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403 シングル・ルーム  作者: 新月 乙夜
エピローグ
157/180

門出1


 ――――〈プライベート・ルーム〉。


 それはルクト・オクスの個人能力(パーソナル・アビリティ)だ。その能力は「私的な空間の提供」。つまり、自由に使える自分だけの空間が得られるのだ。


 ただしその空間は、無機質で味気ないものにすぎない。四方を白い壁に囲まれ、中には何もない。必要なものは外から持ち込めるとはいえ、そこで生活することなど到底不可能だ。倉庫代わり、あるいはテント代わりに使うのがせいぜいだった。


 とはいえ、迷宮(ダンジョン)攻略にはそれで十分だった。荷物を〈プライベート・ルーム〉に放り込み、さらに一晩をその中で明かす。たったそれだけのことが出来るだけで、攻略の効率は劇的に上がる。本来パーティーを組んで行うべき遠征を、ルクトはソロで行えていたことがその何よりの証拠だ。


 まあそれはともかくとして。つまり〈プライベート・ルーム〉は、少なくともルクトが知っている〈プライベート・ルーム〉とはそういう能力だった。


 では一体、これはなんなのか?


〈ゲート〉を潜ったその先でルクトが見たもの、それは言うなれば一個の“世界”だった。


 まずルクトが感じたのは、本来〈プライベート・ルーム〉の中にあるはずのない、清々しい風。程よく湿り気を含んで潤ったその風は、青草の薫香を含んでいた。そして彼の目に飛び込んできたもの。それは広々とした大地そのものだった。


 山があり、丘がある。川が流れていて、その先には湖がある。木々が生い茂り、草花が繁茂している。踏みしめる大地の感触は、紛れもなく土。硬くて無機質な、〈プライベート・ルーム〉の白い床ではない。


 そのまま目を上にあげれば、そこにあったのは限りなく高く青い空と、そこに浮かぶ白い雲。ただ不思議なことに、どれだけ探しても太陽は見つからなかった。


 一言で言うならば、「圧倒的な開放感」。それは小さな閉鎖空間である〈プライベート・ルーム〉では有り得なかったものだ。


 ルクトは直感的に思った。「ここは〈プライベート・ルーム〉ではない」と。いっそただ外に出ただけだと言われた方が納得できそうな光景だった。しかし彼の後ろには〈ゲート〉が浮かんでいる。先程潜った〈ゲート〉である。


 異世界にでも来たのだろうか。ルクトはそんなことまで考えた。予想を遥かに超える事態に頭が働いていなかったせいもあるが、それを差し引いても常識的な知識の範疇ではこれを説明できないように思う。


 そしてあまりの事態に混乱していたルクトの目の前に、極めつけが現れる。


「言いたいことがあるでしょう。聞きたいこともあるでしょう。だけどまずはこう言わせて」


 ――――人間卒業、おめでとう。


 間抜け面をさらすルクトにそう言ったのは、まさに“精霊”としか形容できない存在だった。いやこれが本当に“精霊”なのか、本物の精霊を見たことが無いルクトには分からない。しかし、どう見ても人間ではありえない。なにしろ“彼女”は青白い半透明の身体をしているのだから。


 身長は一六〇の半ば、といったところか。見た目としては、女性に見える。髪の毛は細い直毛で、その毛先はかかとの辺りまで伸ばされている。顔は卵形で、目鼻立ちが非常に整っていた。特に目つきが穏やかで、それが彼女の優艶たる雰囲気を決定付けている。ただし、その雰囲気がそのまま彼女の性格に反映されているわけではないことを、ルクトは後に知ることになる。現に今も、彼女は悪戯を成功させた子供のように、得意げな笑みを浮かべていた。


 身体に身につけているのは、布を何枚か織り合わせて作ったかのような、ゆったりとした外衣だった。その外衣を、豊かな胸部が押し上げている。そして背中には三対六枚の翼を、それも鳥の翼ではなく蝶の羽に似た翼を背負っていた。決して、翼が“生えている”わけではないのだ。言うなれば、蝶の羽に似た翼が“宙に浮かんでいる”。ゆえに“背負っている”としか形容できない。そしてその翼のおかげなのか、彼女自身もまた宙に浮いている。


