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403 シングル・ルーム  作者: 新月 乙夜
エピローグ
163/180

門出7

 衛星都市オーフェルに来たその次の日。ルクトら四人はノールワント商会へと赴いた。クルルがガルグイユに持っていく手土産として塩を買うのと、さらに一ヶ月間の迷宮(ダンジョン)攻略で溜め込んだ魔石を換金するためである。


 今回はカデルハイト商会のバイトではないので、頭領(ドルチェ)のオレンス・ノールワント・エルフルトとは会わなかった。ただ顔見知りの職員もいて、話はずいぶん簡単に進んだ。そのおかげで塩の買い付けも魔石の換金もすぐに終わった。


「すごい量ですね……。塩も、魔石も……」


 対応してくれた商会の職員は呆れたようにそう呟いた。買い込んだ塩の量も、換金した魔石の量も、決して個人で売買する規模でなかった、とだけ記しておこう。


 少し早めのお昼を〈海猫亭〉で食べてから、ルクトたちはカーラルヒスへ向かった。本当なら、真っ直ぐにガルグイユへ向かえればそれが一番いい。ただオーフェルからガルグイユへ行こうとすると、文字通り道なき道を進まなければならない。言うまでもなく、危険だ。多少遠回りであっても、都市から都市へ街道を通って旅するのが一番安全なのである。


 カーラルヒスに着くと、すでに空は赤く染まっていた。四人の足が無意識のうちにレイシン流道場、つまりクルルの家に向かい、その姿が見えてきたところで“はた”と気づく。そうだ、もう売ってしまったのだった。


 もちろん〈オリジン・スフィア〉の中にはゲルがあるから、寝る場所には困らない。だが思い出の詰まった自分の家が、もう自分の物ではないと言うのはやはり寂しいものがある。実際、クルルの顔には寂寥感が漂っていた。そんな彼女をロイが優しく抱き寄せる。そんな二人の様子を、ルクトとラキアは少し離れた場所から見守っていた。


 さて〈オリジン・スフィア〉の中で一晩を明かした次の日。四人はルーシェの家を訪ねた。別れの挨拶のためである。ルーシェは既にとあるギルドに就職して働き始めているのであえない可能性もあり、そのため四人で寄せ書きした手紙も用意しておいたのだが、運のいいことに彼女は家にいた。昨日ギルドの遠征から帰ってきたばかりで、今日は休みらしい。


「そっか……。もう行っちゃうんだ……」


 寂しくなるわね、と話を聞いたルーシェは口にした。ただ、別れは朝まで飲み明かしたあの日に済ませてある。そうそう湿っぽくなることもなかった。


「ルーシェさん、本当にありがとうございました。よそ者のわたしをパーティーに温かく迎え入れてくれたこと、本当に感謝しています」


 そう言って深々と頭を下げたのはクルルだった。彼女がロイたちのパーティーに入ったばかりの頃、ルーシェが何かと気を使ってくれたのだと言う。


「そ、そんな……! わたしなんて大したことはしていないってば!」


 大げさに頭を下げるクルルに対し、ルーシェのほうが慌てたように声を上げる。彼女に言わせれば、礼を言いたいのは自分たちのほうだった。


「クルルが入ってくれて、遠征がすごくしやすくなった。〈エリート〉になれたのもそのおかげだと思っている」


「あ~、それはあるかもねぇ」


 ルーシェの言葉にロイがのんびりとした口調で同意した。クルルを除いた五人のパーティーでも、武術科の実技要件を満たすことはできただろう。しかし、〈エリート〉になれたかは定かではない。いや、難しかったのではないかとルーシェは思っている。


〈エリート〉になれたことで一番恩恵を受けたのは、カーラルヒスに残るルーシェとイヴァンだ。就職先として望みどおりのギルドに入ることができたのは、少なからず〈エリート〉だったからだと彼女は思っている。そしてクルルが入ってくれたおかげで〈エリート〉になれたのであれば、それはやっぱり感謝しなきゃいけないことだと思うのだ。


