帝国の興亡3
メリアージュ・フィルファス(と思しき人物)を迷宮の中で助けた次の日、セイルハルト・クーレンズは自身の個人能力〈バルムンク〉を駆使してお隣の都市国家ルーツェンハイムに向かった。彼にしてみれば生まれ故郷な訳だが、離れてすでに一五〇年以上が経過している。街並みはすっかり様変わりしており、昔の面影はもうほとんど残っていない。そのおかげかせいか、彼は特に懐かしさを感じることもなくルーツェンハイムの街を歩く。
彼が向かったのはフィルファス家だった。アポイントメントなしの訪問ではあったが、セイルハルト・クーレンズといえばアーカーシャの重要人物。少し待たされたものの、彼は無事に当主であるディクセリオに会うことができた。
「突然の訪問だったにも関わらずこうしてお時間を取っていただけたこと、感謝します。ディクセリオ殿」
「貴方であれば、手紙を出されるより自分で動いた方が早いでしょうからな。理解しているつもりです、セイルハルト殿」
そう言ってまず二人は和やかに挨拶を交わした。ただし、アポなし訪問が異例であることは変わらない。しかも、よりにもよってセイルハルト・クーレンズが動いた。つまりそれに見合うだけの緊急事態が生じた、ということだ。時間を無駄にすべきではないと思ったディクセリオは早速本題に入る。
「……それで、セイルハルト殿。本日は一体どのようなご用件でしょうか?」
「その前に、ディクセリオ殿。メリアージュ嬢は今、どちらに?」
「娘でしたら、先日から迷宮に潜っておりますが……。アレがどうかしましたかな?」
メリアージュが迷宮に潜っているのは間違いない。しかし、それが家出であることはおくびも出さず、ディクセリオはそう答えた。娘の話が出てくるのは、彼にとっては予想の範疇だ。しかしそこから先のセイルの言葉は、彼にとって全くの予想外だった。
「なるほど。実は先日、迷宮の中でお嬢さんと思しき少女を保護いたしました。目立った外傷はありませんでしたが、衰弱していましたので今はアーカーシャの私の屋敷で休ませています」
「なん、と……!」
ディクセリオは言葉を詰まらせる。実のところ、彼はメリアージュのことをもう半分以上諦めていた。彼女が迷宮の中に逃げ込み、そして二日経っても出てこなかった時点で、もう死んでしまったものと覚悟していたのだ。だからセイルがメリアージュと思しき少女を保護したと言ったとき、ディクセリオのなかでは驚愕よりも歓喜が勝り、それが彼に言葉を詰まらせていた。
「で、ですが、その少女は本当に私の娘なのでしょうか?」
聞けば、その少女の意識はまだ回復しておらず、セイルは彼女の名前さえまだ聞いていないと言う。それにメリアージュが潜ったのはルーツェンハイムの迷宮だ。その彼女がアーカーシャの迷宮で見つかった。その話をまったく鵜呑みにすることはできなかった。
「彼女がメリアージュ嬢でなければ何も問題はありません。問題が起こるのは、彼女がメリアージュ嬢であった場合です」
ですからここからは彼女がメリアージュ嬢であるという前提で話をさせていただきます、とセイルは言った。彼の言葉にディクセリオは頷く。まったく彼の言うとおりだったからである。
「……それでメリアージュ嬢ですが、少々面倒なことになりました」
「面倒、とは?」
セイルの言葉にディクセリオは眉をひそめた。確かにメリアージュが家出してしまったことは問題だ。しかし、その身柄はセイルが確保した。彼が主戦派であれば大問題だったが、幸いにして彼は非戦派。メリアージュの身柄を返してもらい、アランゼス・アーカーシャとの婚礼の話を進める。この流れには何の問題もないはずだ。しかし、セイルは首を横に振った。
「そのお話ですが、お断りさせていただくことになります」
「なんと……!」
その言葉にディクセリオは目を見開いた。この婚礼の話がなくなれば、ルーツェンメルトとアーカーシャは戦争に向けて突き進むことになる。それが分からないセイルではあるまい。まさか彼は主戦派に転向したというのだろうか。そんなディクセリオの懸念を、セイルの次の一言が全て吹き飛ばした。
「メリアージュ嬢は長命種として覚醒したのです」
「なんですと!?」
長命種。この世に生きる、本物の超越者。その寿命は短命種を遥かに超え、数百年を生きることも珍しくない。その実例が、今ディクセリオの目の前にいる。
「仮にアランゼスとメリアージュ嬢が結婚した場合、その子供が次の執政官になります」