 そして、最も重要なこととして、その全てが青白く半透明だった。これはもう、どこからどう見ても人間ではない。


「な、何者、なんだ……?」


 回らない口で、ルクトはなんとかそれだけ言葉にした。それを聞くと、彼女は少しだけ首を傾げて「おや?」と言う顔をした。


「へぇ、ちゃんと疑問を口に出せるんだ。驚きすぎてフリーズするかと思っていたんだけど、感心感心」


 彼女のその言葉に、ルクトは少しだけムッとした。答えになっていないし、からかわれているのが分かったのだ。ただそういう反応ができたこと自体、話が通じて多少にしろ冷静さが戻った証拠である。


「それはそうと、『何者か?』、ねぇ……。そうね、とりあえず〈ルシフィーネ〉と名乗っておきましょう」


 愛称は〈ルシ〉ね、と彼女は楽しそうにそう言った。


「即興で考えたにしてはいい名前だと思わない? 〈ルシフィーネ〉と名乗れば完全に女の名前だけど、〈ルシ〉と名乗れば男でも通用する」


 本来男でも女でもない私に相応しい名前だわ、とルシフィーネは自画自賛する。だがその名前を聞いてもルクトの表情はすぐれない。「即興で考えた」ということは明らかに偽名だし、そもそも彼が知りたいのはそういうことではないのだ。そして彼のそんな内心を察したのか、ルシは苦笑気味にこう言った。


「〈高位次元知性体〉よ」


「……はぁ?」


 聞きなれないその名前に、ルクトは眉をひそめて顔をしかめた。そんな彼に辛抱強く言い聞かせるようにして、ルシはもう一度「〈高位次元知性体〉よ」と言った。


「あなたにも分かりやすい言葉にすれば、そういう表現になるわ」


「……何なんだ、一体〈高位次元知性体〉って? 長命種(メトセラ)、なのか?」


 眉をひそめて難しい顔をしたまま、ルクトはそう訪ねる。彼のその問い掛けにルシは首を横に振った。


「いいえ。違うわ。私はあなたの言う、いわゆる長命種ではない」


 高位次元知性体。それは〈世界〉がたゆたう〈混沌の海〉に住まう、本物の超越種。つまりあなたの住んでいる世界の外側にいる存在だ、とルシは言う。


「……神様、なのか?」


 ルシの大仰な説明を聞いているうちに、そんな“答え”がルクトの頭をよぎった。普段の彼なら、そんなことは考えもしなかっただろう。しかし目の前のルシフィーネを含めた異常事態が、彼にその“答え”を導き出させた。だが、ルシは彼のその“答え”も笑いながら否定する。


「私は神様ではないわ。私は全知でもなければ全能でもないもの」


「でも人間じゃない、んだろう?」


「そうね。人間より高位の存在で、そういう意味のオーバーロードではあるわ」


「精霊、なのか……?」


 ルクトのその問い掛けに、ルシは少し困ったかのような苦笑を浮かべた。


「あなたにとってそれが理解しやすいのなら、今はそう考えておけば良いわ。重要なのは私が〈ルシフィーネ〉であることと、人間より高位の存在であること。それだけよ」


「……偽名だろう、それは?」


「私本来の名前は音として認識できるものではないから、それを“名乗る”ことは出来ないわ。それに、偽名とは言ってもそれしか使わないのであれば問題ないでしょう?」


 ルシから悪戯っぽくそう言われ、ルクトは押し黙った。彼女は一体何者なのか。結局分かったのは〈ルシフィーネ〉という名前と、彼女がオーバーロードであること、それだけである。だが彼女は「重要なのはそれだけだ」という。


 ルクトはその言葉に納得できたわけではない。しかしこれ以上は聞いても無駄なような気がした。聞けば、ルシは答えてくれるだろう。彼女はルクトの質問を嫌がってはいない。だがルクトの側の問題として、ルシが答えてくれたことを果たして理解できるだろうか。その自信が彼にはなかった。なにより、聞かなければならないことがまだ沢山ある。


「……ルシフィーネ」


「なにかしら? それと、私のことはルシでいいわ」


「じゃあ、ルシ。聞きたいことが、ある。それも、沢山」


 ルクトがルシをしっかりと見据えながらそう言うと、彼女は満足そうに微笑みながら頷いた。


「当然ね。ちょうどよくあなたも冷静になれたようだし……」


 それで何から聞きたいの、とルシはルクトに尋ねた。それに対し、ルクトはすぐに質問を口にすることが出来なかった。聞きたいこと、分からないことが多すぎる。その中から、まず最初に何を聞くべきなのか。


