門出4
遠征の二日目。十階層の大広間から始まったこの日の攻略は、当初の予定通りまず地底湖に向かうことになった。その途中で出現するモンスターも、四人は問題なく淡々と片付けていく。
十階層で安定した攻略ができるようになれば一人前、と一般に言われている。先日卒業した武術科の実技要件もこれを意識したものだ。だから十階層で余裕を持って攻略ができているこの四人は、文句なしに一人前と言っていいだろう。
地底湖に到着すると、ルクトがその縁に近づき、他の三人は彼の背中を見守っている。ここから先は彼の仕事だ。ルクトは“パチン”と指を鳴らして〈ゲート〉を開くと、それを地底湖に沈める前に一瞬だけ目を閉じ、頭の中でルシに呼びかけた。
(ルシ……?)
(聞こえているわ。こちらは大丈夫よ)
ルクトは頭の中に響いたルシの声に少しだけ驚いたが、このくらいならばまだ予想の範疇だ。きっとこれもルシが言っていた“繋がり”とやらのおかげなのだろう。
ルシの声に小さく頷くと、ルクトは〈ゲート〉を地底湖の中に沈めた。そこから先は以前と同じだ。水がなくなり、跳ねることしかできなくなった魚型のモンスターを手早く倒す。久しぶりに来たせいか数が多い。いい稼ぎになった。ちなみに後で聞いた話だが、抜いた地底湖の水は〈プライベート・ルーム〉内の湖に入れたそうだ。
地底湖で荒稼ぎをした後は、また下の階層を目指して攻略を進める。ここで活躍したのがクルルの個人能力〈千里眼〉だった。彼女のその能力は「見通す」ことに長けている。その能力を駆使することで、より効率よく稼げるルートをルクトたちは進むことができた。
中でも大金星だったのが、十一階層で地底湖を発見したことだ。ルクトとラキアが二人で遠征を行っていたときには、ルートから外れていたこともあって見落としていたのだが、今回クルルが〈千里眼〉で発見してくれたのだ。
地底湖の狩りは効率がいい。水さえ抜いてしまえば魚型のモンスターを倒すのは非常にラク、というだけではない。そこにいるモンスターの数が多いのだ。そしてその数は前回の狩りから時間が経っているほど(もちろん上限はあると思われるが)多くなる。
今回見つけた十一階層の地底湖は、ここ最近はずっと誰も寄り付いていなかったのだろう。先程荒稼ぎさせてもらった十階層の地底湖より、さらに多くのモンスターがいた。当然、水を抜いてから全て倒し魔石とドロップアイテムを回収する。非常にいい稼ぎになった。ホクホクである。
さらに嬉しいことに、この地底湖は採取ポイントだった。採取ポイントとはモンスターを倒さなくてもインゴットなどのアイテムを手に入れられる場所のことだ。ラクに、そして安全に稼げるという意味で非常にありがたい場所だ。
地底湖が採取ポイントになっている例は、ルクトが知る限りもう一つある。五階層の地底湖がそれだ。だが採取ポイントは数自体少ないし、またハンターたちが秘匿するため情報も出回らない。こうして新しいポイント見つけることができたのは、稀有な幸運と言っていいだろう。
「これは、一ヶ月の稼ぎが期待できそうだね」
ロイは嬉しそうに顔を綻ばせながらそう言った。新生活に先立つモノ、つまりお金は幾らあっても足りない。特に彼の故郷であるガルグイユには迷宮が無い。命の危険はあれど、腕っ節で手っ取り早く稼ぐということはもうできなくなる。ここは1シクでも多く稼いでおきたいところだろう。
四人は水を抜いた地底湖に下りて、それぞれそこに転がっている“白い石”を割っていく。そこにアイテムが入っているのだ。何が入っているかは完全にランダムで、言い換えれば運任せだ。
さて四人で白い石を割っている最中、ロイはその中から青い石を見つけた。宝石、と言っていいだろう。深い藍色、コバルトブルーと呼ばれる色をしている。形は歪だが大粒で、素人目にも価値のある物のように見えた。
