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結納品


 その日、ラキア・オクスは一人で実家であるカストレイア流の道場を訪れていた。一人でやって来た娘の姿を見つけて、道場の師範であるジェクト・カストレイアは呆れたような声を出す。


「なんだ、ラキ。ルクトと喧嘩でもしたのか?」


 彼女がこの道場を訪れることそれ自体は珍しくない。ラキアと彼女の夫であるルクトは共にカストレイア流刀術の免許皆伝を持っており、時折道場に顔を出しては師範代として門下生たちと立会い稽古を行っている。ただ夫婦である二人は一緒に来るのがほとんどで、こうしてラキアが一人だけで来るのは珍しかった。


「違います。喧嘩なんてしてません」


 少しだけ“ツン”とした口調で、ラキアはすっかり白髪の多くなった父に答えた。そのムキになった娘の表情に、ジェクトは忍び笑いを漏らす。


「ほう、ではルクトはどうした?」


「…………メリアージュさんのところに、その、料理を習いに行きました」


 気まずそうに目を逸らしながらそう答えるラキアの言葉を聞いて、ジェクトは「ああ、なるほど」と呟いた。大まかな事情を察したのである。


 端的に言って、ラキアは料理ができない。その腕たるや壊滅的である。包丁を握れば食材を切る前に指を切り、鍋の番を頼めばまず間違いなく焦すか吹きこぼす。「塩を一つまみ」と言われれば砂糖を力強く右手で一掴み放り込み、「コショウを一振り」と頼めば盛大にくしゃみをした。


『もういい、お前は料理をするな!』


 そう言ってルクトは文字通り匙を投げた。投げられた匙はラキアの額を直撃し、彼女はほうほうの体でキッチンから追い出されたのである。


 こうして我が家の食卓とキッチンを守るべくルクトは奮闘を開始した。とはいえ、彼は料理ができないわけではないが決して得意というわけではない。少ないレパートリーはすぐに尽きた。そのため、食卓に潤いを与えるべく料理修行を敢行することを決意し、その指導を彼の知るなかで最も料理の上手なメリアージュに頼んだのである。


 ちなみにこの前はビーフシチューを習ったそうだ。二人で一緒に作ったものをラキアも食べさせてもらい、大変に美味しかった。ルクトも少しずつではあるが料理の腕を上げ、またレパートリーも増やしている。最近は食事が楽しみなラキアだった。


「ルクトも大変だな……」


 義理の息子があくせくと料理をしているところを想像し、ジェクトは同情気味にそう呟いた。ラキアにここまで料理の才能がないというのは、自分の娘のことながら予想外だった。そもそもあれだけ巧みに太刀を振り回すというのに、包丁の一つも使えないとは何事か。一体誰に似たのやら、とジェクトは力なく首を左右に振った。


「間違いなく父上でしょう。少なくともわたしは父上が料理をしているところなど、一度も拝見したことがありませんが」


 言い訳のしようのないその事実を指摘され、ジェクトは勢いよく視線を逸らした。ジト目で睨むラキアの視線を頬に感じながら、彼は父親の威厳を保つべく何とかして話題を変える。


「ま、まあ、それはともかくとして、だ。今日は何のようで道場に来たのだ?」


「その、実は少し相談が……。結納品のことです」


 ラキアがそう言うと、ジェクトは彼女が持つ太刀に視線を向けた。その太刀は純ヒヒイロカネ製の逸品で、ルクトがラキアに結納品として贈った品だった。だがラキアの方はまだ彼に対して何も結納品を納めていない。


 結婚する二人が結納品を交換し合う習慣が、この世界に広く根付いているわけではない。贈ることもあれば、贈らないこともある。その程度だ。ただ贈るにしても、名家同士の婚礼ならばともかく、一般市民の結婚なら感覚的には普通にプレゼントを贈るのとなんら変わらない。


 とはいえ、ラキアにとってルクトから貰ったこの太刀は特別だった。結納品だからと言うのもあるが、それ以上に彼から貰った初めてのプレゼントなのだ。本当に嬉しくて片時も離さず、また手入れも欠かさない。