「……さっき、オレに『人間卒業おめでとう』って言ったよな? あれって、どういう意味なんだ? つまりオレは長命種になったのか?」


 ルクトがまず尋ねたのは自分自身のことだった。もちろん、聞きたいことは他にもある。だが失ったはずの左腕のことも含め、結局はこのことがすべてに繋がっているような気がしたのだ。そして、彼のその疑問にルシは一つ頷いてからこう答えた。


「方向性としては『はい』ね。だけど、厳密に言えば『いいえ』よ」


 ルシのその答えを聞いて、ルクトはむしろ眉をひそめた。回りくどい答え方をする。それでは結局どちらなのか分からないではないか。彼のそんな内心を察したのか、ルシは苦笑しながら補足を始めた。


「あなたの言う長命種とは、つまりは『短命種(ラテン)以上の力と寿命を持つ存在』ということでしょう?」


 ルシの言葉をルクトは黙ったまま首肯する。確かに彼の思う長命種というのは、大雑把に言えばそういう存在である。


「その認識は、今のあなたにも当てはまるの。私が助けたことによって、あなたは確かにそういう存在になったわ。だから、認識の方向性としてはあなたの考えたことは正しい」


 どうやってなったのかは取りあえず置いておきなさい、とルシはまるでルクトの内心を見透かしたかのように言葉を付け足した。そう言われて、彼は押し黙る。そしてそのまま無言で続きを促した。


「だけど私からしてみれば、長命種も十分に人間の範疇。それを踏まえて、私は『人間卒業おめでとう』と言ったつもりよ」


「…………つまり、オレは長命種をも超えた存在になった、ってことなのか?」


 ルシの話を聞いたルクトは、自分なりにそんな結論を出した。しかしそれを聞いたルシは否定こそしなかったものの、首を傾げてこう言った。


「それはどうかしら。少なくとも今のあなたより強い長命種は大勢いると思うわ。『長命種とは違う存在になった』と言うのが正確でしょうね。でも……、そうね、将来的に長命種を超える可能性は十分にある、と言っておきましょう」


 ルシの説明は、分かるようで分からない。なにしろ彼女ははっきりこうだと言ってくれないのだ。それが、今のルクトにはたまらない。ついに、耐えかねるようにして彼は叫んだ。


「結局、今のオレは一体何なんだ!?」


 ルシの話を聞けば聞くほど、自分が何者なのか分からなくなっていく。それがルクトを不安にさせた。まるで自分がどこにもいないような、そんな気さえする。


「あなたが一体何者なのか。それを明確に定義する言葉は存在しないわ」


 なにしろこれは初めてのことだから、とルシは言った。それを聞いてルクトは言葉を失う。そんな彼のことを気にしているのかいないのか。ルシはさらに言葉を続けた。


「どうしても気になるのなら、長命種だと思っておけば良いわ。二、三〇〇年くらいはそれでも困らないから」


「でも違うんだろう!? オレは、長命種じゃないんだろう!?」


 ルシが話を切り上げようとしていると思ったのか、ルクトは思わず声を上げた。「長命種と思っておけばいい」だなんて、そんなことを言われて納得できるわけがない。それは違うと、ついさっき当のルシがそう言ったばかりではないか。


 ルクトの必死な様子を見て、ルシは思わず苦笑する。彼は一体何者なのか。彼以外の誰かにそう聞かれたら、彼女は「ルクト・オクスだ」と即答するだろう。彼女にとってはそれで十分だからだ。しかし彼にとってはどうやらそうではないらしい。


(一度にいろんなことが起こりすぎて、やっぱり混乱している? いえ、不安なんでしょうね)


 ルシはルクトの状態をそんなふうに分析した。だからこそ自分が何者なのかをはっきりさせて、そこに寄る辺を見出そうとしている。つまり彼は肩書きを欲しがっているのだ。ならばそれを与えてやろう、とルシは思った。


