〈蒼穹〉
「ルクト、ここにいたの?」
「ルシか」
フワリとすぐ横に現れたルシフィーネに、ルクトは視線だけ動かしながらそう応じた。ルシはまるで彼のことを探していたような口ぶりだが、ここ〈オリジン・スフィア〉の中で彼女の目を逃れることはできない。それを指摘すると、ルシは「円滑なコミュニケーションを取るための、言葉の綾よ」と言って得意げに胸を張った。その言葉に苦笑しながら、ルクトは視線を前に戻す。その視線を、ルシも一緒に追いかけた。
「大きくなったわねぇ、〈天元祖樹〉」
感慨深げな声で、ルシはそう言った。ルクトの視線の先には、立派に成長した〈天元祖樹〉の姿がある。樹の背丈は十メートル近い。大樹と呼んでも差し支えないだろう。幹も太く、成人男性であるルクトが両手を広げてもその半分程度にしかならない。葉が生い茂り、その生命力は圧倒的だ。枝の上には、木陰を求める小鳥の姿も見える。
さらに二十年ほど前からは季節ごとに花を咲かせ実を付けるまでになった。試しにその実を食べてみたのだが、これが美味い。調子に乗ってお酒も作ってみたのだが、これがまたものすごく美味い。頑張って成長させてきてよかったと思ったものである。ルシからは呆れられたが。
「あなたと契約してからだいたい100年。たゆまぬ努力の賜物、ね?」
ルシの言葉にルクトは頷く。彼女の言うとおり、あれからおよそ100年が経った。
およそ100年前、ヴェミスに帰ってきたルクトはラキア・カストレイアと結婚した。彼女との結婚は誰からも反対されることなくすぐに決まった。ラキアの父であるジェクトはもともとこの話に乗り気だったし、メリアージュがこの手の話に首を突っ込んでくることはない。ただ式には彼女も出席してくれたので、祝福してくれていたことは間違いないだろう。
ラキアと結婚したルクトは、彼女との間に三人の子供をもうけた。長男、次男、そして長女である。ただ覚悟していた通り、彼らがいわゆる“普通の”家族になることはなかった。
最初の十年はそれでも普通だったのだろう。しかしそれ以上の時間を重ねるにつれて、どうしても普通ではない部分は目に付くようになる。
老いていくラキア。成長していく子供たち。しかしその中で変わることのないルクト。それはどうしようもなく一目瞭然で隠しておけるようなものではなく、そしてまた見て見ぬ振りをしていられるようなものでもなかった。かつてルクトが言ったように、それは残酷で辛い現実だった。
しかしだからと言って、その生活は不幸だったわけではないとルクトは思っている。それどころか、切り取った一瞬一瞬はいつだって幸せだった。ただし、その幸せを連続した時間の中で眺めたとき、ある種の苦さを覚えることもまた事実である。
『100年の間、人間としての幸せを噛み締めなさい。その幸せが、なにより雄弁に教えてくれるわ。あなたがもう人間ではなくなったということをね』
かつてルシはルクトにそう言った。そしてその言葉のとおりであることを、ルクトは思い知った。幸せであればあるほどに、彼の胸には哀愁が漂う。ただそれさえも彼にとってはかけがえのない思い出。一つずつ受け止め、いずれ終わる時間を大切に過ごしてきた、つもりだ。
『わたしは、幸せだった。ううん、今も幸せ。あの時、手を握ってくれてありがとう』
最期にそう言い遺し、ラキアは八十三歳でこの世を去った。武芸者であったせいなのか、実年齢よりもずいぶん若い姿だった。
彼女もまた辛い思いをしたのだろう、とルクトは思っている。夫は若いままなのに、自分だけが老いていく。たとえそれが自然なことだとしても、その苦痛は果たしていかばかりか。しかしそれでもラキアは最期に「幸せだ」と言ってくれた。彼女のその言葉はルクトにとって支えになった。
ルクトの子供たちは、親の影響なのか三人ともカーラルヒスのノートルベル学園に留学した。ルクトやラキアのことを覚えている人たちもまだ多くいて、色々と両親の若かりし頃の話を色々と聞いてきたようである。
留学から帰ってくると、子供たちはそのまま独立した。もしかしたら、彼らは早く独立したがっていたのかもしれない、とルクトは思っている。長命種(実際には違うのだが)を親に持った子供と言うのは、案外そう言うものなのかもしれない。
とはいえ、親子の仲が悪かったわけでは決してない。孫の名前を考えたりもしたし、末の娘が「結婚したい」と言って相手を連れてきたときには不機嫌になったりもした。ただどうしても。お互いに距離を取ってしまったり、距離を測りかねたりしてしまう面があったことは否めない。ただ相談した相手は「ウチだってそうだよ」と苦笑していたが。
あるいは、長命種(本当は契約者)であることを一番気にしていたのは自分自身なのかもしれない、とルクトは最近思っている。もしかしたらメリアージュもそうなのだろうか。そんなふうに考えたこともあるが、しかしその悩みを彼女に打ち明けたことはまだない。この手の話題を彼女と話すには、まだまだ年季が足りないと感じてしまうのだ。
さてルクトの私生活はこのくらいでいいとして、武芸者としての彼はこの100年をどう過ごしてきたのか。