「いえ、そんな……。わたしなんて……」


「それにほら、ウチの問題児を尻に敷いてパーティーの平和を守ってくれたしね」


 恐縮して謙遜するクルルに対し、ルーシェは明るくそう言って話題を変えた。パーティー内に問題児は数いたが、「尻に敷いて」となると該当するのは一人しかいない。言うまでもなく、ロイである。


「尻に敷かれてはいなかったと思うけど?」


「そ、そうですよ!? そんなことしてません!」


 ロイはやはりのんびりと、クルルは顔を真っ赤にしてそれぞれルーシェの言葉を否定した。それに対し、ルーシェはニヤニヤとした顔をしながら「えぇ? そうおう?」と言って邪悪に笑う。からかう気満々である。


「ロイを止めるのは大体クルルの役目だったじゃない? ああいうのを『尻に敷く』って言うんじゃないの?」


「あ、あれは……! ち、違いますよ! 『尻に敷く』とか、そういうことじゃないですってば!」


「まあ、クルルなら敷かれてもいいけどね」


「ロ、ロイさんまで……! 何てことを言うんですか!?」


「はいはい、ご馳走様」


 ロイとルーシェが息の合った連携でクルルをからかう。長いことパーティーを組んでいただけあって、その連携は見事だ。クルルはあっという間に真っ赤に茹で上がってしまった。ちなみにこの間、ルクトとラキアは出されたお茶を飲みながら傍観者に徹している。


「むう……」


 すっかりむくれてしまったクルルが、可愛らしく唸りながらお茶をすする。そんな彼女の様子を、ルーシェはまるで姉のような眼差しでいとおしげに見守っていた。そしてその視線をやおらロイのほうに向けると、釘を刺すようにしてこう言った。


「ロイ、本当に大切にしなさいよ?」


「そりゃもちろん」


 ロイは臆面もなくそう言って惚気た。これこそ「ご馳走様」である。ルクトがチラリとクルルのほうに視線を向けると、ティーカップにつけた口元が綻んでいた。やはり嬉しいらしい。


「そ、それはそうと……」


 ティーカップをソーサーに戻したクルルは、背筋を伸ばして少しだけ咳払いをして真剣な眼差しをルーシェに向けた。ただし、その口元は悪戯っぽく笑っている。


「ルーシェさんはまだ結婚されないんですか?」


 その問い掛けに、ルーシェがむせた。しかしそんな彼女の様子を斟酌することなく、クルルは言葉を続ける。


「武芸者社会の中で女性武芸者は少数です。その上〈エリート〉ともなればお見合いの話が殺到しているはず」


「あ、いや、まあ……。そういう話もあるけど……」


「どなたか『これは』と言う方はおられなかったのですか?」


 ルーシェは視線を彷徨わせて逃げ腰になるが、クルルは追及の手を緩めない。ちなみに、ルーシェからは見えない位置で彼女の母親が「もっと言ってやって!」と声には出さずに煽っているのだが、それも関係しているのかもしれない。


「ま、まあ、縁があればそのうち考えるわよ……」


 そう言ってルーシェはこの話題を打ち切ろうとする。しかし、そうはクルルが許さない。


「なるほど。すでに意中の方がおられるのですね?」


「な……!?」


 今度こそ、ルーシェは顔を真っ赤にした。口をパクパクと開閉させるが、言葉が出てこない。クルルはカマをかけただけだったのだろうが、彼女のこの様子では見事に図星をついたらしい。


 クルルがにっこりと笑う。それを見てルーシェが「うっ」と頬を引きつらせる。根掘り葉掘り暴露させられてしまいそうな彼女に助け舟を出したのは、意外にもロイだった。


「話は変わるけど、仕事のほうはどうだい?」


「い、いろいろ大変よ!?」


 ルーシェは突然の話題変換に戸惑いながらも、なんとかロイの垂らした糸を両手でしっかりと掴んだ。クルルが少し残念そうな顔をするが、そこはあえて無視する。とはいえ、きっと後で母親から色々と突っ込まれるんだろうなぁ、とルーシェは心の中で嘆息した。