「そうねぇ……。あえて呼ぶのであれば、〈契約者(テスタメンター)〉とでも名付けましょうか」


「〈契約者〉……」


 ルクトがその単語を呟く。短命種でも、長命種でもなく、〈契約者〉。それが今のルクト・オクスだとルシは言う。


「そうよ。あなたは私と契約を交わし、それによって人間ではなくなった。だからあなたは〈契約者〉」


「ちょっと待て! 『契約を交わした』って、そんなの身に覚えが無いぞ!?」


「あら、私はあなたの命を救ったのよ? あなたが今ここでこうしていられるのは、すべて私のおかげ。命の恩人の頼み事を、一つぐらい叶えてくれても良いんじゃないの?」


 にんまりとした笑みを浮かべながら、ルシはルクトにそう言った。彼女が浮かべるのは、間違いなく確信犯の笑みである。


「『命を救った』って、そんなこと言われても……」


 ルクトには、身に覚えがない。しかし心当たりはある。きっと〈プライベート・ルーム〉が崩落した、あの時のことを言っているのだろう。失ったはずの左腕がこうして再生していることが、なによりの証拠に思える。そして心当たりがあり、さらに今こうして生きていることを考えると、その「頼み事」とやらを強硬に突っぱねてしまうことは彼にはできなかった。


「……ちなみに、何をやらせようって言うんだ?」


「それは、今はまだいいわ。すぐにどうこうというモノでもないから」


 緊張した面持ちで尋ねてくるルクトに、ルシは柔らかい表情をしながらそう言った。そういう顔をされると、彼女がもともと持つ優艶な雰囲気と相まって、なんだか緊張を維持することが出来なくなってしまう。安心するといえば聞こえはいいが、なんだか上手くやり込められてしまったようにも思う。


 まあそれはそれとして。ルクトの緊張が解けたのを見計らい、ルシはさらに言葉を続けた。


「今日はこれくらいにしましょう。さ、もう戻ると良いわ」


 そう言ってルシはルクトの後ろで開きっぱなしになっていた〈ゲート〉を指差した。しかし、彼女のその言葉にルクトは焦る。


「待ってくれ、まだ聞きたいことが……!」


「一度に全てを説明しても、あなたは理解しきれないわ。それよりも、今は知りえたことを自分の中に収めなさい」


 ルシに諭すようにそう言われ、ルクトは押し黙った。彼女の言うとおり、今ここで全てを説明されても、彼には理解できないことの方が多いだろう。だがそれでも。分からないことは不安だった。


「大丈夫よ。あなたはいつでもここに来ることができるし、私はいつもここにいるわ」


 ルクトの不安を払拭するかのように、ルシは努めて優しい声でそう言った。その声を聞いて、彼は身体から力を抜いた。


「また、来る」


「ええ、落ち着いたらまた来なさい」


 待っているわ、と話すルシに見送られルクトは〈ゲート〉を潜った。〈ゲート〉を潜ったその先は、退寮のために片付けをしていた自室の403号室。部屋の真ん中にまとめられた荷物を見て、彼はなんとなく苦笑する。一気に現実に戻ってきた気がした。そして、その荷物を見ていた彼は、はたとあることに気が付く。


「……って、荷物!」


 そう叫ぶと、彼は慌てた様子でもう一度〈ゲート〉を潜る。今さっき帰ったはずのルクトがまたすぐに戻ってきたのを見て、ルシは目を丸くしてから苦笑を浮かべた。


「『また来る』とは言っていたけど、ちょっと早すぎじゃない?」


「ルシ、オレの荷物知らないか!?」


 そう尋ねるルクトの様子は必死だった。もしかしたら自分が何者なのか分からなくなっていた、さっきよりも必死かもしれない。


 なにしろ彼は自分の財産のほとんど全てを〈プライベート・ルーム〉の中に保存していた。あの時の遠征で手に入れた魔石やドロップアイテムもそうだ。それらが全て喪失したとなると、サミュエルに太刀を消し飛ばされたルクトは、またメリアージュからお金を借り増ししなければならなくなる。しかしながら幸いなことに、ルシには心当たりがあるようだった。


「荷物? あなたと一緒に堕ちてきたものなら、あそこにまとめてあるわよ」


 そう言ってルシが指差したのは、遠くに生えている一本の大樹だった。ルクトが目を凝らしてみると、その根元にゲルが建っている。間違いなく〈プライベート・ルーム〉の中にあったものだ。