その青い宝石を見た瞬間、ロイの頭にあるアイディアが閃いた。そしてわずか数秒の間にそのアイディアを三回考察し直し、三度「素晴らしい」の評価を出す。これをやらない手はない。
(ま、本当にできるかはルクトとラキアに相談してからだけどねぇ……)
そこに、なぜかクルルの名前はない。だがロイにその名前を付け加えるつもりはないようだ。彼は手にした青い宝石を上着のポケットにしまうと、次の白い石に取り掛かった。
さて、その後の遠征は特に予想外のことも起こらず順調に進んだ。ただ一つだけ当初の計画と違う点があったが、それは遠征の期間だ。四人の遠征は予定よりも遥かに長く、全部で七日間になった。
もともと食料に余裕があったこともそうだが、なによりも〈プライベート・ルーム〉内の居心地が凄まじくよかったのだ。食料さえあれば一週間といわず一ヶ月、いや一年でも潜っていられそうである。
実際、一週間たって迷宮から出てきた時点でさえ、四人にはまだ余裕があった。それでも一週間で切り上げたのは、あまり長く潜っていると死んだと勘違いされるからである。それに、この一ヶ月の間は迷宮攻略だけをしていればいいわけではない。
遠征から戻ると、クルルの家に手紙が二通来ていた。差出人はテミストクレス・バレンシアとソルジェート・リージンだ。二通ともカーラルヒスを離れることと、別れの挨拶が記されていた。
最後に二人の顔を見られなかったことを惜しむ気持ちはある。だが、別れは朝まで飲み明かしたあの時に済ませてある。淡い惜別の気持ちに心をゆだねながら、四人はただ「二人の門出に幸多からんことを」と祈った。
さて遠征から戻った次の日、ルクトはクルルと一緒にカデルハイト商会を尋ねた。遠征の戦果を換金するためである。彼はもう学生ではないため、学園の換金窓口を使うことは出来ないのだ。
よって換金を行うためには、自分で商会などに直接持ち込まなければならない。そしてルクトが一番よく知っている商会と言うと、何度か塩運びのバイトをしたこともあるカデルハイト商会がやはり最初に頭に浮かぶ。
商会に到着したルクトは、まず頭領であるドミニクへの面会を申し入れる。用件が換金だけならそんなことをする必要もないのだが、今日はそれとは別の用件もあるのだ。それこそクルルが彼と一緒に来た理由である。
応接室に通されしばらく待つと、ドミニクが現れた。少し白髪が多くなっただろうか。六十近くになったはずだが、やはり実年齢よりも老けて見える。彼は一代でこのカデルハイト商会を立ち上げここまでそして成長させた腕利きの経営者だが、どうやらその分気苦労も多いらしい。
ドミニクがテーブルを挟んで向かいのソファーに座ったところで、ルクトがクルルを彼に紹介する。そして彼女のほうから用件が告げられた。
「ふむ……。つまり、道場と母屋そして土地を売りたい、と?」
「はい、そうです」
ドミニクの言葉にクルルは頷く。それが彼女の用事だった。
クルルはカーラルヒスを離れてガルグイユへと嫁ぐ。その時、多少の荷物は持っていくことになる。ルクトが一緒に来てくれれば、大抵の荷物は〈プライベート・ルーム〉に入れて持っていくことができるだろう。
しかし土地と建物、これはどう考えても無理である。無理だと思われる。もしかしたらルシは「大丈夫」と言い出すかもしれないが、まだ確認はしていないしその気もないので不可能と言うことにしておく。「家を持って嫁入りしました」というのは悪い意味で注目されてしまいそうだし。
持って行くことはできないし、また新生活のためのお金も必要。そこで売ってしまおうという話になったわけだ。ただ、モノがモノだけに売るのも大変である。そこでルクトの伝手を頼ってカデルハイト商会に相談に来たのである。