 しかしある時、彼女はふと気が付いた。「そういえば、自分はまだ何もルクトにプレゼントをしたことが無い」と。


「わたしもルクトに何か結納品を贈りたいと思っているのですが……」


 果たして何が良いだろうか。ルクト本人に聞くのが一番いいのだろうが、しかしそれでは驚かせることができない。それで彼がメリアージュのところに行っている隙に、こうして相談をしに来たという次第である。


「ふむ、なるほどな。……ただ、一つ言っておかねばならんが、ウチに金はないぞ」


「そんなことは分かっています」


 呆れた声でラキアはそう言った。ただ、ジェクトの心配も分からないではない。何しろラキアがルクトから貰った太刀は非常に高価なものだ。なにしろ純ヒヒイロカネ製。あれ一本で豪邸が建つだろう。それと同等のものを贈ろうとすれば、カストレイア家は間違いなく破産する。カストレイア家はお金に困っているわけではないが、決して資産家とかお金持ちという部類ではないのだ。


 ただ、わざわざ「結納品」と銘打って贈るのだ。あまり安っぽいものを選ぶわけにもいかない。だがさりとて同等以上のモノを買おうとするとお金が足りない。さてどうしたものか、というのがラキアの悩みだった。


「そうだな……。クレハに相談してみてはどうだ?」


 クレハというのは、ラキアの二番目の兄ルドガーの妻である。だから彼女にしてみれば義理の姉になる。おっとりとした雰囲気の女性で、武芸者ではないが芯のしっかりした人だ。ルクトとラキアが留学から帰ってきたときには、子供も生まれていた。


「義姉さんに……。そうですね、相談してみます」


 そう言ってラキアは立ち上がり、渡り廊下をわたって道場の隣に立つ母屋に向かう。クレハがいたのは台所だった。おんぶ紐を使って子供を背負い、何か作っているようだ。料理の出来ないラキアとしては、その姿に少しだけ嫉妬する。


「あの、義姉さん。少しいい?」


「あら、ラキアさん。ルクトさんと喧嘩でもしたんですか?」


「喧嘩なんてしてません。……というか、わたしってそんなイメージなの?」


 納得いかない。そんな声が聞こえてきそうなほどに、ラキアは眉間にシワを寄せて顔をしかめた。そんな義妹に対し、クレハは朗らかに笑ってこう言った。


「『実家に帰らせていただきます』は、嫁が持つ伝家の宝刀ですから」


 わたしは使ったことありませんけど、とクレハは惚気る。兄夫婦の仲は良好だな、とラキアは苦笑した。


 そして少し想像してみる。「実家に帰らせていただきます」と言われたら、ルクトは慌ててくれるだろうか。たぶん慌ててくれるだろう。だけどいざ実家に帰ったら、怒られるのはむしろ自分のような気がするラキアだった。


「……それで、今日はどうかしましたか?」


「実は……」


 ラキアはクレハにルクトに贈る結納品について悩んでいることを告げ、そしてジェクトに話したのとだいたい同じ内容を伝える。それを聞くと、クレハは苦笑しながら「それは大変ですね」といった。


「こう言ってはなんですが、やっぱり値段と言うのは一番分かりやすい価値ではありますからねぇ……」


 クレハの言葉にラキアも頷く。同等のもの、同じ価値のものと考えると、やっぱり値段を釣り合わせるのが一番分かりやすいのだ。しかし今回に限って言えばそれは不可能だ。おもにラキアとカストレイア家の予算の問題で。


「そうなると、発想を変えた方が良いでしょうね」


「発想を変える……」


 はい、と頷いてからクレハは得意げに右手の人差し指をピンと立てた。そして、まるで授業をするかのような口調でこう話す。


「お値段については、ひとまず横においておきましょう。結納品と言っても今回はプレゼントとほぼ同じですから、やっぱりルクトさんが喜ぶものが一番ですよね?」


「それは、もちろん」


 例えば家同士の思惑が絡むような結婚の場合は、個人と言うよりはむしろそれぞれの家が望むものを結納品として贈ることが多い。だがルクトとラキアの場合はそこまで込み入った事情はないので、やっぱり相手が喜ぶものを贈るのが一番であろう。