「遠いな……」


「じゃあ私が送ってあげるわ」


 ルクトが遠くにあるゲルを見据えながら眉間にシワを寄せていると、ルシが気楽な調子でそう言った。そして彼女はルクトの後ろに回ると彼の肩に両手を置く。


 ルシの手は、温かくもなければ冷たくもなかった。だが、柔らかい。その感触だけは確かにあった。その不思議な感覚に、ルクトはまるで風に触れられているようだと感じた。


「じゃ、行くわよ~」


 楽しげな様子でルシがそう言った瞬間、ルクトの周りの景色が“伸びた”。そして、「あっ」と思ったその次の瞬間には、彼はもうゲルの扉の前にいた。


「……瞬間、移動?」


 呆然としながら、ルクトがそう呟く。そんな彼の後ろから、ルシの得意げな声が響く。


「まあ、似たようなものね。そして、これが私の力の一端。これで、少しは私の言う事を信じる気になってくれたかしら?」


 ルシが悪戯っぽくそう尋ねると、ルクトはぎこちなく頷いた。彼女は自分のことを「全知でもなければ全能でもない」と言った。しかし、彼女は間違いなくルクトよりも多くのことができる。予想していたことではあるが、それをこうも分かりやすい形で見せ付けられてしまった。


「さ、中を確かめてくるといいわ」


 そう言ってルシはルクトの背中を柔らかく押した。ルクトは瞬間移動の余韻がまだ消えていないのかぎこちない足取りで前に進む。そしてゲルの扉に指をかけた。


 ゲルの扉はなんの問題もなく開いた。中は暗かったが、つっかえ棒を使って窓を開けてやると、外の光が入ってきて随分明るくなる。明るくなったゲルの中で、ルクトはそこに保管しておいた荷物を確かめた。


「よかった、ちゃんとある……!」


 お金も、予備の太刀も、備蓄しておいた保存食や遠征の装備も、いつぞやバイトの報酬としてセイルハルト・クーレンズから貰ったヒヒイロカネのインゴットも、そして遠征の戦果も全てゲルの中に残っていた。自分の資産が無事だったことに、ルクトはとてもとても大きな安堵の息を吐いた。


「……なんだか、すごく嬉しそうね」


 ゲルの中から出てきたルクトの顔を見て、ルシはそう言った。そして「そんなに喜んでもらえると、確保しておいたかいがあったというものだけど」とさらに言葉を続けて彼女は苦笑を浮かべた。


「自分の命が助かったことより喜んでいるように見えるのは、助けた側としてはなんだか釈然としないわね」


「あ~。い、生きていくことは、案外生き残ることより大変なんだ」


 苦し紛れに、ルクトはそう言った。その拙い言い訳を、ルシは面白そうに笑った。そんな彼女の笑顔を見て彼は思う。分からないことは多いけど、少なくともルシは悪い奴ではなさそうだ、と。それが分かったことが、今日の一番の成果かもしれない。


「……なあルシ、もう一つだけ聞いていいか?」


 顔を引き締め、少しだけ沈痛な表情をしながらルクトはルシにそう尋ねた。今日はもう帰れといわれたが、もう一つどうしても聞いておかなければならないことがあったのだ。


「答えるかどうかは内容にもよるけれど、一体何かしら?」


「サミュエルの奴は、どうなった?」


「サミュエル?」


 思い当たる節が無いのか、ルシはそう言って小首をかしげた。そんな彼女にルクトは「オレの他にもう一人いたはずなんだ」と告げる。すると彼女は少しだけ目を伏せてこう言った。


「……そう。もう一人、いたのね」


 そう言って彼女は頭を左右に小さく振った。そして顔を上げると、毅然とした表情をルクトのほうに向ける。


「私が助けたのは……、いいえ、こう言うべきでしょうね。私が助けることができたのはルクト、あなた一人だけよ」


「っ!? それは……!?」


 それはつまり、サミュエルは死んだということなのか。そもそもなぜ自分しか助けることができなかったのか。そんなルクトの疑問を察したのか、ルシは口を開いた。


「あなた達が堕ちたのは、この世界の外側に広がる〈混沌の海〉という場所。そこではあらゆるものが無秩序な混沌へと還っていく。そしてその影響を最も受けやすいのが、知性を持った生命体」