つまりメリアージュは執政官の母親になる。ただの母親であれば問題はない。しかし彼女は長命種。その子が死に、孫が執政官となり、その次にひ孫が執政官となり、そうやって執政官が代替わりし続けても、メリアージュは今と変わらない姿でいることだろう。それはつまり、執政官の血筋の祖として君臨するということだ。
しかも彼女はアーカーシャの出身ではなく、ルーツェンメルトの人間である。それはつまり、間接的とはいえルーツェンメルトがアーカーシャを支配することに繋がるのだ。それをアーカーシャの人々が嫌がるのは、むしろ当然のことだ。
「で、ですが、セイルハルト殿がおられれば、そのようなことは起こらないのではありませんか?」
「もちろん、私が彼女を掣肘すればそのような事態にはならないでしょう。しかし、一つの都市国家の行く末を一人の人間に丸投げしてしまうのは健全とは言い難い」
その指摘にディクセリオは押し黙った。彼が見ているのは十年先だが、セイルが見ているのは百年先なのだ。自分が死んでしまっている百年先に対し、無責任なことは言えない。その時にも生きているであろう人間相手であればなおのことだ。しかし十年先の未来も同じように重要である。
「……娘のことは、ひとまず分かりました。戦争回避のためには、また別の方策を考えなければならないでしょう。ですがその前に、セイルハルト殿。一つ確認させていただきたい。貴方は今も非戦派であると考えてよいのですかな?」
ディクセリオのその問い掛けに、セイルははっきり「はい」と言って肯いた。それを聞いてディクセリオは内心で胸をなでおろす。彼が変わらず味方でいてくれることは何よりも心強い。
「して、セイルハルト殿。今日こうしておいでになったということは、貴方自身何かしらの方策をお持ちのはず。まずはそれをお聞かせ願いたい」
迷宮の中でメリアージュを保護し、彼女が長命種として覚醒していたため、政略結婚の話を白紙に戻す。これを伝えるだけであれば、保護した少女の意識が回復し、彼女が間違いなくメリアージュ・フィルファスであることが確認できてから来たはずだ。だがセイルはその前に動いた。つまり、用件はそれだけではない、ということだ。
「まずメリアージュ嬢についてですが、今後とも私のほうでお預かりしたい」
セイルはまずそう切り出した。彼は「私のほうで」といったが、実際には「アーカーシャで」と言う意味だ。
それを聞いて、ディクセリオは流石に不快そうな顔をする。メリアージュはルーツェンメルトにとって重要な武芸者だ。長命種になったのであればなおのこと。それを取り上げられれば面白くはない。何より、彼女はディクセリオの娘。娘の身柄を預かると言われ、それを不愉快に思わない父親はいない。
「メリアージュは私の娘です。我が家に戻ることが一番自然だと思いますが?」
「ではお聞きしますが、その場合、ディクセリオ殿はルーツェンメルトの主戦派を抑えることができますか?」
ルーツェンメルトの主戦派。その言葉を聞いて、ディクセリオは頭を殴られたかと思うほどの衝撃を受けた。
今までもアーカーシャに対し強硬な姿勢を取る者はいた。しかし今の今まで、ルーツェンメルトに〈主戦派〉というものは存在しなかった。なにしろ、アーカーシャと戦争をすればほぼ確実に負けるのである。負けると分かっている戦争をしたがる馬鹿はいない。
しかし勝てるならば、少なくともその見込みがあると思えるならばどうか。その見込みこそ、長命種として覚醒したメリアージュなのである。彼女ならば〈アーカーシャの守護騎士〉に匹敵できると人々は考えるだろう。なぜなら彼女はセイルと同じ長命種なのだから。
実際にメリアージュがセイルに匹敵できるのかは、この際重要ではない。その見込みがあると人々が考えること、それが重要なのである。
その時、ルーツェンメルトに主戦派が誕生するだろう。そして、今まで散々アーカーシャから加えられた圧力、加えて塩というファクターを考えれば、その派閥が巨大になるであろう事は想像に難くない。そんなディクセリオの考えを肯定するかのように、セイルは言葉を続けた。
「……長命種となったメリアージュ嬢を抑止力としておけるのであれば、それはそれで結構です。しかし、恐らくそうはならないでしょう」
メリアージュと言う武力を得たルーツェンメルトは、アーカーシャに対してその態度を硬化させるだろう。恐らくは塩の関税引き上げを言い出すはずだ。半分はアーカーシャの自業自得だが、しかしその展開はまずい。二つの都市の対立は先鋭化し、その果てに行き着くのは戦争である。そして長命種となったメリアージュはその戦争の矢面に立たされるだろう。その未来を、セイルに言われるまでもなくディクセリオは想像できてしまった。
「……しかし、娘を貴方に預けたとして、それで戦争を回避できますかな?」