ヴェミスに帰ったらパーティーを組むとルクトは常々言っていたが、実際に彼がパーティーを組むことはついになかった。彼はただ、妻であるラキアとだけコンビを組み迷宮に潜った。そして彼女が妊娠などによって攻略を行えなくなると、その時にはソロで迷宮に潜った。
またルクトは攻略とは別に、時間を取ってメリアージュとの稽古を重ねた。「鍛え直す」と言っていた通り、その稽古は非常に厳しいものだった。契約者となりその肉体は「長命種より強靭になっている」とルシは話していたが、稽古を始めた当初は文字通り手も足もでなかった。まともに打ち合えるようになるまで十年かかり、さらに勝率が一割を超えるまでにもう二十年かかった。
『ふむ、幾分まともになってきたな。よろしい。ではそろそろ本格的な稽古を始めるとしよう』
ボロボロになったルクトにメリアージュがそう宣言したのは、二人が稽古を始めてから三十六年と二ヵ月後のことだった。今までの稽古が全てただの前準備であったことを知って、さすがにルクトも唖然とした。
彼女の言う「本格的な稽古」とは、迷宮の中で行う個人能力を使用した稽古だ。当然だがより実戦的で、ただの武芸者からすれば死合いとしか思えない壮絶な稽古を二人は行った。ルクトが長命種であるという評価がヴェミスに根付き浸透したのは、もしかしたら歳を取らない彼の姿よりもこの激しい稽古のおかげだったのかもしれない。
『あのメリアージュって言う人、すごいわねぇ……』
ルシがそう言って感心するくらい、個人能力〈闇語り〉を駆使して戦うメリアージュの戦闘能力は驚異的だった。ルクトにも〈加護〉があるからそうそう後れは取らないのだが、しかし本格的な稽古が始まってからというもの、彼はまだ一度もメリアージュに勝ったためしがない。
単純な力比べなら、間違いなくルクトが勝つだろう。ルシが与えてくれる〈加護〉はそれくらい強力だった。しかしメリアージュの巧さはさらにその上を行く。彼女はまさしく経験の差でルクトを圧倒していた。しかもセイルハルト・クーレンズはその彼女よりもさらに強いという。彼が一体どれほどの高みにいるのか、ルクトには想像さえできなくなっていた。
『これはちょっと、長命種というものを見くびっていたわね……』
ルシのその言葉にルクトは深く同意した。彼らは伊達に長く生きているわけではないのだ。100年も生きていないルクトなど、彼らにとってはまだまだ“若造”なのである。
まあ、それはそれとして。メリアージュとの稽古の中でルクトは契約者としてルシが改造、もとい強化した身体を完全に制御できるようになり、また〈加護〉の扱いを習熟していった。
〈加護〉を使い続けるうちに、ルクトの外見に多少の変化が現れるようになった。一番変わったのは髪の毛だろう。彼はもともと黒髪だったのだが、〈加護〉を使い続けるうちに少しずつ色が抜けていった。今では完全な銀髪である。コレだけでずいぶんと雰囲気が変わってしまった。
もっとも、当のルクトはと言えば元来外見には無頓着な性質で、髪の毛の色が変わったこともさして気にしてはいなかった。彼が唯一気にしていることと言えば、孫娘がこの髪を気に入ってしまい、「切っちゃダメ!」と言われて伸ばさざるを得なくなったことくらいだ。しかも言われたとおり伸ばしているあたり、彼も孫には弱いのかもしれない。
さらにもう一箇所、左目の色が変わっている。ルクトの目はもともと黒なのだが、左目だけが濃い藍色に変わっているのだ。
これはメリアージュとの稽古中に誤って左目が潰れてしまったことがあるのだが、その目をルシが再生したときに色が変わったのである。ルクトの目を潰してしまい、さすがのメリアージュも最初はひどく動揺したが、再生された左目を見てその能力に呆れ、そしてそれから稽古がさらに厳しくなった。多少無茶をしても大丈夫だと思うようになったのかもしれない。
ずいぶんと変わってしまった自分の姿を見るたびに、ルクトは100年という時間が過ぎたことをしみじみと感じる。長いようでもあったし、短いようでもあった。ただ、濃密な時間であったことは間違いない。
そして100年というのは一つの区切りでもある。「人間としての幸せを噛み締めなさい」とルシに言われた、その期間である。そろそろルシの〈頼み事〉、すなわち迷宮最深部への到達を目指して動き始めたい頃合だ。
「……ま、そのためにもまずは」
まずは、メリアージュに勝たなければならない。まぐれだろうと何だろうと、まずは一勝。その一勝をもぎ取らない事には、次の段階へは進めない。
「これからまた稽古でしょう? 勝算はあるの?」
ルクトの横に浮かぶルシが面白そうにそう問いかける。これまで対戦成績はルクトの全敗。彼も少しずつ強くなっているとはいえ、まだまだメリアージュとの差は大きい。というより、ルクトとの稽古を重ねることでメリアージュもまた強くなっていきている、というのがルシの見立てだ。よってこれまで通りに戦えば、これまで通りに負けるだろう。しかしルクトは自信ありげににやりと笑った。
「ま、ぼちぼち頑張るよ」
「そう。じゃ、頑張ってきなさい」
そう言って笑うルシにひらひらと手を振ると、ルクトは〈ゲート〉を開いてその向こう側に消えた。
▽▲▽▲▽▲▽