「こちらの商会で買い取っていただければ、一番ありがたいのですが……」
「ふむ、なるほど。それも、もちろん可能です」
ドミニクのその言葉に、クルルはホッとした表情を浮かべた。基本的にその方向で話を進めることになり、二人は細々とした条件を詰めていく。後で聞いた話だが、買取りの値段については実際に現物を見てから決める、ということになったらしい。
ドミニクとクルルの話が実務的なものへと移った時点で、ルクトは席を外してドロップアイテムの換金を頼んだ。しばらくすると職員の一人が明細を持ってくる。金額を確認すると、学園の窓口より少し高めと言った程度か。念のため少しごねてみたら増額してくれた。それでも、恐らく相場よりは安く買い叩かれているのだろうが。
もっとも、そうであったとしてもルクトに不満は無い。常に変動しているドロップアイテムの相場など、彼には分からないからだ。それに学園の窓口よりは高く買取ってくれている。大きく損をしている、ということはないだろう。そう思いながら、彼は買取り明細書にサインをした。
「またのご用命をお待ちしております」
職員の一人がそう言いながら恭しく差し出す包をルクトは受け取る。硬貨の詰まったその包みはずっしりと重い。が、顔がにやけてくる重さである。まったく、これに限って言えば重ければ重いほどいい。そして、中身が伴ってくれればさらにいい。
ドロップアイテムの換金とクルルの話が終わると、二人は揃ってカデルハイト商会を後にした。この後、二人にはそれぞれ予定があるが、そこまでは一緒に歩くことにする。二人で歩いていると、ふとクルルが遠慮がちにこんなことを尋ねた。
「……その、わたしたちの結婚式のことなんですけど……、ルクトさんはどうするかもう決められましたか?」
ルクトとラキアはロイから「自分たちの結婚式に出て欲しい」と頼まれている。ただ二人の結婚式はガルグイユで行われるため、出席するのであればそこまで行かなければならない。
だがガルグイユは遠い。到着してもすぐに式を挙げられるわけではないし、準備その他諸々を行っていればその間に冬が来てしまう可能性は十分にある。そして冬が来ればルクトとラキアがヴェミスに帰るのは来春になる。
もちろん、二人とも結婚式に出たいと思ってはいる。ロイのみならずクルルだって、二人に出て欲しいと思っているだろう。だが、これは躊躇うには十分な時間的ロスだ。そのため二人はまだ態度を明確にはしていなかったし、ロイも「この一ヶ月の間に決めてくれればいい」と言っていた。
「ああ、それな。ラキとも話してるけど、少しずつ行くほうに傾いてる」
行く、と明言はしなかったもののルクトはそう答えた。それを聞いてクルルは目を輝かせる。だが彼女はすぐにすまなそうな顔をすると、「無理はしないでくださいね」と言った。来てくれれば嬉しいに決まっている。しかし時間的なロスのことを考えると、軽々しく「来て下さい」ともいえない。そんな彼女の心境はルクトにも十分に伝わった。
適当なところに来ると、ルクトとクルルは別れた。クルルのほうはこれから食材の買出しをして家に戻るらしい。ルクトのほうはこれからダドウィンの工房に行くつもりだった。もちろん、依頼しておいた太刀を受け取るためである。
「おう、ルクトか。出来とるぞ」
片方だけだがな、とルクトの姿を見たダドウィンは少しバツが悪そうにそう言った。ルクトが彼に依頼した太刀は二本。一週間と言う時間があったのに、まだ片方しか仕上がっていないことになる。