「ルクトさんが欲しがっているもの、あるいは必要としているものに、なにか心当たりはありませんか?」


「……料理の腕、とか?」


「それは……、切実ですね……」


 確かに切実かつ重要である。とはいえ、ラキアにどうこうできるものでもない。順当に却下され、彼女はまた別の候補を探す。だがいざこうして考えてみても、ルクトがほしがっている、あるいは必要としているものはなかなか思いつかない。


 そもそもルクト・オクスは大抵のものは自分で揃えることができる。その上、規格外にも〈オリジン・スフィア〉という一個の“世界”まで所有しているのだ。こうして考えてみると、自分の夫がとんでもない存在であることをラキアは改めて思い知る。


 さらにルクトは長命種(メトセラ)だ。つまり数百年、あるいはそれ以上の時を生きつづける。そんな彼が何を欲しがり、何を必要とするのだろうか。


「う~ん……」


 ラキアは眉間にシワを寄せて悩むが、しかしなかなかいいアイディアは出てこない。そんな義妹の姿に苦笑しながら、クレハはさらに別の発想を教える。


「でしたら、何か手作りのものを贈るというのはどうでしょう? きっとルクトさんも喜ぶと思いますよ」


「手作りかぁ……」


 そう呟いたラキアの脳裏に浮かぶのは、クルルがロイに贈った手作りの一張羅だ。あれは細かい刺繍が丁寧に施された逸品だった。あれほど立派な品を自分で作れるだろうかと考え、ラキアはすぐに力なく首を横に振った。裁縫は料理ほど苦手ではない。しかしクルルほど得意とは言えない。いずれは作れるようになるかもしれないが、しかしそのためには年単位の“修行”が必要だろう。結納品を贈るのをそんなに待ってはいられない。


 とはいえ、わざわざクルルの真似をする必要もない。ラキアはラキアにできることをすればいいのである。


「わたしに、できること……」


 自分に何ができるだろうか。一番得意だと胸を張れるのはやっぱりカストレア流刀術だが、それはルクトも同じものを修めている。そもそもカストレア流の刀術は二人とも既にその全てを習得しており、いまさら新しいものなど……。


「……いや、ある」


 ある。あるではないか。カストレア流刀術の枠組みであり、ラキアにできることで、そして数百年の後もルクトの役に立つもの。


 もうコレしかない。ラキアはそう思った。そのひらめきはまるで天啓のように彼女には思えた。


「わたしの、〈深理〉を贈るよ、ルクト」



▽▲▽▲▽▲▽



 カストレイア流刀術に於ける〈深理〉とは、厳密に言えば技のことではない。言ってみれば、一つの段階である。それで何をする段階なのかと言うと、要するに自分で技を編み出すのだ。


 全く新しい技である必要はない。すでにある技にアレンジを加えたり、あるいは他流派の技を刀術でも使えるようにしたりする場合もある。それに全員が自分の〈深理〉を考えるわけではなく、先人が残したものを再現する者もいる。


 ラキアはこれまでにルクトが編み出した〈深理〉である〈瞬気法〉を習得している。だが、彼女自身はまだ〈深理〉を編み出してはいない。そこでルクトのために〈深理〉を編み出し、それを彼に贈ろうと思ったのだ。


 そこでラキアはまず道場に保管されている、先人たちが残した〈深理〉の資料をあさり始めた。これまでにどのような〈深理〉が編み出されてきたのかを調べ、それを参考にするためだ。


 しかしいまいち、“ピン”と来るものがない。確かにどれもこれも技術的には高度で素晴らしいものばかりなのだが、どうもルクトのスタイルには合致しないように思えたり、また複雑すぎてそもそも実戦向きではないように思えたりする。