「……パーティーにまだ慣れてないっていうのもあるけどね。周りはベテラン揃いだから、圧倒されるって言うか、未熟だって思い知らされるって言うか……」


 そう言ってルーシェは苦笑した。ノートルベル学園武術科を〈エリート〉で卒業した彼女は、自分の実力に少なからず自信と自負を持っていた。ただそれらはどうやら身の丈に合っていなかったようだ、と最近思い始めている。武術科の教官は「一人前だ」と言ってくれたが、どうやら一人前にもピンからキリまであるようで、卒業したばかりの新人などやはりまだヒヨコなのだ。


「耳が痛いねぇ……。同じ卒業したばかりの若造としては、さ」


 そう言ってロイは大げさに肩をすくめた。それからしばらくの間、五人は雑談を続けた。そして用意された菓子が三分の二ほど消費されたころ、四人はルーシェの家を辞した。この後さらにイヴァンのほうに顔を出す予定である。


「アッチについたら手紙を書きますね」


「わたしもヴェミスに帰ったら手紙を出すよ」


「うん、わたしも返事を書くわ」


 最後に女性三人はそんな約束を交わした。ちなみに男のほうには手紙を書く予定はないらしい。


 さてイヴァンだが、彼はもともと孤児でありそのため家族がいない。よって家族が住んでいる家というのもなく、学園の寮を出た彼はそのまま就職先のギルドの寮に引っ越した。ちなみに荷物は大きめの鞄に二つ分だけだったらしい。


 ギルドの寮は学生寮とは違い基本的に出入り自由だが、残念なことにイヴァンは留守だった。どうやら遠征中らしい。会えなかったことは残念だが、友人が頑張っていると聞けば嬉しくもある。四人で寄せ書きした手紙を彼の部屋のポストに入れると、彼らはその場を辞した。


「さて、時間が余っちゃったね。どうする?」


 ガルグイユへ出発するのは昼食を食べてから、という予定だった。お昼まではあと二時間弱ほどまだ時間がある。余った時間どうしようかと考えていると、クルルがおずおずと口を開いた。


「あの……、できれば最後にお父さんのお墓に……」


 クルルの父、ウォロジス・ラトージュは先の「〈キマイラ〉事件」のときに命を落としている。彼が死んだのは迷宮(ダンジョン)の中だったから、その遺体は帰ってこなかった。なので彼の墓は空っぽだ。しかしそれでも。想いというのは形あるモノに強く宿るらしい。例え形だけだとしても、墓はやはり墓。もちろんクルルは父の遺品をガルグイユに持っていくが、最後に墓参りをしておきたいという。


「そうだね。僕も一緒に行くよ」


 ロイがそう言うと、クルルは嬉しそうにはにかみながら小さく頷いた。そんな彼女の様子を見てから、ロイは視線をルクトたちのほうに向けた。


「ルクトたちはどうする?」


「そうだな……。最後に後輩の顔でも見てくるか」


「わたしは……、適当に時間を潰すよ」


 ルクトとラキアはそれぞれそう答えた。そして待ち合わせの場所と時間だけ決め、四人は一度解散する。一人になるとルクトはその足を学園へと向けた。彼はもう学生ではないが、今はまだ夏休み。特に咎められることもなく、彼は学園の敷地内に入った。


 夏休み中の学園の敷地内は閑散としている。しかし、まったく人がいないわけではない。ルクトの視界の中にも、ちらほらと歩く人の姿があった。そしてその人々の中に旅の装いをした十五、六の少年少女の姿が混じる。留学生だ。これから入学試験に挑むのだろう。六年前の自分を思い出し、ルクトは小さく笑みを漏らした。