〈オリジン・スフィア〉を後にしたルクトは、その足で迷宮に向かった。用があるのは、一階層の広場。ルクトとメリアージュが稽古をしている場所である。
入り口から幾分離れたその場所に到着すると、ルクトは目を閉じて意識を集中する。神経を研ぎ澄まし、視覚に頼って鈍りがちな他の五感を覚醒させていく。そうやって身体を“起こして”いくのだ。
そして頭の中でメリアージュとの戦いをシミュレートする。こう動いたら、こう動く。こう動いたら、こう動くだろう。その場合はこう対応する。別の場合はこう。あるいは……。
幾つもの可能性を考え、その際の動きを想定しておく。そうすることで、自分と相手を含め、予想外の行動を減らすのだ。
もちろん実際に戦っている最中に「コレにはあらかじめ考えておいたアレで」などと考えている暇はない。しかしあらかじめ動きを考えておくと、いざという時にすんなりと身体が動くものなのだ。大切なのはそれである。
やがて静かだったその場所に、「コツコツコツ」という硬質な足音が響いた。神経を研ぎ澄ましていたルクトが、その隠しもしない足音に気づかないはずもない。ゆっくりと目を開け、その足音の主に視線を向けた。
そこにいたのは、一人の美しい女性だった。ただし、その女性の出で立ちは戦装束。長い濡羽色の髪の毛は、後ろで一つにまとめて背中に流してある。装備は胸当てと籠手、そして脛当てを身につけ、手には槍を持っていた。その下に着ている物も含め、色は全て黒で統一されており、また一目見て最上級品と分かる装備である。
金属製の装備は全てつや消しがされているのか、深く落ち着いた雰囲気をかもし出している。唯一の例外が槍の穂先だ。ここだけはつや消しがされておらず、透明感のある美しい光沢で輝いていた。
完全に実戦を想定したそれらの装備の中で、唯一つ異彩を放っているものがある。それは、彼女が頭につけたサークレットだ。黒で統一された装備の中、このサークレットだけは白銀に輝いている。施された巧みな細工は、これが名工の作品であることを示していた。
ただの武芸者がこのような品をわざわざ戦装束に合わせて身につけるはずがない。それは〈闇語り〉のメリアージュの、実力に裏打ちされた自負と自信の表れである。
「先に来ておったか。では、すぐに始めても良いな?」
「ああ、いつでも」
ルクトがそう応じると、メリアージュは「よろしい」と言って槍を構えた。その彼女に対し、ルクトはまったく構えを取る気配が無い。自然体のまま、そこに立っている。しかし次の瞬間に動いたのは彼のほうだった。
――――カストレイア流刀術、深理・〈一刀閃〉。
完全な虚脱状態から繰り出されたその一閃は、かつてのそれとは段違いに速い。まさに神速。しかしその一撃であっても、メリアージュを捉える事はかなわない。
彼女はルクトの〈一刀閃〉を身を低く屈めて避けていた。そしてその低い位置から槍をすくい上げるようにして振るう。脇腹を狙ったその一撃を、ルクトは左手で引き抜いた太刀の鞘で受け止め、そして同時に衝撃に逆らわずに飛んでやり過ごす。
ルクトの足が、トンと迷宮の白い床に触れる。メリアージュが動いたのは、それと同時だった。半瞬遅れて、ルクトもまた彼女を迎え撃つべく前に出る。動きは遅れたが見えている。虚を突かれたわけではない。十分に付いて行けている。やがて二人は、激しく切り結び始めた。
メリアージュの動きは複雑だった。間合いの広さを生かした突き一辺倒ではない。それではすぐルクトに間合いを詰められてしまうと彼女も理解している。伊達にこの100年シゴイてきた訳ではないのだ。
彼女は縦横無尽に槍を振り回す。穂先を避けたかと思えば、次の瞬間には石突が跳ね上がる。頭を狙ったかと思えば、足元を払いにくる。間合いを取ったかと思えば逆に詰める。緩急をつけ、呼吸を読ませず、小さな隙を見逃さずに踏み込む。実に巧みな戦い方だった。
そんなメリアージュの動きについていけるルクトもまた、ゆうに達人の域を超えているといわなければならない。彼女の攻撃は不規則に軌道を変えるが、ルクトはそのほとんどを紙一重でかわし、あるいは受け流していく。カストレイア流を学ぶものがその動きを見れば、もはや羨望さえ抱けないであろう。彼は基本的に守勢だったが、それでも反撃は鋭くメリアージュであろうとも無視はできない。
「さて、そろそろ身体は温まったかえ?」
「十分に」
激しく切り結んでいた二人は示し合わせたように距離を取ると、獰猛な笑みを浮かべながらそう言葉を交わす。ルクトは神経が昂ぶっていることを自覚する。しかしその一方で頭の中は澄み渡り、淀み一つない。いい状態だ、とルクトは思った。今日は勝てそうな気がする。
(ま、そう思っては負け続けてきたんだけどな)
内心で自虐的にそう笑い、突っ走りそうになる思考を引き止める。そんなことを考えていて勝てる相手ではない。ましてこれからようやく本番。これまで以上に集中しなければ、比喩でもなんでもなく死ぬことになる。
(その時は私が蘇生するけどね)
緊張感の無いルシの声が頭の中に響き、ルクトは内心で苦笑した。おかげで余計な力が抜ける。それを見計らったわけではないのだろうが、メリアージュが物騒な笑みを浮かべながら本番の開始を宣言する。