(考えてみれば、ルクトもここの資料は一通り目を通しているはず……)


 それでも彼は今のところ自分で編み出した〈瞬気法〉以外にはここに残された技を使っていない。ということは彼も自分には合わないと思ったり、また実戦向きではないと判断したということだろう。


 ただ、技術的知識としては見るべき点も多い。結局その日、ラキアは一日資料を読み続けた。


 夕食の時間になり家に帰ると、すでに明かりがついていた。ルクトはもう帰ってきているらしい。遅くなってしまった、と思いながらラキアは玄関を開けた。


「お、お帰り。遅かったな。ずっと道場にいたのか?」


「ただいま。今日はずっと道場にいたよ。そろそろ、自分の〈深理〉を考えようと思って資料を読み込んでいたんだ」


 ラキアがそう言うと、腰にエプロンを捲いた姿のルクトは「なるほど」と言って笑った。彼は手に鍋を持っており、食卓の上にはすでに料理が並んでいた。


「さ、食べようぜ」


 そう言ってルクトは鍋の中身をお皿によそう。どうやらスープらしい。今晩のメニューはそのスープと、メリアージュのところで作ってきたらしいローストビーフ、ほうれん草とブロッコリーとベーコンが入ったキッシュ、そして近くのお店で買ってきたパン。どれも美味しそうな出来栄えである。


「うん。それと、その……、いつも、ありがとう」


 ラキアがそう礼の言葉を口にすると、ルクトは一瞬呆けたような顔をしたが、しかしすぐに恥ずかしそうな、けれども嬉しそうな顔をして「気にすんな」と言った。


 夕食を食べ終わると、二人は早めに休んだ。明日からは遠征の予定が入っているのだ。メンバーはカーラルヒスで迷宮(ダンジョン)攻略をしていたときと同じく、ルクトとラキアの二人だけである。ラキアはともかくルクトは数々のギルドから誘われ、今も現在進行形で勧誘され続けているのだが、今のところ彼はどこにも所属しようとはせず、一貫してフリーランスを貫いていた。


『武芸修行に、料理修行に、と。まあ、色々とやることが多いから、時間に融通が利く方がいい』


 ギルドに入らない理由をルクトはそんなふうに説明していたが、ラキアは〈オリジン・スフィア〉のことをあまり人に知られたくないというのも関係しているのではないかと思っている。実際、ヴェミスで〈オリジン・スフィア〉について知っているのは、ラキアを別にすればメリアージュだけである。二番目に信頼しているであろうジェクトにさえ、ルクトは詳しいことを教えていないのだ。


 確かにあの存在について知れば、「利用してやろう」と考える者は多いだろう。そういう類の輩に付きまとわれれば、煩わしいことこの上ない。そうなれば二人の生活は台無しである。自分たちの平穏な生活のためにも、〈オリジン・スフィア〉については口外しないようにしようと、ラキアは愛する人の腕の中で心地よいまどろみに身を任せながら改めてそう思った。


 さて次の日、二人は朝早く起きて迷宮に向かった。そしてカーラルヒスにいた頃と同じように迷宮の中を疾走して駆け抜ける。一度このやり方に慣れてしまうと、普通に歩くのが時間の無駄に思えて仕方が無いのだ。もちろんこれを初めて見たヴェミスのハンターたちは目と口を大きく開けて驚いていた。そういえば、それから勧誘がますます激しくなったような気もする。もちろん、全てお断りしているが。


 一日目で十一階層まで到達してしまうと、二人は適当な広場でその日の攻略を切り上げ〈オリジン・スフィア〉のなかに引き上げた。ルクトが夕食を作っている時間を利用して、ラキアは先に温泉に入ってしまう。夫婦なのだから二人で一緒に入ってもいいのだが、遠征中なのでそういうことはなしにしている。


 温泉のお湯の中に浸かって汗を流して身体を温める。お湯の中で身体を伸ばして空を見上げると、そこには満天の星がある。ただし、月はない。〈オリジン・スフィア〉のなかは通年で新月である。


