それは禁じ手にあらず3
祝賀会から二日後。午前の講義を終えて寮の自室である403号室に戻ってきたルクトは、窓の外に客の姿を見つけた。メリアージュが使う“黒い鳥”である。もちろん実際の鳥ではなく、〈闇〉を押し固めて鳥の形にしたもの、とでも言えば正しいように思える。まあこの“黒い鳥”が実際になんなのか、それはルクトにとっては瑣末な問題だ。
首を小刻みにかしげ窓の外からこちらを窺うその“黒い鳥”を、ルクトは窓を開けて室内に入れる。部屋の中に入った“黒い鳥”は特に暴れることもせず、机の上に降り立ってその視線をルクトのほうに向けた。
「調子はどうじゃ、ルクトよ」
“黒い鳥”がメリアージュの声で話す。いや、実際には“黒い鳥”がメリアージュの声を繋ぐ、と言ったほうが正しい。
「ぼちぼち、かな」
いつもの問い掛けに、ルクトもいつものように返す。それから今月の返済分を“黒い鳥”の前に置く。今月は金貨が十五枚、150万シクだ。
「ほう?今月はなかなか稼いだではないか」
「レアなモンスターと遭遇できたんだ」
そう言ってルクトは〈彷徨える騎士〉との戦いをメリアージュに話した。話し始めると〈彷徨える騎士〉の生々しさというか、人間臭さのようなものが鮮烈によみがえってきた。そういうのは気にしない性質だと自分では思っていたから少し意外にも感じるが、その一方で「もう終わったことだから」と冷静に見ることもできている。未だに気にしているのかいないのか、自分のことながらよく分からない。
(そんなものなのかもな。自分の心なんて……)
そんなことを考えながらルクトは〈彷徨える騎士〉との戦いについて話していく。どう戦ったのか、だけではない。どう感じたのか。それを思い出しながらルクトは言葉をつむいだ。
「ふむ。形骸もさることながら、人間臭い戦い方をするモンスター、のう…………」
ルクトの話を聞き終わると、メリアージュはそう呟いた。
「やっぱり、イレギュラーなモンスターなのか?」
「さて、何をもってイレギュラーとするかは、結局のところ戦った人間の主観でしかない」
異常、というのはつまり通常と比較して異なる部分がある、ということだ。そして迷宮のなかでなにを“通常”とするかは、そこに潜る人間が自分の主観で基準を作っていくしかないのだ。迷宮に初めて潜った人間であれば、そこで出現するモンスターはその存在自体が異常に思えるはずだ。
無論、その基準には共通する部分もあるだろう。しかし十人が十人とも同じ基準を持っていることなどありえない。なぜならそれは各自の主観に基づいているからだ。そもそも一般人の感覚からすれば、〈迷宮〉という環境そのものが異常なのだから。
「つまり経験を積んでいけば、何が異常であるかも変わってくる?」
「そういうことじゃな」
例えば、とメリアージュは続ける。迷宮のなかでは深く潜れば潜るほど、出現するモンスターも強くなる、ということはよく知られている。そしてさらに言えば深く潜れば潜るほど、異常性もまた増してくるのだ。
「ほれ、お主が前に言っておった、大剣を創り出したというモンスター。その手の類は十五階層より下ではそう珍しくもない」
つまりよく出現するということだ。そしてよく出現するということは、イレギュラーでもなんでもないということになる。これまで“異常”であったものが、そこでは“異常”ではなくなったのだ。
「もっと深い階層に行けば、〈彷徨える騎士〉みたいなモンスターも珍しくなくなる、と?」
「その可能性は大いにあるのう」
そういうモンスターとの戦いを何度も経験すれば、〈彷徨える騎士〉もまたその特異性を失いただのモンスターになる。そのことを少し寂しく感じるのは、言うまでもなくルクトの感傷であろう。
「もっとも、八階層という比較的浅い場所でそういう類のモンスターが出現したこと自体が異常、といえば異常かもしれんがの」
そういってメリアージュは笑った。迷宮というこの上もなく異常な環境の中で、その上さらに何が“異常”なのかを考えること、それ自体がナンセンスなのかもしれない。メリアージュの笑い声を聞きながらルクトはそう思った。
「人間は慣れる生き物じゃ。じゃからこそ異常などというものの考え方をする」
じゃがの、ルクトよ、メリアージュは続ける。
「迷宮とはそれ自体が人知の及ばぬ魔境。なにも分かってなどいないのに、しかしその魔境に慣れてしまう。それはとても危険なことだとは思わぬか?」
その言葉にルクトは神妙に頷いた。慣れることは慢心に繋がる。そして迷宮で慢心すれば死に直結する。メリアージュはそれを諌めているのだ。
「経験を積むことが悪いとは言わん。そもそも経験を積まない、というのは不可能じゃ」
人間は日々何かを経験しながら生きている。もちろん質や程度の差はあるだろう。しかし時間的な量だけを見れば、一秒過ぎればその分だけの経験を人間は勝手に積んでいくのである。