ダドウィンが怠けた、というわけではないだろう。他の仕事も有っただろうし、また彼自身これを「大仕事だ」と言っていた。最高の仕事を、と模索しているうちに時間が経ってしまったのかもしれない。彼の職人気質的な部分を知っているルクトはそんなふうに思った。
「構わないですよ。出来たほうを見せてもらえますか?」
分かった、と言ってダドウィンは一振りの太刀を持ってきてルクトに差し出した。大きさからしてルクト用のものだ。流石に作る順番は間違えなかったらしい。こちらさえあれば、ひとまずは予備の太刀から換えることができる。もう一本は急がないのでゆっくりとやってもらってもいい。
受け取った太刀をルクトは矯めつ眇めつ眺める。純ヒヒイロカネ製に相応しく、鞘や柄、鍔なども高級品を使うと聞いていたが、確かに今までのものとは明らかにモノが違う。そして、いよいよ鯉口を切ってその刀身を確かめる。
「……!」
太刀を鞘から抜き出したとき、その美しさにルクトは思わず言葉を失った。美術品に対する造詣などまるでない彼だが、それでもこの太刀が類稀な一品であることは明白だった。あるいは本物とはそういうものなのかもしれない。
刀身は緩やかに優美な曲線を描いている。刃に浮かぶ刃文は豪快な濤乱刃。打ち寄せる荒波をイメージさせる文様だ。刀身が放つ光沢には、刃物にありがちの刹那的な危うさがまるでない。深みがあって重々しく、持つ者に重厚な安心感さえ与えてくれる。
何より特徴的なのが、刀身に浮かぶ波紋だ。ルクトが持つ純ヒヒイロカネ製の太刀の刀身には、まるで水滴が落ちた水面のように幾つもの波紋が浮かんでいた。決して表面に無粋な凹凸があるわけではない。刀身に浮かぶ幾つもの筋が、まるで波紋を描くように並び、また重なり合っているのである。この浮かび上がる波紋こそが、ヒヒイロカネの大きな金属的性質として知られている。
この波紋は、ヒヒイロカネのインゴットを鎚で叩いて鍛え成形していく際に出来るとされている。鎚でヒヒイロカネを叩くその振動が、この波紋を作るのだそうだ。実際にこの波紋が刀身に浮かんでくるのは、土を塗って焼入れを行った後。鮮やかな波紋が浮かび、また筋同士の間隔が規則正しいほど高品質だといわれている。
では今回ダドウィンが打ったこの太刀はどうか。刀身に浮かぶ波紋は極めて鮮やかだ。それぞれの筋は細いが、しかしはっきりとした自己主張をしている。かすれたり、途中で途切れたりしているものはほとんどない。
そして筋同士の間隔。こちらは流石に均一とは行かない。だが筋が歪んで混じっているような箇所は見られない。文句なしの一級品と言っていいだろう。それに、打った鍛冶師ごとに特徴がでるのは当然のことで、むしろその特徴こそがこの太刀を唯一無二の一点物たらしめている。
ダドウィンの場合、刀身に浮かぶ波紋は内側にいくほど筋同士の間隔が狭まっている。その波紋が幾つも浮かび、そして幾重にも重なっている様子は壮観である。ちなみに複数人の職人が協力して打った場合は、やはり複数種類の波紋が浮かぶのだという。
「…………すごい、ですね。いや、それしかいいようがないです」
魅せられるようにしてその刀身を見つめていたルクトは、その魔力を振り払うかのようにして太刀を鞘に収め、どこか呆然とした様子さえ見せながらそう言った。それを聞くとダドウィンは安心したかのように相好を崩した。
ヒヒイロカネを使った場合、その良し悪しは波紋を見れば素人目にもすぐに分かる。〈職人殺し〉などという物騒な異名まであるヒヒイロカネだが、どうやら自負どおりに最高の仕事が出来たようである。
「そうか。いや、良かった」
ダドウィンは短くそう言っただけだった。多くを語らないのは、語る必要が無いからだ。
太刀の出来栄えに大いに満足したルクトは、笑顔を浮かべたまま代金を支払う。彼が笑顔で金を支払うというのだから相当なものだ。