「さて、どこにいるのかな、っと」


 ルクトはそう呟いて頭を切り替えて会いに来た後輩、カルミ・マーフェスの姿を探す。鍛錬場か、あるいは寮か。そのどちらにもいなければ諦めて帰ることにして、ルクトはまず鍛錬場のほうに足を向けた。


 武術科の鍛錬場には、他よりも多くの学生が集まっていた。皆、武術科の学生たちで、それぞれに自主鍛錬をしている。そしてその中にカルミの姿もあった。


(素振りも様になってきたじゃないか……)


 一心不乱に木刀を振るカルミの姿を見て、ルクトは小さく笑みを浮かべた。カルミがいたのは鍛錬場の端っこ、いつもルクトと彼女が立会い稽古をしていた場所である。三年生のときに出会ってから、おそらく四桁に迫る回数の立会い稽古をした。そしてその稽古の中で彼女はめきめきと腕を上げていった。それは彼女の佇まいや顔つきによく現れている。


(後輩だ後輩だ、と思ってはいたが……)


 なかなかどうしていい顔をするようになった、とルクトは思う。初めて出会った頃はまだまだあどけなさの残る子供だったが、今のカルミは可愛いと言うよりは凛々しいと言うべき顔立ちをしている。それは武芸を修める者特有の鋭さだ。


(ま、当然と言えば当然だけどな)


 毎日毎日木刀を振り、また迷宮に潜っているのだ。成果が何もなければ、むしろその方が驚くべきことだ。また年齢的なことを考えても、この夏休みが終われば彼女は五年生になる。立派な上級生である。「立場が人を成長させる」と言えば大げさだが、上級生になればそれなりに上級生らしくなるものなのだ。ルクトがそうだったように。


 もちろん、カルミの成長の全てがルクトの手柄ではあるまい。しかし彼女の成長を見てきた一人として、やはり感慨深いものがある。もっとも、立会い稽古で勝たせてやることは一度もなかったが。


「よう、カルミ。精が出るな」


 カルミの素振りの合間の呼吸を見計らい、ルクトは気軽な調子で声をかけた。その声を聞いてカルミが振り向く。そして彼の姿を見つけて歓声を上げた。


「ルクト先輩! どうしたんですか?」


「そろそろカーラルヒスを離れるんでな。時間もあったから後輩の顔を見に来た」


 ルクトの言葉を聞いて、カルミは嬉しそうに笑みを浮かべた。それからふと真剣な表情になり、彼女は勢いよく頭を下げた。


「先輩、今まで本当にありがとうございました!」


「よせよせ。オレは何もしてないよ」


 ルクトは苦笑しながらそう言うが、カルミはなかなか頭を上げようとしない。そして頭を下げたままさらに言葉を続けた。


「いえ、先輩にはたくさんお世話になりました。わたしが今ちゃんとやれているのは、先輩が見捨てないでくれたからだと思っています」


「まったく……。律儀と言うか大げさと言うか……」


 そう言ってルクトは苦笑を深くした。カルミが言うほど大したことをした覚えは、彼にはない。そもそも彼だって自分のことで手一杯だったのだ。そうそう彼女にばかり構っている暇はなかった。しかし、してもらった側の感じ方は違うらしい。


「このご恩は絶対に忘れません。なにかお返しできことがあればいいんですけど……」


「別に忘れてくれてもいいけどな。返したいのなら、後輩連中にでも返してやればいい」


 ルクトがそう言うと、カルミはようやく頭を上げた。そして少し得意げに笑いながらこう言った。


「実は、来学期から実技講義のアシスタントをすることになったんです」


 武術科の一年生には実技講義の履修が必須になっているのだが、その講義の中で教官の補佐として一年生を指導する上級生をアシスタントという。ルクトも在学中はアシスタントになり、実技講義の中でカルミの面倒を見たこともある。彼女がアシスタントになったのは、きっとルクトの背中を追ってのことだろう。あるいはコレも、彼女の言う「恩返し」の一つなのかもしれない。