「では……、行くぞ?」
そう言った瞬間、メリアージュの身体から〈闇〉が噴出した。その〈闇〉がまるで陽炎のように彼女の姿を隠す。
(ルシ)
(ええ、行くわよ)
ルクトの呼びかけに答え、ルシが彼に〈加護〉を与える。すると、彼の身体が青白い光に包まれた。さらに彼の銀髪が青く輝きながら、まるで風に吹かれたかのように揺らめく。身体を満たす全能感。しかしこの力を持ってしても、ルクトはこの本番ではまだ一度もメリアージュに勝てていない。ゆえに、この力に溺れぬようなによりも心を引き締める。
ルクトが見据えるその先でメリアージュが、いや彼女が纏う〈闇〉が動く。蠢くようにゆっくりと。しかし〈闇〉のその動きに惑わされてはいけない。〈闇〉を操るメリアージュ本人はそれとはまた別に動いているのだから。
「……ッ!」
僅かな気配を感じたルクトが太刀を振るう。方向は左。牽制ではない。鋭く踏み込み、体重を乗せた一撃だ。〈加護〉をのせた太刀の刃が、〈闇〉を纏った槍を迎え撃つ。
接触、そして衝撃。
メリアージュとルクトの一撃がぶつかり合うと、そこを中心にして暴力的な衝撃波が荒れ狂った。広場の白い床に、幾つもの亀裂が走る。幸い崩落はしなかったが、いつ崩落してもおかしくない状態だ。この広場では、もう満足に戦えない。
ではどこで戦うのか。衝撃波が収まると、二人は同時に後ろに跳んだ。そして跳んだまま下に降りてこない。見れば二人とも自力で宙に留まっていた。メリアージュは〈闇〉を翼にして羽ばたき、ルクトは槍の穂先に似た三枚の翼を背負って空中に堂々と佇んでいる。
悠然と宙に佇むルクトの姿を見て、メリアージュは胸の中で感慨深いものを感じた。あの小さかった子供が、よくぞここまで成長したものだと思う。それは誇らしくあり、また寂しくもある。
そのルクトの姿に、メリアージュは過去の自分を重ねる。セイルハルト・クーレンズに拾われ、彼に師事していたころの自分だ。結局メリアージュは師であるセイルを超えることなく彼の下を去った。
それが間違っていたとは思わない。あの時は、ああすることが必要だった。しかしもしかしたら、セイルはメリアージュに自分のことを超えて欲しいと思っていたのではないだろうか。ルクトに稽古を付ける中で、彼女はそんなふうに思うことが何度もあった。なぜなら、メリアージュ自身が今まさにそう思っているからだ。ルクトが自分を超えていくその時を待っているからだ。
ゆえに、手加減など一切しない。持てる力の全てを振るい、叩き潰す。譲った勝利になど意味はないのだから。ルクトにとっても、そしてメリアージュにとっても。
槍を構え、神経を研ぎ澄ます。〈闇語り〉の全てを駆使して、メリアージュはルクトに仕掛けた。
メリアージュが動くと、ルクトもまた動いた。彼女の動きは速いが、しかしルクトも負けずソレに喰い付いていく。二人は何度も空中で交差した。しかしやはり、空中戦ではメリアージュのほうに一日といわず十日ほどの長がある。縦横無尽と言うべき彼女の動きに、ルクトは防戦一方だった。
「ちぃ!」
舌打ちを漏らしながら、ルクトは左手に〈加護〉の力を集める。そしてそれを、そのままメリアージュに向けて放った。放たれた〈加護〉の力は、幾筋もの光線となってメリアージュに襲い掛かる。
ルクトの放った光線がメリアージュの〈闇〉を貫いていく。しかしルクトの表情は優れない。あの〈闇〉は言ってみれば目くらまし。メリアージュ本人はあの光線を全て回避している。
「やっぱり小細工じゃ通用しない、か……」
「無駄だと分かっておるなら、最初からするな!」
ルクトの呟きは独り言だったが、思わぬ場所から言葉が帰ってくる。宙を跳びながら移動する彼の背中側。つまり後ろを取られている。彼が慌てて身体を半回転させると、槍を振り上げるメリアージュの姿が目に入った。
「っ!?」
反射的に太刀で防御する。しかし体勢がまるで整っていない。メリアージュの強力な一撃を受けたルクトは、その場に留まることができずに勢いよく落下していく。その彼に、メリアージュはすかさず追撃を仕掛けた。
落下していくルクトに対し、メリアージュは圧し掛かるようにして攻撃を被せていく。ルクトはその攻撃を何とか捌いていくが、しかし圧倒的に不利な体勢のなか、少しずつ押し込まれていく。このままでは、いずれ限界が来る。
「ちぃ!」
舌打ちを漏らしながら、ルクトは突き出された槍を太刀の峰で払う。そしてそのまま身体を回転させて不利な体勢から抜け出す。そうはさせじとメリアージュの〈闇〉がルクトの足を掴むが、彼は掴まれた足に〈加護〉の力を集中させてその〈闇〉を払う。
ルクトが〈闇〉を振り払うと、メリアージュは一旦距離を取った。集気法を使い烈を補充しているのだろう。その間に、ルクトもまた烈を補充し〈加護〉をかけなおす。そうやってメリアージュの出方を窺っていると、頭の中にルシの声が響いた。
(ここまではいつも通りね)
(ああ。いつも通り勝ち筋が見えない)
劣勢であるにも関わらず、ルクトはどこか楽しげにそう応じた。メリアージュは一朝一夕に勝てる相手ではない。まして空中戦は彼女の得意分野。普通にやっていて勝てるわけが無いのだ。