 温泉に入りながら、ラキアは考える。「さて、ルクトに贈る〈深理〉はどんなものがいいだろうか」と。そもそも、ルクトが必要としているのはどんな技だろうか。彼が戦っているところをラキアは想像してみる。


 ルクトの戦い方は回避と攻撃に重点を置いた、実にカストレイア流らしいものだ。敵の攻撃をかいくぐり、逆に一撃を加える。簡単に言ってしまえばコレだ。そして、これを実践するために重要となる要素は三つ。攻撃力・スピード・視界の広さである、とラキアは考える。


 この三つのうち、視界の広さはいわゆる闘術の範疇ではどうしようもない。ただひたすら研鑽と経験を積むしかないだろう。そうなると攻撃力とスピードだが、攻撃力についてはルクトがすでに一つの答えを出している。つまり彼が編み出した〈深理〉である、〈瞬気法〉だ。彼はこれを攻撃力を上げる目的で編み出し、その目標は十分に達成されているといえる。


 そうなると、残りはスピードだ。スピードを上げるための技術、あるいは素早く動くための技法。それを編み出して〈深理〉とする。悪くない、とラキアは思った。それにこれならばルクトのみならず彼女自身にとっても有用だ。俄然、やる気が出た。もともと出てはいたが、さらに出た。


「スピード、速く動く……。う~ん」


 温泉に入りながら、ラキアは考えをめぐらせる。素早く動くための最も一般的な方法は、集気法による身体能力強化だ。これによって武芸者は、何もしていないときの何倍ものスピードで動くことができる。


 しかしこの方法だとマナの濃度に大きな影響を受ける。つまり、周りと比べ一歩長じることができない。なにしろ太刀を振るうような範囲であれば、マナの濃度はみんな一緒である。全員同じ程度に身体能力が強化され、そして全員が同じ程度素早く動けるようになる。これではスピードを上げた、とはいえないだろう。


 それにこれでは何の工夫もなく、一般的に使われている技法とまったく同じである。わざわざ〈深理〉と銘打つだけの価値はない。


「基本は大切だけど、これじゃあ〈深理〉にならないしなぁ……」


 ラキアは改めてまた別の方法を考える。次に思いついたのは、〈練気法〉によるブーストだ。常に使い続けられるものではないとはいえ、これならば周りの武芸者たちに対してスピードの面でアドバンテージを得ることができる。カストレイア流にはない技法であり、これならば〈深理〉として発表しても問題はないだろう。


「いや、ダメだな。ルクトも同じことができる」


〈深理〉として発表することに問題はないだろう。しかしルクトに贈る結納品としてはまるで価値がないと言わざるを得ない。なにしろ彼も練気法が使えて、まったく同じ使い方をしているのだから。ありがたみがまるでない。


「それ以外の方法……、新しい方法……。う~ん」


 ラキアは考える。しかし、いい考えはなかなか浮かばない。彼女は温泉に浸かったまま、食事の支度が終わったルクトが呼びに来るまで思案を続けた。そしてちょっとのぼせた。


 遠征から帰ってきた次の日の午後、ルクトがメリアージュのとこに料理を習いに行くと、ラキアは実家であるカストレイア流の道場へと向かった。また「喧嘩でもしたのか」と言われたので、そこははっきり「違う」と言っておく。今日彼女が道場に来たのは、〈深理〉のことでジェクトに相談したかったからだ。


「ふむ……。より速く動く方法、か」


「はい。どうにもいいアイディアが出てこなくて……」


 遠征中(というより〈オリジン・スフィア〉に引っ込んでいる間中)もずっと、ラキアはずっと〈深理〉のことを考えていた。「より速く動く」という方向性だけは決まったのだが、それをいかにして実現するのかはまったく手探りの状態である。というより、手探りのまま暗礁に乗り上げてしまった感がある。つまりお手上げ状態だった。


 娘の困り果てた様子にジェクトは苦笑する。以前に彼女が〈深理〉をどうするかで悩んでいたときも、これほど困った様子を見せることはなかった。状況が違うと言ってしまえばそれまでだが、彼女にとって夫となったルクトの存在はやはり大きいらしい。