 つまり人間よ、とルシは言った。そして彼女はさらに言葉を続ける。


「自我を、命を持たないただの物質であれば、混沌に対してある程度の耐性がある。時たま、ある世界から別の世界へ流れつくモノもあるわ」


 今回あなたの荷物が無事だったのもそういう理由よ、とルシは言う。そして「だけど人間は違うの」と少し悲しげに続ける。


「混沌の中で人の意識はいとも容易く拡散してしまう。そしてその拡散に肉体が引きずられることで、人間は混沌に飲み込まれていくのよ」


 ルシのその説明は、ルクトの理解を超えていた。彼に理解できたのは、ただサミュエルの生存が絶望的であると言うことだけだ。そしてそれを理解して眉間にシワを寄せるルクトに、ルシはそっとこう尋ねた


「……そのサミュエル君、友達だったの?」


「いや。むしろ殺されかけた」


 ルクトは首をよこに振りながらそう答えた。そして顔を上げてから「だけど」と言葉を続ける。


「だけど、アイツのことは嫌いじゃなかった」


 動機や経緯はともかく、サミュエルは自力で長命種になったのである。それは十分尊敬に値することだとルクトは思う。実際、あの時ルクトは彼のことが羨ましかったくらいだ。


「でも、じゃあなんでオレは助かったんだ? なんでお前はオレを助けることができたんだよ?」


 長命種が人間の範疇だというのであれば、ルクトもサミュエルも同じ人間であったはずだ。一体二人の何が違ったというのか。


「それはあなたの意識が混沌に飲まれる前に、私があなたを助けたからよ。そしてそれができたのは、あなたが〈夜色の玉〉を肌身離さずに持っていたから」


「夜色の、玉……? アレ、を……?」


 話が思いがけないところで夜色の玉に繋がり、ルクトは困惑した。〈夜色の玉〉とは、かつてルクトがシャフトを使って迷宮を登った際、その先で見つけた大樹で手に入れた木の実のことである。以来彼はその玉をペンダントにして首から下げていたのだが、サミュエルの一件があって彼が行方不明になり、そして生還したその時にはもうその玉は跡形もなくなっていた。


「アレは、私が用意したマーカーよ。そのマーカーを介してあなたの動向をある程度把握していたから、私は混沌の海に堕ちたあなたをすぐに助けることができたの」


 だがマーカーを持っていない者、つまりサミュエルについてはその存在を認識していなかったため助けることはできなかったのだ、とルシは話した。ここまでの説明で、なぜルクトが助かりサミュエルが助からなかったのか、それは何となくだが分かった。しかし、また新たな疑問が幾つも生じる。


「じゃあ、あの大樹はルシが……? なんでわざわざマーカーなんて用意したんだ? いやそもそも、『知性ある生命体が容易く混沌に飲まれる』というのなら、なんでお前はそこにいて無事なんだ!?」


「マーカーを用意した理由については、またおいおい説明するわ。私がなぜ無事なのかは、発想が逆よ。無事であるからこそ、私は〈超越種〉なの」


 その、分かるようで分からない説明を聞かされ、ルクトは眉間にシワを寄せた。彼のその難しい顔を見てルシは苦笑する。だがこれ以上のことを今説明するつもりは、彼女にはなかった。先程も言ったとおり、一度に全てを説明してもルクトは理解できないからだ。


「さあ、今日はもうこれで本当に帰りなさい」


 ここで〈ゲート〉を開けばすぐに戻れるわ、とルシはルクトに言った。ルクトは難しい顔をしたまま彼女のほうを睨むようにして見ていたが、やがて彼女に引く気が無いのを見て取り、おとなしく〈ゲート〉を開いてそれを潜った。


 そして、帰ったと思ったらまたすぐに戻ってきた。今度は両手に荷物を抱えて。もちろん、引越しのためにまとめておいたあの荷物である。呆れた顔をするルシが見守るなか、ルクトはその荷物をゲルの中に片付けた。


「まったく、何と言うか……。適応力がある、と言えばいいのかしらね?」


「使えるものは使う主義なんだ」


 嘆息気味のルシに、ルクトはぬけぬけとそう言った。それを聞いてルシは苦笑を深くする。


「イイ性格をしているわね、私の契約者さんは」


 どこか楽しげに、ルシはそう言った。


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