勝つためには工夫を凝らさなければならない。もっとも、そうやって工夫を凝らしてみても今までに勝てたためしはない。だがそうやって工夫をしていくことそれ自体が成長に繋がる。ルクトはそう感じていた。
「そんじゃ、一枚手札を切ってみますか」
楽しげにそう言いながら、ルクトは〈ゲート〉を開いた。そしてそこに左手を突っ込む。〈ゲート〉から抜き出した彼の左手には、一本の太刀が握られていた。
「……カストレイア流はいつから二刀流になったのじゃ?」
呆れ気味なメリアージュのその言葉の通り、ルクトは左右の手にそれぞれ太刀を握っている。右手にはこの100年使い続けている純ヒヒイロカネ製の太刀。そして左手には、今しがた取り出した新しい太刀。彼のその姿を見れば、誰もが二刀流を使うと思うだろう。しかし彼は苦笑しながらこう答えた。
「あいにく、二刀流を習ったことはないよ」
「ふむ? まあ、よい。おぬしの新しい手札、見せてもらおうではないか」
そう言ってメリアージュは面白そうに笑った。ルクトはこの100年の間、努力と試行錯誤を繰り返し、手札つまり引き出しを増やしてきた。こうして宙に浮かんでいることも、最初はできなかったが努力を重ねてできるようになったのだ。また先程の光線も、彼が増やした手札の一つだった。
刀術だけに頼らず、遠距離攻撃を含め様々な可能性を模索する。一時期はヴェミス中の様々な流派の道場に出稽古をしていた。カストレイア流にはない技や考え方を学ぶためだ。自分では使えないとしても、そういうことは知っているだけでも武器になる。そうやって一つ手札を増やすたびに、彼はまた一つ手強くなっていった。
それを見守ることが、メリアージュにとっては何よりの楽しみだった。なぜなら、それは彼女自身も通った道だからだ。残念ながら彼女は最後までセイルに勝つことはできなかったが、それでもそうやって苦労したことが無駄だったわけではない。それどころかその積み重ねこそが今の自分に繋がっているとメリアージュは思っている。
そしてそれは今のルクトにも同じことが言える。今ここでやっていることが、将来の彼の基礎になるのだ。だからこそ、メリアージュも手を抜くわけにはいかない。かつてセイルがそうであったように、全力で彼の前に立ちふさがるのだ。
(さあ、なにを見せる?)
メリアージュが見据える先で、ルクトが左手に持った太刀に〈加護〉の力を注ぐ。するとその太刀は、青白い光を強烈に放つ。右手に持つ太刀とは比べ物にならない、段違いに強い光である。
今までに見た事のない、まさに桁違いの力。なぜいきなりそれほどの力を引き出せるようになったのか。メリアージュには心当たりがあった。
「……その太刀、アダマンダイト製か」
「ご名答」
若干硬くなったメリアージュの声に、ルクトはにやりと笑いながらそう答えた。
アダマンダイトには〈精神感応性〉という特性がある。その特性のおかげでこの金属は一部の個人能力にとって極めて優れた触媒になる。早い話、非常に能力が使いやすくなるのだ。
その実例が、ルクトの目の前にいる。メリアージュの装備は全て〈闇曜鋼〉という、アダマンダイトを〈闇語り〉の力で精錬してまた馴染ませた独自の素材によって作られている。そのため〈闇語り〉の力との相性は抜群であり、彼女はそのおかげでより強い力をより精密に扱うことができている。
ルクトが今回参考にしたのは、まさにこの〈闇曜鋼〉だった。彼は集めたアダマンダイトのインゴットに〈加護〉の力を注ぎ、その力を扱う上で触媒となる新たな素材を生み出したのである。そしてそのまだ名前さえない新たな素材を使って仕立てた太刀こそ、今彼が左手に持つ太刀だった。
この太刀は決して今まで使ってきた純ヒヒイロカネ製の太刀に取って代わるものではない。なぜなら刀術を使う際には、この古い太刀の方が技の精度が上がるのだ。いや、新しい太刀は古いものと比べて太刀としては使いにくい、と言った方がいいかもしれない。ともかく太刀としての性能、技を使ったときの感触や手に持ったときの安定感を比べれば、純ヒヒイロカネ製の太刀のほうに軍配が上がるのだ。
だからこの新しい純アダマンダイト製の太刀は、太刀としての役割を求めて作ったものではない。言ってみればより強力な力を振るうためのブースターである。単純にして圧倒的な力。それを追い求めた結果だった。
普通に攻略をする分には、そんな力は必要ない。むしろ邪魔になる。通路や広場を崩落させてしまうからだ。しかし経験は言うまでもなく、技量や駆け引き、また知識量においてもルクトはメリアージュに及ばない。ならば別の何かでその分の差を埋めなければ彼女には勝てない。そしてルクトが彼女に勝るものといったら、コレくらいしかなかったのだ。そして、どうやらその選択はあながち間違っていなかったようだ。
「ちぃ!」
珍しくメリアージュが舌打ちを漏らす。そして彼女は〈闇〉で作った翼をはためかせると、複雑な軌道を描きながら動き始める。自分の方から動くことで、主導権を握るためだ。高速で動きながらもメリアージュはルクトから目を離さない。タイミングを計り、そして彼の目が一瞬自分を見失ったまさにその時、メリアージュは一気に間合いを詰めた。
