかれて捕まってしまう。そんな彼を助けてくれたのが、金貸しである黒鉄屋のメリアージュであった。
這い蹲るルクト少年の目の前であれよあれよと言う間に話は進み、彼が負わされた借金8000万シクはメリアージュが肩代わりしてくれることになった。
『妾は黒鉄屋のメリアージュという。そこそこ長い付き合いになると思うが、まあ宜しく頼む』
そういって差し出された手は白くて綺麗で、自分の汚れた手で握っていいのかと子供ながらに悩んだことを覚えている。
こうしてルクト少年はメリアージュと一緒に生活することになったのだが、彼女がただの善意で借金を肩代わりしてくれたのではないことをすぐに思い知ることになる。メリアージュはただ借金を肩代わりしただけで、ルクトの代わりに返済してくれたわけではない。つまりルクトはこの先、黒鉄屋のメリアージュに対してお金を返していかなければならないのだ。
その事を説明され、ルクト少年は冷や水を浴びせられたかのように呆然とした。それから青い顔をして恐る恐る口を開く。
『僕を奴隷商に売るつもりなのか』
ルクト少年のその心配を、メリアージュは笑い飛ばした。
『おぬしのような子供を売り払ったところでいくらにもなりはせん』
それよりもハンターになれ、とメリアージュは言った。一流のハンターともなれば一月で数百万シク稼ぐ者も少なくない。それだけ稼げるようになれば借金などすぐに返せる、とメリアージュは笑った。
ただ、今思えばこれはただの夢物語だ。月に数百万シク稼げる一流のハンターというのはハンターたちの中でもごく一部の、いわば「選ばれた」存在であり、まだ迷宮に入ったこともない子供がそういう存在になれるなどと普通は考えない。もしかしたらメリアージュには予感のようなものがあったのかもしれないが、あいにくとそのあたりの事についてルクトは現在まで何も聞いていない。
なにはともあれルクトはメリアージュと暮らし始め、彼はその中で色々なことをメリアージュから学んでいった。料理・洗濯・掃除に裁縫、そしてさまざまな学問。戦う術については〈カストレイア流刀術〉を学んだが、この道場もメリアージュの勧めによって通い始めた。ある程度修めてからは立会いの相手も勤めてくれ、そのたびに足腰立たなくなるまで付き合ってくれたものである。
メリアージュはルクトを、ただハンターにするために鍛えていたわけではなかった。彼女は突然できた同居人の少年を、文字通り育て上げようとしていたのである。ただ、この頃のルクトはまだその意図を理解できておらず、彼がメリアージュに感謝の念を抱くようになるのはもう少し先のことであるが。
ルクトにとってメリアージュはまさに母親代わりであった。時に優しく、時に厳しく、教え導きそして守ってくれた。風邪をひいて熱を出したときには、一晩中看病してくれたことさえある。
なぜここまでしてくれるのか、とルクト少年は幼いながらに考えたことがある。しかし答えは出なかったし、またそれをメリアージュに聞くこともできなかった。聞いてしまえば今の生活が終わってしまうように思えたのだ。それはルクト少年にはとても怖いことに感じられた。それくらいメリアージュとの暮らしは、彼にとって穏やかで充実したものだったのである。多額の借金のことを考えなければ、であるが。
メリアージュと一緒に暮らし始めてあっという間に二年が経ち、ルクト少年は十二歳になった。そしてこの年、彼は初めて迷宮に足を踏み入れたのである。
その時のことについて、特にルクトの記憶に残っていることが二つある。一つは自分ががちがちに緊張していたこと。そしてもう一つはメリアージュの装いが周りから果てしなく浮いていたことである。
迷宮に潜るための装備というのは、基本的に実用的である。そこでは戦闘が想定されているのだから、当たり前といえば当たり前だ。そして実用的な装備というのは地味なものが多い。
ルクトが初めて迷宮に入ったときも、周りにいるハンターたちが身につけているのは武器にしろ防具にしろやはり実用的なものが主で、悪く言えば地味で華やかさに欠ける。もっとも迷宮のなかで見せるための装備には何の意味もないが。