「経験に頼りすぎるでないぞ。迷宮でそういう戦い方をしていれば、必ずや痛い目をみることになる」
もっともそれも経験則じゃがな、とメリアージュは笑った。
「分かった。油断しない」
「うむ。それでよい」
ルクトの言葉に、メリアージュは満足げな声を返した。“黒い鳥”からその様子を窺うことはできないが、ヴェミスにいる彼女はきっと優しげな笑みを浮かべて頷いているに違いない。
「それで、ほかにはどんなことがあったのじゃ?」
柔らかい口調のまま、メリアージュはルクトに尋ねた。
「そういえば、実技の卒業要件を達成したよ」
「ほう、早かったのう」
ノートルベル学園の武術科において、実技の卒業要件を満たすということは、卒業が約束されたということとほぼ同義である。無論、座学の必要な単位を取る必要はあるが、こちらは真面目に講義に出ていればおよそ問題なく習得が可能だ。
それゆえ実技卒業要件の達成とは結構な重要な出来事のはずなのだが、二人の声を聞くに、ルクトとメリアージュがその重要性を一般人の感覚で理解しているのかは甚だ疑問である。もっとも、迷宮攻略は挑む人間によって随分と難易度に差が出る。
例えば「十階層以下で取れる魔石を一人につき五個以上集めること」という要件だが、メリアージュであれば半日もあれば達成は可能だろう。そう難しいこととは思えない以上、反応が淡白になるのは仕方がない。
「これで、後は講義にさえ出ていれば卒業は出来る、というわけじゃな」
「卒業は、ね……」
からかうようにして笑うメリアージュに対し、ルクトは苦笑気味の言葉を返した。
ノートルベル学園武術科の卒業証書を持っていれば、都市国家連盟アーベンシュタット内、いやあるいはその外側であっても武芸者として仕事に困ることはまずない。それくらいノートルベル学園の武術科には権威と実績があるのだ。その権威と実績を保つために露骨に実力を問う、実戦形式の卒業要件が設定されているわけだが、まあそれはそれでいいとして。
つまり学生たちは「ノートルベル学園武術科卒業」という“肩書き”を求めているのだ。経歴に箔を付けることを目的に武術科に入学している、といってもいい。無論、それだけが目的の学生は少ないだろう。しかし決して無視し得ないほどにその肩書きの偉力は大きいのだ。
それゆえ武術科の学生であれば、その最大の目標は言うまでもなく卒業である。だが、ルクトにとって最大の目標は卒業ではなかった。今現在の彼にとっての最大の目標、それは借金の完済である。
「稼がないで借金が増えるのはお断りだよ」
メリアージュは優しい人だ。頼めば二つ返事でお金を貸してくれるだろう。そういう意味では、もはや卒業まで迷宮に潜る必要はないとも言える。
しかし同時にメリアージュは厳しい人でもある。特にお金に関しては。黒鉄屋のメリアージュから借りた金は絶対に返さなければならないのである。それは我が子同然に可愛がってもらったルクトであっても例外ではない。
「迷宮攻略はやる。むしろこれからが本番だ。借金の残高はきちんと減らさないとね」
冗談めかしてルクトはそういった。ただし、彼にしてみればこれは掛け値なしの本音であって冗談でもなんでもない。それどころかルクトは残高を減らすだけではなく、在学中の完済を目指していた。
「…………のう、ルクトよ」
そんな彼の心のうちを見透かしたように、メリアージュは少しだけ沈痛な、いたわるような声音でルクトに話しかけた。
「妾は確かに『借金を返済せよ』とお主に申し付けた。だがそれは在学中に全て返せ、という意味では決してないのじゃぞ?」
メリアージュにそういわれ、ルクトは言葉を返すことができなかった。彼は保護者にして債権主であるメリアージュに、在学中の借金完済を目指していると話したことはない。「可能な限り早く完済したい」というルクトの願望は、助けてくれたメリアージュに恩返しをしたいという気持ちの裏返しである。それをわざわざ告げるというのは、どうにも気恥ずかしいのである。
だがしかし、どうやら彼女はルクトの考えていることなどお見通しであったらしい。いや、もしかしたら完全に見通しているわけではないのかもしれない。しかしそういう気配をルクトから感じているのは確かだろう。
「急くでないぞ、ルクトよ。金などあるときに返せばよい。お主であれば、それでまず間違いなく返し終えることができる」
じゃから急くな、とメリアージュは優しく言い聞かせた。もしもこうして“黒い鳥”をかいしてではなくて直接向かい合っていれば、彼女はきっと子ども扱いにルクトの頭を撫でていたに違いない。
「それともなんじゃ、妾が一度でも返済を督促したことがあったかえ?」
「…………今は取り立てに来てるんじゃないのか?」
ルクトがそういうと、メリアージュは「それもそうじゃな」と言って笑った。つられてルクトも笑う。笑うと少しだけ気持ちが軽くなった。