 微笑ましい気持ちになりながら「愛は偉大だな」と、ジェクトは内心で呟く。そして、そんなラキアが知れば顔を真っ赤にするであろう内心はおくびも出さず、彼は伸ばし始めた顎鬚を撫でながら口を開く。


「……お前も知っている通り、闘術というものは基本的にマナの濃度によって制限される」


 よってマナの濃度が同じであれば、集気法による強化の度合いは一定になる。これは人間の力では変えることのできない確定事項だ。〈外法〉という例外もあるが、あくまでも“外法”なのでこれは脇においておく。


「そして強化の度合いが同じなら、よほど技量に差がない限り『速すぎて相手を見失う』ということは起こらない」


 ジェクトの言葉にラキアは頷く。強化の度合いが同じなら、スピードだけで相手を圧倒することはできない。お互いの技量が拮抗しているのであれば、なおのことそう言える。ルクトと頻繁に立会い稽古をしているラキアは、そのことを身にしみて理解していた。


「では、どうすればいいのでしょう?」


 ジェクトに言われたことは、ラキアも遠征中に散々考えた。そしてどうすればいいのか分からなかったので、今日こうして相談に来たのだ。しかしジェクトは少々意地悪な笑みを浮かべながら、はぐらかすようにしてこう問い返した。


「どうすればいいと思う?」


「それが分かっているなら、相談には来ません」


 ムッとした表情を見せる娘を見て、ジェクトは苦笑を浮かべる。そしてさらに問い掛けを重ねた。


「そもそも、なぜ相手より速く動けると有利なのだ?」


「それは……、回り込んだり、隙を突いたり、相手を翻弄したり、そういうことができるからでしょう?」


「ふむ。確かにその通りだな。だが多くの場合、相手が少し速く動く程度ならば対処のしようは幾らでもある」


 ジェクトのその言葉にラキアは押し黙る。確かに彼の言うとおりなのだ。ハンターより素早く動くモンスターというのは時たま出現(ポップ)するが、ラキア自身対処の仕方は心得ている。つまり多少速く動けるだけでは、大きなアドバンテージにはならないのだ。


「では少し問いを変えよう。どういう時に素早く動ければ、戦闘を有利に進められる?」


 その問い掛けに対し、ラキアは今までの経験を総動員して答えを探す。そんな彼女の脳裏に浮かんできたのは、かつて行ったルクトとの模擬戦。彼が初めてラキアに練気法を見せた、あの模擬戦である。


 あの時ラキアは、ルクトが突然速度を上げたその動きにまったく対応できなかった。今ならば、対応することは可能だろう。しかしあの時はできなかった。それはなぜか。


 練気法について何も知らなかったからである。知っている今ならば対処できる。あの時は初見だったから対応できなかった、というのは言い分としては正しいだろう。


 では、なぜ初見だと対応できないのか。それはその行動が来ると身構えていないからである。意識にない、つまり不意を打たれる、あるいは意表を突かれるので咄嗟に反応することができないのである。


 逆を言えば、不意を打ったり意表を突いたりすれば、初見でなくとも相手は対応できないのだ。どんな達人であっても身構えていなければ、あるいは思いがけないことをされれば、素人に一本取られることもある。つまりはそういうことである。


 そういう時、つまり不意を打ったり意表を突いたりする時、素早く動けるというのは大きなアドバンテージになる。なぜなら相手に立ち直らせる時間的な猶予を与えないからだ。相手が反応できなければそれで勝負は付くし、反応できたとしても体勢を崩していればその後を有利に進めることができる。


「……素早く動いて不意を、意表を突く。相手が『まだ動かない』と思っているその時に、一気に勝負をつける」


「ふむ、それがお前の答えか」


 ラキアの呟きを聞いて、ジェクトは満足そうにそう言った。そんな父にラキアは深々と頭を下げる。一歩前に進めた感触があった。


 さて、ここから先はひたすら自己鍛錬である。まずラキアはどうすれば相手に「まだ動かない」と思わせることができるのかを考えた。その結果出した答えは「構えを取らない」というもの。太刀を鞘に収めたまま、腰を落とすのでもなく直立する。それを基本の形とした。