ディクセリオの懸念は当然だった。メリアージュをセイルに預ければ、アーカーシャは二人の長命種を擁することになる。その戦力は絶大と言っていい。さらなる力を持つことでアーカーシャの主戦派が勢いを増すのではないか。ディクセリオはそれを危惧した。
「メリアージュ嬢が戦争に利用されるようなことは、私が命に代えても阻止します。そして彼女の存在はアーカーシャにとって新たな重石になるでしょう」
セイルはそう言い切った。それを聞いて、ディクセリオは肩の力を抜いて身体を椅子の背もたれに預けた。
「……なんともまあ、情けないことですなぁ。指導者としても、父親としても」
そうぼやいてディクセリオは苦笑した。そしておもむろに立ち上がると、穏やかな表情でセイルに頭を下げる。
「娘のこと、よろしくお願い致します」
「ええ、それはもちろん。メリアージュ嬢については、弟子入りと言う形にするのが一番自然でしょう。彼女が回復したら、一度連れてきますよ」
その時に叱って差し上げればいい、とセイルは言ってセイルは笑った。言外に「今生の別れになるわけではない」といわれ、ディクセリオも相好を崩す。
「その時には、逃げ出さないようにご協力いただけますかな?」
「ええ、喜んで」
そう言って男二人は、まるで悪戯小僧のように笑った。
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迷宮で助けた少女の意識が戻り、彼女が間違いなくメリアージュ・フィルファスであることが確認できると、その次の日、セイルは執政官のアランゼスに頼んで市民院を招集しその壇上に立った。
「さて方々。急な召集であったにも関わらずこうして集まっていただけたこと、感謝いたします」
セイルはまずそう言って挨拶をした。そして長々と前置きをすることもなく、さっそく本題に入る。
「先日、私は迷宮の中でメリアージュ・フィルファス嬢を保護しました」
思いがけずメリアージュの名前が出てきたことで、市民院の議場にざわめきが生まれた。しかしセイルが片手を掲げるとそのざわめきはすぐに納まる。議場が静かになってから、セイルは言葉を続けた。
「そして彼女が長命種として覚醒していることを確認しました」
今度こそ、議場には大きなざわめきが生まれた。誰かが長命種として覚醒すれば、都市国家間のパワーバランスは大きく変化しかねない。つまりこれはそれだけ大きなニュースなのだ。
「メリアージュ嬢が長命種となったからには、アランゼス執政官との婚礼の話も一度白紙に戻さなければならないでしょう」
セイルの言葉に市民院の代表たちは苦い顔をしつつも頷く。あらかじめアランゼスにはこの話をしてあり、彼も政略結婚の白紙撤回には賛成している。これでメリアージュとアランゼスの結婚の話は完全になくなったものと思っていい。
『メリアージュ嬢も喜ぶだろうね。好きでもない男と結婚しなくてもよくなって』
『その通りなのでしょうが、そうはっきり言われるとさすがに傷つきますな。男としては』
セイルとアランゼスはそんな会話を交わしたとか、交わさなかったとか。まあ、これは余談である。
さて、これでほぼ規定路線として進められていた政略結婚の話がなくなった。メリアージュと言う新たな長命種を手に入れたルーツェンメルトはどう動くのか、さまざまな憶測が飛び交う。今のうちに殺してしまえ、などと言う極論まで出た。
なんにしても、行き着く先は戦争しかないように思える。しかし、セイルとしてはそう進めさせるわけにはいかない。彼は再び口を開いた。
「メリアージュ嬢の今後についてですが、彼女の父上であるディクセリオ殿とも相談した結果、私の弟子とするのが最も良いであろうという結論に達しました」
セイルがそういうと、市民院の中の緊張が少しだけ弛緩した。弟子とするということはつまり、彼がメリアージュを監視してくれるということだ。これで新たな長命種がアーカーシャに対してその牙を剥く心配はほとんどなくなった。仮にその事態が起こったとしても、セイルが責任を持って彼女を止めてくれるだろう。
自分たちが攻められる心配がなくなると、市民院の代表たちの思考は戦争のほうに向かった。もしかしたら、メリアージュと言う新たな長命種も自分たちの戦力として使えるかもしれない。そんな皮算用をしている者までいる。しかしそんな彼らに釘を刺すかのように、セイルは最後にこう言った。
「最後に個人的なことになりますが、私はあくまでも非戦派であることをここに明言しておきます。ルーツェンメルトとアーカーシャの間にある問題は、かつて我が友アルクレイドがそうしたように、交渉によって解決されるべきであると信じています」