飛び込んでくるメリアージュの姿を、ルクトは捉えきれない。彼女の気配だけを頼りに、彼は身体を回転させながら太刀を振るった。その太刀をメリアージュはまるで予測していたかのように、垂直に軌道を変化させてかわす。そしてルクトの身体の回転とは逆方向に回り込む。急制動をかけたメリアージュの目の前にあるのは、無防備なルクトの背中である。ただし、速度を優先した動きのせいで、彼女が思っていたよりも広く間合いが開いてしまった。
(妾もまだまだ修行が足りんか!)
そのことを痛感しながら、メリアージュは素早く攻撃に移る。しかし結果として、開いてしまったその間合いが勝敗を分けた。
メリアージュが垂直に軌道を変化させて太刀をかわしたとき、ルクトの目からは彼女が消えたように見えた。しかも無理やり身体を回転させたせいで、体勢は出鱈目に崩れている。メリアージュは、この隙を見逃してはくれないだろう。
ではどうするのか。迎え撃つしかない。しかしメリアージュがどこにいるのか分からないし、小手先の迎撃では意味が無い。この状況で使える手札は一枚。ルクトはすぐに決断した。そして左手に力を込める。回転させたせいで泳ぐ身体を止めるのではなく、さらに勢いよく回転させて彼は太刀を振るった。右手に持った太刀ではなく、左手に持った太刀を。
「らあぁぁぁあああ!!」
叫び声をあげながら、身体の回転に合わせて左手に持った太刀を振り回す。そしてそれと同時にそこに込めた〈加護〉の力を解き放つ。しかも、線ではなく面で。そのまま一回転することで、ルクトは全包囲攻撃を仕掛けた。
ルクトが回転するのにあわせて、凄まじい力が側面から襲い掛かってくるのをメリアージュは感じた。しかも、範囲が広い。回避は不可能。しかし広範囲に拡散させたせいで、一点に絞った威力は低下している。これならば防御できる、とメリアージュは判断した。
彼女は〈闇〉を束ねて盾を作る。さらに広げていた〈闇〉の翼で身体を覆う。かろうじて間に合った。その半瞬後、青白い光の壁がメリアージュを襲った。
「ぐ、うぅぅ……!」
予想以上の力に、メリアージュが呻き声を漏らす。しかし耐え切れないほどではない。削られていく〈闇〉を補充しながら、メリアージュはその攻撃を耐えた。
一瞬だったような気もするし、数秒だったような気もする。ただ、十秒は越えていなかっただろう。やがてルクトの放った光壁は消えた。しかしメリアージュはすぐさま攻撃に移ろうとしない。否、移れない。ルクトの攻撃を耐え切ったとはいえ、それで力の全てを使い切ってしまったのだ。〈闇〉の翼を失った彼女は、そのまま落下して行く。
「やる……。じゃが……!」
落下しながらもメリアージュは冷静だった。確かに力の全てを使い切ってしまった。しかし改めて烈を練れば、幾らでも回復は可能である。彼女はまだ負けたわけではない。だがそのことは、ルクトもまた十分に承知していた。
ルクトもまた、持てる力の全てを全包囲攻撃につぎ込んでいた。そのため宙に留まることができなくなり、メリアージュに一瞬遅れて彼もまた落下を始める。その落下の最中、彼は〈ゲート〉を開くとそこに左手に持った太刀を放り込む。ここから先、これは邪魔になるだけだ。純ヒヒイロカネ製の太刀を両手で構えると、彼は身体を縦にして一気に降下を開始する。
今であればメリアージュも力を使いきっている。烈と〈加護〉が尽きているのはルクトも同じだが、しかし上を取っている分場所的な優位がある。これほどの好機はそうそうこない。思わず、声が出た。
「はぁぁぁあああ!」
メリアージュが集気法を使おうとした矢先、ルクトの声が響いた。彼女が反射的に顔を上げると、そこには太刀の切っ先を自分に向け一直線に降下してくるルクトの姿があった。
「ちっ!」
メリアージュが舌打ちを漏らす。今度こそ、彼女は眉間にシワを寄せて顔を歪めた。烈はまだ練れていない。しかしこの状況で集気法を使えば、それは致命的な隙になる。早い話、負ける。それを直感的に悟ったメリアージュは強化されていない身体でルクトを迎え撃つべく槍を振るった。
突き出された槍の穂先をルクトは払いのける。しかし相手はメリアージュ。すぐさま二撃三撃と繰り出され、ルクトはなかなか自分の間合いに入ることができない。
落下しながら、ルクトとメリアージュは得物をぶつけ合う。その衝撃は落ちていくばかりの二人の体勢を容易に崩した。時に離れ、時に左右を、時に上下を入れ替えながら、二人は“落下戦”を演じ続ける。
しかしいつまでも落ち続けられるものではない。やがて二人が落ちていく先に、白い広場が見えてきた。このままでは二人とも墜落してしまう。強化されていない今の二人では死んでしまうだろう。
「くっ……!」
メリアージュは焦った。そしてその焦りは攻撃を雑にする。その隙をルクトは見逃さなかった。
突き出された槍を、ルクトは少しだけ逸らした。その穂先が、彼の頬を浅く切る。それを無視して、彼は槍を握るメリアージュの右腕を左手で掴み、そして力かませに引き寄せた。
唖然とした顔をするメリアージュ。そんな彼女の背中に、ルクトは左腕を回した。広場はもう目の前。集気法は間に合わない。ルクトは頭の中で叫んだ。
(ルシ!)