 次に、そこから素早く攻撃に移らなければならない。だがこれが非常に難しい。なにしろ“静”の状態から一息で“動”の状態へ、しかもその前兆を相手に悟らせることなく一気にトップスピードの状態へ持っていかなければならない。その無茶苦茶な条件にラキアは散々苦労させられることになった。


 なにしろ、直立した状態と言うのは筋肉が伸びきっているから、そもそも素早く動ける姿勢ではないのだ。少なくとも初速は出ない。しかし一気にトップスピードを出すためには、この初速が何よりも重要になる。なぜなら、一歩踏み出した時点で相手には気づかれる。だからその一歩が勝負になるのだ。


 ラキアは直立したその状態から、どうすれば素早く踏み込むことができるのか、徹底的に試行錯誤を繰り返した。だが、身体の使い方を工夫するだけでは思うような成果は出ない。早々に壁に突き当たってしまった。


 この時、突破口になったのは練気法だった。筋肉的な部分で何かしらの準備をしておくことはできない。ならば他の部分で初速を出すための準備をするしかない。ではどこで準備をするのか。〈烈〉である。


 筋肉ではなく、烈によって身体を動かす。ラキアが目指したのはそういうイメージだった。傍から見ればただ直立しているだけにしか見えないその裏側で、彼女は非常に複雑に烈を練り上げている。足だけではない。ラキアは全身に烈を循環させていく。動かないことが前提なので、烈の制御に集中できるのだ。


 それは弓の弦を引き絞るのに似ていた。弦を引き絞った弓は手を離すと同時に矢を勢いよく撃ち出す。それと同じように、練り上げられた烈は僅かに身体を動かすのと同時に解き放たれ、そして爆発的な加速を生み出すのだ。


 烈によって身体を動かすその訓練を続けているうちに、ラキアはむしろ身体の力を抜いていくようになった。身体に力が入っていると烈の制御が上手くいかない。また練り上げた烈を解き放った時、身体に力が入っているとむしろ全身の動きが阻害されることに気づいたのだ。


 ラキアは完全な虚脱状態を目指した。もちろん、立って身体を支えている以上、完全に力を抜くことはできない。そんなことをしたら倒れてしまう。しかし可能な限り身体から余計な力を抜き、ただ烈によってのみ身体を動かすことを彼女は目指した。


 そうやって一応の完成を見た自分の〈深理〉に、ラキアは〈虚空閃〉と名前をつけた。力を抜いて直立した状態からの、神速の移動法。“法”ではなく“閃”としたのは、その移動法に打抜きが組み込まれているからである。ただし、〈虚空閃〉の考え方そのものはあらゆる武器に応用が可能だ。


 ラキアは速く動くことよりは不意を打つことを優先して〈虚空閃〉を設計したが、嬉しいことにその移動法は単純に練気法を使うよりも速い動きを可能にした。その速度たるや、ジェクトをして「まるで消えるようだ」と言わしめたほどである。ほぼ一直線にしか動けないとはいえ、当初の「より速く動く」という目的も達成されたと言って良いだろう。


 とはいえ、〈虚空閃〉はまだまだ荒削りな技法だった。編み出されたばかりなのだから、それは仕方がない。これから長い時間をかけてより洗練し、完成度を高めていくことになるだろう。だが、ルクトにこの〈深理〉を贈るのに、そこまで時間をかけるわけにはいかない。


 ルクトに〈深理〉を贈ると決めてからおよそ半年後、ついにラキアは自分の編み出した〈深理〉である〈虚空閃〉をルクトに見せること決意した。



▽▲▽▲▽▲▽



 その日の朝早く、ラキアは朝の鍛錬にルクトを誘った。薄く朝霧が広がる中、二人は家から少し歩いて郊外の開けた広い場所に移動する。そして軽くストレッチをしてから二人はそれぞれ木刀を構え、お互いに型をなぞるようにしながら打ち合いを始めた。