「それじゃあ、もう一本のほうもよろしくお願いします」
「おう、任せておけ」
最後にそう言葉を交わすと、ルクトは〈ハンマー&スミス〉を後にした。太刀を受け取ったルクトは、そのまま厄介になっているクルルの家に戻る。この後、特に予定していることはない。そこで借りている部屋に入ると、ルクトは〈ゲート〉を開き〈プライベート・ルーム〉の中に入った。時間があるのなら、ルシフィーネから色々と聞いておこうと思ったのだ。
「ルシ、いるか?」
「呼んだかしら?」
ルクトが呼びかけると、ルシはすぐに現れた。そして用件は分かっていると言わんばかりに、「それで、今回は何が聞きたいの?」と問いかける。
「……この世界のことについて教えてくれ。ここはオレの〈プライベート・ルーム〉なのか?」
それは最も変化が大きく、そしてルクトが一番気になっていたことだった。今まではひとまず自分の身体のことを優先していたが、本当はこれが聞きたくて仕方なかったのだ。
「その答えは明確に『いいえ』よ。ここはもうあなたの〈プライベート・ルーム〉ではないわ」
ルクトの問い掛けに、ルシははっきりとそう答えた。しかしそれを聞いてもルクトに動揺は見られない。十中八九そうだろうと予想していた答えだったからだ。そして彼は無言のままルシに続きを促す。
「この世界は私が創り、私が管理しているの。だからもうあなたの制御は及ばない。例えあなたが死んでもこの世界は存在し続ける。そういう意味で、ここはもうあなたの能力ではないわ」
だけどまったく無関係というわけでもない、とルシは言葉を続けた。
「ここは、あなたが〈プライベート・ルーム〉と呼んでいたその空間を私が奪取して、そしてそれを基に創り上げた世界なの」
「奪取?」
その剣呑な言葉の響きに、ルクトは思わず眉をひそめた。「奪取」とはつまり奪い取るという意味だ。自分のモノを他人に奪われれば、誰だっていい気はしない。しかしそれでもルシはその言葉を訂正しようとはしなかった。
「ええ。私はあなたの制御下にあったものを、あなたの承諾なしに奪った。このことについて、私は言い訳をするつもりはないし、そして謝罪をするつもりもない」
なぜならそれは必要なことだったから、とルシは言う。
「ならせめて理由を説明しろ」
「そうね。あなたにはそれを聞く権利がある」
ルシが〈プライベート・ルーム〉を奪取した理由は主に二つ。第一にして最大の理由は、〈混沌〉に飲まれたルクトを可及的速やかに助けるためだった、と彼女は言う。
「あの時、手間取っている余裕はなかったわ。一刻も早く、あなたを混沌の影響の及ばない安全圏に退避させる必要があった」
そうしなければルクトの意識は混沌の中に拡散し、肉体もまたそれに引きずられて消え去っていた、とルシは言う。その説明は前にも聞いたとおりだ。
「それを避けるため、あなたがいた一帯を強引に私の制御下に置いて混沌の影響を排除したの。その時、〈プライベート・ルーム〉もそれに巻き込んでしまった、というわけね」
その説明はひとまずルクトを納得させえるものだった。自分を助けるため、と言われてしまうと文句は言いにくい。ただ、彼の頭にふとある疑問が浮かんだ。
「……あれ? じゃあ、その時サミュエルの奴も一緒に助けられたんじゃないのか?」
あの時、サミュエルもまた〈プライベート・ルーム〉の中にいた。〈プライベート・ルーム〉をルシの制御下に置いたのであれば、そこにいた彼もまた一緒に助けられたのではないだろうか。
「彼の存在を私は認識できていなかったわ。私が認識できていたのは、マーカーを持っていたあなただけよ、ルクト」