返事はない。しかし、彼の意図は十分に伝わっている。彼の身体が〈加護〉の青白い光に包まれた。
そして、激突。
凄まじい音を立てながら、ルクトは広場に着地した。左足を前に踏み出し、若干前のめりになりながら、彼は広場に着地した。膝を深く曲げてはいるものの、それで全ての衝撃を吸収しきれたはずもない。彼が着地した広場にはその着地点にクレーターができ、またそこから無数のひび割れが広場全体に広がっていた。
メリアージュは一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。彼女は槍を突き出した姿勢のまま、仰向けに迷宮の暗い空中を眺めていた。足先は広場についているが、しかし体重を支えているわけではない。
背中に、ジンワリと温かいものを感じる。そこでようやく、メリアージュは自分がルクトの左腕に抱き寄せられていることを知った。少しだけ視線を動かすと、彼の後頭部が見えた。
(そういえば、こうして誰かに身体を支えられるのは久しぶりじゃな……)
そう思った瞬間、メリアージュは小さく微笑んで身体の力を抜いた。そして宙を見上げながら小さく呟く。
「妾の、負けじゃ……」
「ありがとう、ございました」
▽▲▽▲▽▲▽
「夜になったら、食事を食べに来い」
そう言い残し、メリアージュは迷宮を去った。ルクトもまた迷宮を出て、そして〈オリジン・スフィア〉の中に入った。目当ては温泉である。ひとまず汗を流したかった。
ゆっくりと温泉につかって興奮した精神を落ち着けると、ルクトは夜まで〈オリジン・スフィア〉の中に用意した平屋の一戸建てで過ごした。もちろん、外にも家はある。ただ、ラキアが死んでからはこちらで過ごす時間が長くなった気がする。
「勝った、わねぇ」
ルクトがその縁側に座ってぼんやり外を眺めていると、フワリと現れたルシがしみじみとした口調でそう言った。
「勝った、なぁ……」
ルクトもまた、しみじみとした口調でそう呟く。ずっと勝ちたいと思っていた。しかしいざ勝ってみると、なぜか達成感よりも喪失感のほうが大きいような気がする。目の前の目標が無くなってしまったからかもしれない。
とはいえ、やることがなくなったわけではない。修行に一区切りがついたのであれば、今度はルシの〈頼み事〉、つまり迷宮最深部への到達のために動き始めなければならないだろう。そのためにはそれ相応の準備も必要だ。
これからやるべきことを頭に浮かべながらも、ルクトの身体は動かなかった。彼は何をするでもなく、ただ静かに夜が来るのを待った。
完全に日が沈んで夜が来ると、ルクトは〈オリジン・スフィア〉を出てメリアージュの家に向かった。彼女の家がある界隈はこの100年で随分と様変わりした。あの黒猫を追いかけた夜の面影は、もうほとんど残っていない。それは良いとか悪いとかそういう事ではなく、ただ自然な世の中の流れなのだろうとルクトは最近思うようになった。
「メリアージュ、来たぞ」
「うむ、勝手に入るがよい」
ルクトが玄関から声をかけると、奥からメリアージュの声がした。言われたとおり、勝手に中に入る。内装は色々と変わっているが、基本的な間取りは100年前となにも変わっていない。ルクトはすぐに食堂としても使っている居間に入った。
食卓の上にはすでに幾つもの料理が並べられていた。ハーブをふんだんに使ったサラダ。季節の野菜を煮込んだポトフ。ミートソースたっぷりのラザニア。チーズの生ハム巻き。ラタトゥイユと燻製肉を挟んだホットサンド。スモークサーモンのカルパッチョ。ジャガイモとほうれん草のキッシュ。分厚く切った牛肉のソテーには濃厚な赤ワインのソースがかけられている。デザートはブルーベリーのタルトだった。手の込んだ、温かみを感じさせる料理の数々である。
(相変わらずの料理上手、か……)
およそ100年前、メリアージュに拾われてからカーラルヒスに留学するまでの間、ルクトは毎日彼女の手料理を食べていた。彼女が料理上手であることはその時から知っていたが、ますます腕を上げたようである。
料理の準備が整うと、ルクトとメリアージュは向かい合わせに座って乾杯した。ちなみにグラスの中身はルクトが手土産として持ってきた、〈天元祖樹〉の実から作ったお酒である。
メリアージュと二人っきりで食事をするのは久しぶりだった。そしてお互い、100年前と姿が変わっていない。なんだか、あの日に帰ったような気になった。