そんな中で、メリアージュは黒のドレスとハイヒールそして手には扇、というまるで舞踏会にでもいくかのような装いであった。しかし、そんな彼女を侮るようにして見るものはほとんどいない。都市国家ヴェミスにおいて長くハンターをやっているものほど、メリアージュの武芸者としての実力を知っているのである。
その一端を、これが初の迷宮攻略であるルクト少年もすぐに目の当たりにすることになった。周りを警戒する様子も見せず白い通路の上をハイヒールをならして歩くメリアージュは、しかし出現するモンスターを手にした扇(鉄扇でもないただの扇だ)でなぎ倒しながら進んでいく。いくら入り口付近のザコモンスター相手とはいえ、まるで冗談のような光景である。ルクト少年は後ろから付いていくだけで精一杯だった。
やがてメリアージュはルクト少年を開けた場所に連れてきた。普通ハンターたちは入り口近くで本格的な狩りをすることはないので、この辺りに人影は無く修行場所としては都合が良い。
『さて、ルクトよ。この辺りで少し戦ってみるがよい』
緊張でガチガチになりながらも、ルクト少年は確たる決意を胸に頷いた。メリアージュはルクト少年に「ハンターになれ」と言った。ならばならねばならない。ハンターに。それは彼女が債権者だから、ではない。メリアージュが恩人だから、である。
ルクト少年が腰に吊った小太刀(普通の太刀は大きすぎるのだ)を鞘から抜いて構える。おあつらえむきにモンスターが出現し、ルクト少年は声を上げ果敢に攻めかかった。その様子をメリアージュは後ろから優しげに見守るのであった。
その後もメリアージュは定期的にルクト少年を連れて迷宮へ赴き、そこで彼に実戦経験を積ませた。その中でルクト少年はメリアージュの非常識さや異端さを思い知らされていくことになるのだが、それはまた別の話である。
迷宮でモンスター相手に刀を振るうことはすぐにルクトの生活の一部になり、また迷宮を攻略することで小額ながらもお金を稼ぐことができるようになった。着実にハンターとしての階段を上っていると実感でき、彼の生活は充実していた。
そんな、十五になる年のことであった。メリアージュが思いがけない話を持ってきたのは。
『ルクトよ。おぬし、カーラルヒスのノートルベル学園へ行け』
その話はルクトにとってまさに青天の霹靂であった。彼としてはこのままこの都市でハンターとして活動していくつもりだった。当面の目標としては借金の完済を目指すことになるだろうが、いずれは自立しメリアージュに恩を返したいとも思っていたのだ。
それなのにメリアージュはヴェミスを離れてカーラルヒスのノートルベル学園へ行け、という。
『なんでだよ!?』
これまでルクト少年はメリアージュの言ったことにほとんど反対してこなかった。それは彼女を深く信頼していたからだし、またその提案や言いつけの意図をある程度彼も察することができたからだ。
だが今回の「学園に行け」という勧めは、全くその意図がわからなかった。この頃すでにルクトは〈カストレイア流刀術〉の免許皆伝を得ており、一部の人々からは「天才」とも称されていた(それでもメリアージュ相手の稽古では相変わらずのフルボッコだが)。ヴェミスのハンターたちからも高評価を得ており、幾つかのギルドやパーティーなどから誘いを受けてもいる。もっともそういう類のお誘いは、全てメリアージュが穏便に断っているが。
ルクトがハンターとして独り立ちするその前にはどうもメリアージュが立ちはだかっているようだが、それはそれでいいとして。つまりハンターになること、そして借金を返すことだけを考えれば学園に行かなければならない理由など何もないのである。このままヴェミスにいればいずれルクトはハンターとして自立し、そして借金も完済できる。そしてルクトが分っていることを、メリアージュが分っていないわけがない。
ルクト少年の疑問に、しかしメリアージュは答えようとはしなかった。言い募る彼をただ一言「くどい」とだけ言って黙らせて学園へ行くための準備をさせてそれが整い次第、蹴りだすようにしてヴェミスから送り出したのである。