そう言い残してセイルは市民院の壇上から降りた。彼の言葉を聞いた代表たちはどこか面白くなさそうな顔をしている。非戦派である彼は、弟子であるメリアージュが戦争に駆り出されるのを良しとはしないだろう。この時点で二人の長命種をアーカーシャの戦力として組み込むことはできなくなった。
しかしそれでもなお、アーカーシャとルーツェンメルトの戦力差は決定的である。主戦力たる〈魔導甲冑〉の数が違う。メリアージュが動かないのであれば、なおのことその戦力差が覆されることはないだろう。勝てる戦争をしない手はない。その方向で市民院の意見はまとまるかに見えた。
しかしその時、こう考える者がいた。「本当に新たな長命種となったメリアージュは動かないのだろうか」と。
確かにメリアージュをアーカーシャの戦力として組み込むことは、セイルがそれを許さないだろう。しかし、彼女はそもそもルーツェンメルトの人間だ。ルーツェンメルト側の戦力になることはないのだろうか。
メリアージュがアーカーシャの街を蹂躙するようなことは、〈アーカーシャの守護騎士〉たるセイルハルト・クーレンズが許さないだろう。しかし、ルーツェンメルトに侵攻したアーカーシャの部隊に対してはどうだろうか。
アーカーシャがルーツェンメルトに侵攻した場合、メリアージュは果たしてどう動くだろうか。何もしないでいてくれる、と考えるのは都合が良すぎるように思えた。
それら侵略者に対し、メリアージュは長命種の力を振るうのではないだろうか。その時、セイルは果たして彼女を止めてくれるのだろうか。非戦派としてその戦争に最初から反対していた、彼が。
その望みはどうにも薄いように思われた。むしろセイルは弟子の行動を黙認するかもしれない。となれば、アーカーシャは自分たちの力だけでメリアージュに対抗しなければならなくなる。果たしてそれは可能なのか。なにしろ彼女は長命種。かのセイルハルト・クーレンズと同じ超越者である。
メリアージュが、長命種が自分たちの前に立ちはだかる。それを想像しただけで、市民院の代表たちは震え上がった。なまじセイルという実例を知っているため、彼らはより現実的にその力を想像することができた。そしてその想像は、「どうやっても勝てない」という結論を導き出す。
結局、この日を境にアーカーシャの主戦論は萎んでいった。セイルが言ったとおり、メリアージュはアーカーシャの新たな重石となったのである。アーカーシャとルーツェンメルトはお互いに交易を拡大させることを決定し、その枠組みのなかで塩の関税も引き下げられた。セイルとディクセリオの願いどおり、戦争は交渉によって回避されたのである。
しかし、力という魔物は容易く人を惑わす。その本質が変わったわけではなく、またアーカーシャが他の都市国家と比べて圧倒的に大きな力を持っていることもまた、なにも変わってなどいない。
アランゼスの子供が執政官として治める時代になると、アーカーシャはついに戦争を起こした。相手はルーツェンメルトではなく、また別の都市国家である。セイルとメリアージュはその戦争に参加しなかったが、〈魔導甲冑〉の数において上回るアーカーシャ軍の前に、その都市国家は一ヶ月もたずに陥落した。以降、アーカーシャはこの都市国家を〈地方都市〉と位置付けて支配した。
地方都市を得たアーカーシャはもはや一介の都市国家ではなくなった。少なくともアーカーシャ自身はそう考えた。そしてこのときよりアーカーシャは〈帝国〉を名乗り、執政官は〈皇帝〉に、市民院は〈元老院〉とそれぞれ名前を改めた。ついにアーカーシャ帝国と帝都アーカーシャが歴史上にその姿を現したのである。
さらにアーカーシャは皇帝の弟をルーツェンメルトに送り込んでその都市を〈大公領〉とし、自治を認めながらも事実上配下に収めた。その目的はもちろん、塩の安定的な供給を図るためである。
余談になるが、この段階でメリアージュの実家であるフィルファス家は一切の政治的権力を失った。そうする事で大公領という地位を得た、ともいえる。なんにせよ、この政変において血の一滴も流されなかったことは政治的快挙とされている。その影に長命種となったメリアージュの尽力があったのかどうか、歴史書は黙して語らない。
閑話休題。帝都、大公領、そして地方都市。この三つの都市とその周辺を領土として、アーカーシャ帝国はその幕を開けた。そしてこの後、帝国は数々の都市国家を併合してその勢力と領土を拡大していく。その様子を、セイルハルト・クーレンズは苦い思いを抱えながらただ見守った。