「まあ、ギルドで幹部を押し付けられて、『一年の中から将来有望そうなのを見繕って来い』って言われたっていうのもあるんですけどねぇー」


 苦笑しながらカルミはそう付け加えた。彼女は三年生の終わりごろにパーティーごと学内ギルド〈叡智の女神(ミネルヴァ)〉に入っていたのだが、この度めでたく幹部の椅子を押し付けられたらしい。以前にルクトが「学内ギルドに入ったら幹部をやらされる」なんて話していたが、どうやらその通りになってしまったようだ。


「ま、真面目なお前には似合いだよ」


 ルクトは笑いながらそう言った。それに学内ギルドで幹部をやるのは一種のステータスと見なされる。苦労はするが、その分はきちんと評価されるのだ。また学内ギルドはOBを通じて幾つものギルドとのパイプを持っている。だからそこで幹部をやったとなれば、就職に有利なのは間違いない。


「そういえば、この前ヴィレッタさんにお会いしました」


「ヴィレッタ先輩か……」


 懐かしい名前だ、とルクトは思った。ヴィレッタ・レガロは〈叡智の女神〉の幹部としてルクトを勧誘しまくっていた先輩である。しつこい勧誘ではあったが、本人の気性はむしろさっぱりとしていて、そんな彼女のことがルクトは嫌いではなかった。ちなみに卒業してからは合同遠征に参加してくれたこともあった。


「元気そうだったか?」


「はい。先輩の名前を出したら、すごく話が弾んで」


 最後には「困ったことがあればいつでも頼ってくれ」とまで言われたらしい。ヴィレッタもあれで面倒見がいい。「後見人」といえば大げさだが、カルミも頼れる人が近くにいれば心強いだろう。


「……ところで先輩」


 しばらく立ち話をしていると、そう言っておもむろにカルミが話題を変えた。彼女の視線が真っ直ぐにルクトの目を見据える。


「シェリアには会わないんですか?」


「あ~。シェリア、なぁ~」


 どこかバツが悪そうに、ルクトはカルミの目から逃れて視線を彷徨わせた。シェリア・オクス。ルクトの義理の妹である。ただし二人の間にはどうしようもなく父親のことがあり、そのため兄妹の仲は決して良好とはいえない。


「向こうも会いたくはないと思うんだけどな」


「ダメですよ! 最後になるかもしれないんですからちゃんと会っておかないと!」


 ルクトのヘタレた言い訳を、カルミはそう言って勢いよく切って捨てた。「家族なんですから!」と彼女に言われてしまうと、それ以上抗弁することは難しい。カルミ・マーフェスは訓練生上がりで、つまりは孤児。家族のいない彼女が、「家族」というものに強い憧れを持っていることをルクトは知っている。


「分かった、分かった。会うよ。でも、どこにいるか知ってるのか?」


 居場所が分からなければ会わなくてもいいなんてこともルクトは考えていたが、カルミは「今は寮にいるはずです!」と言って彼を引っ張ってそこまで連れて行った。


「逃げないで下さいよ?」


「逃げないよ、いまさら。早く呼んで来い」


 ルクトの言質をとってから、カルミはシェリアを呼びに女子寮の中に入っていった。「逃げるなら今か」とルクトは一瞬思ったが、つい先程「逃げない」と言ってしまった。自分の言葉に責任を持つのは、社会人への第一歩だろう。


 そんな事を考えながら待つこと数分。やがて女子寮の玄関に二人の人影が現れた。言うまでもなく、シェリアとカルミである。


「ルクト、先輩……!?」


 ルクトの姿を認めた途端、シェリアは大きく目を見開いた。どうやら彼が来ていることは聞かされていなかったらしい。そのことに気づいたルクトがカルミのほうに少し非難するような視線を向けると、彼女は露骨に視線を逸らした。ただし、口元に浮かぶのは確信犯の笑みである。