茫然自失の体で都市の外に放り出されたルクト少年であるが、しかしヴェミスに戻るという選択肢は無かった。戻ったところで頼るべき人はメリアージュしかいない。いや、誘ってくれたギルドやパーティーに身を寄せることはできるだろう。いずれはメリアージュの知るところとなるだろうが、彼女はルクトが言いつけを破ったからといって露骨な嫌がらせや妨害をするような人ではない。
しかし、それでは恩人たるメリアージュを裏切ることになってしまう。そしてきっと失望させてしまうだろう。それはルクト少年にとって耐え難いことであった。
一瞬、もしかしたらメリアージュに捨てられたのではないか、という考えがルクト少年の脳裏に浮かんだ。その考えは一度父親に捨てられている彼の心を深くえぐる。しかしすぐにそれはない、と思い直した。
捨てるくらいならば、わざわざ「学園へ行け」などとは言わないであろう。さっさと独り立ちさせてハンターとして稼がせ、借金を返済させればいいのである。であるならば、やはりメリアージュには彼女なりの意図があってルクトに「学園へ行け」と言ったのであり、そこで彼が何かしらの成長を遂げることを期待しているのだ。
メリアージュがそれを望むのならば、ルクトとしては応えなければならない。
子供が親を失望させたくないのと同じように、ルクトもまたメリアージュを失望させたくはない。子供が親の期待に応えたいと思うように、ルクトもまたメリアージュの期待に応えたいと思っているのだ。
そうである以上、ルクトにはメリアージュの勧めに従い都市国家カーラルヒスのノートルベル学園に行くという選択肢しかない。仕方がない、と思い動こうとしたその矢先、冷や汗をかき口元を引きつらせながらルクトは静止した。
『カーラルヒスって、どっちだ………?』
途方にくれるルクト少年が、メリアージュの用意してくれた地図と方位磁針に気づいたのはおよそ十五分後のことであった。
ルクト少年がカーラルヒスに到着するまで、およそ三週間かかった。基本的に一人旅ではあったが、彼の能力を持ってすれば大した危険もない。何度か魔獣に襲われることがあったが、倒すか逃げるかやり過ごすかして大した傷を負うこともなく対処できた。ただ、基本一人旅であったがゆえに人恋しくなってしまったのは秘密だ。
カーラルヒスにつくとすでに学園の入学試験期間が始まっていた。余談になるが学園には都市外から多くの留学生が来る。それらの留学生がカーラルヒスにつく日時を完全にあわせることは不可能なので、一ヶ月ほどを入学試験期間としその間であればいつでも試験が受けられるようになっている。
ルクトはすぐに武術科の入試試験を受けた。筆記はそこそこの、実技は極めて優秀な成績を残して試験に合格し、ルクトは晴れてノートルベル学園武術科の新入生となったのである。
入学金と一年分の授業料を前払いし(そのほうが若干安いのだ)、ルクトは割り当てられた学生寮へと向かう。割り当てられた部屋は四階の三号室。決して広くはないが一人部屋で、風呂とトイレは共用だ。食事は朝と夜の二回用意され、その分の食費は部屋代に含まれている。
部屋に着いたルクトは、荷物を整理する前に一通の手紙を取り出した。差出人はメリアージュだ。荷物に紛れていたのを旅の途中で見つけたのだが、「学園についてから開けるように」と書いてあったので中身を気にしつつもまだ読んではいなかった。
一緒に暮らしていたのだから当たり前かもしれないが、メリアージュから手紙を貰うのはこれが初めてだ。すこしくすぐったい気持ちになりながら、ルクトは手紙を読み進めていく。
彼の照れくさそうな表情は、しかしすぐに強張っていく。要約すると、手紙にはこう書いてあったのだ。
『おぬしの借金は総額で1億6000万シク、ただし利息なし、ということにした。お金が足りなくなったらいくらか用立てても良いが、その分は借金に加算するのでそのつもりで。それではよい学園生活を。 メリアージュより』
ルクトの父親が残しメリアージュが肩代わりしてくれた借金は8000万シクだったはずだ。それがいつの間にか1億6000万シク、つまり倍額になっている。利息なし、ということだがむしろ利息十割な状態だ。
『なんじゃこりゃあぁぁぁああああ!!?』
まあそんなわけで。今現在ルクトは都市国家カーラルヒスのノートルベル学園武術科に在籍しており、在学中の借金完済を目指して日々迷宮攻略に勤しんでいる。