少し自虐的な口調でルシはそう言った。認識できないものは助けられない。〈混沌の海〉とはそういう場所だという。ちなみに、〈プライベート・ルーム〉の中にあった荷物は、ルクトを助けてから回収したのだという。命と自我を持たないただのモノならば、混沌に対してある程度の耐性がある。これも以前に説明されたとおりだ。
「……話の腰を折って悪かったな。続けてくれ」
「いいわ。……それで二つ目の理由だけど、端的に言えばあなたに〈加護〉を与えるためよ」
ルシの言う〈加護〉とはつまり、彼女の力をルクトに貸すということだ。しかしそのためには両者の間にある種の“繋がり”が必要になる。
「そして、そのパスを作るために利用したものが〈プライベート・ルーム〉、正確にはその残滓、というわけね」
崩落してしまった〈プライベート・ルーム〉をつなぎ合わせ、また不足分を補完してこの世界の基礎として据えることにより、ルシフィーネはルクト・オクスとの間にパスを作ったのだ。言ってみればこの世界それ自体がルクトに〈加護〉を与えるための巨大な装置となっているのである。
ただし、あくまでも〈プライベート・ルーム〉(の残滓)を利用しているのであって、そのまま使っているのではない。言ってみればソレを素材にしてこの世界とパスを創ったのだ。だから〈プライベート・ルーム〉という能力はもう存在しない。まったく別のものになってしまったのだ。よって、もうそこにルクトの力は及ばないのである。
「〈プライベート・ルーム〉はもう存在しない……。じゃ、じゃあ〈ゲート〉はどうなんだ?」
ルクトはそう尋ねた。彼は今までどおりに〈ゲート〉を開くことができる。一体これはどういうことなのか。
「〈ゲート〉は、言ってみればあなたに残された“権利”よ」
いくらルシが奪取し、そしてそれを基にしてまったく別のものを創り上げてしまったとはいえ、〈プライベート・ルーム〉が元来ルクトの能力であることに変わりはない。だから彼にはルシが創ったこの世界に出入りする権利、つまり〈ゲート〉が残ったのだ、と彼女はいう。
「出入りする権利……。でも、それって入ってしまったら、後はルシの手のひらの上、ってことだよな?」
この世界を創り出し、そして制御・管理しているのはルシだ。ならばその内側にいる全ての存在の命運を握っているのは彼女であると言っていい。そしてそれを肯定するかのように彼女はにっこりと笑ってこう言った。
「ルクト、わたしはあなたと最大限友好的な関係を築きたいと思っているし、そのために努力してきたつもりよ? その点については評価して欲しいものね」
「りょーかい」
ルクトがそう言うと、ルシは「よろしい」と言って満面の笑みを浮かべながら頷く。それから彼女はふと「いいことを思いついた」といわんばかりに顔を輝かせた。
「そうだ。ルクト、この世界に名前をつけてみない?」
「名前……? いいのか、オレがつけても?」
本来ならば、この世界の名前を付けるべきなのはルシだろう。だが当の彼女はルクトにその名前を付けろと言う。
「それじゃあ……、〈オリジン・スフィア〉、って言うのはどうだ?」
「〈オリジン・スフィア〉……。うん、悪くないわね」
そう言ってルシは満足げに頷いた。
「それじゃあ、いい名前を考えてくれたお礼に、次回はいいモノを見せてあげる」
「次回、なのか?」
「ええ、今日はもう戻りなさい」
ルシにそう促され、ルクトは苦笑した。彼女の言う「いいモノ」とやらは非常に気になる。しかし「次回」と言った以上、今すぐ見たいと言っても見せてはくれないだろう。そういうところ、彼女はなかなか厳しいのである。
「分かったよ。じゃ、またな」
「ええ。また、ね」
そう言葉を交わし、ルクトは〈プライベート・ルーム〉改め〈オリジン・スフィア〉を後にした。
今回はここまでです。
続きは気長にお待ちください。