「ああ、そうだ。今日は午後から講義があるんだった」
はたと思い出したようにルクトはそう言って立ち上がった。
「ん?午後は実技の講義じゃろう。わざわざ出る必要があるのかえ?」
「アシスタントになったんだ。前に話さなかったっけ?」
ああ、そうじゃったな、とメリアージュは呟いた。
「ではそろそろお暇するかの」
メリアージュの声でそういうと“黒い鳥”は跳ねるようにして窓に近づいていく。ルクトが窓を開けてやると、“黒い鳥”はサッシに両足を乗せて首だけ振り返った。
「ではな、ルクトよ。アシスタントの仕事、頑張るのじゃぞ」
それだけ言い残すと、ルクトの返事を待たずに“黒い鳥”は窓から飛び立った。たいして大きくもないその身体は、すぐに空にとけて見えなくなってしまう。
飛び立った“黒い鳥”を見送ると、ルクトは窓を閉めた。彼の耳の奥では、先ほどのメリアージュの言葉がこだましている。
『急くでないぞ』
メリアージュのその言葉の意図を、ルクトはなんとなくだが察している。つまり彼女は「学生生活をもっと楽しめ」と言いたいのだろう。
『今しかできないことをやっておけ。本腰を入れて借金を返すのは、もっと大人になってからでよい』
彼女はきっとそう言いたいのだろう。もちろん直接聞いたわけではない。言ってしまえばただの想像である。しかしながら、決して妄想ではない。
ルクトがメリアージュのその考えを想像できるようになったのは、彼が学園に入学して少ししてからのことだ。突然、「カーラルヒスのノートルベル学園に行け」と言われたときは混乱が勝り、その理由についてまでは考えることができなかった。
しかし、あるときふと考えたのだ。「もしヴェミスにいたら今頃何をしているのだろうか?」と。
答えは単純でありすぐに出た。すなわち、「借金返済のため迷宮攻略をしている」。
自分でも苦笑してしまうくらい、疑問の余地のない即答だった。その瞬間、ルクトは思ったのだ。「もしかしたらメリアージュは、そうさせないために自分を学園に入れたのではないだろうか」と。
若いときは多感だ、といわれている。現在十八のルクトは十分に若いつもりだが、その“多感”というヤツがどういうことなのか、いまいちよく分からない。
だがメリアージュならば“若いときの多感な時期”というやつがどういうものなのか、ルクトよりは知っているであろう。彼女はルクトがその時期を借金返済のために費やすことを、あるいは「好し」とはしなかったのではないだろうか。ルクトはそんなふうに考えた。
「そんなことまで気にしなくてもいいのにな…………」
メリアージュは厳しい人だ。しかしそれ以上に優しい人だ。優しくなければ、実の子供でもないルクトのことを、ここまで考えてくれるはずもない。
「そんな優しい人が、なぜ1億6000万シクなどという多額の借金を子供に負わせるのか」
そんなふうに反論する人もいるかもしれない。しかしその額さえもルクトは妥当だと思っている。
確かに1億6000万シクは巨額だ。人が一生の間に稼ぐ金額が1億~二億シクくらいといわれているから、つまりもはや一生給である。見方を変えれば、ルクトは一生の全てをメリアージュに牛耳られている、とも言えるだろう。
だが、それがなんだと言うのか。あのときメリアージュが助けてくれなければルクトは奴隷商に、しかも恐らくは非合法に売り払われていた。あの頃に比べれば少しは世間というものを知ったから分かることだが、そういう奴隷の未来には絶望と破滅しかない。この歳まで生きられたかどうか、それさえも怪しい。
そんな暗々たる未来から、メリアージュは救ってくれた。いや、救ってくれただけではない。親代わりになって育て、また師として導き生きる術を教えてくれた。
まさに一生を救われたのだ。ならば一生給をもって恩を返すのは、むしろ当然ではないか。
「ま、本当に一生をかけるつもりなんてさすがにないけど」
ルクトは苦笑気味にそう呟いた。いくら一生給相当額とはいえ、本当に借金返済のために一生を費やすつもりはさすがにない。そのためにも在学中の借金完済である。
それにもともとハンターの稼ぎというのは、一般の人と比べればはるかに多い。普通に働くよりも早く返せるのは道理だろう。もっともそれは命の危険と引き換えに、ではあるが。
(じゃあ、なにに一生をかければいいんだろうな…………?)
ふと、ルクトの頭にそんな疑問が浮かんだ。もちろんこの先、彼はハンターを生業にして食っていくことになるだろう。しかし一生を、命をかけることとは少し違うような気がした。
ではなにに、と考えてみるがそうすぐには思いつかない。
(そういうこともちゃんと考えろ、ってことなのかな…………)
そんなことを考えながら、ルクトは午後の実技講義に行くため寮の自室を出た。メリアージュの考え全てを慮るには、彼はまだまだケツが青い。
――――借金残高は、あと1億4570万シク。