話題はやはり、この100年の間にあったことだ。昔のことを話すとき、ルクトはかすかな寂しさを覚える。こういう話をするのもメリアージュだけになってしまった。
ルクトを拾ったときのことをメリアージュはよく覚えていたし、彼自身忘れられるはずもない。彼が幼かった頃の話を、メリアージュは楽しそうに話した。ルクトが恥ずかしそうな顔をすると、彼女はさらに楽しげに笑った。
ルクトが一番饒舌になったのは、カーラルヒスに留学していた頃の話をしたときだった。六年と言う比較的短い時間だったが、しかし一番濃密な時間だったように思う。借金の返済も含め、全力でがむしゃらだった。あの頃の思い出は、今も彼の中で宝石のように輝いている。
留学から帰ってきて、ルクトは結婚した。そして子供が生まれ、孫が生まれ、ひ孫が生まれた。自分の子孫が増えていくのを見るのは、なんだか不思議な感覚だった。取り残されていくようであり、また根を張っていくようでもある。その矛盾する感覚に説明付けをすることなく、ルクトはただ感じるままに任せてきた。
「…………行くのか?」
食事が終わるころには、100年分の思い出話も終わっていた。デザートのブルベリータルトを切り分けながら、メリアージュはそう尋ねる。言葉の上では疑問系だったが、それは実際のところただの確認だった。
「……ああ。セイルさんのところに、エグゼリオに行くつもり」
切り分けられたタルトを受け取りながら、ルクトはそう答えた。修行の続き、というわけではない。彼はエグゼリオを拠点にして、迷宮の最深部へ挑むつもりでいる。ともすれば年単位で迷宮に潜り続けることになるだろう。ヴェミスでは死んだことにされてしまいそうなので、まだ“耐性”がありそうなエグゼリオに行くことにしたのだ。
「……メリアージュは、どうする?」
タルトを一口食べてから、ルクトはそう尋ねた。彼がヴェミスを離れれば、この都市にいる長命種はメリアージュ一人になる。一人で長い時間を生きていくことは辛い。彼はそれを身にしみて理解していた。実際、メリアージュがいなければ彼はもっとはやくエグゼリオに移住していただろう。しかし、彼女は静かに首を横に振った。
「……妾はヴェミスに残る。まだ契約が残っておるからな」
「そうか」
小さくそう呟き、ルクトは紅茶を一口啜った。彼がティーカップをソーサーに戻すと、メリアージュが何か思い出したかのように口を開く。
「ルクト、おぬしに二つ名をやろう」
少し驚いてルクトはメリアージュの顔を見た。実は、彼はまだ二つ名を持っていない。ただ彼自身はそれを気にしてはいなかった。長命種(実際には契約者だが)の中ではまだまだ若輩者だし、二つ名というのはことさら自分で名乗るようなものではなく自然に定着していくもの。そのうち何か付くだろう、くらいにしか今までは考えていなかった。しかしその二つ名を、今メリアージュが決めてくれるという。
「妾に勝った褒美と、門出の餞じゃ」
そう言ってメリアージュは楽しげに笑った。そして楽しげな表情のまま、彼女はその二つ名を口にした。
「〈蒼穹〉、というのはどうじゃ?」
「〈蒼穹〉……」
蒼穹。意味は、よく晴れた青い空。いい二つ名だ、とルクトは思った。
「由来を聞いても?」
おそらく〈加護〉の力を使ったときにルクトの体を覆う青白い光にちなんだのだろうとルクトは思ったが、しかしメリアージュは意外な答えを返した。
「……暗い夜の闇を越えた先には、きっと青く晴れ渡った空が待っているはずだから」
少し寂しげに目を伏せて、メリアージュはそう答えた。
彼女のその答えを聞いた瞬間、ルクトの脳裏に一つの光景が甦る。あれはそう、メリアージュに拾われた夜の、次の日の朝のこと。ルクトが浅い眠りから目覚めると、ちょうど朝日が昇る時間だった。そして外に出たルクトが見たもの。それこそまさに、青く晴れ渡り雲ひとつない空だった。
『よく晴れたのぅ。知っておるか、こういう空のことを「蒼穹」と言うのじゃ』
たしかに、あの時メリアージュはそう言った。そしてそう言って笑いながら、ルクトの頭を優しく撫でたのだ。彼女のなすがままにされながら、あの日の少年はただ青い空を見上げ続けた。
― 完 ―
19時に人物紹介を、20時に後書きを投稿します。
そちらもどうぞ。