 最初はゆっくりと木刀をぶつけ合い、そしてだんだんとスピードを上げていく。そうやって身体を温めていくのだ。そして十分に身体が温まると、二人は一旦適当な間合いを取って動きを止めた。


「ルクト、あの、少しいいか……?」


 いつもであれば本格的な立会い稽古を始めるタイミングだったが、ラキアは構えていた木刀を下ろしてルクトにそう尋ねた。それを見て、ルクトの方も一旦構えを解く。


「ん? どうした?」


「わたしがこの半年ぐらいの間、ずっと〈深理〉に取り組んできたことは知っているだろう? それがようやく、一応だけど完成したんだ」


「へえ、それはおめでとう」


「うん、ありがとう。……それで、その〈深理〉をルクトに受け取って欲しい。その、わたしの結納品として」


 ラキアが顔を赤くしながらそういうと、ルクトはポカンとした顔をした。そして言われたことに理解が及ぶと、彼は楽しそうに苦笑を浮かべた。


「なるほど……。それで今までオレには頑として見せなかったわけだ」


「うん、まあ、そういうこと」


 ラキアは今日まで自分の〈深理〉に関わることを何もルクトに教えてこなかった。自分から話題にすることはもちろん、ルクトがその話題を振ってきたとしても「未完成だから」と押し切ってなにも話さないできたのだ。もちろん、鍛錬は彼がメリアージュのところに行っているときにおこなっていた。だからルクトはラキアの〈深理〉が一体どんなものなのか、本当に何も知らない。


 プレゼントだし、驚かせたかったというのはもちろんある。だがそれ以上に、ラキアはルクトの力を借りずに〈深理〉を完成させたかった。だってそうしないと、自分が贈る結納品として胸を張れないではないか。まあ、ちょっとムキになって隠していたことは否めないが。


「それで、なんていう名前なんだ?」


「〈虚空閃〉、と名付けた。どんな技なのかは、これから見せるよ」


 ラキアがそういうと、ルクトは「へえ」と言って面白そうな顔をした。木刀を正面に構える彼の顔には不敵な笑みが浮かんでいる。アレは絶対、初見で見切ってやると意気込んでいる顔だ。


(勝負……!)


 胸の中でそう呟き、ラキアは全身の力を抜いて烈を練り始めた。木刀を下げたまま直立するその姿に、ルクトがわずかに眉をひそめる。それを見て、ラキアはフッと微笑み、そして動いた。


 練り上げた烈が解き放たれる。爆発的な加速を得て、ラキアは最初の一歩を踏み出しそして一気にトップスピードに乗って間合いを詰める。そして反応しきれていないルクトの喉下に木刀の切っ先を突きつけた。


「え……!?」


 ルクトが小さくそう声を漏らしたのは、ラキアが動きを止めてからだった。当然、勝負はもう付いている。全く反応できなかったことに、ルクトは少なからずショックを受けている様子だった。


「これが、わたしの〈深理〉、〈虚空閃〉だ」


「……すごい、すごい技だな。ありがたく貰うよ、ラキ」


 ルクトがそう言うと、ラキアは喉下に突きつけていた木刀を引いた。そして彼女は満面の笑みを浮かべる。


「よし、ルクト! さっそく教えてやるぞ。この〈虚空閃〉という技はだな……」


 そしてラキアは嬉々としながら自分の〈深理〉をルクトに伝授する。自分の編み出したこの技が、数百年の先も彼の力になりますように、と願いながら。


 ちなみに。ルクトは〈虚空閃〉を習得してから、メリアージュとの稽古で使ってみたのだが、初見だったにもかかわらずものの見事に彼女に見切られてしまった。唖然とした彼は「化け物……」と呟いたとかなんとか。そしてそれをばっちり聞かれて笑顔のメリアージュにこってり絞られたとかなんとか。


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