「どうして、ここに……!?」


 呆然とした様子でそう呟きながら、恐らくは無意識なのだろうがシェリアは一歩後ろに下がろうとした。しかしそんな彼女をカルミが肩に両手を置いて押し止める。


「先輩……」


 小さくそう呟きながら、シェリアは後ろから自分を押さえるカルミの顔を見上げた。不安げに自分を見上げる後輩に、カルミは苦笑しながらこう告げた。


「先輩、カーラルヒスを離れるんだって。……最後に、ちゃんと話をしたら?」


 その言葉にシェリアは狼狽した。そして視線を前と後ろ、つまりルクトとカルミの間をせわしなく行き来させる。言葉を探しているのだが、しかしいっこうに出てこない。焦りだけが募った。


「……よう、久しぶりだな。元気にしてたか?」


 先に口を開いたのはルクトだった。彼は気楽な調子で片手を上げながらそうシェリアに声をかけた。それを聞いて、彼女の視線がルクトに固定される。


「…………は、い…………」


 シェリアは何とかそれだけ口にした。しかしそれ以上の言葉が出てこない。


「さっきカルミが言ったとおり、今日の午後にはここを出発するつもりだ」


「…………はい…………」


「オレも学園を卒業したし、お互いもう関わることはないかもしれないな」


「…………はい…………」


「身体に気をつけて、って言うのもヘンか。まあ、無茶はするなよ」


「…………はい…………」


「ま、故郷に帰るわけじゃないから、もう一回カーラルヒスには来るかもしれないけどな」


「…………はい…………」


 一方的な会話にルクトは苦笑した。こうして自分ばかり話すのは、どうにも彼は苦手だった。


「じゃ、オレはそろそろ行くよ。最後に話が出来てよかった」


 そう言ったルクトはシェリアから彼女の後ろいるカルミの方に視線を移し、「お前も無茶はするなよ」と付け加えた。カルミが「はい。先輩もお気をつけて」と応じると、ルクトは小さく微笑み「じゃあな」と言って彼女たちに背を向けた。


「……っ! 先輩っ!!」


 遠ざかっていくルクトの背中に、シェリアが堪らずといった様子で声をかけた。その声を聞いてルクトが足を止めて振り返る。


「どうした?」


「あ、あの……っ!」


 ルクトが振り向くと、シェリアは無意識のうちに一歩前に踏み出した。言いたいことがある。言わなければならないことがある。しかし、言葉が出てこない。そんな彼女の背中をカルミが優しく撫でた。それで少しシェリアの呼吸が落ち着く。気持ちを落ち着けるように何度も呼吸を繰り返してから、彼女はゆっくりと口を開いた。


「…………先輩が、わたしのことが気に入らないのは仕方がないと思います。でも、借りたお金もちゃんと返しますから、リーサのことは嫌わないであげて下さい!」


 お願いします! と言ってシェリアは勢いよく頭を下げた。リーサとはシェリアの半分血の繋がった妹だ。そしてルクトと半分血が繋がっている。つまり、ルクトの父とシェリアの母の間に生まれた子供だった。


「リ、リーサは、ほ、本当に血の繋がった先輩の妹ですっ! だ、だから……!」


「別に、お前のことも嫌っちゃいないさ」


 必死に言葉をつむぐシェリアの様子に少しだけ苦笑しながらルクトはそう言った。思いがけない彼の言葉に、シェリアは「えっ?」と呟いて目を丸くする。そんな彼女から目を逸らしながら、ルクトは「ただ」と呟いた。


「ただ、同じ人間の違う顔しか知らないことが、少し苦しかっただけだ」


 少し寂しそうにそう呟くと、ルクトは身を翻して今度こそ本当にその場を去った。シェリアはそんな彼の背中に、ゆっくりと頭を下げた。


 その日の昼食後、ルクトら四人はカーラルヒスを離れガルグイユへ向けて出発した。


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